黒絹の皇妃   作:朱緒

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第125話

 マルガレータとベンドリングの亡命申請を、意図せず阻む形となったファーレンハイト”准将”

 彼が同盟の弁務官事務所前で何をしていたのかというと、狙撃ポイントの割り出しの結果、同盟の弁務官事務所も候補に上がったので、現場にやってきたのだ。

 それらについては、ランズベルク伯とシューマッハに任せたとは言え、全てを任せたわけではない。また場所が場所なので、単身で調査できる能力と時間があったので、ファーレンハイトが買って出た。

 

―― 内部を実際に見ることが出来れば……

 

 同盟市民とフェザーン人ならば、施設見学を申し出れば一般人でも立ち入ることができるが、亡命の意思などない現役の帝国軍人が見学申請など笑い話にもならない。

 こういった場合は、内通者を作るのがセオリーなのだが、買収にもためらいがあった。経験がないということもあるが、なにより、買収する価値のある人間がいないという、根本的な問題に直面するはめに。

 理由は単純で、同盟において弁務官の職は、以前はそうではなかったが、現在では有能さを一切必要としない、名誉職に近いもとなり果てており、買収はできても、望むような働きは期待できないような状況。

 そんな優秀ではないトップの下には、有能な部下がついているもの。

 そのセオリー通り、有能な部下が付いているのだが、ほとんどがフェザーンの息が掛かった者たちという有様。

 全員が”そう”ではないが、金銭に関しては抜け目ないとされるフェザーン人相手に、不得手な彼らが買収を仕掛けるのは危険が大きい。

 駐在の帝国の諜報部員から得た情報には、他にフェザーン寄りではなく、同盟の高等弁務官事務所に難なく出入りでき、確実に結果を出してくれそうな輩一人いたのだが、その名はアンドリュー・フォーク。

 

―― ……

 

 ジークリンデの生命の安全を図るために、話を持ちかけようかとも思ったが、別種の生命の危機がジークリンデの身に迫りそうなので、ファーレンハイトは諦めて、高等弁務官事務所前を後にした。

 

「ん? フェルナーから……なにを言って……」

 

**********

 

 車中には運転手、助手席に副運転手。

 後部座席にはジークリンデ、両脇にミュラーとフェルナー。そして向かい側にフェザーンの婦警スヴェトラーナ・ドブロフスカヤ。

 ルビンスキーとの会談を終えて車中の人となったジークリンデは、フェザーンの街中で懐かしい物に遭遇した。

 

―― 二人乗り、禁止されていないようですね。ああ、乗ってみたい

 

 車中から見たのは自転車。専用レーンを漕いでいる人たちを見て、思わず目が釘付けとなった。

「ねえ、ミュラー中尉」

「なんでございましょう? 男爵夫人」

 

 ジークリンデの右側に座り警護に当たっているミュラーは、なにを聞かれるのだろうかと身構え、緊張が容易に感じ取れる声で返事をする。

 

「あれに乗りたいわ」

 

 ジークリンデは象牙の骨にシルクを貼った扇を閉じて、窓ガラス越しに指す。

 

「自転車ですか?」

「ええ……自転車というのですか?」

 

 思わず”自転車”という言葉に同意してしまったジークリンデだが、この十五年、遭遇したこともなければ、本で読んだこともなかったことを思い出し、当人としてはごまかせているかどうか、不安極まりない感じで聞き返した。

 

「そうです、あれは自転車といいます」

 

 ミュラーはジークリンデの微妙な言い回しに気付くことなく、まさに好青年の破顔を持って答える。

 

「そう、自転車というのね。それで、私は自転車に乗りたいの」

 

 ミュラーの反対側に座り、ジークリンデが欲しがり、ルビンスキー経由で宗教の情報に目を通していたフェルナーは顔を上げる。

 

「大至急用意させます。自転車を漕ぐのはミュラー中尉でよろしいのですか?」

「え?」

 

 自分で漕ぐつもりであったジークリンデは、フェルナーの言葉は予想もしていなかったこと。振り向き扇を持っている手をそのまま座面に置き、やや身を前に乗り出す。

 革張りのソファーが、特有の音を奏でた。

 

「え……って。まさか夫人、ご自身で漕がれるつもりで? 自転車は練習したことないと、無理ですよ」

「漕いだことあるから、大丈夫!」

 

 ここではない、違う世界で漕いだ経験があるので、出来ると言い張るが、そんなこと、聞き入れられるはずもない。

 

「ファーレンハイトに確認します」

 

 絶対に嘘だと分かっていながら、ファーレンハイトに確認のメールを送った。

 

「実家で漕いだことがあるの!」

「貴婦人が自転車漕ぐって、聞いたことありませんよ……ファーレンハイトからの返信では、この四年は自転車に乗っていないとのことですが」

 

 ジークリンデと視線を合わせず、フェルナーは淡々と画面を読み告げる。

 

―― そうだとは思いましたけれどね。短くても足首の丈のドレスだとか、ドレス以外着たことないって、お茶を飲みながら仰ってたじゃないですか

 

「ミュラー中尉は、自転車の後方に、人を乗せて漕いだ経験はありますか?」

「はい」

「では夫人を後ろに乗せて漕いでください。午後には場所が確保できますので、それで我慢してくださいね、夫人」

「少しだけ、練習しちゃだめかしら? 怪我しないように気をつけるから」

 

 扇を持ったまま、自らの指を絡めて小首を傾げてフェルナーに頼む。

 式典前なので怪我などしては困ると言いかけたが、式典後ならば負傷していい訳でもないので、許可しないべきなのだが、期待と不安と希望で揺れる瞳を前にして、拒否はできなかった。

 

―― 私が決めるものではありませんし。大人しそうに見えて、好奇心も強く……この顔にその仕草で頼まれたら……なあ……

 

「少しだけです……!」

「嬉しい! アントン」

 

 言い終える前に、ジークリンデはフェルナーの腕に抱きつく。

 細く柔らかい腕と、薄いが女性らしさを感じさせる体、そしてほどよい重み。

 いきなりのことに、さすがにフェルナーも驚き、思わず言葉が詰まった。

 

「ねえ、ミュラー中尉」

 

 ジークリンデはフェルナーの腕に抱きついたまま、上機嫌で気になることを聞いた。

 

「はい」

「自転車に乗る時には、なにか決まった格好などあるのかしら?」

「はい?」

「ジークリンデさま。私もよく分かりません」

 

 いつまでも抱きつかれていても困るので、フェルナーはさりげなく抱きつかれている腕を抜き、質問について詳しく聞かせてくれと。

 

「乗馬の際にはロングドレスにつば付きの帽子、胸には花を挿すのが決まりなの。だから自転車にも、そういうのあるのかなと思って」

 

 ところ変われば習慣は変わるもの。地球という一惑星であっても、その違いは大小様々存在した。

 それが宇宙であり、未来となれば、差異があっても不思議ではない。

 

「……」

 

 そのように考えて尋ねたのだが、彼らにはなんの心当たりもなく、ジークリンデを挟み顔を見合わせる。

 

「ファーレン……じゃなくて、シュトライトさんに聞いてみます」

 

 平民にはない、貴族特有の服装規定があるかもしれないと、フェルナーはシュトライトに尋ね ―― 何もないことが判明した。

 

**********

 

 高等弁務官事務所近辺から、大急ぎで戻ってきたファーレンハイトは、青空のもと、自転車のサドルの高さを調整しているミュラーと、自ら日傘を差し、その作業を楽しげに見学しているジークリンデを、やや離れた位置から警護しつつ、

 

「なぜ屋内にしなかったんだ、フェルナー」

 

 フェルナーに文句を小声で呟く。

 まだ殺し屋に狙われているというのに、室内ではなく外で遊ぶのは危険だと。

 

「夫人が、屋外がいいと仰ったので」

 

 そんなことはフェルナーも分かっている。だが、希望は屋外で、ジークリンデに場所の心当たりがあり提案してきた。その場所は、シュッセンリート迎賓館の庭。

 丹精込めて手入れされている庭と、それを散策するための、幾何学模様が描かれている石畳の小径。

 誰にも見られず、自転車で通り抜け、緑と光と風を楽しむのには最良の場所 ―― ジークリンデはそのように考えた。

 

「……」

「そんな目で見ないでくださいよ。私だって、屋内で済ませたかったんですよ。でも夫人が、絶対に屋外がいいと」

 

 狙撃を警戒し、彼らはジークリンデを出来るだけ、窓がない部屋へと誘導し、読みたいと言っていた帝国では読みづらい本を渡すなどして、事情を説明しないまま、そこで長い時を過ごしてもらえるようにしていた。

 当然のことだが、彼らのほうがジークリンデより優れ、遙かに巧妙なので、その意図に気付くこともなく、自分が誘導されていることも分からぬまま、ジークリンデは安全な小部屋に長時間滞在していた。

 理解せぬまま軟禁されているジークリンデだが、言葉にできぬ、自身でも自覚していない窮屈さを感じていた。

 それが先ほどの自転車を見て、漕ぎたいという気持ちを呼び起こしたので、屋内で乗るのは嫌だと ―― ジークリンデは取り立てて外が好きなわけではないが、自分で窓を開けて朝の空気を吸い込むこともできなければ、ふと気になって夜空を見上げ、星の美しさにふらりとベランダに出ることもできないのが「通常」

 柔らかで細心の注意を払われているとはいえ、それ以上の行動制限をかけられれば、外を欲する気持ちが強くなっても不思議ではない。

 

 ましてジークリンデは、かつて自由に外へ出ていた記憶があるので、どうしても窮屈さを覚えてしまうのだ。

 

「そこを説得するのが、お前の役目だろう」

「今から准将が説得してきても良いんですよ。一応屋内の方も、押さえたままですから」

「危険から遠ざけるのは、護衛の仕事だ」

「自分では言うつもり、ないんですね」

「それはな。早く排除して、庭の散歩くらいは、自由にしていただきたいものだ」

「同意です」

 

 ”テルエス”という名の危険を排除し、庭くらいは気軽に歩かせたいと ――

 

「ねえ、ミュラー中尉。この格好似合ってます?」

 

 自分が殺し屋に狙われているこどなど知らないジークリンデは、自転車の調整を終えたミュラーの前で、日傘を差したまま”くるり”と回ってみせていた。

 

「とてもお似合いです、男爵夫人」

「先ほどまでの服と、この服。どっちが似合ってます?」

 

 自転車に乗るのに着替える必要はないのだが、先ほどまで着ていたのは、アイボリー地にダークピンクで飾られているバッスルスタイルドレス。

 ジークリンデが初めてそれを見た時に「鹿鳴館……」と呟いたようなデザイン。

 そのようなファウンデーションを脱ぎ捨て、後部に乗りやすいよう、一般人が着用する「ドレス」に近い形のものに着替えた。

 ドレスにボリュームを出すファウンデーションを使用していない、水色のエンパイヤドレス。

 丈は短めのものを選んだが、デザイン上、後方が長くなっている。

 素材はシフォンなので、先ほどのように回ると、裾が風をはらみ、舞う花弁のように華麗に広がる。

 

「難しいですね。どちらも、とてもよくお似合いですので」

「ミュラー中尉の好みは?」

「どちらもお似合いですので、どちらがとは言えません」

 

 どの洋服もジークリンデのために誂えられているのだから、当然どれも似合う。

 

「ミュラー中尉とデートするでしょう」

「え、あ……はあ」

 

 初日にした約束のことで、むろんミュラーは覚えているが、実行に移されるとは、露程も考えていなかった。

 

「忘れてないわよね」

 

 くすくすと笑い、肩に乗せて差していた日傘を持ち直し、ミュラーを傘に入れる。

 ヒールが三センチほどしかない靴を履いているので、ミュラーを見上げるような形に。

 

「も、もちろん、忘れてはおりませんが……」

「そのデートの際に、着る服が決まらないで困っているの。好みを教えてくれたら……ああ、そうだ、あとでクローゼットを一緒に見て、服を選んで頂戴」

「かしこまりました」

 

 会話を経て、ミュラーはサドルに跨がり、ジークリンデは後部に設えられた座席に、ファーレンハイトの補助で横座りする。

 

「しっかりとつかまってください」

 

 フェルナーはジークリンデの手首を掴み、ミュラーの腰に手を回させた。

 ”絶対にジークリンデさまを傷つけるなよ”無言の圧力と、同等の使命感を持ち、ミュラーは柔らかな感触を背に、ペダルを踏み出した。

 凹凸のある石畳の道だが、タイヤが完全といって良いほどに衝撃を吸収し、滑らかに走る。

 ジークリンデは耳元を通り過ぎる風の感触に懐かしさを感じた、それと同じく不意に悲しさもこみ上げてきた。

 

「話せる? ミュラー中尉」

 

 ミュラーにつかまっている腕に力を込め、緩やかに自転車を漕いでいるミュラーの肩に向かって声をかけた。

 

「はい」

「あのね、ミュラー中尉……」

 

 広い迎賓館の庭を一周する間に、ナイトハルト・ミュラーについて色々と知ることができ、それはジークリンデにとって自転車に乗ったこと以上に、楽しく有意義であった。

 

「お帰りなさいませ、夫人」

「楽しかったですか? ジークリンデさま」

 

 出発した地点に戻ってきたジークリンデを二人は出迎え、ファーレンハイトが腕を差し出し、自転車から降りるのを補助する。

 ミュラーに抱きついていた腕は解かれ、甘やかな暖かさが背中から消える。

 

「満足なさいましたか?」

「サドルに乗ってみたいから、調節して、アーダルベルト」

「かしこまりました」

 

 タイヤのサイズの関係もあるので、座席を下げても、ジークリンデの体格に合うことはない。むしろそのほうが、諦めてすぐに降りてくれるのではないかと、期待していた。

 

「危ないですよ」

 

 彼らの葛藤など知らぬジークリンデは、長いドレスをたくし上げ、太ももの間に挟み、足下を少しばかり軽くして、ペダルに足を乗せる。

 

「離してちょうだい。ちょっとペダルを踏むだけですから」

「では……」

 

 倒れるものと思い込んでいた彼らだが、ジークリンデは最初の一漕ぎはふらついたものの、すぐに体勢を立て直し、かなりの速さで漕ぎだした。

 

「ちょっ! 夫人!」

 まるで、風に運ばれているかのように、軽快に自転車を走らせ、長いドレスの端がたなびく。焦り走り後を追ってくる彼らのことも、いま自分がどのような世界にいるのかも、ほんの一瞬忘れて、開けた景色を追う ―― そして、自分がどこに居るのかを思い出し、スピードを徐々に緩め、追いついた彼らに止められた。

 

「上手だったでしょう、アーダルベルト」

「乗れるとは存じませんでした」

「たまたま乗れただけ。調子に乗りすぎて、驚かせてしまったわね」

 

 自転車から降ろされたジークリンデは、ミュラーを連れて迎賓館へと戻った。

 

**********

 

 式典前の出来事 ――

 

 式典の終わり頃「帝国万歳(ジーク・ライヒ)」と、声を揃えて叫ぶことになっており、

 

「私が、ですか?」

 

 その先導とも言うべき役が、フェルナーに振られた。

 無論、号令をかける係も決まっていたのだが、この直前になって体調不良に。代理役も用意されていたのだが、こちらは「声は大きいが、帝国語の発音が悪い」と、フレーゲル男爵が却下し、連れてきた生粋の軍人であるフェルナーに任せることにした。

 フェルナーは軍人なので、声を出す訓練を受けており、「帝国万歳」と復唱するのなど慣れたもの。

 

「そうだ」

 

 フレーゲル男爵からその任を打診され、

 

「かしこまりました」

 

 フェルナーとしても断る理由はないので承った。

 

「念のために式典前に聞いておきたい。唱えろ」

 

 ただ大声は出ても、通りが悪ければ、使い物にならないので、式典が執り行われる部屋と同程度の大きさのある、このホールで叫ぶように指示を出した。

 

―― そのために、ここに来たのね

 

 一緒にやってきたジークリンデは、フェルナーはどのような号令をかけるのだろうと、興味津々で見つめていた。

 ちなみにファーレンハイトの声も、問題なく大きく通るのだが声の質が、式典にはあまり似つかわしくないので担当にはならなかった。

 

―― 思い出すわ。二人が「普通に喋れ! 帝国騎士」「これが小官の普通です」「そんな普通があるか! 声を作るな! お前は俳優かなにかか!」「失礼ながら男爵閣下も、随分と……」って、言い争ってたの

 

 ジークリンデは出来ればあまり思い出したくない類いの過去を思い出しつつ、フェルナーを見つめた。

 

「かしこまりました」

 

 フェルナーは男爵夫妻のそばから離れもっとも遠いところで向き直り、息を大きく吸い込んで、

 

「ジークリンデさま、万歳!」

 

 見事な「万歳」を唱えた。

 

「……平民?」

「アントン……」

 

―― なにをやっていやがる。ご夫妻が、呆気にとられてるぞ

 

 ただ唱えろとは、誰も言っていない台詞で。

 

「声、小さかったですか? もう少し大きな声も出せますが!」

 

 反対側から大きな声で、先ほどの叫びについて問いかけてくる。その声には、なんら淀みがなく、一瞬、自分たちがなにか間違ったのかと勘違いしてしまうほど、堂々としていた。

 

「フェルナー。そこは”帝国万歳”だ!」

 

 何故か恥ずかしくなって顔を赤らめてしまったジークリンデの隣にいるファーレンハイトが、こちらも大きな声でフェルナーに間違いを指摘する。

 

「あ……ああ、そうでしたね!」

「お前、素で間違ったのか! フェルナー!」

 

 問いかけているのに、そう聞こえないのは大声で叫んでいるためである。

 

「はい、素で間違えました、アーダルベルト! では、もう一度……帝国万歳!」

 

 こうして大声で正しく唱えたのだが ―― 

 

「ファーレンハイト」

「はい」

「ジークリンデ万歳と叫んだときと、帝国万歳と叫んだとき。フェルナーの声に張りがあったのはどちらだ?」

「断然”ジークリンデさま万歳”のほうですね」

「私の聞き間違いではなかったようだな。ふん、平民だが、なかなか見所のある男だな」

 

―― ええ? ホーフ・ジークリンデのどこに見所を感じたの? レオンハルト。たしかにフェルナーは見所があるなんて言葉では、表せないくらいに将来性はありますけれど

 

 なんとも言えない恥ずかしさを抱えたままのジークリンデは、さらにいたたまれない気持ちで俯いた。

 

 ホールを横切る、迷いのない足音が近づき、ジークリンデの前に立つ。その影に視顔を上げると、きっちりとした黒の背広姿のフェルナーが、彼には相応しくない白い手袋で覆われた手を、自らの胸に乗せて、深々と頭を下げる。

 

「申し訳ございません。帝国万歳と言わねばならぬところを、本気で間違えてしまいました」

 

 癖が強い灰色の髪に、細く形のよい眉。すっと伸びた背筋に、人品卑しからぬ仕草。鍛えられたしなやかな体を持つ軍人。それは、言われねば分からない筈なのだが、

 

「……」

 

―― 白い手袋が、本当に似合わない。この雰囲気なら、似合っても良いはずなんですけどね

 

 なぜか隠しきれず、知っている者には違和感を与える。

 

「お許しください、夫人」

「ジークリンデ」

「はい?」

「あれほど、大声で叫んだのですから。私のことは夫人ではなく、ジークリンデと呼びなさい、アントン」

 

 ”ジークリンデ”と呼ぶことは強要はしないが、機会があれば言うように促す・前回(ファーレンハイト)の失敗を踏まえてそのようにしていたジークリンデは、今が好機とフェルナーに、自分を名で呼ぶように持ちかけた。

 

「あの、それは」

 

 前回は特に親しくもなっていないのに、ジークリンデ呼びを強要し衝突したことがあったので ―― ファーレンハイトを捕虜のカウンセラーのところに走らせるほど、追い詰めたくらいに凶悪なほどのお願い ―― 今回は、時期を必死に伺い”今こそ!”と。

 

「大声で、ジークリンデ万歳って叫びましたよね」

「そうなんですが……姫ではだめですか?」

「ジークリンデです」

 

 ジークリンデの前に立って、深々と頭を下げた時の表情とは打って変わって、可愛い妹の我が儘に困らされる兄と評するのが相応しい表情となり、できる限りの期待に添うべく、そのややかすれているようにも聞こえる低い声で応えた。

 

「かしこまりました。では、ホーフ・ジークリンデ」

「万歳は要りません」

「お名前を呼ぶのは抵抗があるのですが、家臣として賞賛するのは抵抗がないと言いますか、むしろ心地よい? なんでしょう”帝国万歳”より”ジークリンデさま万歳”のほうが、ずっと言いやすい。士官学校で毎日朝晩、唱和させられたのに」

 

 あまりにも掛け値無しの”真顔”で言われたため、ジークリンデは式典の最中「フェルナーが間違うことはないと思いますけど……もしかしたら……」と”ジークリンデ万歳”をずっと心配するはめになる。それこそ、式典のことなど何も覚えていないくらいに。

 

 そんなことはあったが、発声量も発音も問題がないので、フェルナーが号令をかけることに決まった。

 

「ジークリンデ万歳は、私の領地で存分に唱えるがいい。特別に許してやろう」

「ありがたき幸せ」

 

 隙の無い敬礼姿で、なにごとも起こっていないかのような表情で答える。

 

「何を言っているの? レオンハルト。そしてなにが幸せなの? アントン!」

 

 ジークリンデが”止めて、止めて”と言い寄るが、

 

「その許可、私にもいただけますでしょうか? レオンハルトさま」

「仕方ない。くれてやろう、ファーレンハイト」

 

 フレーゲル男爵としては響きが良かったらしく、唱えることを許す始末。

 

―― レオンハルトが許可出したらか諦めるけど、なんか、いやああああ!

 

 

数年後、自身がホーフ・カイザーリンの大唱和の中、自由惑星同盟を滅ぼしに向かうなど、この時のジークリンデは想像もしていなかった

 


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