黒絹の皇妃   作:朱緒

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第122話

 この状況にもっとも相応しい話題をと考えて、ジークリンデはシーツに広がっている自分の黒髪を指で遊びながら、背を向けたままこの状況になった理由について、弁明を始めた。

「ゾンビ映画を観たのには、理由があるのです」

『理由があったのですか? それを聞かせてもらえるのですか?』

「ゾンビは宗教と関係があるの」

 ゾンビはブードゥー教が元と言われている。学説などは必要なく、この場合、広くそう思われていたことが重要。

『……はあ。私はそちら方面に関しては、まったくといって良いほど、通じておりませんので、そうなのですかとしか答えられませんが……もしかして、話題作りのために?』

 気軽に話題に出し、知っているならば話を続け、知らないのなら打ち切る。その後、会話の相手が気になり、調査すればすぐにたどり着ける、もちろん嘘は言っていない ―― そのくらいが丁度よい。

「そう、何回も孤児院を話題に出していると不自然でしょう? ゾンビと孤児院、二種類のアプローチがあれば、自治領主以外の人と宗教を話題にできると思って」

 ゾンビ映画は想定外の話題。

 本来、ルビンスキーとの対談で、話を宗教に持って行き、彼の態度を探るために用意した話題は孤児院。

 古くから宗教と孤児院は密接な関係があり、現代のフェザーンでも多くの宗教団体が、孤児院を経営しているため、フェザーンの孤児事情を聞いた際に、宗教に話が及んでも不審ではない。

 孤児院経営は、人任せにしておきながら地球教に触れると警戒されるだろうと考え、ジークリンデが男爵夫人として自ら設立し、それなりに運営にも関わり、話題を出しても不思議ではないようにしてやってきた。

 もちろん、平民に嫌われないための慈善事業でもあるので、ジークリンデにしてみれば下心しかない行動だが、かなり評判は良い。

『そのようなお考えが、おありでしたか』

 フェルナーは船内で”下心しかないの。でも軽蔑しないで”との前置きのもと事情を聞かされ、孤児院に関する書類をも渡され目を通して感心するくらいには、良心的な孤児院運営がなされている ―― 夫人の下心って、普通は下心って言いませんよ ――

「相手はフェザーンの自治領主ですから、私ごときと話をしたくらいで、内心をあらわにしたりしないとは思いますけれど。なんとか表情から読み取ってね、フェルナー」

『努力はします』

「ところでフェルナー」

 横になっているのに疲れたジークリンデは、諦めて寝返りをうち、フェルナーが立っている方を向く。

『はい』

「枕元に座っていいのよ。いいえ、座って」

 薄紫色のシルクのシーツに描かれている模様のようにすら見える、光沢のある黒髪を叩きながら”ここ、ここ”とばかりに。

『ご命令とあらば……いいんですか?』

 

「ええ。ファーレンハイトが側についていた時も、座らせたわ。レオンハルトも許してくれていますから」

『そうでしたら』

 

―― ベッドに腰掛けて護衛ってのも……

 

 拒否すべきところだが、希望を聞き入れても、職務に差し支えはないので、ジークリンデの意見に従い、座るというよりは寄りかかるように腰を下ろした。

『准将とは、どのような話を?』

「話はあまりしませんよ。ファーレンハイトは、早く寝て下さいと言うばかりで」

『……でしょうね』

「眠れないから、話し掛けてるのに」

『まあ、それも真実ですね』

「それで、弟や妹と同じように子供扱いされて、物語を語り出したの。弟たちに読んだから、全部暗記してるって」

『子守歌歌われなかっただけ、良かったんじゃないんでしょうか?』

「たしかに、そうですが」

『さて、私は子守歌は歌えませんし、子供向けの童話を暗記もしておりません。夫人を眠りに誘うためには、何をしたらよろしいでしょうか?』

「そう……ね。フェルナーが嫌じゃなくて、私が眠れそうなのは……頭を撫でて」

『……はい?』

「私は撫でられると安心する。フェルナーは髪の毛が好き。いいでしょう?」

 

―― なにこの”すごい、いいこと、かんがえた”感に溢れる、お姫さまの眼差し! まったく良いことじゃありませんって

 

 シーツの隙間からのぞく、交差させている指と笑顔を前に、太ももに擲弾銃を乗せ、

『グローブをはめたままですが、よろしいのですか?』

「ええ」

 左手でシーツに広がっている黒髪を一房掴み、指に挟んで軽く引っ張る。感触は分からないはずなのだが、艶やかで瑞々しい触り心地が、強化カーボン製のグローブ越しに伝わってきた ―― それが錯覚なのか、カーボン繊維越しでも分かる極上の肌触りなのかは、フェルナー自身判断がつかなかった。

 さらさらと音を立てるかのごとき髪の端から、徐々に顔の近くへと昇ってゆく。

「フェルナー」

『はい』

「……おやすみなさい」

 目を閉じただけの仕草だが、その動きに何故か愕然とし、フェルナーは足に乗せていた擲弾銃を取り落としかけた。

―― 目を覚ましていても美しくて、目を閉じても綺麗。笑っていても、驚いても魅了する。性格は若干どころではなく隙ばかりですが、容姿に隙は見当たりませんねえ

 

**********

 

―― ん……あ、朝だ

 

 ベッドには直接、日が当たらない、明かり取り用の縦に細長い窓から差し込んでくる日差しに誘われるようにして、ジークリンデは目を覚ました。

 

―― いつ頃、帰ってきたのかしら?

 

 隣で眠っているのは、当然ながらフレーゲル男爵。

 枕代わりに差し込まれている腕から頭を上げて、身を起こし、まだ眠っているフレーゲル男爵の横顔を眺める。

 

―― 赤ワインの香りが。どこかしら?

 

 呼気からではない、赤ワインの香りに気付き、ベッドマットに手をついて、更に体を持ち上げて、辺りを見回す。

 

―― 髪が引っ張られる感覚が……腕の下に入ってるのかしら?

 

 腕を頭の下に入れる際、腰まである長い髪が巻き付いたり、腕の下敷きになることはままあったので、とくに気にすることはなかった。

 なにより髪が長いので、上半身を起き上がらせて周囲をうかがう分には、なんら差し支えがない。

 

―― ……最近、深酒が過ぎるような気がするんですけど。なにか悩みでもあるのかしら

 

 するとフレーゲル男爵の向こう側に、酒瓶が三本ほど見えた。

 ワゴンでベッドサイドに酒を運ばせ、ほの暗い明かりに照らされるジークリンデの寝顔をみながら、フレーゲル男爵は一人酒杯を傾けていた。

 

―― 日本人と違って、アルコール分解能力が高いでしょうけれど、この三本だけじゃないのが問題よね。会食してきたってことは、少なくとも一本、多ければ三本ちかく空けてきたでしょう。一晩で四本から六本は多すぎるような。……なにか、悩み事でもあるのかしら

 

 ジークリンデと結婚した当初は、今の半分程度の量だったのだが、この一年でかなり量が増えた。

 

―― 領地の経営も順調だって、ブラウンシュヴァイク公も褒めてたし。二十代前半にして中将に昇進も、未来のラインハルトは別物としても門閥貴族の中でもかなりのスピード。軍の馬術大会も優勝したし、パーティーを開いて、積極的に宮廷での地位上げをして、成功してもいるらしいし……私に言えない何かがあるのかな……借金? それはないと、大伯父上が断言しているから、心配しなくてもいいでしょう。

……女? 愛人とか……四年も結婚してると飽きるのは仕方ないし、なにより、もてるしね。原作読んだ時には、女性に人気ないと思ってたけど、大貴族ですから、もてるんですよねー。

背が高くて足も長いほうで、美食で肥満が多い門閥貴族の子弟の中では、際だって均整取れてるし。顔は別にねえ、欠点になるほど悪い顔でもないから。ちょっと……完全に三白眼で爬虫類顔だけど、爬虫類顔は嫌いじゃないし。

別に好きというわけではなくて、嫌いじゃないって言うか……いや、私は心配してるんじゃなくて! 痛飲による健康被害で、万が一のことがあったら、私、出戻りになる恐れが。

いいえ、出戻りはいいのよ、出戻りは。また結婚させられて、今度の相手が、正真正銘、原作通りの門閥貴族だったら困る! ラインハルト嫌いの急先鋒とか嫌過ぎる。レオンハルトは幸い、この頃はラインハルト嫌いにはならずに済んでるから……ラインハルト嫌いじゃないからであって、レオンハルトのことが好きだというわけじゃなくて……ああああ! 私は一体誰に弁明しているのー

 

「ジークリンデ」

「……お、おはよう、レオンハルト」

「私は空のワインボトルに、嫉妬しなくてはならないようだ」

 ジークリンデは空のワインボトルを凝視したまま、物思いにふける……とは少し違うが、思案をめぐらせていた。

 フレーゲル男爵は腕から心地よい重みが消え、温かな肌が離れたことに気付き目を開けると ―― 手前にいる夫が起きたことに気付かぬほど、悩ましげな表情で真剣にボトルを見続ける妻の姿が。

 あまり見られない表情なので声をかけず、その憂い潤んだ瞳と口元を堪能していたフレーゲル男爵だが、あまり放置していると、泣き出しそうに思えたので声をかけた。

 唐突に声をかけられて驚き、潤んでいた瞳は大きく見開かれ、憂いを帯びていた口元は呆気にとられ、そして拗ねたように微かに膨らんだあと、ジークリンデは髪が引っ張られているのを無視して、勢いよく逆方向を見る。

「寝室に私以外のものを侍らせた、レオンハルトが悪いんです」

 ワインボトルに先に嫉妬したのは自分だと、背中を向けたまま。

 

―― 表情変えていたつもりはありませんけれど、気を抜いていたので……百面相みたいになってたら、恥ずかしい

 

「二人とも嫉妬したのなら、良しとするか」

 ”許してくれと”とジークリンデの細い腰に腕を回し、引き寄せる。

「……」

 腰に回された両腕に手を重ねたジークリンデは”はて?”とばかりに、下を見た。

「どうした? ジークリンデ」

「髪の毛、どこかに引っかかってるみたい」

 フレーゲル男爵の腕の下敷きになっているとばかり思っていた髪だが、両腕が腰に回されても、まだどこかに引っかかり重みがあった。

「そうだったな。フェルナーを呼ぶか」

 ジークリンデを抱いたまま、フレーゲル男爵はフェルナーを呼ぶ。

「これが原因だ。昨晩、命令通りに髪を撫でていたのだが、このような状態になったので外し、ジークリンデが目を覚ましてから外すことにした」

 ジークリンデの髪が隙間に入り込んでしまった軍用グローブを、フレーゲル男爵は手に取った。

 

―― なんて状態! ……でも、三本くらいですよね

 

「そうそう、随分と怖がっていたと聞いたが」

「そうです。怖かったんです。レオンハルト、帰って来るの遅いから。ファーレンハイトも連れていってしまったので、フェルナーを側に置いてたんです。悪いのはレオンハルトです」

 昨晩は怖がったことを受け入れたが、今朝になり、また羞恥を覚え、ジークリンデは八つ当たりをはじめた。

「済まなかった」

 八つ当たりされた側は、腹を立てるどころか上機嫌で、端に軍用グローブが絡まっている髪を撫でて、口づけを繰り返す。

「今日は一緒に寝室に入ってくださるんですよね?」

「もちろん、そのつもりだ」

 

―― 今日くらいは、あまり飲まないといいなあ、抱きついたり……で上手く。……べ、別にレオンハルトが死んだら困るだけであって、打算で動いているだけで、だからこそできる限りのことを……

 

 また内心でフレーゲル男爵のことは好きではないと、誰かに言い訳していると、

「失礼します」

「来たか」

 呼びだされたフェルナーと、呼ばれてはいないが、グローブを外すための工具を持ったファーレンハイトの二人がやってきた。

「おはようございます、男爵閣下」

「おはようございます、レオンハルトさま」

「うむ」

 昨晩警護に当たっていたときの、まさに軍人といった格好ではなく、似合ってはいるが”らしくない”背広姿のフェルナー。

「おはよう、アントン、アーダルベルト」

 

―― 軍服は何割か増しで、格好良く見えるとは言いますけれど……格好良さが増している感じはしませんけれど、やはり軍服のほうが似合ってるような

 

「おはようございます、ジークリンデさま」

「おはようございます、夫人」

 二人の挨拶を受け、ジークリンデは放置していたグローブを持った。

「昨晩はよく部屋にいてくれました」

「任務ですから」

「そうね。それで、また頭を撫でてもらうこともあると思うので」

「そんなことは、ないほうが……」

「今度からこんな風に挟まったら、気にしないで、こうしてちょうだい」

 そう言って、ジークリンデは髪を掴み、グローブを引っ張る。結果、髪は音を立ててちぎれた。

 

―― やだ、絡まった髪が気持ち悪い

 

 グローブが解れて黒い絹糸がたれているような状態。ジークリンデは”いやね”とばかりに、その絡まり、挟まっている髪を引き抜こうとする。

「……」

 周りを気にしていないジークリンデは、周囲の空気が変わったことに気付いていなかった。

「夫人」

「フェルナー、どうしたの?」

 掠れ焦っているかのような声に顔を上げると、やや青ざめているフェルナーと、視線をそらしているファーレンハイトがそこにはいた。

「ジークリンデさま、さすがに……」

 絡まった髪を切るのは憚れたので、眠ってしまったジークリンデを起こさないよう、注意深くグローブを脱ぎそっと枕元に置いて退出した、その努力が一瞬にして水泡に帰したのだ。

「夫人! ご自分のお体をもっと大切にしてください。自ら傷つけるようなことは! お姫さまは、そのようなことは」

「き、傷つけって……髪を、ぶちぶちって、しただけ……」

 髪の毛三本程度、ジークリンデは何とも思わなかったのだが、ジークリンデ以外の者たちの顔色が悪くなった。

「……」

 フレーゲル男爵はジークリンデの手からグローブを奪い、放り投げる。

「朝食を運ぶように言え。お前らは下がっていいぞ」

 フェルナーがそれを受け取り、二人は早々に退出した。

 

―― ああ! あれ、髪の毛挟まったままです。気持ち悪いものを。返してー

 

「ジークリンデ。あいつは、髪の毛が好きだから、あまり目の前でそういうことはしない方がいいだろう。精神的なダメージが大きすぎるだろう」

「え、あ……そうでしたね」

―― フェルナーはともかく、貴族の令嬢は髪を、自分で引きちぎってはいけないのね。貴族のイメージを崩しては駄目ですから……私のイメージもなにも、ないような気もしますけれど、フェルナーにとって、そういうイメージなのでしたら

 

 悪い貴族のイメージを払拭するのは望むところだが、平民が望む貴族の姿は崩してはならないので、ジークリンデもかなり苦労はしていた。

 

**********

 

 朝の騒ぎから公務をこなして、一足先に迎賓館に戻ってきたジークリンデは、この頃、フレーゲル男爵の酒量が増えて気になっていることを、思い切ってファーレンハイトに打ち明けた。

「なにか悩みごと、聞いてない?」

 帝国の将来を考えて、憂いているとは言えないので、どうしたものかと ―― 表情には出さず、うまくごまかせるように、それらしい理由を脳内で大急ぎで作り上げる。

 

 帝国の将来についての話は、ジークリンデに話せば、間違いなく協力してくれるとファーレンハイトたちも考えているが、それを告げるのは、あくまでも夫のであり、部外者である彼らが語るべきことではない。

 

「妻が美し過ぎて困る……くらいしか、聞いておりませんが」

 これは嘘ではないこともあり、さらりと語る。

「それは……」

 褒められているので素直に喜ぶべきだが、ジークリンデは気恥ずかしさが先にくる性格であった。

「他は聞いておりません。お役に立てず、まことに申し訳ございません」

「そう……あのね、笑わないで聞いて」

「お約束いたします」

「世間では妻が思うほど、夫はもてないとは言いますけれど……女性問題などについて、なにか聞いてません?」

 ジークリンデの質問に、思わず視線が泳ぎそうになったファーレンハイトだが、そこは動揺を隠すのも指揮官の才能の一つとばかりに、穏やかに微笑み、内心の驚きを隠す。

「聞いておりませんが」

 たしかにファーレンハイトは、聞いてはいない。その場面を直接見はしたが。

「……本当?」

 ジークリンデはさしたる根拠はないが、ファーレンハイトの態度と声が、どこかいつもと違う気がして、重ねて尋ねた。

 

―― 仕えて四年。いままで一度も女性問題に関して言及してきたことがなかったのに……俺たちが気付かない、なにかに気付かれたのか? 女性特有の勘というものか……それとも、誰かがフリーデリーケのことを教えたのか

 

 この状態の女性に、第三者がいくら潔白を訴えたところで信用してもらえないことは、人生経験上知っているので否定せず。

「私を信じずともよろしいのですが、レオンハルトさまは信じられても、よろしいのではないでしょうか」

 肘掛けにもたれ半眼気味で、立っているファーレンハイトを見上げる。

「……」

「お疑いですか?」

 この種の問題に、正答はない。

「ええ、まあ。レオンハルトは、私にとってよい良人なの」

「そうですね」

 よって、答えを疑われても、腹立たしさを感じることもない。

「だから、私もよい妻になりたいの」

「充分立派に、夫人としての役目を果たされていると思いますが」

「正妻は愛人に対しても、色々とすることがあるのよ。虐めるなどではなくて、季節の贈り物とか、生活が足りているかとか、気配りをする必要がね」

「……はあ」

「ですから、居るのなら、教えて欲しいなと」

「それは居ませんので、ご安心ください」

「そうなの? じゃあ、なにが気に掛かっているのかしら」

 考え込んだジークリンデの細く白いうなじを見下ろしつつ、

 

―― 帝国の未来を憂いていると、正直に言われたほうがよろしいのでは……このまま誤解されても、知りません……とも言っていられないか。……悪魔の証明の類いだから、どうしたものか。

 

 いつもながら間に挟まれる形となってしまったファーレンハイトは、どうしたものかと考えた。もっとも考えはしたが、誤解が行き過ぎて夫婦の間に亀裂が走ることもなく、良好な関係のままフレーゲル男爵がこの世を去ったので、全ては無駄になった。

 


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