黒絹の皇妃   作:朱緒

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第112話

 到着を明日に控えた正午過ぎ、フェルナーはジークリンデと二人きりでお茶を楽しんでいた。

 これまでは配下になってから日が浅く、フレーゲル男爵の信頼度が低かったため、許可されなかったのだが「男の髪を触る趣味があるなど気持ち悪いにもほどがあるが(訂正しきれなかった)正しく導いてやるのも門閥貴族の務め。私の美しい妻と二人きりになったら、正しい道に戻れること確実」という理由で許可が下りた。

 

 帝国では同性愛と不倫なら、不倫のほうが許される。前者はルドルフが社会の害悪とし、大量殺戮の対象となった過去があり、現在でも憲兵隊の摘発対象になっているほどの差別対象。

 ただこれは、先天的な欠落とは違い、諭せば取り返しがつくと帝国では考えられているので ―― 

 

「アントンは変装用の眼鏡をかけたりしないのね」

 もちろんそれだけではなく、他の者たちが「フェルナーなら安心して任せられますよ」後押ししたのも大きい。

「ええ。私は貴族には顔をほとんど知られていませんから」

 勘違いや思惑、貴族の使命などはともかく ―― 互いの人となりを知るべく、他愛のない会話を楽しんでいた。

 その一つが片眼鏡。

 紅茶が注がれたカップを手に、カウチに乗せられた片眼鏡が詰められたケースをのぞき込む。

「とっても似合いそうなのに」

「そうですか?」

 片眼鏡はファーレンハイト用。ジークリンデについて歩いているため、名のある貴族には顔を覚えられているので ―― 片眼鏡を装着したところで、隠しきれるものではないが、装着しても悪いことはないだろうと言うことで、フェザーンでは片眼鏡を着用することになっていた。

 度数などは入ってはいない只の飾りだと、ジークリンデは説明されているが……たしかに半数はアンティークといって良い物だが、もう半分は端末とつながり、監視などが出来るようになっている。

「きっと似合うわよ。ちなみに、私のお父さまも片眼鏡をつけることがあるのよ。目は悪くなくて、ただのお洒落だそうだけど」

「フライリヒラート伯爵閣下は、写真でしか拝見したことありませんけれど、あのお顔立ちならお似合いでしょうね。鎖とか付けてるんでしょう?」

「そうよ。アントン、かけてみてくれる?」

―― え?……まあ

 フェルナーが内心で戸惑ったのは、彼にとって「片眼鏡=貴族」の図式があるため。

 思い込みでもなんでもなく、法で定められているわけでもないのだが、片眼鏡は上流階級専用のアイテムなので、平民が身につけることはない。

 由緒正しい平民であるフェルナーとしては、装着してと言われ少々戸惑ったのだ。

―― そんなに希望に満ちた目で見つめられますと……夫人、顔近いです

 だが、ジークリンデにカップを置いて祈るように手を握り、間近で見つめられると”断る”という答えはない。

「いいですけど」

 フェルナーは大量の片眼鏡の一つを手に取り、眼窩にはめ込んだ。

 視界の端で銀の飾り鎖が揺れ、フェルナーは気になり、掴んで止める。

「ブリッジタイプもいいけれど、眼窩にはめ込むのもいいわね」

―― ブリッジタイプはモニタリング機能がついている上に、承認コードの問題がありましてね

「どうです? 似合いますか?」

 ジークリンデには言えないことを考えつつ、飾り片眼鏡の薄い銀縁を軽く人差し指で叩きながら”ご希望に添えましたか?”尋ねる。

「すごく似合ってるわ、アントン。アントンも見ると良いわ」

 ケースの内側に張られている鏡に映っている自分の顔は、少々どころではなく違和感があったフェルナーだが、

―― 夫人が喜んでるから良しとするか……准将も似たようなこと言ってたが

 ジークリンデが素直に褒めてくるので、受け入れた。

 またフェルナーが言っている通り、ファーレンハイトも自分の片眼鏡姿を見て「まるで貴族のようではないか」と……彼は末端ながらも、れっきとした貴族な筈だが、当人が忘れかけているような状態。

「貴族には片眼鏡をつける方も多いんでしょうけど、私はこれを見ると、まっさきに軍務尚書が思い浮かんできますね。まあ、あの方も門閥貴族ですが」

「エーレンベルク元帥ですか。たしかにあの人は、片眼鏡が特徴的よね」

 片眼鏡をかける門閥貴族は多いが、眼鏡をかける軍人はあまりいないため、エーレンベルクは非常に目立つ。

「次の軍務尚書が片眼鏡付けてなかったら、違和感あるでしょう……ってくらい、私の中では軍務尚書イコール片眼鏡ですね」

 フェルナーが軍務についた頃、すでにエーレンベルクは軍務尚書だったこともあり、そういった印象が強かった。

「……」

「どうしました? 夫人。なにか失礼なこと、申しましたか?」

「失礼なんじゃなくて……じゃあ、アントンもこれから片眼鏡付けてると良いわ」

 ジークリンデが”良いこと思いつきました”とばかりに、フェルナーに片眼鏡を勧める。

「どうしてですか?」

―― なにを言っておられるのか、意味が分からない

「アントンはいずれ、軍務尚書になるでしょうから」

 原作知識があっても、フェルナーが確実に軍務尚書に就くとは言えないが、オーベルシュタインの次の次くらいには、軍務尚書になってもおかしくはない立ち位置にいることは確か。

「はあ?」

 だが言われたほうは、そんな未来は知らないので、

―― このお姫さまは、なにを……

 彼らしからぬ困惑を隠せなかった。

「二十年後には軍務尚書になってると思いますよ。だから、軍務尚書の必須アイテムとして片眼鏡を」

―― 私が軍務尚書ですか。やれやれ、そんなことはありえませんよ。ファーレンハイト准将やシュトライト大佐なら、微かな可能性もありますが……士官学校を出ていたら、誰でもなれると思っているのか? そうだとしたら……他で喋ったら困るから、お教えしておこう

「夫人、良いことを教えて差し上げましょう」

 きっとジークリンデは知らないのだろうと判断し、現在の社会の枠組みを教えることにした。

「なに? アントン」

「平民は軍務尚書……いや、尚書には就けないのですよ。アントン・フェルナーは成績表の階級の欄に、しっかりと”平民”と書かれている、生粋の平民ですから、尚書にはなれません」

 学校に通っていなかったジークリンデが知らないのも無理はないのだが、成績表にも階級を記入する欄がある。それも小さいものではなく、名前よりも先に目の飛び込んでくるほど大きな欄が設けられていた。

「分からないわよ」

 成績表にまで階級を記入する欄があることに驚いたジークリンデだが、フェルナーが軍務尚書になれるという考えを捨てはしなかった。

「なにがですか?」

「秘密」

「ここまで話して、秘密ですか?」

「ええ、秘密よ」

 

 フェルナーは軍務尚書になったとして、その姿をジークリンデが見られる可能性はほとんどない ―― それは救いようのない話なのだが、それに反して心が弾むのも否定ができなかった。

 

 彼らが戦争のない世界で、順当に出世してゆく姿を見てみたい。

 

 ジークリンデが敵の排除を、徹底できなかった理由でもあった。

 

**********

 

フレーゲル男爵夫人へ

 

手紙ありがとう

あなたからの手紙は、俺たちがカプチェランカに到着するより先に届き

差し入れと共に俺たちを出迎えてくれた

冷たく閉ざされた基地で、あなたからの差し入れは本当に助かった

あまりの旨さにキルヒアイスと一緒に、五日もしないうちに食べきってしまったくらいだ

 

カプチェランカでのことは詳しくは書けないのだが、それなりに手柄を立てることができ、俺は中尉に、キルヒアイスは少尉となり、共にイゼルローンの宇宙艦隊勤務になった

以前あなたにも話したことがあったと思うが、俺は宇宙艦隊……(中略)……

駆逐艦勤務の俺がこんなことを語ったら他の奴らは笑うだろうが

あなたにはどうしても伝えたかった

 

この手紙がフェザーンのあなたに届く頃、俺は航海長として駆逐艦に乗り込み、イゼルローンの哨戒をしていることだろう

だからフェザーンでのあなたの華やかな姿を見ることはできないが

俺はあなたと、夫君を応援している

 

ラインハルト・フォン・ミューゼルより

 

**********

 

 カプチェランカから送られたラインハルトの手紙が待つフェザーンに到着したジークリンデは、

「……」

 軌道エレベーター内で気を失っていた。

 ジークリンデは下手に記憶があるせいで、宇宙に掛かるような乗り物は苦手である ―― もちろんアトラクション気分で、楽しみにしてやってきたのだが、搭乗してみたら頭がついてこなかった状態。

 そんな、気を失ったジークリンデをファーレンハイトが支え、

「アントン。レオンハルトさまを支えろ」

「了解」

 同じく気を失ったフレーゲル男爵を、フェルナーが背後から脇に腕を通して立たせ、

「しっかりしてください、レオンハルトさま」

 ファーレンハイトが叩いて意識を取り戻した。

 しゃべり方は穏やかなのだが、その殴り方は主の意識を取り戻すような叩き方とはほど遠く、新兵に対する鬼軍曹も斯くやといったフルスイングぶり。

 明るい茶色の髪が大きく揺れ、フェルナーが支えきれず、フレーゲル男爵の頭が壁にぶつかるほど。

―― まるで軍人のようではありませんか……軍人ですがね

「お、おお。ジークリンデは?」

 叩かれたフレーゲル男爵は目を覚まし、叩かれた頭を押さえ、辺りを見回し、ファーレンハイトの腕の中で気を失っているジークリンデに気付き、まっさきに容態を尋ねた。

「貧血でしょう」

 水色のドレスに埋もれているので、顔色が悪いのか? それともドレスの色で少々青ざめて見えるのか? 難しいところだが。

「そうか。無理はさせるな」

 フレーゲル男爵はジークリンデが被っているつばの広い、モノトーンの帽子を注意深くずらし、ジークリンデの顔を隠す。

「かしこまりました」

 二人が会話している最中、フェルナーはフレーゲル男爵から離れ、監視カメラににこやかに手を振っていた。

 それこそ、監視員たちが居心地が悪くなるほどに。

「ジークリンデは軌道エレベーターが苦手なようだな」

 軌道エレベーターが不得意な人間は一定数いる。

 訓練すれば慣れる人間もいるが、彼らはジークリンデにそのような訓練を強いるような面子ではない。

「御本人にお聞きしないことには」

 フレーゲル男爵自身、足下がまだふわふわとしており”苦手だ”と物語っていたが、それに彼らは触れなかった。

「帰りはシャトルに乗せたほうがいいだろうか?」

 気を失うのはあまり良くないので、許可を取ってシャトルで行き来させるかと ――

「手配しておきます」

「それにしても、お前たち、平気そうだな。軌道エレベーターは初めてだろう?」

「軌道エレベーターは初めてですが、降下や上昇などの訓練は、士官学校でしましたので」

「ほおー。士官学校とは、そのようなこともするのか」

「はい」

 中将と准将がするような会話ではない ―― 少佐のフェルナーならば内心で突っ込みを入れてもよさそうだが、いまはジークリンデのことが心配で、二人の会話など全く聞いていなかった。

 

 軌道エレベーターが地上に到着してもジークリンデは意識を取り戻さず、そのまま医師の診察を受けるため、フレーゲル男爵が一人でルビンスキーの出迎えを受けることになった。

 

 ジークリンデを医務室へと運び、

「貧血と睡眠不足ですね」

 連れてきた医師に診察させると、彼らの予想通りの答えが返ってきた。

 それらをシュトライトに報告し ―― フレーゲル男爵の耳に届き、休ませておくよう命じられた。

 

 ジークリンデが目を覚ましたのは五時過ぎ。到着したのが正午前なので、五時間ちかく眠っていたことになる。

「異常が無いと分かったなら、起こしてくれても良かったのに」

 目を覚ましたジークリンデは、軌道エレベーターから景色が見られなかったことや、ルビンスキーを見られなかったことが少々不満であった。

「無理など、なさらないでください」

「私たち、夫人に無理をさせるつもりはないので、諦めてください」

「なんですか、それは」

 

 二人ともジークリンデに無理をさせようとしないので、ジークリンデは少しは良いところを見せようと無理をする。ジークリンデが無理をすると、二人とも非常に心配なので、ますます過保護になる……が繰り返されることになる。

 

「ご気分は、いかがですか?」

 念のために医師が脈拍などを確認し、問題はありませんと告げて部屋を下がってから、ファーレンハイトが、医師には判断しきれない”気分”を尋ねた。

「平気ですよ。……そうだ、温かいジンジャーミルクが飲みたいです。蜂蜜とシナモンを少し入れたのが」

 予定では出迎えのルビンスキーと共に昼食を取ることになっていたので ―― 昼食を食べそびれたことに気付いたジークリンデは、軽く何かを胃に入れておこうとジンジャーミルクを注文した。

「ただちに用意させます」

 

 ベッドの上でレモン色のカフェボウルを両手で包み込むようにして、息を吹きかけて温かいジンジャーミルクを少しずつジークリンデが飲む。

「ジークリンデさま」

「なんですか? アーダルベルト」

「ナイトハルト・ミュラーとの顔合わせはいかがなさいますか?」

「……えっと、居るの?」

「はい。別室に控えております」

 予定ではルビンスキーと昼食を取ったあと、フェザーンでジークリンデの警備を担当するフェザーン警察の警官たちと、彼らに指示を出すことになっているミュラーと顔合わせをすることになっていた。

 到着早々予定が狂ったわけだが、フェルナーとファーレンハイトは彼らと顔合わせをし、この後、執り行われる歓迎パーティーに関して最終チェックも済ませていた。

 

 フェザーンの警官たちとの顔合わせも必要だが、まずはジークリンデが希望していたミュラーと対面させるべきではないかと ――

「……」

 ジークリンデはジンジャーミルクを飲み、部屋の隅に控えている小間使いに鏡を持ってくるよう命じた。

 小間使いは金縁で楕円形、三十センチほどの鏡を持ってきてジークリンデを写す。

 ベッドに横たえるためにまとめられていた髪は解かれ、口紅も拭き取られている。着衣も緩められており、初対面の相手にこのようなしどけない姿をさらすのは、どう考えても控えたほうが良いと考えて後回しにすることに決めた。

「歓迎パーティーの最中に、休憩時間を作って会いたいです」

 鏡を下げさせ、残り少なくなったジンジャーミルクをカフェボウルの中で少し遊ばせる。

「面倒ですけれど、夫人のお願いとなれば仕方ありません。手配して参ります」

「あ、面倒なら」

「本気で面倒だと思ったら、こんなこと言いませんから、ご安心ください。それでは、失礼します」

 フェルナーが部屋を出て行き、ジークリンデは残りのジンジャーミルクを飲み干しカップをファーレンハイトに手渡す。

「リップを」

 お湯にくぐらせ固く絞ったタオルで唇を拭かれ、リップを塗られる。

「駄目だったかしら?」

「気になさる必要はありません。私たちとしては、休憩を取って下さったほうが安心できますので」

「じゃあ、貴方たちの言葉に甘えます。……準備の時間まで、横になっていていいかしら?」

「はい」

 ジークリンデは腰まである黒髪を右手で掴み、前の方へと持ってきてから、ベッドに寝転び、両手を広げる。

「アーダルベルト。貴方たちはナイトハルト・ミュラーと会いましたか?」

 ベッドは大きくジークリンデが両手を広げても端には届かない。

「会いました」

―― 天井の照明器具がシャンデリアじゃないあたり、異国にやってきたって感じがします

 機能と掃除のしやすさを追求したデザインの照明をぼんやりと見ながら、ジークリンデはそんなことを考えていた。

「どんな感じでしたか?」

「私やアントンとは違い、まだ素直さが残っている青年だと思いますよ」

 

―― それはどう答えたらいいのですか? ファーレンハイト。貴方たちよりも素直って……難しい

 

 なんと答えていいのか分からないジークリンデは、無言のままシーツの中に隠れてやり過ごすことにした。

 


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