黒絹の皇妃   作:朱緒

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第107話

 その日ジークリンデは、熱めの風呂から出て「明日の晩餐会のことを考えて、今日は何もせずにお過ごしになったほうが」と言われたので、それに従い、だらだらと過ごした。

「フェルナーさま」

「なにか?」

 フレーゲル男爵はファーレンハイトとシュトライトを連れて、フリーデリーケと話をするためにパーティー会場へ。

 フェルナーは残ってジークリンデの警護に。

 フレーゲル男爵に”休んでいていいからな”と言われたジークリンデだが、襟元や袖口や裾がレースで飾られた、白のコットンネグリジェに着替え、薄手で丈が長い、薄いオレンジ色のカーディガンを羽織り、黒髪を四列の真珠のバレッタで留め、読書をしながら夫の帰宅を待っていた ―― のだが、

「奥様が眠られてしまったので、ベッドのほうへ」

「あーはい、はい」

 召使いに言われて、フェルナーは寝室へと入った。

 メインの照明は落とされており、明かりはジークリンデが座っている椅子の隣に立っているスタンドの暖色系のものだけ。

 暖かそうな柔らかい光の下、本を膝に乗せ、ややうつむき加減で居眠りをしているジークリンデ。

―― 起こさないように移動させるって……

 フェルナーは出来るだけ足音を消して近寄ったはいいが、背もたれから肘掛けまでつながっている椅子に、埋もれるようにして眠っているジークリンデを、目覚めさせることなくベッドに移す自信はなかった。

 だがこのままにしておく訳にはいかないので、まずは手元の本を抜いて、栞を挟んで閉じ、ベッドのシルク毛布を剥いで寝せる用意を調えて、ジークリンデの側に戻る。

―― 起こさないように運べるか……

 背中に手を差し込み、肩に乗せるため体を近づけ、抱き上げようとしたのだが、

「……ファ……アントン? おはよう」

「まだ夜ですよ」

 失敗してジークリンデを起こしてしまった。

「レオンハルト、帰ってきたの?」

 ジークリンデはフレーゲル男爵が帰ってきたので、起こしてくれたのかと尋ねる。

―― こんな起こし方するやつ、いないと思うんですが

「確認してきます」

 足早に部屋を横切り、ドアを開けると、なにを言っているのかは分からないが、フレーゲル男爵の怒鳴り声が響き渡った。

 眠たげだったジークリンデだが、一転して表情が引き締まる。

「アントン、ついてきて」

 羽織っていたカーディガンを椅子の背もたれにかけて、フェルナーを伴い声がしている方へと向かった。

 

**********

 

”絶対に二人きりでは会わん!”

 フレーゲル男爵の強硬な態度を前に、フリーデリーケの従者は必死に主を説得し、立食パーティーの会場で話す機会を設けることに成功した。

 ビュッフェスタイルの会場には、大量の料理と酒が並び、紳士淑女が集まっていた。

 

 フレーゲル男爵が会場に到着すると、一瞬だが静まり返った。

 

 会場にはすでにフリーデリーケがおり ―― 二人の不仲を知っている貴族たちは、軒並み声をひそめたため、水を打ったようになったのだ。

 フレーゲル男爵はフリーデリーケに近づくことなく、他の者たちと会話をして歩き、料理を堪能する。

 一向に自分の元へとやってこないフレーゲル男爵にしびれをきらし、フリーデリーケ自ら近づいてきたのは、会場に到着してから二時間ちかく過ぎてから。

 壁側に設置されている、酒瓶とグラスが乗っているテーブルの前にいるフレーゲル男爵を目指し、足早に近づいてきた。

「来ましたぞ」

 シュトライトが報告し、

「お気を付けて」

 ファーレンハイトが注意を促す。

 

 厄介な存在が近づいてきたのを受けて護衛の二人以外、取り巻きたちは離れ、フリーデリーケの従者が一名後ろにいる状態ながら「二人きり」となり、話が始まった。

 

 黒がアクセントになっている、水色の華やかでボリュームのあるカクテルドレスを着ているフリーデリーケは、たしかに人目を引く美しさがあった。

 象牙色の肌に、やや黄色が濃い金髪と、緑がかった灰色の瞳は、可憐な顔立ちをより一層引き立てていた。

「久しぶりですわね、レオンハルト」

「話とは?」

 挨拶など一切せず、シャンパングラスを口元に運びながら、あまり良くない目つきで睨みつける。

 フリーデリーケは要点をすぐには述べず、回りくどい言い方で、自己弁護しつつ、やっと本人が言いたいことを語り出したのは、話し始めてから十分以上経過したころ。

「婚約破棄は、わたしの意思ではなかったの」

「……」

 フリーデリーケはフレーゲル男爵のことを悪く言っていたが、結婚しない……という選択肢はなかった。

 なにを目的でそんなことをしているのかと言えば、自分を良く見せるためであり、結婚相手としては及第点を与えていた。

 婚約破棄は娘かわいさに早まった父親が、あちらこちらに相談して歩き、国務尚書の耳に入り本格化したもの。

 まさか婚約破棄にまで発展するとは思わず、フリーデリーケは焦ったが、国務尚書が出てきていると聞けば、下手なことは言えないことはわかり、出来るだけ自分に被害が及ばぬよう、被害者面もほどほどにして引き下がった。

 それにこの当時は、まだ取り巻きが多数おり、自分が結婚で苦労するなど思ってもみなかったので、それほど深刻にとらえていなかったこともある。

「わたしたち、もう一度やり直せないかしら? レオンハルト」

 フレーゲル男爵は持っていたグラスを置き、

「やりなおす?」

 蔑みの眼差しを向けた。

―― やり直すもなにも……あの頃からやり直しても、最終的に破局しかないでしょう

 この二人が婚約していた頃から仕えているシュトライトが”なにをどうやり直すのですか”と、内心で独りごちる。

 フリーデリーケはその視線を気にせず、必死にアピールを続けた。

「きっとわたしたちは、やり直せるわ」

「やりなおせる?」

「あの頃はお互い若すぎて、なにが大切だったか分からなかったの。でも今のわたしには、誰が大切なのか分かっているわ」

「……」

 フレーゲル男爵は無反応。言い募るフリーデリーケ。興奮して声も高くなり、それは不快な騒音になりつつあった。

「結婚して四年も経つのに、跡取りを産めないなんて、妻として失格よ。あなたは名門の当主として、新しい妻を迎えるべきですわ。わたしのような健康な成熟した体を持つ女を」

 言い終えると同時にフリーデリーケの耳元で、何かが壊れる大きな音がした。それは、あまりにも大きな音で、何が起こったのか理解できなかった。

「明日軍港に停泊してやる、下船しろ。帰りの便も護衛艦も用意してやった。ありがたく感謝しろ」

 冷たさと固いものに気付き、自分の胸元を見ると、酒とボトルの破片で汚れていた。

 フレーゲル男爵は手の中に残っていた部分を投げ捨て、

「シュトライト、後片付けをしろ」

 もう話を聞くつもりはないと背を向け、驚いているフリーデリーケを残し会場を後にする。

「御意」

 

 会場を出てすぐにクラシカルな二重扉のエレベーターに乗り込み、宿泊しているフロアへと戻る。

 エレベーター内はエレベーターボーイ。乗客はフレーゲル男爵と、ファーレンハイトだけ。

「お前、殴るの止めなかったな」

「酒瓶が当たらないのは、見ていて分かりましたので」

「なるほど」

「……」

 階を示す数字が軽快に変わる。

「……」

「ああ! 袖口が濡れ、靴が酒浸しで気持ちが悪い! フリーデリーケめ!」

―― あれだけ被れば、気持ちも悪いでしょうよ。酒はもったいないが

 フレーゲル男爵が掴んだ白ワインのボトルは、コルクが開けられ中身が入ったまま。それを持ち振り上げたため、袖から脇腹にかけて、足の甲からつま先にかけて、白ワインまみれになっていた。

「到着いたしました」

 エレベーターボーイが手袋をはめた手で、エレベーターのドアを押さえて頭を下げる。

 フレーゲル男爵は不愉快な気分を倍増させる”濡れ”に苛つきつつ、部屋へと戻り、すぐに着替えと風呂の用意を命じた。

 肌にまとわりつく服を引きはがしていると、召使いが力を入れすぎ、フレーゲル男爵の腕を曲がらない方に引っ張ってしまい、只でさえ苛ついていたので、大声を上げて怒鳴る。

 

 タイミング良く……かどうかは不明だが、ジークリンデとフェルナーはその声を聞き、様子を見に行くことに。

 

「ワインを被ってしまったので、少々ご機嫌が斜めのようです」

 服を脱いだフレーゲル男爵はすでに浴室へ。

「そうですか。濡れると不快ですものね」

「そうですね、ジークリンデさま」

 フレーゲル男爵はシャンパンを浴室に持ってくるよう命じており、機嫌の悪い主をこれ以上怒らせてはならないと、召使いが大急ぎでそれらを運んできた。

「レオンハルトに?」

「はい、奥様」

「私が運ぶわ」

 機嫌が悪い場合、召使いに対して何をしでかすか分からないのは、ジークリンデも知っている。そして、

―― 多分、大丈夫……

 自分は怒られたこともなければ、叩かれたこともないので、きっと大丈夫だと言い聞かせ ―― 結婚当初は、フレーゲル男爵はジークリンデの目の前でも、当たり前のように召使いを殴っていたので、暴力的なところがあるのは知っている ―― カウチソファーに腰を下ろして、靴と脱がせるよう命じる。

 素足になりトレイを持ち、浴室へ向かったジークリンデだが、鏡に映った自分の姿を見て、

「アントン、バレッタを外して。髪を留めているのです」

 真珠の髪留めも外したほうが良いだろうと、フェルナーに依頼する。

「かしこまりました」

 ジークリンデの髪からバレッタを外したフェルナーは、黒髪のあまりの触り心地の良さに、バレッタを持ったまま硬直した

「お持ちいたしました」

 扉を開けさせジークリンデは、裾を引きずりながら浴室へ。

 

 二人が宿泊している客室には、風呂は二種類。

 猫足の洋風バスタブと、古代ローマの公共浴場のような造りの風呂。

 ジークリンデが熱めのお湯で長湯するのはバスタブで、いまフレーゲル男爵が入っているのは古代ローマを思わせる方の風呂。

「ジークリンデ、起きていたのか?」

 浴槽につかっていたフレーゲル男爵は、寝ているとばかり思っていた妻の登場に驚く。

「はい。お酒、お持ちいたしました」

 床と浴槽の間を仕切る段差に膝を折り、トレイを置いて、グラスにシャンパンを注いで手渡す。

「どうぞ」

 ネグリジェは湯を吸い、脚にまとわりつき、ラインを強調する。

 フレーゲル男爵はグラスを受け取る。

「ジークリンデも入るか?」

「よろしいのでしたら」

「良いに決まっているだろう」

「人を呼ぶのももどかしいので、自分で脱ぎます。見ないでください」

 人によりけりだろうが、脱いでいる姿を見られるのは、恥ずかしいという人は一定数いる

―― レースのタンクトップタイプのブラですから、跡は残っていませんね。太もものほうも……大丈夫、大丈夫

 ネグリジェを羽織った状態で、下着のラインが残っていないことを確認して、身につけていたほうが見えないよう、注意しながら床に落とす。

 ”畳みたい”という気持ちはあれど、それをしてはならないのが貴族。

 シャワーで体を軽くながし、腕で胸と下腹部を隠して浴槽へと近づき、

「くっついても、いいですか?」

 あまり気分が良くなく、怒鳴っていたフレーゲル男爵に確認を取る。

「もちろんだ。おいで」

―― 何があったか聞くべきでしょうか……いや、ここは聞かないでおきましょう。ちょっと機嫌良くなってくれたような気がします

 頭を撫でられ、髪を梳かれながら、ジークリンデにとってはぬるい湯につかり、人肌に微睡む。

 フレーゲル男爵はジークリンデの指から結婚指輪を抜いて、脱ぎ捨てられた服を回収しにきた召使いたちに持たせた。

 召使いは結婚指輪をフェルナーに渡して立ち去る。

「充電しておきますか」

「そうだな」

「ところで、何があったんですか?」

「お前の予想通り、復縁を持ちかけてきた。結婚して四年も経つのに、子供がいないことを理由に」

「……ソレを理由にして離婚を持ちかけるのは、男爵閣下ですよね?」

「普通はな。それで怒って、中身が入っていた白ワインのボトルを振り上げて、直接殴りはしなかったが、壁にぶつけて割った。その際に洋服が白ワインで汚れて、ご機嫌が斜めになられた」

「斜めで済んで良かったですね」

「本当に……」

 

 二人がそんな話をしていると、浴室から ――

 

「そこに跡を付けるのは駄目です!」

「明日はレオンハルトに買ってもらった、ブルーダイヤのネックレスに合わせたドレスだから! 胸大きく開いてるの! ご存じでしょう!」

「跡つけちゃだめ! 隠せないところに跡つけるのは駄目!」

「明日のドレスーー!」

 

 ジークリンデの嬌声混じりの必死の抵抗の声が、反響しつつ脱衣所まで届いた。

 

「戻るか」

「そうですね」

 ”そんなに必死に抵抗したら、楽しくてますます……だと思いますよ”

 夫婦仲が好いのは良いことだと、脱衣所を出ていった。

「夫人、湯あたりしたりしないんですか?」

「そこは安心しろ。ジークリンデさまは、あの湯温なら二時間以上入っていても平気だ。先に根を上げるのはレオンハルトさまだ」

「それなら……シュトライト大佐」

 二人が部屋へと引き上げようとしていると、疲れた顔をしたシュトライトがやってきた。

「フレーゲル男爵は?」

「ジークリンデさまが機嫌を直しに向かわれて、今はもうご機嫌だ」

「そうか。ジークリンデさまにはご苦労をおかけする」

「フリーデリーケの下船の件は?」

「すぐに荷物をまとめて降船口に向かうよう伝えておいた。下船したかどうかは確認せねばならぬので、立ち会うことにしている」

「俺も付き合う。本当に降りたかどうか、この目で確かめたいんでな」

「私も行きます。ところで、さきほど浴室で夫人が、明日のドレスがなんだとか言ってましたけど、夫人大量にドレス持っているから、隠せそうなドレスに変更できそうなものですが」

 フェルナーはそう言い、充電を終えた結婚指輪を磨き、ケースに収める。

「昨日言った通り、衣装が被ると面倒なことになる」

 ファーレンハイトは頭を振り”そんな簡単な問題ではない”と。

「特に明日の晩餐会は、乗船前に招待状が出されていたものだから、各自衣装は入念に準備しており、明日の朝、変更したと知らされると、困る者も多い」

「衣装被りって、そんなに面倒なものなんですか? ジークリンデさまと同じような色とデザインですと、比較されて嫌な思いはしそうですが」

「それも確かにあるが」

「グリューネワルト伯爵夫人を知っているか?」

 シュトライトは帰還後、フェルナーが絶対に顔を合わせる人物を例にあげて説明をする。

「知ってます。皇帝陛下の寵姫ですよね」

「そうだ。あの方、一時期ものすごく嫌われていたのだが、その理由の一つが衣装かぶりにあった」

 ジークリンデがフレーゲル男爵に嫁ぐ前にアンネローゼは後宮に収められた。

 そして宮中の決まりごとも知らなければ、晩餐会や舞踏会のマナーも知らないまま寵姫となり、誰も味方が居ない中でそれらに参加した。

 その結果、酷い格好 ―― アマーリエ皇女と似たようなデザインと色のドレスで参加することに。

 フリードリヒ四世は、アンネローゼの衣装と娘のアマーリエの衣装が被っていても、気にならない……どころか、気付いてもいなかったが、周囲の者たちはそうではない。

 このような場合は皇帝の娘であるアマーリエに気を遣うのは当然で、寵姫はそれらを弁えて、同じ色で似たようなデザインの衣装は避けるべきというのが、暗黙の了解となっている。

 会場の警備を担当していた一人であるシュトライトも、アンネローゼの格好を見た時、会場入りさせていいものかと、悩んだほど。

 もちろんシュトライトに止めることなどできないが、この格好で会場入りして門閥貴族から反感を買うのははっきりと分かった。

「グリューネワルト伯爵夫人というお方は、敵を作らないように生きるあまり、味方を作ることもしないので、軋轢を解消することができなかった」

 アンネローゼに門閥貴族の服装既定など分かるはずもない。

「今は解消されたんですか?」

 おまけにアンネローゼに付けられた女官たちは、すべて「勤め人」

 主のために門閥貴族を敵に回して、あちらこちらから情報を収集しようという者はおらず、アンネローゼも頼むようなことはしなかった。

「ジークリンデさまが西苑の女官として出仕し、グリューネワルト伯爵夫人に細かい決まりを丁寧に教え、外出の際の衣装選びなどに尽力なされた結果、揚げ足は取られなくなった」

 ”知らないのは仕方ないじゃないですか。誰も教えなければ分かりませんよ”

 若いアンネローゼ(いまのジークリンデより年上)に、ジークリンデは一つ一つ教え、ラインハルトたちにも感謝されることになった。

 


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