黒絹の皇妃   作:朱緒

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第106話

 日付が変わるころ、ブルーメンタール伯爵夫妻と愛人を見送ったジークリンデは、まっさきに洗面所へと向かい歯を磨いてから、一人がけのソファーにずり落ちるかのように座り、深く息を吐き出した。

「本当にご迷惑をおかけいたしました」

「気にしなくて良いと言っているでしょう、アーダルベルト……たしかにこの格好ですと、気にするなと言っても、気にしてしまうでしょうが……でも、気に……」

「……」

「……」

 喋っている最中に目蓋がすっと下り、すぐに寝息が聞こえてきた。

「眠られましたね」

「よくこんな感じで眠られるから、起こさないようにベッドまで運んで、ドレスを脱がせる手伝いをしろ」

 精神年齢は大人(のつもり)だが、体はまだ子供。

 労働基準法があったら抵触するであろう、十八歳未満の深夜まで労働。朝から大急ぎで準備し、細心の注意を払い会話を続け ―― 解放されると、ジークリンデは意識を失うように眠ってしまうことが多い。

 本人もそれを知っているので、最低限自分で歯を磨き、あとは任せていた。

「上手ですね」

「かなりの回数、運んでいるからな」

 肩にジークリンデの頭を乗せて、両手に座らせるようにしてファーレンハイトが運び、寝室で待機していた召使いたちが、そのまま服を脱がせにかかる。

 すぐにジークリンデは下着姿に。そしてベッドの上に置かれている、前開きのネグリジェの上にジークリンデを寝かせる。

「ハルト……」

―― 条件反射か

 ジークリンデの細い腕がファーレンハイトの首に回される。

 そのままの体勢をしばし保ち、首に掛かっている腕の力が抜けてきたところで、慎重に取り外し体を離す。

 ベッドの上に落ちた腕を、召使いたちは上手に袖に通しボタンをかける。

 化粧を丁寧に落としている間に、ファーレンハイトは指から指輪を抜いて、寝室を後にした。

「明日から頑張ってくれ」

「夫人、限界まで頑張りすぎでしょう」

「俺もそうは思うが、すでに国政の一端を担っているから、仕方ないというか」

「は?」

 ジークリンデは当初「舞踏会とか立食パーティーだとか、贅沢だから、取りやめにしましょう」そう考えたのだが、帝国の基本方針は、パーティー会場の小部屋で、酒を片手に決まる ―― と言われており、それらを目の当たりにして考えを変えた。

 ろくでもない決め方に思えるが、それで決められている以上、無視するわけにもいかない。

 また決まったことの全てが、悪いというわけでもない。全てが悪手ならば、同盟に完全敗北しているであろうし、地球教にあっさりと乗っ取られていることだろう ―― そうなっていないのは、決め方はどうあれ、ある程度の成果が出ているということ。

 

 極論ではあるが、帝国ではパーティーが開かれねば国の方針が決まらない。

 

 いろいろな危険はあるが、要人たちが一堂に会する場所を提供しなければ、貴族同士の連携は図れず。また、同盟との戦いにおいて後手になることもあるだろうと考えて、伯父(ブラウンシュヴァイク公)や大伯父(リヒテンラーデ侯)の威光を借りて、要人に招待状を出し、会場を提供することに徹することにした。

 その際、記憶にある人物と遭遇できないかと期待していたのも事実だが(結局誰とも会えなかった)、とにかく精力的に文官武官にかかわらず、人を招き、話せる場を造り……を繰り返した結果、

「国内でも有数の、政治方針が決まるパーティーを取り仕切る女主人となられた」

 重大なことを決めるパーティーの主催者の一人となった。

「すごいですね」

「ああ。だが何が一番すごいかと聞かれたら、ここまで仕切っておきながら、控え目で表に出ないところだろう」

 ジークリンデはとにかく貴族子女の範疇内に収まることを心がけているので、パーティーそのものは取り仕切るが、決して出しゃばらず、立場としては華やかながら縁の下の力持ち。

 間違ってもヴェストパーレ男爵夫人のように「男に生まれていたら」などと言われぬよう、とにかく女性であることを念頭に置いて行動した。

「”男に生まれていたら”は、蔑称ですか……たしかに、そうでしょうね」

 帝国では男のほうが地位が高いが、女に対して”男に生まれていたら”は”男に生まれてこなかった不良品”のような意味で使われる。

「あくまでも、女性の嗜みを忘れてはならないそうだ。国務尚書の言葉だが」

「なるほど……でも、無理しすぎですよね」

「同意する。だが無理矢理止めようとするなよ。無理して貴族の責務を果たす必要はないと促すと、泣くからな」

「え?」

 基本ジークリンデの行動は「来たるべき破滅を回避するため」に行われている。

 国の方針を決めるパーティーも、その一つ。

 それをするなと言われたら、ジークリンデとしては困るのだ。

「責任感が強いお方なんですね」

「若干思い詰めている部分もあるが……ん?」

 そんな話をしていると、召使いが二人を呼びに来て ―― フレーゲル男爵の元へと向かった。

 

「失礼します」

 書斎に入ると、フレーゲル男爵が鬼の形相で床を踏みつけていた。

 なんだ、なんだ? と二人は、その足下を注意深く見ると、手紙とおぼしきものがそこにはあった。

「その踏みつけられている手紙、我々も目を通す必要があるのでしょうか?」

 話し掛けられたフレーゲル男爵は踏みつけるのを止めて椅子に腰を下ろし、拾い上げて読むことを命じた。

「読め」

「失礼します」

 ファーレンハイトが拾い上げた踏みつけられた跡がついた、薄い水色の便せんには、青色の万年筆で、女性らしい文字と文章。

「会われるのですか?」

 差出人は彼らが予想した通りで、フリーデリーケで、内容は「二人きりで会って話をしたい」というもの。

「あの女と二人きりで会うつもりはない!」

「それはご英断ですね」

 ファーレンハイトは淡々と、

「相談したいことってなんでしょう?」

 フェルナーも淡々と。

「私が知るか!」

 フレーゲル男爵は激高し、椅子の肘掛け部分を拳で殴りつける。

「ところで、この手紙はどこから?」

「あの女がブルーメンタールに接触して、手紙を渡した」

「晩餐に招かれたのを聞いてのことでしょうね」

―― 二人きりで会いたいってことは、復縁狙いですよね

 フェルナーは先ほど自分が言っていたことが正解に近いらしいことを知ったが、面白くはなかった。

「一番近い宇宙港はどこだ!」

「軍港でもよろしければ、二日後に寄港できるかと」

 航路図を脳裏に描いたファーレンハイトが、辺境警備隊の補給基地の名を挙げる。

「そこで構わん! フリーデリーケを下船させろ」

「降ろすのはよろしいのですが、基地の者たちに八つ当たりなどの被害が及ぶ可能性が考えられます。ですので、ここは一つレオンハルトさまのお力で、早急に領地に届けるべきかと」

 あんな面倒な生き物、降ろすことに意義はないが、早急に基地からも撤去すべきだと進言する。

「帰りの船と護衛艦を手配してやれ。フリーデリーケのためではないからな!」

「存じております」

「あの女をジークリンデには会わせたくない。明日一日、ジークリンデを宿泊フロアから出さないように、客も通さないようにな」

「それについてはご安心ください。明日は微熱で動けないでしょう」

「……それはそれで、嫌だが。この際、仕方あるまい。微熱を理由に絶対に出すなよ!」

「かしこまりました。では船長たちに寄港するよう指示を出してまいります」

「失礼いたします」

 

 二人は手紙を床の上に戻して、フレーゲル男爵の前を辞し、その足で船長室へと向かった。

 

「微熱ですか?」

「先ほど抱きかかえた時、体がいつもより熱かった」

 寝入りばなのジークリンデの体の熱っぽさから、明日は軽く熱がでるだろうと ―― 経験からの予測は、ほとんど外れることはない。

「分かるもんなんですか?」

「分かるようになるぞ」

「でもいいんですか? あの軍港は、本当にただの補給基地ですよ」

「早くに降ろしてやらないと、殺されるかも知れんぞ」

「殺されるのは可哀想だと」

「殺される側はどうでもいいが、貴族令嬢を殺害したとなると、式典に出席できなくなる可能性があるからな。折角ジークリンデさまが、一生懸命準備したのだから、潰すわけにはいかない」

「そっちですか」

 

 豪華客船の船長ともなれば、門閥貴族の我が儘には慣れたもの。

 突然”アレが欲しい” ”なぜこれがない” ”我が○○家は○○を輩出した家柄。その私の意見が聞けないのか” ”すぐに用意しなければ、お前の職を奪ってやる”など、いつものこと。

 また、どの貴族の意見を優先すべきか? の、見極めもできる。

 そんな船長にとって、寄港予定のない軍港に寄るのも、特に意見はなかったし、殺人事件に発展しそうな状況を回避できるのなら、むしろ喜んでと言った状態。

「口外はしないようにお願いしたい」

 強制排除しようとしているのが知れたら面倒になると、ファーレンハイトは一応口止めをした。

 その後、ファーレンハイトが所属と階級を明らかにし軍港に連絡を入れ、護衛艦と帰りの船の手配を整えた。

 

**********

 

ブルーメンタール伯爵:四十代半ば。国務省の高級官僚。

ハイデマリー:ブルーメンタール伯爵夫人。リヒテンラーデ侯の姪の一人。四十歳。

ゲオルギーネ:ブルーメンタール伯爵の愛人、十九歳。バルトバッフェル男爵家の血を引く。

 

フリーデリーケ:ボルネフェルト侯爵令嬢。二十歳。

ブロムベルク子爵:フリーデリーケの夫になる人物。四十代半ば。

 

クロプシュトック侯:ウィルヘルム・フォン・クロプシュトック。例の事件を起こした、クレメンツ大公推しだった侯爵。六十歳。

ヨハン:クロプシュトック侯の息子。三十後半。

 

・ブロムベルク子爵が帝国において、権力を持っている陣営に嫌われているフリーデリーケと結婚するメリットは?

 → ブロムベルク子爵家はクロプシュトック侯爵家と縁続きであったため、クロプシュトック侯爵家ほどではないが、社交界から無視されているような状態。最初の結婚は同族から娶ったが、子供ができないまま死去。貴族は結婚に決まりごとがあるので、なかなか後妻が見つからず。血筋はよいが中央から弾かれたフリーデリーケを娶り、跡取りをもうけようとしている

 

・門閥貴族の結婚の決まりごとって?

 → ある程度の家柄の者同士で結婚するのが普通。平民との結婚などもってのほか。夫が外で平民に子を産ませた場合、養子に迎えることもあるが、産んだ母親が妻になることなどない

 

・そういえば、クロプシュトック侯の嫡男はどうなっているの?

 → 未婚。どの家も当然ながら縁組みをしたがらない。ただし相手にも同格の地位を求めての求婚ゆえに、断られることになっている。零落した男爵家の令嬢だとか、ゲオルギーネのような婚外子や、帝国騎士くらいで妥協できたなら、妻を迎えることはできたが、なにせ気位の高い一族。彼らからすると、そんな貴族かどうかも分からないような家柄の娘を、クロプシュトック家に迎えることはできないと言うことで独身

 

・ハイデマリーとアウレリーアについて

 → 当時の社交界では、特に不仲であったという噂はなかった。同い年なので、比較されたことはあったかも知れないが、それは良くあること。ただ子供ができなかったハイデマリーが、当代を代表するような一男一女に恵まれたアウレリーアを、一方的に恨んでいることは考えられる。その恨みの対象が故人となったアウレリーアから、ジークリンデさまに移動する可能性を考慮したほうがよい

 

・フリーデリーケが復縁を狙う可能性は?

 → ブロムベルク子爵とフレーゲル男爵ならば、比較にならないほどフレーゲル男爵のほうが格上であり、勢力もある。またブロムベルク子爵夫人になってしまえば、社交界から遠ざかることになるのは確実。華やかな場を好むフリーデリーケには我慢できないことかもしれない。だから復縁を狙うのは、あり得る

 

・フリーデリーケとフレーゲル男爵の婚約は、どういった経緯で?

 → あまり大きな声では言えないが、フレーゲル侯爵、レオンハルトさまの父上は、コンスタンツェさまに頭が上がらない生活が、少々辛かったので、息子にはそのような苦労はさせないようにと、家柄と血筋は良いが、権門ではない娘を息子の妻にと考えたものによるもの

 

・コンスタンツェさまって誰?

 → レオンハルトさまの母君。ブラウンシュヴァイク公の妹君

 

・ジークリンデさまを捨てて、フリーデリーケに乗り換える利点はあるの?

 → ない

 

・フレーゲル男爵がジークリンデさまを捨てる可能性は?

 → あり得ない

 

 ジークリンデが疲れ果てて眠り、フレーゲル男爵が手紙を踏みつけ疲れて眠り ―― 翌日、

「他に質問は?」

 貴族がらみの問題なので、二人はシュトライトに軽く説明をしてもらった。

「ありません、シュトライトさん」

「感謝する、シュトライト」

 貴族関係のことは、シュトライトに聞くのが最適。

 フレーゲル男爵にフリーデリーケのことは聞けはせず、ランズベルク伯に聞くと、違う方向に行ってしまうので。

「貴族に関して、分からないことがあったら、なんでも聞いてくれ」

「それではついでに聞きますが、リヒテンラーデ侯はなぜ夫人を男爵に嫁がせたのですか? あの当時なら皇太子妃から皇后も、夢ではなかったでしょうに」

「はっきりとした理由は分からないが、あまり帝室に近づき、これ以上嫉妬を買うのを避けるためではないかと。国務尚書の保身によるものではないかと私は考えている」

「そういうの、気にしない人だとばかり」

「私もそうは思うが……結果を見れば皇太子妃にならなくて良かった状態だが」

「そうですね。皇太子妃になってたら、もう未亡人になってたわけですしね」

「……」

 皇太子にとどめを刺したのが彼女であることを知っているファーレンハイトは、無言のまま会話を聞いていた。

「ところで、ジークリンデさまのご容態は?」

「微熱と軽い喉の痛み。朝から熱い風呂に入って、体を温めている」

「悪化しなければ良いな」

「ああ」

 ジークリンデは温かい風呂に入って体を温めていた。シュトライトに礼を言って、二人は浴室のほうへと向かう。

 

 ジークリンデはというと、ゆったりと長風呂し ――

 

「だから、湯温109.4℉は止めましょうと」

 目眩を起こして、浴室のタイルの上で寝転んでいた。

 こと風呂に関しては日本人感性を持つジークリンデにとって、熱い風呂は42℃以上。

 この湯温は帝国でも珍しく、まず普通の人は選ばない。

「100.4℉もあれば充分でしょう」

 召使いが冷たい水を持ってきて、ジークリンデに手渡す。

「……」

―― なんのために私が華氏を覚えたと思っているのですか。お風呂の温度を指示するためなんですよ

 室温などは「熱い」「寒い」「温度あげて」 「下げて」と曖昧でもいいが、湯温に関しては、これほど高温の湯に入る人が珍しいので、的確な指示が必要。

 なにせ門閥貴族、自分で浴槽に湯を張るわけにもいかない。

 文字は何でも読める彼女だが、華氏と摂氏の対応表は頭に入っていなかったので、必死に覚えた。

 元の記憶と他国の文化の折り合いをつけるのは、なかなかに大変であった。

 ちなみに109.4 ℉は43℃、100.4℉は38℃。

 とにかく熱いお湯が好きなジークリンデ。43℃は稀だが、40℃から42℃くらいの湯につかりたいと思うのは、致し方ないというものである。

 そんなことファーレンハイトもフェルナーも知ったことではないし、説明されても分かりようもないが。

 とにかくこれ以上は危険と、バスローブを羽織っている彼女を浴室から連れ出し、

「目眩が収まるまで、横になっていてください」

 脱衣所におかれているカウチソファーに座らせる。

「でも、風呂は熱いほうが好き」

 ジークリンデとしてはこれだけは譲れず。

「存じております。ジークリンデさまが強情なことも」

 ほんのりと桜色に染まっている上気した頬と、気怠そうな仕草を前に、ファーレンハイトは深々と腰を折る。

 その姿を見て、”高温風呂に入れなければいいじゃないですか”思っていたフェルナーだが、護衛になってから「お願い」と頼まれると、結局断れず、高温設定に変えて ―― 同じような行動を取ることになる。

 


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