殴っているのか、じゃれているのか不明な攻撃がしばし続き ―― 手が止まったところで、フェルナーはシュトライトからの連絡を伝えた。
「二人とも、この部屋で大人しくしていなさいよ」
それを聞いた、空腹になったジークリンはクッションをおいて、部屋を出て行く。
「着替えが終わるまで、待つとするか」
ソファーにおかれた円筒形のクッション ―― 先ほどまで自分に攻撃を加えていた武器を元の位置に直す。
「着替えるんですか?」
貴族は一日に何度も着替えるのは知っているし、短い期間ながらジークリンデの側にいて理解したが、
「アフタヌーン・ティーを振る舞って下さるからな」
「着替えるんですか」
「ティーガウンにな」
アフタヌーン・ティーのために着替えるとは、思ってもみなかった。
十分少々経ったあたりで、召使いが二人を呼びに来て、用意が調っている部屋へと通された。
体の線が分かるようで分からない薄い絹と、繊細なレースで飾られた、モスグリーンのティードレスに着替え、青みがかったティーポットを持ったジークリンデに出迎えられる。
フェルナーは違和感があったが、その違和感の理由に気づけず、促されるままに席に着いた。
「秘密の話をするのには、アフタヌーン・ティーが最適なのよ」
ジークリンデが注いだ茶を飲みながら、フェルナーはこの時間についての説明に耳を澄ます。
自身も腰を下ろして、紅茶を飲みつつ、
「女性同士ならおしゃべりの時間ですけれど、男性を招いている場合は浮気の時間なので、召使いも下がるの」
ジークリンデは怖ろしいことを言い出した。
「なんですか、それは」
―― 違和感はそれか
言われてみれば部屋に小間使いの一人もおらず、女主人と客である男二人という状況。
「言葉通りよ、昔からそういう時間なの。この格好、コルセットを着用しないドレスで、相手を誘うものなのよ」
ゆったりとした袖を広げて、ジークリンデは微笑む。
「へえ……」
「この時間、良人は家にはいないのが習わし。でも、別に、浮気を誘っているわけじゃありませんよ。人払いをして話をするのに、最適だからこういう時間を」
「分かってます」
事情を知っているファーレンハイトは何も言わず、ジークリンデが淹れた紅茶を飲んでいた。
後々この二人がジークリンデの愛人と言われるのは、三人だけでアフタヌーン・ティーの時間を持っていたことが原因の一つとなっている。
「アントン」
「はい」
「どこかの貴婦人にアフタヌーン・ティーに誘われたら、それは情事の相手として誘われたことになりますから、受ける際には注意してね。私としては、私以外の門閥貴族の人妻からの、お茶の誘いは断って欲しいけれど、強制はしないわ」
―― 人妻……うん、人妻でした。ひとづま、ひとづま……見えない。天使と言われたらすぐに納得できるんだが、人妻はなあ。横恋慕とかじゃなくて……
「ご忠告、ありがとうございます」
皿に取り分けられたサンドイッチをつまみ、ありがたい忠告に感謝を述べる。
「でも何か問題があったら、言って頂戴ね。私が責任を持って処理しますから」
―― 二十過ぎて、どこぞの熟れた人妻と火遊びして、十代の天使と見紛う女主人に後始末してもらうとか、それはただの屑です。いくら私が図太くても、さすがにそこまでご迷惑はおかけできません
この状況と、それにまつわる注意事項を聞いてから、良人や余人には聞かせられない類いの話が始まった。
フェザーンに到着してからの動きを確認したり、当たり障りなく、記憶に自信がある部分を語ったりした後、ジークリンデはミュラーを選んだ”偽り”の理由を、初めて説明した。
「ミュラー中尉から、直接フェザーン情報を入手……ですか」
また突飛なことを言い出したと、ファーレンハイトは視線をそらす。
「ええ。もちろん大伯父上には内緒で」
「なんでまた」
「平民の視点は絶対に必要だと思うのです。この考えは、さすがに大伯父上には言えませんが」
「……でしょうね」
自分に向けられた視線を脳裏に描き、フェルナーはジークリンデの意見に同意した。
ジークリンデとしては、もちろんフェザーンの情報は欲しかったが、それ以上にミュラーと仲良くなれたらという下心があった。
どうしてミュラーと仲良くなりたいのか? 聞かれると、答えられないので、無難な理由を述べたのだ。
「そういうことでしたら、止めませんが……」
―― 駐在武官の任期は明確には決まってはいないが、フェザーンに染まらぬよう、あまり長くない……ジークリンデさまに、従うようになるかどうか、分からんしな
五年、十年とフェザーンにいるわけではないと言いかけたファーレンハイトだが、とりあえずは黙っていた。
ジークリンデはというと、ミュラーがフェザーンから去り、どこかで武勲をあげて、ラインハルトの麾下に入ることを知っているため、むしろ、その話題には触れて欲しくはなかったので”丁度良い”具合であった。
そんな話をしていると、
「奥様、お時間です」
召使いが控えめな声でジークリンデに呼びかけてきた。
「あら、もうそんな時間」
壁掛け時計で時刻を確認し、晩餐会のために着替えたり、髪をまとめたりと準備の時間になったことを知り、椅子から立ち上がった。
「本日は、わざわざありがとうございました」
「また機会を設けますから、その時には、もっといろいろなことを話しましょうね」
「はあ。ですが、よろしいのですか? 浮気相手と勘違いされるんですよ」
「私の浮気相手とされるのは、困るでしょうけど、我慢してちょうだい」
「私は構いませんが、平民の少佐など、噂だけでも夫人の相手として相応しくはなかと。男爵閣下にも申し訳が立ちませんし」
「大丈夫ですよ、アントン。良人は貴方たちのことを信用していますから。そうでなければ、良人が許可を出すはずないでしょう。私、これでも結構、良人に愛されるのよ」
ドアの前に立ったところで、振り返りウィンクをして、そう言い残し部屋を出ていった。
「存じております、夫人」
「ジークリンデさま、なに当たり前のことを仰って」
残された二人は声を出さず、肩で笑いながら「男爵が夫人のことを愛しているのは、聞かなくても分かっております」と ――
「ご信頼にお応えしますか」
「まあな」
**********
「ポンチョ姿と言っていいのですよ、アントン」
「いえいえ、実際そう見えたとしても、言ったりしませんよ」
晩餐、いわゆる夜の着席食事会の場合、胸元が大きく開いたドレスを着用しなくてはならない決まりになっている。
気管支が弱く、胸元を露出する格好をすると、熱が出やすいジークリンデにとって、晩餐の正装は体調不良の元。
だが体調が悪くなることを知っていても、正装をしなくてはならない。……が、客が来るまではケープを羽織り、肌理細やかな象牙色の肌を隠している。
「空調が整っている室内でも、不調になられるのですから式典は……」
ジークリンデは正式な帝国からの使者として、式典に出席するのだが、この場合中礼服に該当するローブ・デコルテを着用することになる。
ローブ・デコルテと言えば胸元や首元がざっくりと開いたドレスのことで、ジークリンデにとって最も苦手な形のドレス。
式典が行われるのは八月。
ほとんどは屋内で行われるのだが、途中外に出ることになっており ―― 胸を露出したまま風に当たると、気温が高かろうが、お構いなしで体調が悪化する。
「大丈夫ですよ、アーダルベルト……倒れそうになったら、叩くなりなんなりして、意識を取り戻させてね」
「ジークリンデさま、人は叩かれても、意識は戻りませんよ」
叩いてフェルナーの意識を取り戻したファーレンハイトらしからぬ答え。
「そうですよ。叩いて意識が戻るなんて、噂だけです。そんなの信用しないでください」
叩かれて意識を取り戻したフェルナーも”そんなことはない”と否定する。
「貧血にはならない努力は、これからも続けますから」
ジークリンデはかなり気を失う……。ただし貧血で気を失っているのは三割で、後の七割は誘拐によるもの。状況が分からないまま薬物で意識を失わされている。
「はい」
だがジークリンデが誘拐されたと気付かない限りは「貧血でした」でファーレンハイトたちは押し通しているため(あまり頻繁に誘拐されているとなると、精神的に良くないので)ジークリンデは「ゴールデンバウムの血のせいですか……」と、己の気管支の弱さ同様、貧血を嘆きつつも、体調を維持するために食事を気遣ったり、運動をしたりと自助努力を行っていた。
「でも貴婦人らしいですよね」
「アーダルベルトと同じこと言ってる」
「気にせずに倒れてください。絶対に支えますから」
「……じゃあ、もう少し痩せたほうがいいかしら?」
「却下いたします。むしろ、もう少し太ったほうが、貧血にならずに済むと思いますよ」
「胸ではなくて腰回りに肉がついたら困るから、それは嫌です。コルセット大変なんですよ」
”今だって!”と、ジークリンデは自分の腰の辺りを軽く叩くのだが、
―― コルセット未使用のティーガウン姿と、コルセット使用中のイブニングドレス姿を比べてみても、体の厚みはほとんど変わらない……マナー的な問題らしいが
フェルナーには必要性がまるで感じられなかった。
「そうですか。でも体重は現状維持でお願いします」
「分かりました」
こんな話をしている間に、予定の時間から十分近く過ぎ ――
「ご到着です」
同行しているシューマッハが、ブルーメンタール伯爵夫妻と愛人の到着を告げ、召使いが彼女のケープを外す。
まとめられた黒髪と、象牙色の肌。首から鎖骨、そして胸にかけてのラインを飾る、パパラチアサファイアのネックレス。
「…………鳥肌は立っていない?」
外気に触れ、一瞬、寒さが背筋を昇ってきたが、それをこらえて、
「大丈夫です、奥様」
ジークリンデは手袋で覆われている手を”ぎゅっ”と握り、ブルーメンタール伯爵たちのもとへと向かった。
「女主人って大変なんですね」
「門閥貴族は、まともにやると、大変だぞ」
客が少ない晩餐だが、それで何かが省略されるわけでもなく、フレーゲル男爵がブルーメンタール伯爵夫人をエスコートし、食堂へと向かう。(主人が地位のもっとも高い、女性客と腕を組んで食堂に入るのがしきたり)
男女が交互に座るのが決まりだが、女性の数が一人多いため、ランズベルク伯に穴埋めを依頼していた。
円卓を囲み、女主人は会話が途切れないように、話題を提供したり、話を弾ませたりと ―― 食事を味わっているような余裕はない。
女性は衣装の関係もあり、ほとんど手を付けないことも珍しくはない……のだが、
「これ、美味しいですね」
「口に合いましたか」
愛人のゲオルギーネは、かなりの勢いで食べていた。
正妻との会話は男性たちに任せ、ジークリンデは伯爵が伴ってきた若い愛人(ただしジークリンデより年上)が、つまらない思いをしないよう気を配る。
「男爵夫人、そのネックレス綺麗ですね」
「これですか?」
ヒルダは宝石になど興味はなく、専門の者が……と言っていたが、このような場で会話を成立させるためには、ある程度、共通の話題を持っておく必要がある。
それが宝石であり、ドレスであり、競馬であり、絵画であり、ワインであり、音楽であり、舞台である。
ヒルダは政治的な知識はあれど、話題が広いかと聞かれると ―― このような低俗な話題は必要ないと切って捨てているのかもしれないが、世の中は高尚な人間だけが生きているわけでもない。
「はい。そのピンクっぽくオレンジっぽいの、本当、綺麗ですね」
いろいろな人と話しをするとき、宝石は役立つ。
宝石は美しさを語るだけで相手の気分を良くし、なおかつ無難。
「パパラチアサファイアですよ」
地球時代の天気に類するもので、気候が関係しない宇宙船の中では、これ以上のものはない。
「サファイアって青だけじゃないんですか? 男爵夫人」
「ええ、ホワイトやイエローなどもありますよ。パパラチアは色ではなく、蓮の花という意味ですが。サファイアはいくつか持ってきているので、食後に見ます?」
「いいんですか!」
「もちろん」
食事が終わると男たちは食堂に残りワインを飲むか、ビリヤード室に異動して会話を楽しむ。女たちは応接室に移動して紅茶やコーヒーを飲み、大体一時間後あたりに合流して終わりまで会話をして過ごすことになっている。
―― 会話の糸口を一つ入手。ゲオルギーネは基礎学校しか出ておらず…………あとは
「そのネックレスは、リヒテンラーデ家の家宝ではありませんか?」
ゲオルギーネとの会話をどうするか? 考えていたジークリンデに、ブルーメンタール伯爵が話し掛けてくる。
考えがまとまるまで話し掛けてほしくはなかった……とは言えないので、彼女はにこやかに斜め向かいの伯爵の問いに答えた。
「家宝かどうかは知りませんが、大伯父上が持たせてくださいました」
リヒテンラーデ家の家宝と言われるだけあり、ネックレスはかなり豪華なものであった。
細工の見事さは言うまでもないが、中心にある102カラットのパパラチアサファイアがとにかく目立つ。
かなり派手なもので、ある程度の年齢になっていないと似合わない逸品とされているものだが、国務尚書の前で身につけて「似合うな、持っていけ」と、一族の女主の身を飾るネックレスを持たされた。
「やはり、そうでしたか。ハイデマリー殿……妻ではなく、国務尚書閣下の母上が、そのネックレスを身にまとっている写真を拝見したことがありまして」
―― 大伯父上の母君ハイデマリー? ああ、母方の曾祖母ですか
首と胸元を飾る、やや重たいネックレスに触れながら、ジークリンデは曾祖母の姿を必死に捜す。
―― えーと……そんな写真見たことない……。でも、身には着けていたでしょうね
「そうでしたか。大伯父上は最近になって、宝飾品をしまい込んでいたことに気付いたようで。このネックレスもその一つです」
「本当にお似合いです、男爵夫人」
「ありがとう、ブルーメンタール伯爵」
**********
ジークリンデが晩餐を全力で取り仕切っている頃、ファーレンハイトとフェルナーは、召使いたちが集めてきた情報の聞き取りを行っていた。
前述の通り、召使いたちは主のために衣装の情報を共有したり、会話のため、招待客の趣味などを探る必要があるので、召使い同士のネットワークを持っている。
この場合は元婚約者同士で、婚約が破棄されたのは四年ほど前のことなので、召使いたちが全員入れ替わっていることもなかったため、情報は手に入りやすかった。
ファーレンハイトは情報提供を受け、最期には口止めをする。
「男爵夫人には言わないように。口を滑らせたら、どうなるかは分かっているな」
どの召使いも”分かっております”と言い、下がった。
「独身最後の一人旅ですか」
フリーデリーケがこの豪華客船に搭乗した理由は”思い出作り”
「召使いを五人連れているがな」
一人で旅をしたいと父親に頼み、憐れな娘の最期の頼みを父親は断れず、旅行の手配をさせた。
「召使いは数に入らないんでしょう」
”豪華客船でなくては嫌だ” ”最低でも二日おきに舞踏会が開かれないと駄目” ”レストランは十以上は必要” 等の条件を満たす客船は”これ”しかなかった。
ジークリンデたちとは期日を変えれば良さそうだが、今回は見送って次の便に乗ろうとすると、新婚旅行になってしまう。
「数に入るはずもない」
だが、さすがにオーディンからは乗せられないということで、途中から乗り込むという形を取った。
「召使いたちの噂を総合すると、二十歳以上年上の子爵の後妻ですが。この子爵閣下は、後々侯爵になるとか、そういう人なんでしょうか?」
その結婚相手だが、二人とも聞いたことのない子爵だった。
「どうだろうな。もしかしたら、公爵家の分家筋かもしれないが……俺は聞いたことはない」
「普通は大体、同程度の爵位同士で婚姻を結ぶって、准将から聞いたような気がするんですが?」
「俺はジークリンデさまから、そう聞いた。それ以外は、色々と難があるというか、好奇の目で見られるとか。黙って一族の男の誰かと、結婚していれば良いものを」
「一族の男たちが全力で拒否したとか?」
フェルナーのこの読みは当たっていた。フリーデリーケはフレーゲル男爵と、最悪な喧嘩別れをした女。四年の歳月を経て、フレーゲル男爵の権力が増大した今、迷惑極まりない腫れ物のようなフリーデリーケと結婚したいと思う男はほとんどいない。
たとえフリーデリーケの父、ボルネフェルト侯爵から脅されても ―― フレーゲル男爵夫人に危害を加えそうな、フリーデリーケさまとの結婚なんて無理です。格下の夫の意見など、聞いて下さる方では……地位ある年上の男性に、手綱を握ってもらうべきではないでしょうか? ―― 言われると、思い当たる節があるので、侯爵としても、それ以上は言えなかった。
「それは、あるかも知れんな」
「ということは、復縁狙いでしょうね」
「結婚して四年も経っているのにか」
「四年経ったからこそでは? ほら、三年も過ぎると、飽きるとか言うでしょう……一般的には」
「一般的にはな」