黒絹の皇妃   作:朱緒

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第100話

 帰還してくるラインハルトと彼女を会わせないようにすべく、元帥府から撤収する作業が始まった。

 手が空いている者たちは書類の整理に取りかかる。

 誰も彼も真面目なので、仕事ははかどり ―― 休憩時間にキャゼルヌは、キスリングに菓子を勧めた。

「これは?」

 個別包装され、長方形の箱に入った、一口サイズのチーズケーキ。

「フェザーンの代表的な土産の、チーズケーキだ。どうだ?」

「では、いただきます」

 一袋つまみ封を開けて、一口サイズの存在を否定しないよう、口に放り込み一口で食べる。

「公爵夫人がお好きな菓子に一つだ。とはいっても五年、いや、六年前のことから、味覚が変わっているかもしれないが」

 彼女がフェザーンでもっとも気に入ったのは「堅焼きせんべい・醤油」だったのだが、食べると大きな音出るので ―― フェルナーが真顔で「食べているお姿と、音を聞いていると、ジークリンデさまの顎が砕けそうなので、お止め下さい」と頭を下げてきた。お願いしてきたのはフェルナーだが、周囲にいた者たちも、心配そうに彼女を見ていたので、あとは食べるのを止めた。

 細く繊細な口元や顎を持った美少女でいるのも、なかなかに苦労が多いのである。(塩味のソフトせんべいで我慢した)

「よくご存じですね」

 もっと食べろと勧められ、キスリングはもう一袋手に取る。

 キャゼルヌは席を立ち、コーヒーをカップに注いで持ってきて手渡す。

「そりゃあ、当時フェザーンでは、話題になったからな」

 ”ありがとうございます”と会釈し、受け取ったキスリングは、カップに口を付ける。苦みよりも酸味のほうが強いコーヒーが、舌の上で広がる。

「ジークリンデさまのお美しさが?」

「そうだ。自治領のイベントに皇帝の代理人が来るってだけで、結構な話題だったが、その代理人夫妻が、ブラウンシュヴァイク公の甥とリヒテンラーデ公の姪の娘。それも娘の方は、美少女だという噂……まあ、前評判は微妙だったが」

「どうしてですか?」

「十一歳で結婚ってのが、フェザーン人には評判が悪くてな。貴族の中でも、まれに見る早婚だろ」

 フェザーンも元は帝国であるし、ルビンスキーの例を見ても分かるように、会社を継がせるために婿を取ったり、企業を合併する際に婚姻を結んだりはする。

 その際に、結婚ができるぎりぎりの年齢の実子を”使ったり”もする。だが、さすがに十一歳の子供を、堂々と政略結婚につかうようなことはない。

「そうらしいですね」

「それもなあ。うちのシャルロット・フィリスは今八歳なんだが、あと三年で嫁ぐなんて、俺には考えられないし、考えたくもない。娘が結婚するのが嫌なんじゃなくて、十代前半で結婚ってのが、どうにも」

「分かりますよ」

 帝国貴族としては「早いが、悪いことではない」で済ませられてしまうことだが、宇宙に生きている半分以上の人間は”早すぎる”と感じる。

「分かってもらえて良かった。それで、フェザーン人としては十代初めで結婚しているというのが、引っかかってな。でも公爵夫人の姿を見たら、全部吹き飛んだ」

「不適切な表現かもしれませんが、すごい破壊力だったんですね。ジークリンデさまのお美しさ」

 象牙色で透き通るような肌、黒く艶やかな長い髪。ほっそりとした腕に、いつも手袋をはめ、微笑む時は扇子で口元を隠す。

「ああ。まあ、前もって写真が届いていたんだが、誰もが随分と修正された写真だなと思った。正直に言うと、俺もそう思った。だが御本人が到着した際に、一切修正されていないことが分かって、あれは本当に驚いた」

 これぞ帝国貴族といった控えめな美少女の来訪は、普段は女性にさほど慎みなど求めないフェザーンの男性の女性観に大きな衝撃を与えた。

 

 動かぬ彫像のようなものかと思いきや、豪華で動きづらそうなドレスをものともせず、宿泊していたホテルのロビー中央にあった大きな階段を、夫の帰りを喜び駆け下りる姿に、客たちは息をのんだ。

 

 ”お帰りなさいませ、レオンハルトさま”

 

「あの映画みたいな”お姫さまの階段降り”は、同行していたルビンスキーですら驚いた。見た目もよければ、性格も良いってことで、見たがる奴が増えて面倒なことになったから、身の安全を考慮して、できるだけ公務日程を隠すはめになったからな」

 

 それでも行き先を突き止めて、先回りしてきたのが、アンドリュー・フォーク。

 彼は本当に才能があった。根回しから情報収集まで、すばらしい才能を見せてくれた ―― その才能を本来の職務に使え、そうしたら帝国軍を殲滅できるだろうと。だから、いまは使うな……正面から激突するはずのファーレンハイトやフェルナーが毒づいたほどに、アンドリュー・フォークはすばらしかった。

 

 きっと彼はもう少し才能が低ければ、もっと幸せになることができたのであろう。なまじ、才能があったがために、彼は不幸になった。

 

「なるほど。当時フェザーン駐在武官だったミュラーと俺は同期で、たまに近況報告なんかしあう仲だったんですけど、あいつ、ジークリンデさまのこと、一回も書いたことないんですよ。顔を合わせた時に、フェザーンで恋人でもできたか? って聞いたら、みるみる顔色が曇って……これは、失恋したんだなと思ったら、まさかの横恋慕。あいつ、真面目さだけが取り柄だったってのに」

 そうは言ったものの、きっと仕方がないことなのだろうなと、キスリングは残っていたコーヒーを一気に飲み干す。

「あの若いのな。公爵夫人に頼られて、耳まで真っ赤にしていたのを覚えている」

「頼られてとは?」

「腕を組んで歩いて頂戴と言われて真っ赤。フェルナーが”ミュラー、脳の血管切れて死ぬんじゃない”と、わりと真面目に言っていた。まあ、あいつのことだ、死んでも構いはしないと思っての発言だろうが」

 抑揚のない声で、突き放すように喋る姿と声を、キスリングは簡単に想像ができた。ちなみに彼女のこの行動は「護衛つぶし」と ―― 彼女の護衛を務めていた二人も、同じ目に遭っていた、ある意味、通過儀礼とも言える。

 飲み終えたカップを脇に寄せ、菓子も”もういいです、ごちそうさま”と箱を掴んで返した。

「でしょうね……あれ、この書類は」

 箱の下から現れた書類が、想像も付かないものであったので、思わず手に持ちキャゼルヌに尋ねた。

 表紙を見たキャゼルヌは”ああ、それか……”と、空になったカップを持ち替え答える。

「以前フェルナーに頼まれて調べたものだ」

「反乱軍の福祉政策? 軍事子女福祉戦時特例法……なんですか、これ」

「通称トラバース法ってやつだ」

「あ、ああ……聞いたことがあります。でも、それに興味を持っていたのはジークリンデさまですよね」

「そうだ」

「あんまり詳しくは知らないんですが、ジークリンデさまは、どうしてこの反乱軍の法律がお嫌いなのですか?」

 キャゼルヌはカップを置き、キスリングに説明をする。

「こいつは、戦災孤児を軍人の家庭で十五歳まで養育するものだ。養育期間中は政府から養育費が支払われるが、その戦災孤児が軍人、または軍関係の仕事に就かない場合は返却しなきゃならんというシステムになっている」

「士官学校に近いものですね」

「まあな。だが、学校じゃないのが問題だ」

「なんですか?」

「赤の他人の子を、家庭で養育するにあたって、様々な問題がある。とくに問題なのは性的虐待だ」

「ああ……」

 キスリングだけではないだろうが、彼はこの手の話題が嫌いであった。

 避けて通れない問題ではあるが、明快な解決策がなく、結局「人間性」というものに頼らざるを得ない曖昧さが、キスリングは苦手で仕方がなかった。

「行く当てのない未成年の子供が一人、家庭という見知らぬ密室へ。軍の方でも養父母の事前調査はするようだが、すべての性犯罪者を見極められるわけではない」

「そうですね。それらの家庭内での被害報告などはあるのですか?」

「ない」

 養われている彼らが、自分から訴えるのは難しい。

「え?」

「一つも無い」

「……」

 ”ないということは、杞憂であるということ”

 とは、同盟政府が好む言い分。

 実子や再婚相手の連れ子などとの間でも起こる性的虐待が、それよりも立場が弱い戦災孤児たちの身の上に降りかからないなど ――

「明らかに調査などはしていないな。人手不足からこのような特例法を出したんだ、わざわざ各家庭を定期的に訪問し、子供の様子を確認するようなことはしないだろうな」

 そして訴え出たところで、もみ消されるのは確実。

「表には出てこない犯罪ですか」

 同盟の犯罪リストには強姦や未成年者との淫行などはなく、同盟の軍人は全員が立派で、鬼畜のような行いなどせず、他人の子供たちをも慈しむことが出来る者たちの集団であったなら ―― 帝国はすでに、同盟に完全敗北していることだろう。

「どの子も養父母に恵まれて、のびのびと生きているなんて考えられないだろう」

 大半の戦災孤児は、なにごともなく生活しているかも知れないが、全員が幸せであるなどあり得ない。

「そう思います」

 

 ヤンとユリアンは、あのシステムの最高の組み合わせ。最高の組み合わせがあるのならば、悲しいかな、最悪の組み合わせも存在する。

 

 同じ場所で一緒に空を見上げたとき、同じ星を見る必要はなく、同じ星を見たとしても、同じ感想を持つ必要もない。

 同時代に生きていたとしても、ヤン・ウェンリーやアレクサンドル・ビュコックを英雄と見ない人がいるのは当然である。

 

「そういった家庭に送られた子供たちは、コーディネートを担当した軍人を恨むんだろうな」

 隠された性癖を見抜くのは至難の業であり、また、どこかおかしいと思っても、目をつぶらざるを得ないのが、末期の同盟である。

「仕方ないような気もしますが……敵に恨まれるのは気にはなりませんが、味方に憎まれるのは、少々辛いですね」

 キスリングは多くの帝国軍人がそうであるように、”反乱軍”に対しては、一切の憐憫など持たないし、なにかをしようとも思わないが、やりきれない感情だけは人間である以上、どうしても澱のように心に残る。

「恨まれるほうにしてみたら、身が持たんが、恨むなとも言えない」

 サイオキシン麻薬を打っている軍人に引き取られ、薬を打たれて廃人にされた子供がいたかもしれない ―― ヤンがラインハルトと戦っている時に。

「そうですね」

 軍隊で部下にするように、どんな些細な失敗でも鉄拳制裁を下され、内出血や骨折が絶えないような状況で育てられた子供は ―― ヤンがフレデリカにプロポーズしている時にも、骨が折れるほど殴られていたかもしれない。

「不幸な巡り合わせになってしまった子供が、いつか担当していた軍官僚を刺し殺すなんてことにならなけりゃいいが」

 歴史上類を見ないほど粗雑な食事をする元帥が、料理を残して教え子と食事に出た時 ―― 満足に食事を取らせてもらえず、部屋の隅で膝を抱えている子供がいたかもしれない。

「俺としては反乱軍が身内同士で争って減るのは喜ばしいことですが、そういった減り方はさすがに喜べませんね」

 民主主義を守るため死力を尽くしているとき、養父に襲われ子宮が破裂していた子供がいたかも知れない。

「そうだな……」

 

 民主主義よ、永遠なれ ――

 

 その担当者を殺すよりならば、担当者の家族を、幸せの絶頂の時に殺害したほうが ―― 理不尽には理不尽を。そんな結末があったとしても不思議ではないだろう。

 

**********

 

 彼女は久しぶりに軍服を着用し、軍港へとやってきた。

「ロイエンタール卿」

 ロイエンタールがオーディンを発つ日は晴天であった。

 まだ日差しが心地よい季節だが、遮蔽物のない広い軍港は、やや照り返しが強かった。彼女はロイエンタールが搭乗する艦の近くまで地上車で向かう。

 キスリングが地上車の扉を開け、彼女は一人でロイエンタールに近づいて行く。

「きてくれたのか」

―― ロイエンタールは軍服が似合いますね。貴族服もそれは似合っていますけど、軍服が似合いすぎ……というのでしょうか

 当然ながら軍服を着用しているロイエンタールは、彼の秀麗なる美貌を更に際立たせていた。

 彼女にとっては見惚れるほどではないが「誰よりも似合う」という言葉が当てはまってしまうほどに、ロイエンタールの軍服姿は完璧なものであった。

「はい、参りました。まさか出征なさるとは思っていなかったので……帰還後、大伯父上について、お話を聞かせて下さい」

 彼女はそろそろ、ロイエンタールがリヒテンラーデ公の首を持っていたことについて、聞こうと考えていたのだが、ここにきて彼の遠征。

 尚書なので帝国を離れることはないと、考えていた自分の考えの甘さと、先延ばしにしてしまった弱さに恥じ入る。

「分かった」

 通信での会話は可能だが、このような話は直接会って、聞くべきことであろうと。その彼女の意図を理解したロイエンタールは同意し、

「無事に帰還なさることを、心から願っております」

 挨拶をしている彼女を、強引に抱きしめた。

 突然の出来事ではあったが、男性の腕の感触は知らないものではないので、状況を理解するまで、そう時間は掛からなかった。

 以前なら逃げようと必死にもがいた彼女だが、今回は一切抵抗をせず。やや足がもつれて、倒れ込むような形になったが、その体勢すら直そうとはしなかった。

「逃げないのか」

「いまさら貞節ぶるつもりはありません」

 だが縋るように抱きつくこともなく、ただなされるがまま。

「そうか」

 ロイエンタールはしばらく彼女を抱きしめ、頭を撫でてて体を離した。

「では行ってくる」

「お気をつけて」

 

 ”気をつけて”と言った彼女だが、その言葉が正しいものなのかという、漫然とした不安と、それに覆い被さるように原作でのロイエンタールの最期が思い浮かぶ。だがそれは、形とならず、双頭の鷲が刻まれた艦は、空に吸い込まれるように彼女の視界から消えると同時に、消え去ってしまった。

 

―― なにかに気づけそうな……そんな感覚が……なんでしょう、これ?

 

「キスリング、戻ります」

 

**********

 

 ロイエンタールを見送り帰ってきた彼女は、まずフェルナーの復帰を伝えられた。

「すぐに仕事について、大丈夫なのですか?」

「二週間、真面目に復帰トレーニングに勤し、勘を取り戻しているので、なんら問題ありません」

「そうではなくて、体調とか」

 退院したその日に職務に復帰するなど、随分と無茶をさせるなと。

―― どこのブラック企業ですか。……ま、まあ、ブラック企業ではないとは言えませんが

「警備に就けないほうが、辛いでしょう」

 フェルナーは退院手続きを済ませ、その足で彼女の実家の跡地へと向かい花を手向けてから、彼女の元へ参じる予定となっていた。

「そうですか。できるだけ、無理はさせないようにしますね」

 元帥府に向かっているという連絡が届いているので、フェルナーの到着は間近。

「御意。つぎに、急な話ですが、本日からお住まいを変えていただきます」

 そしてフェルナーが到着したら、彼女は元帥府を引き払う。

「今日、これから引っ越すのですか?」

 ここはラインハルトが支配する空間。

 彼が元帥府に戻ってきたら、彼女との面会を阻止するのは難しい。

「はい。警備の関係上、前もって伝えることができず」

 だから、ラインハルトであっても簡単に立ち入れぬ場所に住まいを変える。

「分かりました」

「落ち着かない生活を強いること、お許しください」

―― また引っ越すようですけれど……まあ

「気にしなくていいわ。私は準備が整った引っ越し先に、身一つで行くだけですから」

 彼女はなんら作業に携わらないので、肉体面ではまったく苦労はない。

 ただこの一年、ほとんど定住していない状態なので、精神的には、かなり疲労がたまっていた。

「そう言っていただけると」

―― 離婚が成立したら、どこかに家を買いましょう

 当面の目標をそれに定め、彼女はつぎの行き先を尋ねた。

「ところで、どこへ?」

 軍の施設のどこかだろうと考えていた彼女だったが、オーベルシュタインが告げたのは”彼女にとって”意外な場所であった。

 ラインハルトがここに、許可なく立ち入ろうとするならば、皇帝に即位するしかない場所。

「新無憂宮のヴァルモーデン館へ」

 それは、現在は閉鎖された新無憂宮の西苑の館の一つ。

「……」

 赤煉瓦仕立てで、灰色がかった尖塔を思わせる屋根が特徴的な、二階建ての館。十五室と部屋数は多くはないが、中規模なピアノホールが備えられている、彼女が住むのに適した館の一つであった。

「別の館のほうがよろしいでしょうか? テューリンゲン館も押さえてはおりますが」

 彼女の表情からヴァルモーデン館ではない方がいいのか? と、もう一つの候補を挙げる。こちらは白い外壁に、黒みが強い灰色の屋根の三階建て、小規模なピアノホールと、その他、十室で構成されている。

 自分のために選んでくれたのが、一目で分かったのだが、選んだオーベルシュタイン当人は重要なことを忘れていた。

 

「そうではなくて……」

 

【破】片翼の双頭鷲[前編]・終

 

 


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