GOD EATER The another story. 作:笠間葉月
夢の迷ひ路
家に帰ると、妹は顔に青あざを作って倒れていた。
「ただいま……結意!?ちょっと!どうしたのこれ!」
どうしたの、と。そう聞いたのは何度目だっただろう。この子が生まれて五年。幾度となく顔を腫れ上がらせ、また幾度となくぐったりと倒れていた彼女を、何度抱き起こしたことだろう。
「お帰り。お姉ちゃん。」
「お帰りじゃないってば!父さんは!?」
「外、行ったよ。たぶんまたお酒。」
「あのバカ……結意もだよ!何でそんなにどーでもいいみたいに!」
こういう時の結意は毎回、どこか他人事のように語っていた。私はそれに嫌に腹が立って、同じように毎回怒鳴ってしまう。
本当は怒鳴るんじゃなく、別のことをするべきなんだって分かっていたけど……じゃあそれって何なんだって考えると、いつもよく分からなくなる。
きっと私にとってもこれは他人事だったのだろう。父さんに殴られているのが私じゃないことにどこかで安堵して、殴られていた結意を気遣うことで優しい姉の役柄に甘んじて。
何より、私自身は化け物と呼ばれないことを幸いと思っていた。
「……おいで。冷やそう。」
「うん。」
同時に、どこか疎ましく感じていた。
父さんは結意に、いつもこう言う。お前さえいなければ、って。お前が生まれなかったらって。
私も、同じように思っていた。結意が生まれなければ、母さんは死ななかったかもしれない。少なくとも父さんは、昔のように優しくて強い人だったろう。
何もかも自分のせいのくせして、あらゆる罪を転嫁して。何ともまあ、最低の姉だったことだ。
「結意も、自分で傷が治せたら良かったのにね。」
だけど仕方ないじゃないか。孤独だったんだから。寂しかったんだから。体の中で渦巻く人間以外の何かが、どうしようもなく恐ろしかったんだから。
自分と同じものが出来たとき、それを喜んで何が悪かったと言うんだ。手っ取り早く本当に同じものにしたことの何が。三歳児にまともな考えを求めるな。誰だって同じ状況になれば、同じことをしたに決まってるんだ。
「もっと化け物になっちゃうよ?」
「……それでも、いいよ。そうなればきっと、二人でどこにでも行ける。」
別に私一人だったらどこに行っても生きてられるんだから。
時計ウサギを追いかけて穴に落っこちたって、ドレッサーの鏡にズブズブ吸い込まれたって、私は死なないし何とでもなるんだから。
「じゃあ、鏡の国に行きたい。」
「いいねそれ。まずドレッサー見つけなきゃ。」
よもや母さんも、二歳児に読み聞かせた本をばっちり覚えられていたとは思わなかっただろうけど。母さんが好きだったアリスは、私にとって一種のバイブルになっていた。
母さんにアリス、と名前を付けたのも、きっとその記憶が起因しているんだろう。発見者だから、と名前を決めさせられたとき、一番最初に浮かんだのがそれだった。
……そしてこの頃の私にとっては……結意に読み聞かせて、いつか二人でここじゃない場所に行きたいね、と。優しい姉を演じる道具だった。
「行って、何しようか。」
「ジャヴァウォック探し。」
「……いやそれはちょっと。」
「じゃあバンダースナッチ。」
「まず最初の詩から離れよ?」
「……ジャブジャブ鳥?」
「……」
……そういう逃避だったけど、私にとって結意とふれ合う時間は代え難い宝物だった。
考えてみれば、懺悔の意味合いも持っていたのだろう。私が下手な真似をしなければ、母さんはいなくても懸命に生きている、そこそこ幸せな家族だったかもしれないから。
一緒にいよう。傍にいよう。この世界が終わっても、私達は離れない。人柱のように扱いながらも、根底ではいつもそう思っていた。
あなたを一人にはしないから、って。
*
「でも、もしかしたら可愛いかもしれないよ?」
叩かれたところは、別に痛くも何ともなかった。
痛みは彼女が全部引き受けてくれてたし、アザは皮膚の色をちょっと変えていただけ。こうしていればお姉ちゃんは優しくしてくれるし、私は甘えていられた。
《バンダースナッチねえ。》
【うん。あなたの名前。本から取ったの。】
私の中で育っていくもの。元々は、私と一緒にいてくれる何かって妄想だったけど。いつしか彼女は本当にそこにいた。
叩かれた体が痛いから、痛みを引き受けてくれる誰かを。
罵られた心が辛いから、辛さを貰い受けてくれる誰かを。
お姉ちゃんと、もう一人。私を助けてくれるもの。
「そうは言うけどさ。気を付けろーとか、近付くなーとか、なんかもう危なそうな雰囲気しかしないじゃん。」
「そうかなあ?」
「そうだよ。」
頭を撫でてくれる小さな手。聞くと安らぐ凛とした声。抱きしめられていると眠たくなる柔らかな腕。
お姉ちゃんがくれるものはいっぱいあって、得られない母親の情をそこに感じていた。
だから、騙す。お父さんは、本当は頬を平手で叩くくらいしかしていないけど。そこに青あざを彩って、痛みでぐったりしているように見せかけた。何度も。何度も。慌てるように心配してくれるお姉ちゃんが、ずっと傍にいてくれるように。
「私はやっぱり、ちっちゃくなってキノコの森でも歩きたいかな。」
「なら時計ウサギ探し?」
「だね。穴ぼこに案内してもらわないと。」
思えば、この頃には私はずいぶん歪んでいたのだと思う。
「でも、ここじゃないならどこでもいいよ。」
「そんなことっ……」
「きっとどこだって綺麗だよ。お茶会も開けない場所だって、トランプ兵の死体だらけだって。きっときっと、ここよりずっと綺麗だよ。」
「……そんなこと、言わないでよ……」
誰を殺すつもりもなかった。ただ、ちょっと驚かせて、逃げるお父さんを見て二人でクスクス笑いたかっただけ。そんな表層心理。
だけれど、奥底では何を考えていただろう。
《ま、実際ゴミ溜めみたいなもんだよな。この世界。》
【そうかな?】
《じゃねえの?》
【……そうかも。】
こんな世界消えてしまえ、って。嫌なもの全部なくなっちゃえ、って。そんな風に考えてなかったなんて言い切れる?
だってバンダースナッチは、私のお願いを聞いてくれる、私だけのお友達だったじゃない。私が考えてもいないことを、彼女がするはずはないでしょう。
……自分で思っているより、ずっと疲れた笑みでも浮かべていたのだろう。お姉ちゃんは悲痛に、涙を必死で押し止めながら、言った。
「いつか、綺麗にしてみせるから。結意がどこでだって笑えるように、頑張るから……」
*
「……さ……渚。」
肩を揺すられ、我ながら深く眠っていたことに気付く。都合三回目になるフライトは、もう二時間後に迫っていた。
行程としてはこれが最後。飛び立って、降りたら極東だ。
「……おはよ。神楽。」
「大丈夫?ちょっと魘されてたけど……」
喉はカラカラ。関節が悲鳴を上げ、頭は鉛でも詰め込まれたみたいに重い。なるほど。確かにひどく魘されるなり何なりしていたらしい。
けど、まあ。
「いい夢で魘されるって、私も器用だね。」
「……?」
「こっちの話。気にしないで。」
あれはいい夢、だろう。どうせ悪夢しか見ないだろうし、悪夢基準ならマシな方だと思う。
もっと酷い記憶は……私が何十人かいれば、両手足で何とか数えきれるだろうか。せめて百まではいらないと信じたい。
「そろそろ出発だから。けっこう長いフライトみたいだけど、終わればアナグラだよ。」
少なくとも悪夢でなかったのは……神楽が近くにいたからだろうか。
私は彼女の何を持って、三年前に信用したのかと。自意識ってものを得てからずっと考えてきた。
本能的な面で考えたとして、シオと神楽だったら神楽の方が上だったはずだ。アラガミにとって強弱はそのまま食物連鎖の階層に相当する。安心とか、信頼とか、そういうものを抱きようがない。
感情や理性か、と聞かれると、これも怪しい。当時そんな高尚なものがあったとも思えないし。
結論はやっぱり出ないんだけど……実際、何でだったのかは気になるのだ。こういうところから彼女との差が出ているような気すらして。
「分かってる。……とりあえず、そのニヤケ面何とかしたら?」
「……」
やっぱり、何だか虚しい。神楽には帰ることへの明確な目的があるのに、私には……
強いて言うなら、さっきのあれ。結意が笑えるように、って。
けどもう失敗している。あの子は取り返しのつかないことを……いや。取り返しの付かないことをするほどに、私があの子を追い込んだのだ。
手を差し伸べるフリをして、自分の傷口を舐めていただけだったから、助けたつもりでその実何にもしていなくて、結意を壊してしまった。
……今更、どの面下げて会えばいいっての。
*
目が覚めれば、そこは見慣れた天井の広がる私の部屋。極東支部に割り当てられたのじゃなくって、フライアの。
パレード中の神機兵の挙動を聞かせてほしい、なんて呼び出しがかかって、一日が経った今日。呼び出した当のお義母さんはずいぶん忙しいようで、未だに話すことが出来ていない。
……でも、今の私にとってそれは、あまり気にならないことで。
「もうすぐ、だよね。」
少しずつ近くなってきた、あの気配。私と似た何かだと気付くのにも、たいして無理はなくて。
生きているの?また会えるの?きっと、昔より手は大きくなっていて、だけど声はそのまんまで、抱きしめる温もりも記憶の通りで。
ねえ、お姉ちゃん。謝りたいこと、いっぱいあるんだ。騙して、欺いて、裏切って、何度も何度も酷いことをしちゃったよね。
話したいこともたくさんあるよ。お姉ちゃんと離ればなれになってから、笑っちゃうほどいろんなことがあったから。
そうだ。ジュリウスさんのこと、紹介しなくちゃね。ブラッドのみんなのことも。私が知り合った人、みんな教えたい。
「……綺麗なもの、たくさんあったよ。」
お姉ちゃんはもしかして知っていたのかな。世界は案外、綺麗なもので溢れているって。それはとても羨ましくて、何となく嫉妬しちゃうけど。だから一緒に見に行きたいんだ。見て聞いて、生きていきたいんだ。
失いたくない大切なもの全部、この手に留めながら。怖いことだってそりゃああるけど、そこにはいつだって、綺麗なものが一緒だから。
だから、早く来て。元気な姿を見せて。殺してしまったと思っていた、最初の大切な人。
いっぱいのごめんなさいと、たくさんのありがとうで迎えるから。
一区切り!すでのな(唐突な艦これ感