「……酷い扱いねぇ。この『子』も泣いちゃうわよぉ?」
「デモンベインは男の子だから歯を食い縛って耐えてくれるさ。……『銀鍵守護神機関』に匹敵する動力源がもう一つあるならこんな事をやらずに済むけどよぉ――」
クロウの案に、紅朔は物凄く不満そうな顔を浮かべるが、渋々納得する。
「決め手は解ったけど、問題はどうやって其処まで至るかだね」
「それは向こうの舐めプ具合次第だな、シスター。――高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処すべしだ!」
「……よぉは行き当たりばったりって事じゃない。銀河の英雄達の伝説通りの大惨劇にならない事を祈るばかりだわぁ」
それが大攻勢の基本戦略でないだけマシだが――クロウ達は数百メートル先に佇む『リベル・レギス』を見据える。
とうの昔に先程の神獣弾による損傷の修復は終わっており――。
『――作戦会議は終わったかな? クロウ・タイタス』
「ああ、律儀に待ってくれた大導師様のお陰でな。――どうかそのまま最後まで慢心して油断しまくっていて侮っていて下さいこん畜生ッ!」
……罵倒しているのか形振り構わず懇願しているのか、良く解らない情けない返しに紅朔が引き攣ったように苦笑する。
「……うわぁ、すっげぇ身も蓋も無い卑しい懇願ねぇ。……ヒーロー失格よ、クロウ?」
「うっせぇ、カッコ付けただけで勝率上がるならやってるわ! この世界にはオサレ度で勝敗が決まるようなトンデモルールはねぇんだよ!」
そう、クロウ達の基本戦略は実に単純明快だ。本気を出される前にデモンベインの切り札である第一近接昇華呪法『レムリア・インパクト』を直撃させる。それのみである。
減衰無く撃ち込めれば如何なる鬼械神を屠れる必滅の一撃であるが、当然の事ながらリベル・レギスが棒立ち状態で受けるなど在り得ないし、リベル・レギスには『レムリア・インパクト』と対をなす負の無限熱量を宿した絶対零度の白く燃える手刀『ハイパーボリア・ゼロドライブ』がある。
嘗ての『大導師』とのリベル・レギスとの必滅奥義の打ち合いはクロウ達に軍配が上がったが、今そのような事をしようものなら確実に此方が一方的に瘴滅する事となる。
――つまりはその必滅の一撃を超えて、必滅の術式を叩き込まなければならない。
「――っ、行くぞシスター! 紅朔ッ!」
「――おうとも!」
「――行っちゃえ、クロウちゃん!」
クロウ達が手繰り寄せる勝機とはそんな那由多の彼方にもあるかどうか解らない可能性であり――背部の飛行ユニットであるシャンタクから生み出される殺人的加速をもって超高速に飛翔する。
「頼むぜぇ、イタクァ!」
既に召喚している二挺魔銃のうち、銀の回転式拳銃の方を乱射する。
「あーんど、ニトクリスの鏡ッ!」
追尾性能を持つ氷の魔弾は縦横無尽に駆け巡って、次いで展開した鏡で出来た幻影を発現させるニトクリスの鏡を細かく破砕して散りばめ――六つの魔弾は幾十幾百の魔弾となって幻惑しながら飛翔する。
対するリベル・レギスは微動だにせず――否、既に黄金の弓を召喚して天に構えて撃ち終わっており、無数の黄金の矢は雨霰の如く降り注いで幻影だろうが実物だろうが構わず全ての魔弾を射抜いて無力化した。
「――ッ!?」
当然の事だが、天から降り注ぐ黄金の矢は隠れて潜もうとしたデモンベイン・ブラッドを無情に射抜き――十以上の矢に射抜かれたデモンベインの巨体が血液となりて霧散する。
『ふむ――』
紅朔お得意の血液を媒介とした魔術による変わり身であり――リベル・レギスは唯の一瞬の遅延無く矢代わりに放っていた黄金の剣を一閃し、何も無い空間を一刀両断してぱりんと割れる。
デモンベイン・ブラッドの巨体を全て覆い隠していた『ニトクリスの鏡』は呆気無く破壊され、両断される寸前の処でバルザイの偃月刀以外の三つの剣によって防がれていた。
「豊穣神の剣を再現、待機解除――」
その両瞳に血のような魔術陣を浮かべた『シスター』は無表情で詠うように呟く。
――鬼械神用に拡大翻訳された『シスター』による豊穣神の剣の一振りはデモンベイン・ブラッドに付き添うように背後に纏わり、残り二振りはリベル・レギスの黄金の剣を弾き返し、北欧神話の逸話通りに自動的に宙に舞って確実に敵を仕留めんと飛来する。
二方向、上下から飛翔する勝利の女神の剣は――。
『――ABRAHADABRA(アブラハダブラ)』
リベル・レギスの左掌から生じた雷撃をもって一瞬にして塵芥と化す。
敗北するエピソードの無い剣を、それを上回る超越的な暴力をもって消し飛ばした形である。あんなものが直撃した日には気合で耐えるとかそういう次元を飛び超えて一発で撃墜されるだろう。
――豊穣神の剣の二振りを破壊するのに費やされた刹那。
一気に間合いを詰めて賭けに出るか、牽制を繰り出しながら決定的な隙を見出すか。
二つの選択肢がクロウの脳裏に過ぎり――無傷で仕掛けられる機会など今後訪れない、これ以上のターン経過は徒に損傷箇所を増やして可能性を減らすだけだと判断し、クロウは無謀ながらも前者を選択する。
「――このまま突っ込むッ!」
両脚部シールドに搭載された断鎖術式『ティマイオス』『クリティアス』を発動させ、時空間を歪曲させて爆発的な推進力を生む。
勿論、この慣性の法則を無視した瞬間的な移動方法は大十字九郎とアル・アジフが駆る本家デモンベインも活用していたものであり、この程度の機動で意表を突く事は出来ない。
逆に空間転移を駆使されて、彼なりの意趣返しとして逆に意表を突かれる危険性が大いにあるが、今回に限っては『マスターテリオン』はその選択肢を取らない。何故なら――。
「――光射す世界に汝ら暗黒住まう場所無しッ!」
デモンベイン・ブラッドの右掌に宿すは無限熱量の必滅の奥義、ならばこそ返礼すべき必滅の奥義は唯一つ。リベル・レギスの右掌が白く焔える。
その掌に触れれば一切合財が死の静寂に停止し、跡形も無く消滅する絶対零度の刃。――既に解り切った結末を前に、『マスターテリオン』は冷め切っていた。
「――渇かず、飢えず、無に帰れ! レムリアァァ――!」
互いに繰り出すは必滅の奥義。されども、拮抗などしない。
リベル・レギスの『ハイパーボリア・ゼロドライブ』の前に、デモンベイン・ブラッドの『レムリア・インパクト』は一方的に打ち負けるだろう。
クロウ・タイタスと『マスターテリオン』では魔術師としての格が余りにも違いすぎる。
何とも興醒めな結末だと『マスターテリオン』は失望する。大十字九郎以外が駆るデモンベインという普段に無い刺激を期待していただけに、余りにもお粗末な結果だった。
――そう、必滅の奥義である『レムリア・インパクト』を繰り出せば、同じ必滅の奥義である『ハイパーボリア・ゼロドライブ』をもって対抗されるだけなのに、自ら詰み手を誘発するなど愚か過ぎる選択である。
斯くして『マスターテリオン』の予想通り、デモンベイン・ブラッドの『レムリア・インパクト』はリベル・レギスの『ハイパーボリア・ゼロドライブ』の前に打ち破れ――否、拮抗すらせず、『マスターテリオン』の予想を遥かに超越した呆気無さでデモンベイン・ブラッドの右掌を瞬間瘴滅させる。
『――!?』
絶対零度の手刀の直撃と謎の斬撃音はほぼ同時であり、ぱりんと、鏡の割れる音が響き渡る。
――瞬時に瘴滅したのは何の対抗術式すら纏わずに『無防備』に接触し、最後の豊穣神の剣で自ら切除された右腕までであり、無事な左掌には無限熱量が何一つの減衰無く存在していた。
「――インパクトォッッ!」
この戦いにおいて、天に君臨する魔人は地に這い蹲って足掻く凡人の執念に初めて一本取られる結果となる。
そう、あくまでも偽装術式が『ニトクリスの鏡』だけならば、幾千幾万幾億と『デモンベイン』と死闘を繰り広げた『マスターテリオン』は事前に察知出来たかもしれない。
だが、このデモンベイン・ブラッドに乗るは嘗ての宿敵達ではない。獣の咆哮『アル・アジフ』よりも搦め手に長けたネクロノミコン血液原語版たる大十字紅朔に、十万三千冊の魔導書を完全記憶する『禁書目録』たる『シスター』である。
彼女達に演出された空の右掌は囮としての役割を十二分に果たし――竜の翼を前面に展開したままのリベル・レギスに必滅の奥義をぶちかますに至る。
「――昇華ッッ!」
間髪入れず一撃離脱し、質量ゼロ・重力無限・熱量無限大の状況を作り出す結界に封鎖して昇滅させる。
数多の鬼械神を屠った必滅の奥義は、これ以上無い完璧な形で炸裂したのだった。
破損箇所――というよりも自傷箇所の右胸部から水銀(アゾート)の血が滝のように流れ落ちる。
「……言っとくが、今回はフラグは立てねぇぞ? 紅朔、『自己修復機能(メルクリウス・システマ)』で右腕の復元を急いでくれ……!」
「……もうしてるわ。ええ、此処でお決まりの台詞を言おうとするなら全力で張っ倒す処よ……!」
自傷によって丸ごと損失した右腕部の魔術回路の再構成に全力を費やし、片っ端から修復していく。
自ら切断してなければ『ハイパーボリア・ゼロドライブ』での過剰殺傷(オーバーキル)が全身に伝達し、一撃の下に瘴滅していたのは此方の方だっただろう。
――そう、自分達が駆る、遥か格下の乗り手によるデモンベイン・ブラッドが紡いだ『レムリア・インパクト』でも、『マスターテリオン』は対抗策が一つしか無いからこそ此方の思惑通り『ハイパーボリア・ゼロドライブ』を繰り出した。
幾ら愚策と見抜いて勝手に失望していようが、脅威と見做していたからこそ行動を誘導出来たのだ。ならば、その必滅の一撃をまともに受けたのならば――。
『――はは、はははは、あはははははははははははは……!』
その悪意の込められた哄笑は、底冷えする音色の聲は、高らかに奏でられた。
「……ッッ、畜生ぉ……!」
「あれで倒せないなんて……!」
シスターの驚愕はクロウとて同じだったが、心の底で「やはりか」という底無しの絶望もまた同時に発せられる。
必滅の奥義が直撃した程度で滅びるなら、『無限螺旋』の最終局面においてデモンベインとの千日手には陥らない。
――確かにリベル・レギスは嘗て無い程のダメージを負っていた。
前面を覆い隠す竜の翼は跡形も無く蒸発し、機体の半分は吹っ飛んでいる。だが――。
「嘘でしょ……?」
『無限螺旋』での物語を識っている紅朔さえ信じ難き再生能力で瞬く間にリベル・レギスの超鋼は完全な状態へと復元し――前方を覆う竜の翼が開かれ、悪魔の如き真の姿を顕す。
「え……?」
もうそれだけで絶望で心が折れそうになったのに、その絶望には更に続きがあった。
――そして戦場は『神話』を再現し、極限の異形の闇と極限の異形の光が交差する最終血戦場と化す。
リベル・レギスが絶対零度の手刀をもって空間を引き裂いて現出させたのは、捻じ曲がった神柱であり、狂った神樹であり、刃の無い神剣であり――それは、デモンベインとの宇宙の最果てで果たされた血闘で失われた筈の神器だった。
「――シャイニング・トラペゾヘドロン……!?」
第零封神昇華呪法。この宇宙で大十字九郎とアル・アジフが駆るデモンベインと『マスターテリオン』とナコト写本が駆るリベル・レギスのみに許された神を屠る絶対執行権。
何がどう間違っても、クロウ・タイタス如き人間に使う必要の無い、人間を圧倒的に上回る観測者たる邪神達の宇宙を封滅した窮極呪法兵葬である。
――そして異変は、デモンベイン・ブラッドにも生じる。
全操縦系統が根刮ぎ剥奪され、操作不能となり、平行世界から無尽蔵のエネルギーを汲み上げる半永久機関『獅子の心臓』が激しく脈動する。
「な!? 紅朔、何が、いや、何を――!?」
「違、う……! ダメ、止め、られない――!?」
術者のクロウ・タイタスの手から完全に制御を離れたデモンベイン・ブラッドを、大十字紅朔は自分の意思とは無関係に――右掌に集いし闇の塊、ブラックホールから異形の物質を招喚する。
――それは七本の支柱によって支えられた、玩具匣だった。
「なん、だと……!? これじゃまるで――!」
「そうさ、本命の仕掛けを施したのは僕の『歯車(ちにく)』の方ではなく、君の方だ! 『違えた血(アナザーブラッド)』――いや、大十字紅朔君」
何処か知れぬ宇宙の最果てで、異形の女は純然なる悪意を以って吼える。
全ては、千の無貌、這い寄る混沌、外なる神、ナイアルラトホテップの意のままに――。
「これは実に苦労したんだよ? 秋瀬直也君の『レクイエム』に気づかれては元も子も無い。――特定状況下による強制執行。敵対勢力の『第零封神昇華呪法』の発動を条件に強制干渉による対抗術式。この手の仕掛けは発動条件が厳しいほど見つかりにくいからね」
人の形が崩れ、闇に燃ゆる三つの眼を悪意で歪ませながら「奇しくも『魔術師』殿と同じ手管になってしまったけどね」と手口の被りを嘲笑いながら反省する。
「――『血の怪異(カラー・ミー・ブラッド・レッド)』から派生させた脚本『王の帰還(リターン・オブ・ザ・キング)』の最終章。それは見ての通り『無限螺旋』での宇宙狂騒曲最終楽章の再現だ!」
二つの相反する『シャイニング・トラペゾヘドロン』の衝突による神器の破壊、それによって神器に封滅された神々の正しい宇宙『アザトースの庭』を解放する事が彼の邪神の目的だった。
「ああ、勘違いしてしまうと思うから一つ補足しておくと、此処で言う再現とは僕の思惑通りに相反する『トラペゾヘドロン』の衝突による破壊ではない。――そもそも相反とは同じ力だからこそ成り立つ現象だ。だが、世界の怨敵『マスターテリオン』に対してクロウ・タイタス君、君は余りにも無力だ。彼の魔人と張り合える位階に到達していない。拮抗など到底望めまい」
そう、クロウ・タイタスではどう足掻いても『シャイニング・トラペゾヘドロン』を執行するに足る位階には至れない。英雄の血筋を継ぐ大十字紅朔とは違って可能性すらない。『黒の王』に匹敵する『白の王』にはなれない。
「――だからこそ、君が必要なんだ。クロウ・タイタス君! 『大十字九郎』に絶対なれない君だからこそ――『黒の王』の再誕の贄に相応しい!」
黒い女は高らかに宣言する。その純然な悪意は愛の切実さに似ていた。
「相反する力が互角ならば僕達『旧支配者(オールド・ワン)』を残らず封印した奴等の神器である『トラペゾヘドロン』を破壊出来る。ならば、その力が互角じゃなければ? ――そうだとも! 『大十字九郎』がやってのけたように一つに統合してしまえるだろう!」
そう、これは再現である。『大十字九郎』がやってのけてしまった事を、今度は『マスターテリオン』が再現する――。
「それでこそ『マスターテリオン』は――ヒトとして戦い、戦い抜いてヒトを超え、ヒトを棄て、神の領域に、邪悪を撃ち滅ぼす為に私と同じ存在になった『大十字九郎』に辿り着ける……!」
その果てに『マスターテリオン』が何に成り果てるかは、それは神たる彼女とて知る由も無い事であるし、彼女の手から離れようとも些細な事だ。
もう一つの宇宙狂騒曲の最終楽章(クライマックス)を、彼女は前人未到の境地から独りで見届ける――。
――ぴきり、と。何かに罅が入る音が生じる。
何で自分はこんな場違いな処に居るのだろう、と心底不思議そうに頭を傾げる。
此処は神々の禁忌、宇宙の命運を決める最終血戦場、選ばれた英雄と魔王が覇を競い合う至高の座だ。間違っても選ばれなかった資格無き凡人が居て良い場所じゃない。
――二つの輝くトラペゾヘドロンの衝突。一方がこの宇宙から拒絶されるだけで納まるか、それとも宇宙単位の未曾有の大災厄と成るか。
自分だけでなく、シスターもセラも、紅朔も運命共同体で道連れだ。
それどころか海鳴市の皆、否、次元世界に住む全ての人間、否、多元宇宙に存在する全ての人達まで道連れとなるだろう。
過去も未来も何もかも全て、全ての可能性が此処で潰える。
そんな途方も無い命の重さなど、背負えない。謝る言葉すら思い浮かばない。辿り着いた全ての破滅に、彼の小さな意地など罅割れ、木っ端微塵に崩壊して折れてしまった。
「……あ、ああ。無理、だ。こんなの、オレじゃどうしようも出来ねぇ……!」
既にデモンベイン・ブラッドとリベル・レギスは合わせ鏡のように、数多の魔法陣を巡らせて踊るように最終処刑場を構築していく。
制御などとうの昔に喪失しているし、この術式に逆らう事すら出来ない。
――最早、どうしようもない。宇宙を覆い尽くすような途方も無い絶望を前に、遂に心折れて、希望という光が亡くなった瞳から涙を流す。
「オレは、オレはぁっ! 『大十字九郎』には、なれない……!」
……始まりから全否定され、それでも諦め切れずに目指し続けた。
……資格が無いのならば、その資格を得ようと足掻き続けた。
……力が足りない。才能が無い。無力で愚かしい。そんなの嫌というほど聞き飽きた。
……それでも諦めなければ何とかなると信じて、必死に自分を騙り続けた。
――その独り善がりの果ての結末がこれである。
正真正銘の『正義の味方』、神の脚本すら破壊する『大十字九郎』でもなければ突破出来ない『運命』の前に、宇宙的な悪意の前に遂に屈する。絶望の怨嗟を撒き散らす。
ちっぽけな勇気は煮え滾る混沌に飲み込まれ、擦り切れて砕け散って無くなる――。
「――当然だよ。クロウちゃんはクロウちゃんであって、名前が似ていても『大十字九郎』になれっこ無いよ」
その暖かくて優しい声は、下の特設した操縦席に居た『シスター』からだった。
「クロウちゃんが自分を信じれないのなら、それでも良い。でも――私の信じるクロウちゃんを信じて」
「シスターの信じるオレを……?」
一体、今の自分の何を信じられるのだろうか? 心底不思議そうな顔をしたクロウに『シスター』は力強い笑顔で、咲き誇る花のように自信満々に告白する。
「……困った人を見過ごせなくて、見過ごせないほど弱いのに誰にでも手を差し伸べちゃうほどお人好しで、頼りないのに暖かくて――そんなクロウちゃんに、私は救われたんだよ? ――『私』もね」
――過去に捕らわれた少女と、未来を奪われた少女が居た。
彼女達に救いの手を差し伸べたのは、奇しくも同じ人だった。
「――大丈夫、クロウちゃんなら出来る。最悪のバッドエンドに至った『アル・アジフ』を救っちゃったのは誰だったかな? あんなの、『大十字九郎』にも出来ない事だよ」
――邪神の策謀を最後まで見抜けずに敗れ去った『魔導書』が居た。
絶望の淵に沈んだ彼女を引っ張りあげ、その掌に『魔を断つ剣』を取り戻させた人がいた。
「八神はやてにしても、クロウちゃんが居なかったらどうなっていた事やら」
――数多の運命の悪戯に翻弄され、復讐者となった少女が居た。
その少女の復讐を寸前の処で止めて、正しき遺言を渡した人が居た。
「貴方の知る物語では私と九朔は『お父様』と『お母様』の手で救われたんだろうけど――クロウ、貴方は神の脚本を『一言』で崩壊させちゃったのよ?」
下の操縦席で、シャイニング・トラペゾヘドロンの発動準備で全操縦系統を奪われながらも必死に抵抗し続ける紅朔が不敵な笑顔で答える。
――玩具支配者によって『悪』として世界に拒絶された少女が居た。
存在すら儚い彼女をそっと耳元で名前を呼んで神様の書いた脚本を打ち砕いた人が居た。
「……どんだけ完璧超人なんだよ、そのシスターやセラ、紅朔の信じる『誰かさん』は……」
――でもその人は、完全無欠なまでの『正義の味方』のように、余裕綽々で常に優雅にこなした訳ではない。
必死に足掻いて、必死に頑張った末に掴んだ、泥塗れで血塗れの勝利である。誰よりも無力ながら、最後まで諦めなかったからこそ掴めた必然の勝利だった。
「……でも、オレは――」
「ううん、クロウちゃんは独りじゃない。私もいるし、セラもいる。大十字紅朔もいる。海鳴市の皆もそれぞれの敵と戦っている。――そして私達の背中には数え切れないほど沢山の人達に支えられている」
「……あ」と、どうしてそんな大切な事をいつの間にか忘れていたのだろう。
人は独りじゃいられない。独りじゃ生きられない。いつだって誰かに支えられながら生きている。ただの一瞬だって独りじゃない。誰かが背中に居るから、戦える。
それなのに自分は、いつから自惚れていたのだろう。そんな大切な事を忘れていたなんて、独り善がりも良い処だ。それこそが力の源泉、全ての原動力だというのに――。
「どうせなら最期まで足掻いて後悔しよう? それでも駄目なら――私達が地獄の底まで一緒に付き合ってあげる」
――今までで一番綺麗な笑顔で『シスター』は答える。
同時に、情けなくなった。みっともなくて死にたくなった。こうまで彼女に言わせるヘタレの根性無しの糞野郎をぶち殺したくなった。
こんなに良い女に此処まで言われて、奮い立たない男など男じゃない――!
「……ああ、くそ、畜生っ、やってやらぁっ!」
既に『シャイニング・トラペゾヘドロン』の詠唱は最終局面に突入し、状況は何一つ好転せぬまま、裁定の時が訪れる。
何一つ策が無い。打つ手すらない。――だからどうした? 打つ手が無い程度で一々手をこまねいてられない。打つ手も策も無いなら、後は意志と魂で抗え――!
そして世界最後の詩が紡がれる――。
『――我等は神話を紡ぐ者なり!』
――そして神話は再現される。
二つの『シャイニング・トラペゾヘドロン』が衝突しあい、二重螺旋を構築しながら絡み合い、鬩ぎ合い、一つに統合されていく。
『な――』
そのいつしか見た光景をブラッグロッジの大導師『マスターテリオン』は呆然と眺める。
それもその筈だ。構成が崩れて吸収されていっているのは、彼が行使する『トラペゾヘドロン』なのだから――。
「――馬鹿な、在り得ない!?」
何処かも知れぬ時空の果てから、人の形が崩れた煮え滾る混沌は驚嘆と驚愕と激怒の色を忙しく移り変えて撒き散らす。
「大十字紅朔、君は何処までも不完全な存在だ! その可能性は確かにあれども、今のその君は『大十字九朔(オリジナル)』と別れたままの不完全な『贋作(アナザー)』に過ぎない!」
そう、此処にある大十字紅朔は大十字九朔から別けた半身。その虚ろな存在を確かなものに出来たとしても、最後の鍵たる『騎士殿』が揃わない限り永遠に未完成の個体である。
「『禁書目録』、君もだ! 十万三千冊の『魔導書』を記憶していようとも、一冊足りとも『機神招喚』を可能とする最高位の『書』が存在しない! 君の世界の知識は我々の世界のそれより遥かに劣る!」
如何にあの世界で『魔神』と称されようが、あの世界の『魔導書』は最高位の魔術である『機神招喚』には至らない。
一冊で神を招喚し得る此方の世界と比べれば塵芥に等しい。
だが――そもそも当初の脚本では、彼女はデモンベインに乗る事無く息絶える筈だった。彼女の死が、彼の悲劇を彩る最後の要素(スパイス)になる筈だった。……誰かの嘲笑う声が、確かに聞こえた。
「そしてクロウ・タイタス! 君は絶対に『大十字九郎』になれない! それなのに何故――」
そう、魔術の才能無き凡人では神殺しの刃たる『大十字九郎』の領域まで成長出来ない。
……だが、混沌よ。そもそもその前提が間違いとするのならば――宇宙的な悪意さえ鼻で笑って小馬鹿にする人の悪意が嘲笑う声を更に強くする。
「そうさ、オレはどう足掻いたって『大十字九郎』にはなれない。だがなぁッ!」
デモンベイン・ブラッドの色が鮮血のような朱から、光り輝かんばかりの黄金の色になり――。
「――オレは、クロウ・タイタスだぁっっっ!」
そもそもそんな飛び抜けた才能なんて無くとも、このクロウ・タイタスは既に二度も神の脚本を破砕している事を忘れたのが最大の敗因である。
彼の存在そのモノが最初から神の思惑を超える存在であり――。
「……君もまたそうなのか? 最も新しき旧き神の――だとすれば、此処に『彼等』が現れなかった理由は――!」
――結局、這い寄る混沌ナイアルラトホテップは未来永劫に渡って敗れ続ける運命に逆らえなかった。ただそれだけの話である。
その暖かくて柔らかな優しい光は、あらゆる防御障壁を突き抜けて絶望の化身たるリベル・レギスを緩やかに解かす。
――禊の光は嘗ての神話の始まりに見たものと同じ。
遠い時間の、遠い何処かで、大十字九郎とアル・アジフが駆るデモンベインから放たれた光と同じ――。
全てを融解させる光、されども、マスターテリオンに恐怖は無かった。
「ああ、そうか――」
そして彼は全てを悟った。崩れゆく躰を眺めながら、随分と自分達は長い遠回りをしたものだと此処に居ない宿敵達に対して文句を吐露する。
「――ター、マスターッッ!」
必死に此方に差し向ける黒い少女の小さな手を掴み、彼は彼女を優しく抱き締めた。
この絶望の只中に居ても離れなかった『半身』を、愛しげに包み込んだ。
「もう良い、大儀であった。エセルドレーダ――」
――こうして世界の怨敵に祀り上げられた『黄金の獣』は、少しだけ遅かった救済の光に身を委ねたのだった。