転生者の魔都『海鳴市』   作:咲夜泪

100 / 168
05/大十字九朔

 ――『闇の書』の防衛システムを完膚無きまで破壊した夜の事。

 

 予想外の出し物(スタンドで殴って飛び出た紫天の書の三人娘)があったものの、転生者による狂乱の宴は無事終わり、締め括りは一人の魔導探偵と魔導書に委ねられていた。

 

「……アル・アジフ。お前の助けではやてを無事救う事が出来た。こんなオレでも、誰かを救えた――」

「……違う。妾の力じゃない。クロウが最後の最後まで諦めなかったからこそ掴めた――必然の勝利だ」

 

 アル・アジフはいつものように不遜に、堂々と胸を張って勝利宣言する。

 そんな彼女の姿が余りにも様になっていて、クロウから笑みが溢れる。されどもそれは何処か寂しさを伴ったものだった。

 

「その台詞をお前の口から実際に聞けるとはな。感慨深いもんだ――うん、だから、オレの方は大丈夫だ」

 

 此処にマスターとサーヴァントの契約は満了した、とクロウは満足気に笑う。

 それに一番驚愕したのは、事もあろうにサーヴァント側の彼女自身だった。

 

「馬鹿を言え! この魑魅魍魎が跋扈する『魔都』で何をほざくっ! 汝程度など一日足りても生存出来んぞ!」

 

 彼女は真剣に怒っていた。頼りない主の暴挙を咎めるように、真摯にその身を心配して。

 その事に関しては心から嬉しいが、だからこそ、彼女をいつまでも此処に縛り付ける訳にはいかなかった。

 

「――アル・アジフ、お前の本当の『主』は、オレじゃない。大十字九郎の下に早く戻ってやれ、いつまでも出待ちされてちゃ流石に可哀想だぜ」

 

 クロウの中に惜しむ気持ちが無いと言えば真っ赤な嘘になる。

 クロウとて、彼女に居なくなって欲しくはない。それは打算的な考えで言えば世界最強の魔導書たる『彼女』を保有するという戦力面・知識面での充実もあるし、それ以外の事でもある。

 

 ――されども、その気持ちを形にする事は絶対に無い。尾首も出さないと、最初から決めている事だ。

 

 クロウ・タイタスがアル・アジフの事を『アル』と呼ばないのは、彼女の真の主足り得る人物が『大十字九郎』であり、自分自身じゃない事を強く自覚しているからだ。

 そもそも彼の二回目の人生は魔導書『アル・アジフ』を彼の元に届ける為の戦いであり、ならばこそこの別離は必然のものだった。

 彼女とて、一分一秒でも早く、最悪の結末に至って邪神に弄ばれている大十字九郎を助けたい筈だ。

 

「――また妾に、汝を見殺しにさせる気か……?」

 

 だが、その自分自身を納得させたい論理的思考は、目の前の少女の今にも泣き崩れそうな顔で破綻してしまう。

 彼女は邪神との終わり無き死闘で、幾多の主を看取った。彼等の苛烈な生き様を、彼等の凄絶な死に様を、全て焼き付けてきた。

 今でも彼女は歴代の主を敬愛し、信仰し、尊敬している。自分もその一人である事は誇らしく、何よりも嬉しく、同時に困ってしまった。

 

 二人の話が平行線になったその瞬間――待っていたと言わんばかりに口を出したのは、やはりあの男だった。

 

 

「つまりはクロウ・タイタスに何かしらの『力』を残せたら安心して旅立てる、という訳だな?」

 

 

 この宴の黒幕にして首謀者、両眼を瞑りながら全てを見通したかの如く邪悪に嘲笑う『魔術師』神咲悠陽だった。

 

「……いやさ――空気読めよ?」

「読んだとも。涙頂戴の三文劇をハンカチ片手に傍観して絶好のタイミングで此方の本題を切り出したじゃないか」

 

 クロウの真っ当な文句に『魔術師』は悪びれもせずのたまう。

 思いっきり顰蹙を買うが、この底の見えない男の解決案がどのような代物か、出来る事なら聞きたくないが聞かずにはいられなかった。

 

「……腹案があるようだな、『魔術師』」

「おや、君のような高名な魔導書から『魔術師』と呼ばれるとは至れ尽くせりだね。勿論、初めから用意しているとも。それが私にとっての利だからな」

 

 うわぁと、クロウとアル・アジフはジト目で『魔術師』を睨みつける。だが、視界を閉じている彼には視線など一切関知しない。

 胡散臭い事、この上無し。事ある毎に自分達を謀略で排除しようとした人物からの提案を疑念100%で耳を向ける。

 正直、口車に乗せられる事は間違いないので聞きたくなかったが、それでも尚聞かずにはいられないのは彼の悪辣極まる知謀から吐き出される猛毒が悪い意味でも良い意味でも状況を一変させる『劇薬』に違いなかったからだ。

 

 

「令呪は二画残しているな、クロウ・タイタス。ならば、それを上手く使えば原書に限り無く近い写本ぐらい作れるだろうさ。――その材料は此方で全て用意しよう。使い果たして排出された『ジュエルシード』は私が回収しよう。それぐらいの報酬はあって然るべきだろう?」

 

 

 その発想は無かった、というぐらいの一石二鳥の名案である。

 この提案が『魔術師』から齎されなければ、疑う余地無く飛び付いたであろうが、発案者が彼である以上、綺麗すぎる建前の裏のどす黒い思惑などあって当然である。

 

「うっわぁー、怪しい点と突っ込みどころしかねぇ!? 一体何を企んで何を仕掛ける気だ!?」

「当然何か企んで何か仕掛けるとも。君とアル・アジフの美しい主従関係に心打たれて無償で協力する、などという世迷い事よりは遥かに信頼出来るだろう? それぐらいしか此方にメリットが無いしな。これは君達にとっても悪い話では無いと思うがね?」

「いやいや、堂々と仕掛けるとかほざいておいて『はい、そうですか』って頷く馬鹿が何処に居るんだよ!?」

 

 ……確かに、百歩譲って冷静に考えれば、アル・アジフほどの力有る写本を作ろうとして、それに相応しい素材を集めるなど如何程の時と労力・資金を必要とするだろうか。

 そんなのは全くもって見当も付かない。クロウの前世ならともかく、此処は邪神の脅威に晒されていない真っ当な世界、其処から彼の世界由来の代物を集めるなど砂の海に落ちた真珠を探すような話だ。

 だが、目の前の『魔術師』なら、短期間で用意出来るだろう。問題は、そのメリットを補い余って圧倒的に上回るデメリット、不明瞭なまでに隠されている『魔術師』の思惑である。

 平然と日常的に即死級の罠を仕掛ける性根の持ち主だ、安心出来る要素など三千世界を探しても見つかりはしない。

 

 断固拒否の姿勢を崩さないクロウを察してか――『魔術師』の口先は、彼と同じぐらい思い悩んでいるアル・アジフに向けられた。

 

「その仕掛けを事前に完全排除すれば、無償で力有る魔導書作成の素材が手に入るんだ。安いものだろう。――それとも、あれかね? あの『アル・アジフ』ともあろう者が、私如きの些細な魔術的な仕掛けすら見抜けなんだのか?」

 

 クロウよりもアル・アジフの方が御しやすいと判断したのか、だが、その程度の挑発に乗る彼女では「やはり『ナコト写本』より劣るのかね? 世界最強の魔導書よ」――あ、これまずい、と彼女の方に振り向いた時には全て遅かった。

 

 ――それはもう、正統派美少女ヒロインとしてどうよ?という悪鬼羅刹の形相を浮かべた彼女が居た。

 

「――言ってくれた喃(のう)小童っ! 良かろう、貴様の小賢しい仕掛けなど一つ残らず木っ端微塵に粉砕してくれるわァ!」

「いや、ちょっと待て! 勝手に了承するなアル・アジフ!?」

 

 斯くして『魔術師』から齎された魔導書作成の素材を三日三晩――アル・アジフがプライドを捨ててまで『禁書目録』たるシスターの協力まで付けて――入念に吟味した後、巧妙に辛辣なまでに隠されていた致死級の罠を見事取り除き、彼女の分身たる写本が完成した経緯である。

 

 

 

 

『――ネクロノミコン血液言語版?』

 

 さもありなん、そんなものを書物と呼べるだろうか、電話越しの八神はやての疑問の声は当然のものであり、『魔術師』が意図的に隠蔽した情報に気づいた様子は無い。

 もっと解り易く言えば『半人半書』だが、それでは余りにも解り易いヒントなので敢えて伏せる。原作、『斬魔大聖デモンベイン』の続編たる『機神飛翔デモンベイン』にもあった言葉遊びである。

 

「まぁ万が一『彼女』がこの世界に訪れようなら大惨事確定だがね。必然的に『彼』も来るだろうし、被害規模は跳ね上がる一方だろう。邪神の脚本『血の怪異(カラー・ミー・ブラッド・レッド)』に巻き込まれるなんざ御免被るよ」

 

 クロウ・タイタスとアル・アジフとの契約を解消させる事で海鳴市に残る最後のサーヴァントを、最大の脅威たる鬼械神を無血で排除したというのに、別の鬼械神持ちの魔術師の到来など本末転倒も良い処である。

 

「世界を超えて英雄『三世村正』が襲来した。とある『第八位の超能力者』が一時的に迷い込んだ。『第二の魔法使い』に拉致られた。ふむ、となると『彼女』達がこの世界に現れる可能性もゼロではない――」

 

 だが、此処最近の魔都海鳴市は外なる、別の並行世界からの脅威に晒されている。

 元々そういう土俵がある世界ではある。公式でFateの平行世界の物語である『プリズマ☆イリヤ』とのコラボがあったぐらいである。

 

(……うわぁ、凄まじく嫌な事を思い出した――)

 

 ――もっとも、そのコラボ通りにあの世界で魔法少女やっているイリヤスフィール達が訪れた場合、必然的に、『魔術師』にとって最も忌まわしい記憶の一つとして封じられているあの『杖』も一緒に現れる事を意味しており、もしもそんな事が起こったのなら『魔術師』は絶叫と悲鳴を上げながら全身全霊であの『杖』を木っ端微塵に破壊しようとするだろう。

 

(うん、忘れよう。忘れたい。よし、忘れた)

 

 遠坂家の屋敷を踏み躙って宝石剣の設計図を探した折、誤って手にとってしまっていつぞやの四月馬鹿企画のようなあざとい魔法少女姿になってしまった自身のサーヴァントを、『魔術師』は全力で忘却しようと自己暗示までして努める。

 

「いいかい、八神はやて。『彼女』がこの世界に辿り着いたのなら、真っ先にクロウ・タイタスを襲うだろう――正確には、彼の持つ限り無くオリジナルに近い『ネクロノミコン』の写本を奪いにな」

『え? どうして……!?』

「あれの存在は不確かなのさ。宇宙の中心で夢見る神様の泡沫の幻の如く。その存在を世界に結びつける為に必要なのさ、自身に近い存在が――」

 

 未だに生まれ出ない『半人半書』の『影(シャドウ)』、その存在は極めてあやふやであり、だからこそ同質の魔導書『ネクロノミコン』を求める。

 

『その大惨事っちゅうのは、どれぐらいの……?』

「そうだな、あの写本にも『無限螺旋』の記憶があるし、此処での戦いも記憶している。あの世界で存在否定された邪神達も押し寄せるだろうし、最悪の魔術結社『ブラックロッジ』の鬼械神持ちの魔術師も何人か出現するだろうし、魔都で嘗て出現した『ワルプルギスの夜』や救済の魔女『クリームヒルト・グレートヒェン』までも復活するかもな」

 

 『ネクロノミコン血液言語版』、『半人半書』の赤い少女、英雄狂(ドン・キホーテ)の影――『アナザーブラッド』にあの写本が渡れば、この次元世界など瞬く間に邪神の脅威に犯され、死の滅びよりも凄惨な結末になるだろう。

 

 

『ええと、何だか余り実感湧かないけど、世界規模とか宇宙規模まで事態が発展しそうなのは解ったんやけど――どうして『魔術師』さんはそんなに危機感抱いてないん?』

 

 

 ほう、と『魔術師』は少女の成長振りに感心する。

 八神はやては早期からクロウ・タイタスと関係を持ち、『教会』の者達と幾多の修羅場を超えてきた。言うなれば、最も原作から乖離していると言っても過言じゃない。

 原作通りの彼女ならまず気づけない、良い着眼点である。聞き手からの楽しい指摘だ、これでは囀る口も軽くなるものだろう。

 

「良い疑問だ。あと一歩で合格点をあげれるね。其処から思考を少し発展させれば答えに辿り着ける筈だ」

 

 既に答えは彼女自身が言ったようなものだ。

 『魔術師』は期待を込めて待つ。沈黙の時すら愉しんで。

 

『――危機感が無いというよりも、危機として感じてない? 完全に対策済みって訳?』

 

 正解である。既に脅威に成り得ないように手を施しているが故の余裕であった。

 

「外道の知識の集大成たる『ネクロノミコン』の写本、それが存在する際のリスクなど百も承知さ。大抵ろくな事になるまい。それを最後のサーヴァントに無条件で退場して貰う代償に強力に手助けしてやったのに対策を練っていない筈が無いだろう」

 

 『魔術師』にとって、クロウ・タイタスとアル・アジフとは絶対に戦闘したくない組み合わせである。

 どう足掻いても鬼械神の相手など不可能であり――クロウ側からすれば生身の人間をデモンベインで潰すなど論外も甚だしいが――故に矛を交えぬ戦いで排除するしかない。

 

『……あー、でも、あいや、何でも無いですっ』

 

 はやては気まずそうに、されども言葉を濁す。

 大方、見せ用の一つ目の仕掛けを排除した事を言いたいのだろうが、それは何一つ問題無い。

 『魔術師』が施した本命の仕掛けは特定状況下でなければ発覚しない類のものである。

 

「はやて。万が一、ネクロノミコン血液言語版――いや、『アナザーブラッド』が君達の前に現れたのなら、トドメは君が刺すんだ。クロウには出来ないからな」

 

 打つべき手は全て打っている。後は、その結果の後始末である。

 それをまだ九歳の彼女に引導を渡す事を託すなど、良心の呵責という犬にでも食わせればいい要素の他に、自分から不確定要素を増やすような行為である。

 

『……それは、クロウ兄ちゃんが力不足だから?』

「いいや。あの世界の魔導書に宿る精霊は、どいつもこいつも『アル・アジフ』のようなつるぺたロリ少女だからだ」

 

 『魔術師』の冗談混じりの誤魔化しに対し、はやては『あー、なるほどぉ……』と全く疑う余地の無く納得した反応を示した。

 日頃の行いは斯くも大切なものである、と『魔術師』はクロウに僅かながら同情する。

 

 ――不意に、少し遠くから奇妙な爆発音が鳴り響く。その音は電話越しからであった。

 

「……何の音だ?」

『クロウ兄ちゃんの部屋の方から……!? ごめんなさい『魔術師』さん、また今度ッ!』

 

 ツーツーツーと、通話の途絶えた証明たる無機質な音が鳴り響き、『魔術師』は携帯電話を畳み、思案に耽る。

 それは余りにもタイミンが良すぎる異変であった。まさかという思いよりも、やっぱりかという思いの方が存外に強かった。

 

「口は災いの元、それとも語る言葉から災いが寄ってくるのか――」

 

 

 

 

 ――『彼』が『教会』の孤児院の何処の部屋に居るのか、彼女の『血』は識っている。

 

 神を信仰する『教会』の不可侵なまでの神聖さは、彼女の出現と同時に血の瘴気を孕む異界の風に犯される。

 世界を侵す邪悪が清浄なる世界を蝕み続ける。

 そんな悲鳴のような亀裂を、怪異と異変の専門家である『彼』が気づかぬ筈も無い。

 ベッドに寝転がっていた『彼』は即座に起き上がり、術衣形態 (マギウス・スタイル) を取って部屋の窓際の虚空を睨みつける。

 

「――何者だ!」

 

 何処からか頁が舞う。紙片は部屋中に乱れ舞い、やがて一つに収束する。

 それは血のように赤い少女だった。この世界には存在しない筈の、彼の前世に存在した邪悪の化身だった。

 それなのに、何処か別離したあの少女の面影を残す、少女だった。

 

「こんばんはぁ、探偵さん」

 

 調が外れたような甲高い声で挨拶する。透けている赤いスカートをたくしあげて、妖艶に嘲笑って――。

 

「んな……!?」

 

 『彼』のその絶句が如何なる意味を秘めていたのか、赤い少女は考えなかった。

 意味があるとすれば、此処まで明確な敵対者を前に、戦闘者として幾多の修羅場を超えてきた彼が在ろう事に致命的な隙を生じさせた事である。それを見逃すほど彼女はお人好しでなければ、今の彼女にそんな余裕も無なかった。

 

「――縛られるのはお好み? それとも縛る方かしらぁ?」

 

 ――『彼』が気づいた時には、既に全身を拘束された後だった。

 部屋中に巣を構築し、まとわりついて拘束する魔力の糸の正体を、『彼』は驚愕と共に瞬時に看破した。

 

「アトラック=ナチャ!?」

 

 それは『アル・アジフ』に記述された旧支配者の一柱、巨大蜘蛛が織り紡ぐ終焉の糸。『彼』も好んで使用する術式の一つである。

 既にこの時点で王手詰み(チェック・メイト)だった。術衣形態の『彼』にこれを強引に振り解く力はあれども、その合間に少女は『彼』の術衣形態そのものを解呪(ディスペル)出来る。

 通常の魔導書であるならば、そんな真似は絶対に出来ない。最高位の魔導書である『ネクロノミコン』の強力強固な魔術を紐解くなど不可能である。

 だが、同じ『ネクロノミコン』である彼女にとって、暗号解読して術式介入するなど朝飯前だった。

 

「本当はもう少し貴方と会話したかったのだけど――ちょっとだけ後回しするわね?」

 

 赤い少女は無造作に歩み寄り、その指先を『彼』の胸元に優しく突き刺し、無慈悲に術式介入する。

 頁の紙片になって術式が紐解かれ、魔導書に戻った『彼』の『ネクロノミコン』が赤い少女の手に収まる、筈だった。

 

 ――彼女の誤算は術式介入した直後に現れた。

 

「!?」

 

 燃えるような反発、生じる逆侵食。

 術衣形態から湧き出るように展開された幾千幾万幾億の魔術文字は配列を変えながら蠢き、その極大の悪意を形にした一文となる。

 

 ――健康と美容のために、食後に一杯の紅茶を。

 

 銀河英雄伝説で『魔術師』ヤン・ウェンリーが難攻不落のイゼルローン要塞を放棄する際に仕掛けた囮の時限爆弾とは別の本命の罠。

 中枢コンピューター制御システムに秘密裏に仕込まれた停止コードがその一文であった。

 

「――ッ、ああああぁああああぁ!?」

 

 少女の悲鳴が部屋に轟き、部屋の壁際まで吹き飛ばされて背中から衝突する。

 一体何が起こったのか、目の前に居ながら完全に把握していない『彼』は驚愕と共にその光景を見るだけであり――『彼』を縛るアトラック=ナチャの魔力の糸は音も無く消え去った。

 

「なっ、一体どうしたんだ!?」

 

 そして『彼』はある異臭を嗅ぎ、眉を顰める。

 この血のように赤い少女が纏う鮮血の瘴気ではなく、それらがちりちりと焦げる錆鉄のような異臭であり、部屋の床に倒れ伏す赤い少女の肢体は無慈悲に現在進行形で焼かれ続けていた。

 

「……っ、此方の『術式介入(ハッキング)』に対す、る、『対抗術式(カウンタートラップ)』……!? そんな、私の、いえ、『お母様(オリジナル)』の知らない術式が記述されてるなんて――」

 

 赤い少女は予期せぬ理不尽に怨嗟の声をあげ、声にならぬ悲鳴をあげる。

 何故、何故、何故、そして少女はこの悪意が誰のものかを、瞬時に悟る。

 

「――『魔術師』……! 忌々しい、全てが、貴方の掌、という訳……!? あ、あああああぁ――!?」

 

 炎の呪縛が赤い少女を束縛し、際限無く苛み続ける。

 術式介入による一瞬の隙に逆術式介入されて叩き込まれた対抗術式は性質の悪い事に、彼女の良く知る魔術系統と未知の魔術系統の混合術式(ハイブリット)であり、解呪は愚か解析にすら時間が掛かるだろう。

 そしてその時間の出血は、更に彼女の状況を悪化させるのみだった。

 

「クロウ兄ちゃんっ!」

 

 途方も無いほど膨大な魔力を秘めた、別系統の魔法の使い手たる少女が駆けつけ、地に這い蹲る赤い少女に驚き、されども年不相応までの迅速な反応速度に十字架の杖の穂先を突きつけて複数の魔法陣を展開する。

 一つ一つが今の赤い少女を過剰殺傷するに足るふざけた魔力が篭められており、抵抗よりも傍観が先立つ圧倒的なまでに無慈悲な陣容だった。

 

「よせ、はやて!」

「っ!?」

 

 その射線上に『彼』は立ち塞がり、少女は起動しかけた魔法を咄嗟に止める。

 

「……クロウ兄ちゃん、それが『ネクロノミコン血液言語版』で、今襲ってきたんだよね?」

「っ、何処でそれを――『魔術師』からか……!」

 

 『彼』は少女から紡がれた言葉と隠しようのない敵意に歯軋りを鳴らす。

 その内輪揉めを、『彼女』はその身を焼かれながら傍観するしかない。

 『騎士殿』との死闘による度重なる存在の摩耗に、『魔術師』の悪意の術式に身を蝕まれ、身動きすら取れない有り様。まな板の鯉に等しい状況だった。

 

「此処はオレに任せて欲しい。コイツは――だから」

 

 その一部の言葉を聞き取れなかったが、殺意と敵意を向けていた少女は驚愕の表情を浮かべる。

 やがて納得の行かない、煮え切らない表情になるものの、油断無く赤い少女を睨みながら警戒心だけを露わにする。少女に不似合いな殺意は霧散していた。

 『彼』はそんな少女の様子に苦笑しながら、此方に歩み寄ってくる。地に倒れ伏す赤い少女はその様を憎たらしげに睨みつける事ぐらいしか出来なかった。

 

「……なぁに? 探偵さん。羽をもがれて、地に這い蹲る蛾に、お情けでも?」

「……いいや。お前を野放しにする事は出来ない」

 

 でしょうね、と赤い少女は苦しみ悶えながら相槌を打つ。

 此処が悪夢の終焉、自身の心臓に刃を突き刺す者が『騎士殿』ではなく、嘗ての『死霊秘法の主』で、尚且つ最後の舞台に辿り着けずに果てる。茶番も此処に極まりだった。

 少女に出来る事は怨嗟と憎悪の限り、最後の遺言という呪いを告げる事ぐらいであり――術衣形態を解いて片膝を突き、差し出された『彼』の『ネクロノミコン』を、彼女は不思議そうに眺めた。

 

「……え?」

「この魔導書をお前の糧にする代償に、オレと契約しやがれ。オレが死ぬまで付き合って貰うぜ」

 

 それは在り得ない提案だった。

 今、まさにその『ネクロノミコン』を奪おうとした悪意ある賊に強制力の無い契約として差し出すなど、もっての外である。

 それが『彼』と何の縁の無い書なら、まだ納得が入ったかもしれない。だが、その写本は――。

 

「クロウ兄ちゃん、駄目だよそれは……!」

「これはアル・アジフが遺したものだ。だからこそ、オレにコイツを見捨てるなんて選択肢は最初から無いんだ」

 

 一片も揺るぎなく、『彼』は『書』を差し出す。

 『彼』は、何一つ変わっていなかった。『お母様(オリジナル)』に綴られた物語通り、大十字九郎に『アル・アジフ』を届ける為に命を散らせた時のまま――。

 

(……何故? どうして?)

 

 ――だからこそ、赤い少女は解らない。

 何故、『彼』は差し出せるのか。己の生命より大切な『書』を、最終目標だった大十字九郎ではなく『彼女』自身に――。

 

「……度を超えたお人好しね。それとも安っぽい同情かしら?」

「……そんなんじゃねぇよ。オレもアイツと同じく、後味が悪いのが大嫌いなだけだ」

 

 その『彼』の自嘲にはどんな想いが籠められているのか。

 決して届かなかった大十字九郎への羨望か、それとも終生押し殺したアル・アジフへの思慕か――解らない、解らない。彼女には半分も『彼』の事を理解出来ない。

 

「本当に愚かで救い難いわぁ。オリジナルに限り無き近い『ネクロノミコン』を私の糧にして、世界に私の存在をこれ以上無く確立させて――それで裏切らないとでもぉ?」

「刺し違えてでもさせない。……こういう事は彼奴等の仕事だが、まぁ仕方ない。二人の代わりに矯正してやる。なぁ――」

 

 

 ――そっと。

 ――耳元で。

 ――呼んで。

 ――私の名前を。

 

 

「――『大十字九朔(だいじゅうじくざく)」

 

 

 『違えた血(アナザーブラッド)』たる『彼女』の、誰にも紡がれない名前を。

 大十字九郎とアル・アジフとの『半人半書』の『子』の名前を、『彼』は、クロウ・タイタスは告げる。

 

「あ……」

 

 涙で滲んだ緋色の瞳は、その名前を呼んでくれた人を映す。

 何よりも優しく、陽気で、強くて、愛しくて、暖かく紡がれたその言霊は、何よりも『彼女』が切望したものであり、何よりも『彼女』を世界に結び付けるものであった。

 

 

 

 

 ――それは一つの選択の果て。

 

 無限螺旋を打ち破った彼等の、人の身でありながら人を超えて神に至った最も新しき旧神の物語。誰にも消せない、いのちの歌。一つの神話。

 因果を超えて託された生命、それが大十字九郎とアル・アジフの子供、大十字九朔である。

 

 だが、それは彼であって赤い『彼女』ではない。

 

 『彼女』は邪神の策謀によって産み落とされた彼の『影』、同一存在ながら存在しない大十字九朔の『悪』の可能性、辿り着かなかった未来。

 無貌の邪神『這い寄る混沌(ナイアルラトホテップ)』が大十字九郎とアル・アジフの世界に再び降り立つ為の、その為だけに産み落とされた呪われし蛭子。

 

 ――されども、此処に邪神の脚本は根本から崩壊する。

 

 大十字九郎とアル・アジフと遭遇する前に、『彼女』は認知されてしまった。虚構が虚構のまま実在するに至ってしまった。

 彼等の物語を誰よりも知り、誰よりも愛し、誰よりも尊敬する者に、意図せずして邪神をシナリオをも覆す最悪の大根役者の手によって。

 

 これは一つの物語。『血の怪異』に至らなかった『違えた血』の物語。

 

 『魔術師』の呪縛をも跳ね除けて少女は契約の口付けを情熱的に貪るように蠱惑的に誘うように初々しく交わし――此処に『ネクロノミコン血液言語版』は主を得たのだった。

 

 ……完全な後日談だが、この予想外の結末に溜息吐きつつも、『魔術師』は『彼女』から存在構成要素の不足分を補っていた『邪神』の血肉を完全切除する事に尽力したとか――主に苦労したのはまた『矢』をスタンドに突き刺す事になった秋瀬直也であるが。

 

 

 

 

「はい、あーん」

「……な、なぁ、紅朔。一人で食えるんだが――」

「あらあら、こんな間接的じゃなくてもっと直接的、情熱的な口移しがお好みぃ? 朝から大胆なプレイをご所望なのね、ク・ロ・ウ」

 

 ……さて、何でこうなったのだろうか?

 

 所謂、今オレが爽やかな朝に遭遇している異常事態は、リア充の恋人達が良く行って周囲に嫉妬の炎を滾らせるというドキドキ・ワクワク・きゃははうふふのイベントである。

 それを行う相手はオレが新たに契約した魔導書、まぁ正確には『半人半書』の少女なんだが――ちなみに二闘流(トゥーハントゥーソード)の『騎士殿』との差別化を測って大十字『紅』朔となっている。

 

(訳が解らねぇ!? オレ、何か選択肢間違えたか!?)

 

 『教会』に住まう面々の冷たい視線が超絶痛く、胃がきりきりとする。

 コイツ、全部解っていてわざとやってやがるのか!? 主の胃にダイレクトアタックして仕える時間を減らすつもりか!?

 

「あわ、あわわわわ……!?」

 

 はやては顔を赤くして慌てているし、どう考えても健全な少女の道徳上余りにもよろしくありません! 一体全体どうしてこうなった!?

 

「っ、何やってんだよお前ら!?」

「いやいや、オレも一緒にするなよヴィータ!? オレ、完全な被害者だからな!?」

 

 これまた顔を赤くするヴィータに猛抗議され、オレは反射的に泣き事のように言い返す。孔明だ、孔明の罠に違いない!

 そんな動揺するオレの様子を面白可笑しく眺めた赤い少女、大十字紅朔は艶美で凄艶な笑みを浮かべる。

 その仕草は全く似通っていないのに、何処かアル・アジフを連想させて――何故だか自分自身でも解らないが、動悸が激しくなってしまう。一気に不安になる、心臓病の前触れだろうか?

 

「幼稚で初なお子様達ねぇ、私とクロウの熱くて淫らな大人の逢瀬を邪魔しないでくれるぅ?」

 

 いやいや、はやてとヴィータと同じようなロリっ娘のアンタが言っても説得力が――って、シスター、何で殺意(というか両瞳に血の魔法陣)を灯った瞳で紅朔を射抜いていらっしゃる!?

 今にも『竜王の殺息(ドラゴンブレス)』を発動しそうなぐらい激昂していらっしゃるが……!?

 

「っ、クロウちゃんから今すぐ離れろ、存在そのものが十八禁のエロ本娘っ!」

「なぁに? 嫉妬しているのかしら? 見苦しいわねぇ、自分の想いは一切明かさない癖に――」

「なななななにを……!?」

 

 紅朔はこれ見よがしにオレにくっついてシスターを煽り、収拾が完全につかなくなった場にオレは頭を抱える。

 アル・アジフよ、アンタの娘はアンタ以上のトラブルメイカーになっているよ。オレ程度でそのネジ曲がった性根を矯正出来るか、自信がねぇ。早くも心が折れそうだ……。

 

「くく、あーっはっははははは! クロウ、何ですかこの爛れたラブコメは! 私を笑い殺すつもりですか! はは、ひひっ、腹痛い、苦しい苦しい!」

「ああもう笑い死ねよお前っ!?」

 

 『代行者』は笑い叫びながら腹を抱えて、呼吸困難という具合なまでに盛り上がっていた。そのまま窒息死してくれたら世の為になるだろうと切実に願っておく。

 

 ――こうして、オレ達の新たな日常は赤い少女(インベーダー)によって極めて騒がしいものになっていったのだった。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。