ホルアドの町の宿屋にて。
基本的に二人で一部屋だというのに、人数の関係で一人部屋となった南雲ハジメは、ベッドに座り込んでいた。
そして、目を瞑って考えているのは、今日起きた様々なこと。
大迷宮に初めて挑戦し、快進撃でどんどんと進んでいき、最後にトラップにかかった。そして、皆を守ろうと時間稼ぎをした自分は——クラスメイトの裏切りで危うく死亡するところであったのだ。
その裏切り者、檜山大介を絶対に許せないかと聞かれれば、よくわからない、というのが正直な答えだろう。
檜山はかねてからハジメのことを目の敵にしており、これまでもあらゆる場面で邪魔をされてきた。いなくなって欲しいと考えたことは一度や二度の話ではない。
更には今回、遂に殺されかけてしまった。ハジメの立場から見れば、本当に厄介で忌々しい人物だと言えるであろう。それこそ——復讐を考えてもおかしくないくらいには。
(でも、結局五体満足で生き残ることができたんだよな〜)
奈落に落下していく途中で、命をかけて助けに来てくれた天之河光輝のことを回想する。神々しい純白の光を纏い、絶体絶命の状況から救い出してくれた。
そう、ハジメは助かったのだ。それも、何の後遺症も残らずに。
更には、罪が発覚した檜山は現在メルド団長達による尋問を受けていることだろう。
それを考えると、檜山への憎しみがそう大きくなることはなかった。とはいえ、自らを殺しかけたのだから、流石に擁護する気などは一切起きないようであるが。
とりあえずは、特に追求したりはしない。今後、檜山やその仲間達が懲りずに何かを仕掛けてきたら、それはその時考えよう。ハジメはそんな結論を出し、思考を終了させた。
そして、今度はベッドに寝転がり、就寝の態勢に入る。
かなり疲れがたまっており、眠気もやってきている。強靭でもない肉体を酷使し、魔力も限界まで使ったのだから、それも当然だろう。
明日の訓練に備えて眠ろうとしたところで、物音が聞こえ、ハジメの睡眠は妨げられた。
コンコン、とドアをノックする音が響く。聞こえた物音は、ハジメの部屋の前まで来た人の足音だったのだろう。
こんな時間に誰だろうか、と考えながら、ハジメはベッドから起き上がってドアを開けた。
「あれ、中村さん?」
ハジメを訪れてきたのは、ナチュラルボブの黒髪眼鏡っ娘、中村恵里であった。
ハジメは香織やメルド、光輝あたりかと予想していたので、少し驚いた表情になる。
「やぁ、南雲君。少し話したいことがあったんだけど、眠るところだったかな?」
ハジメを見るなり笑みを浮かべて挨拶した恵里は、奥にあるベッドが少し荒れていることに気がついたのか、少し申し訳なさそうな顔になった。
「いや、大丈夫だよ。とりあえず部屋の中に入って」
自分と接点があるわけではない恵里がわざわざ訪ねてきたことを少し訝しく思いつつも、ハジメは部屋に招き入れた。
そして、恵里を適当な椅子に座らせ、自分自身はベッドに腰掛ける。
「それで、話って何かな?」
何か恵里との間に出来事があったかハジメは思考を巡らせるが、特筆すべき何かを思い出すことはない。
いや、強いて言うならば、一つだけあった。檜山について、だ。
光輝が檜山を問い詰めている時、彼女も檜山がハジメに魔法を当てたと証言していた。ならば、その関係だろうか、そう思ったハジメの予測は打ち砕かれることとなる。
「一つ、提案をしにきたんだよ」
「提案?」
人差し指を立てて笑顔でそう言う恵里に、ハジメは首を傾げて聞き返した。
「そう、提案。南雲君、
そう妖しげに告げる彼女の表情は、ハジメが今まで一度も見たことのない、邪悪なものであった。或いは、檜山をも超えているかもしれない、瞳に輝く狂気。
いつもの大人しげな真面目少女の面影はそこにもない。
「契約って、どういうこと?」
自分の額を冷や汗が伝っているのを感じながら、ハジメは緊張気味に問いかけた。
いつもの精神状態であれば、『僕と契約しろ』って、魔法少女にでもするつもりか、などという思考が出てくるのであろうが、この突然の異常事態にそんな余裕はない。
「白崎香織、欲しくない?」
恵里はニヤニヤと笑いながら、そう告げたのだった。
「……どういう意味?」
物凄く怪しいからもう帰ってもらえないかな、ハジメはそう思いつつも、ここで会話を終わらせるべきではないのではないかと半ば本能的に直感し、恵里に問うた。
「ふふ、簡単なことだよ。僕の手足となって協力してくれるなら、いずれ彼女が手に入る」
そこで恵里は一度言葉を切り、口元をさらに大きく歪め、もう一度口を開く。
「どう? 南雲君、僕に従わない?」
——こんな怪しい誘いに乗るわけがないし、そもそも僕は白崎さんが欲しいわけじゃない! むしろ彼女に僕に構わないようにしてもらえるなら、協力したかもしれないくらいだよ!
ハジメはそう思った。
しかし、ここまで来たら、一応最後まで聞いておくべきだろうと、今すぐ『Get out!』と叫びたくなる衝動を抑え、ハジメは再度口を開く。
「……君の目的は何かな?」
「アハハッ、そうだね。欲しい人がいる、とだけ答えておこうか」
まずます濁った笑みを強める恵里。
そこまで聞いたところで、ハジメは状況を整理し、あることに気がついた。
(欲しい人がいるから、手に入れるために協力してほしい。そのかわり、白崎さんを僕のものにする手助けをしよう、ってことだよね? あれ? これって、もしかしてただの恋愛相談?)
彼女の言葉を要約すると、こういうことになる。
なんだ、怪しげな状況に騙された。何もおかしなことはないじゃないか。その気はないということを伝えて、普通にお帰り願おう。
ハジメはそう考え、伝えるために恵里の顔を見た。
妖しく嗤っていた。
——いや、やっぱりこれ、願いを叶えるかわりに魂を要求する悪魔とか、『汝の為したいように為すがよい』って唆して信仰させる邪神とか、そういう類だよね明らかに!
ハジメは戦慄した。
これはいけない。これ以上話していると、魂を盗られたり洗脳されたりするかもしれない。ハジメは恐怖しながら、どうにか穏便に帰ってもらえる方法はないかと思考する。
そして、それなら先ほどの勘違いを本気でそう思ったと演技すればいいのではないか、と思いついた。
ハジメは意を決して口を開く。
「あはは〜、僕は遠慮しておくよ。白崎さんを好きなわけじゃないし。恋愛相談なら、天之河くんとか坂上くんにしたほうがいいんじゃないかな」
内心ヒヤヒヤしながら、それを表に出さずに平静を装ってハジメは断る意を告げた。
すると、恵里は一度面食らった顔をしてから、すぐ後に怪しげな笑みを消し、いつもの穏やかな表情になった。
「そうだね……。ごめんね、南雲君。いきなりこんなことを言って。また明日」
「うん。また明日」
ドアを開いて、部屋から出て行く恵里。ハジメは苦笑を浮かべながら手を振って、見送った。
恵里の姿が完全に消えたことを確認すると、ハジメはほっと一息つき、ベッドにストンと上半身を落とす。
さて、どうするべきか。
ハジメには何が何だかよくわからなかったが、少なくとも恵里が危険人物であるということは理解した。いや、気のせいである可能性もあるのだが。
とはいえ、誰かに注意を呼びかけることもできない。
ハジメがどんなに恵里が危険だと訴えたとしても、無能なオタクと勇者パーティの真面目な少女では信頼の差があり、まともに信じてもらえるはずもない。
香織ならば聞くこと自体はするだろうが、彼女は恵里とそこそこ親しい関係を築いている。それに、優しさが人の形をしたような香織が友達を疑うことなど、あり得るはずもない。
そもそも、恵里が悪人だという証拠もないのだ。根拠はハジメがそう感じた、言ってみればただの勘なのである。
これでは、信じてもらった上で対策を取るなど、夢のまた夢だろう。八方塞がりか、と頭を抱えたハジメの脳裏に、ふとある人物が浮かび上がった。
命の恩人、天之河光輝だ。
彼はかなりの正義マンであり、心の底から性善説を信じているという、クラスメイトの誰よりもまともに取り合う可能性が低い人物。それどころか、光輝にそんなことを言えば、ハジメの方が説教されてしまうだろう。
しかし、この異世界トータスに来てからの光輝は、少し変化しているように見える。責任感が芽生え、人を疑うこともできるようになっているのではないか、とハジメは考えていた。
その最たる根拠は本日の一件。光輝が檜山を問い詰めたことだ。以前までの光輝であれば、例え檜山がハジメに魔法を当てる場面を見たとしても、過失だと考えて追及することはしなかったはずだ。
今の光輝が相手ならば、もしかするとまともに話を聞いてくれるかもしれない。
ハジメはそんな期待をし、善は急げと光輝の部屋へと歩き始めた。
◆◆◆◆
「なるほど、それで俺の所に来たのか」
俺は突然訪れてきた南雲と、南雲の部屋で話し合っていた。
場所を選んだ理由は大したものではない。単純に、俺の部屋では龍太郎を起こしてしまうかもしれず、共用のスペースだと恵里が聞いてしまう恐れがあるとのこと。
しかし、恵里は南雲にその話を持ちかけたのか。以前は檜山にだったはずだが、今回はアイツが半分脱落したので変更した、というところだろうか。
「それで、その話は断ったんだよな?」
あの南雲に限って、そういった類の提案を承諾するなどあり得ないだろうが、一応念には念を入れて聞いておく。
「うん、僕にメリットが全くなかったしね」
南雲は苦笑いをしながら肯定する。
たしかに、わざわざ協力されずとも、香織の心は既に南雲一直線なのだ。助力など一切必要ないどころか、場合によっては邪魔にすらなるだろう。
「そうか、わかった。恵里には警戒しておこう。どこかで一度、話をしたほうがいいか」
まぁ、元々そのつもりだったのだが。
俺がそう言うと、南雲は拍子抜けしたような少し間抜けな顔を見せた。
俺があっさりと南雲の言葉を信じたのが意外だったのだろう。かつての俺であれば『何を言っているんだ、南雲。恵里が悪人のはずがないじゃないか。ふざけるのも大概にしろ!』くらいは言っていただろうな。
いや、恐らく事前知識がなければ、たとえ今の俺であっても似たような反応になっていたに違いない。
これは簡単に話が通り過ぎて、逆に怪しまれるかもしれないな。何か納得できる理由をつける必要があるか。
「恵里は南雲に命中した火球が檜山のものだと言っていただろう? だけど、あれは最初から檜山を警戒して注視していた俺だからこそ、目撃することができたんだ。もちろん恵里も檜山を警戒していた可能性もあるけど、そんなことをする理由が思いつかないからな」
その時、少し怪しいなと感じたんだ、と俺は続けた。
俺の説明を南雲は頷きながら聞き、そこまでいったところで口を開く。
「つまり、あそこで中村さんが檜山を責めたのは……」
「ああ、何か目的があった可能性がある。そして、その次の段階として、南雲に近づいた。とはいえ完全に憶測だから、普通に無実かもしれないけど」
こんなところだろうか。本当に恵里が作戦の一つとしてああいった行動をとったのかは分からないが、俺が恵里を不審に思った理由としては充分なはずだ。
……いや、やっぱり足りないかもしれない。
不味いな、完全にミスだ。中途半端な理由は疑われる根拠になり得る。どうする? ここで更に踏み込まれてしまったら、他になんて答えればいいんだ?
何も思いつかない……。もしそうなったら素直に本当のことを話すしかないだろうか……。
とはいえ、ラッキーなことに、南雲はそれで納得してくれたようだ。もしかすれば、眠気であまり頭が働いていないのかもしれない。
或いは、アドレナリン大放出の緊張状態で、そこまで頭が回らないのだろうか。
何にせよ、好都合だ。
あまり疑問を持たれないうちに、さっさと退散するとしよう。
「他に用がないなら、俺はもう帰るけど……」
頼む、素直に帰してくれ。問い詰められたら、未来のことを話すしかなくなるかもしれない……。
「あ、ごめん、もう一つだけ聞きたいことがあるんだけど、大丈夫かな?」
やめてくれぇ!
いや、断るわけにはいかないけどな! そんなことしたら余計怪しいし!
「大丈夫だけど、他にも何かあったのか?」
顔が引きつったりしていないか、ビクビクしながら問いかける。
「いや、これは単純な質問なんだけど。奈落から崖に上る途中でベヒモスに襲われた時、天之河くんは〝神威〟一撃で倒してたよね? あの力があれば、最初から普通に戦っても勝てたんじゃ……?」
……あ。
…………。
…………。
…………ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!