永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

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当時の古典

永原先生の話していた言葉は、いわゆる室町時代にあたる後期中世日本語と呼ばれる言語になります。

江戸時代の永原先生は近世日本語を話し、幕末以降は現代日本語を話していますが、時折古語の名残が出てきます。

いわゆる学校で習う古典は、平安時代の中古日本語が中心で、その当時の言語に比べると、遥かに現代語に近い言語となっております。

大まかには、奈良時代までを上代日本語(飛鳥時代、古墳時代以前を古代日本語とも)、平安時代を中古日本語(前後期あり)、平安末期、鎌倉時代~室町・安土桃山時代までを中世日本語(院政期及び鎌倉時代を前期中世日本語、室町以降を後期中世日本語)、江戸時代を近世日本語(前後期で前期近世日本語、後期近世日本語に別れる、後期近世日本語とされる江戸後期は外来語や新しい明治以降の造語を除けば、現在と話し言葉がほぼ同一で、現代日本語に含める場合もある)、幕末または明治以降を現代日本語に分けます。

永原先生が生まれた当時に話されていた言語については諸説あり、この物語では、以下の説を採用しています。

 

・え、おの発音が、それぞれや行混じりの「いぇ」、わ行混じりの「を」だった。これは「~へ」や「~を」も同様。なお、うぉの発音は江戸時代初期に「お」に、「え」の発音も江戸後期には現在のものになった。

・は行音は語頭のみ「ふぁ、ふぃ、ふ、ふぇ、ふぉ」でそれ以外は「はひふへほ」、そのため、江戸時代より前の永原先生は、「花」を「ふぁな」、「人」を「ふぃと」と発音していた。また、語中のは行音は大半が「わ行」の発音に合流しています。

・・本編中の永原先生の話にあったように、元々は「ぱぴぷぺぽ」が「は行」だった。奈良時代、もしくは平安時代初期に「ふぁ」行になり、室町時代までに語頭のみ「ふぁ」行となって他は「わ行」に合流、江戸時代に現在と同じ「はひふへほ」の発音になった。「ぱぴぷぺぽ」がつく和語や語頭以外に「は行」がつく和語がほぼ皆無なのはこのため。

・せの発音が「しぇ」、なので「切腹」は「しぇっぷく」、「ぜ」も「じぇ」と発音していた。ただし関東方言では永原先生が生まれる以前より「せ」「ぜ」で、関東方言が共通語となった。江戸後期には近畿地方でも「せ」となり、「しぇ」は西日本九州に方言として残る。「支倉六右衛門常長(はせくらろくえもんつねなが)」は、「ふぁしぇくらろくいぇもんつねなが」となる。

・・さ行の発音には謎が多い、主に「つぁ行」説、「ちゃ行」説、「しゃ行」説の3説あり、また現在日本人が苦手とする「ts」「th」系の発音だったという説もある。また、いつ頃に「さしすしぇそ」となったかもはっきり分かっていない(遅くとも鎌倉時代にはこう発音されていた)

・あ行とや行の「えの区別」及びあ行とわ行の「ゐ」、「ゑ」の発音の区別はなし。「ゑ」もまた「いぇ」と発音されていた。「ゐ」は現在と同様「い」と発音、これらの発音も、古くは「うぃ」「うぇ」で、平安後期から鎌倉時代にかけてあ行に合流した。あ行とや行の「え」の区別は平安時代前期に消滅し、や行の「いぇ」に統一され、江戸時代後期に「え」となった。ちなみに、「え」の発音が現在のものになったのを最後に、ひらがなの五十音の発音が現代語と同じとなった。永原先生が時折出してしまう古語訛りの中でも、「え」の発音が頻出なのはこのため。

・か行、た行、な行、ま行、ら行、またぜを除く濁点の音は現在とほぼ同一。

・・ただし、た行に関しては、永原先生が産まれる少し前までは「た、てぃ、とぅ、て、と」で、「じ」と「ぢ」、「す」と「づ」の発音の区別が明確であった。永原先生が生まれた戦国時代には、すでにた行の音が現在のものに変化し、この両者の区別は曖昧になっていた。

・・江戸時代には、完全にこれらが一致した。なお九州を中心に一部地方ではこれらの区別が残っている他、東北地方を中心に、「じ」「ぢ」「ず」「づ」全てが統合してしまった地域もあり、これが「ズーズー弁」の起源。

・なお、現在の日本語は外来語の流入で江戸時代と比べると発音が複雑化しており、単純化する言語変化においてやや異質である。また、「を」の発音も、「うぉ」への先祖帰りが起こりつつある。

・係り結びは完全に消滅し、また平安時代には通じなかった言葉も多く通じるようになっている(火事、大切、返事、返上など)、いわゆる武士の影響が強い

・終止形と連体形の統合に伴い、ら行、な行の変格活用は、それぞれ四段活用に既にほぼ合流(江戸時代後期に合流との説もある)

・命令形の語尾の「ろ」は、江戸時代以降標準的になった。それまでは関東方言

・下一段、上一段活用が、上二段、下二段とほぼ同数で、両方に活用できる動詞も多い。上代には下一段活用はなく(蹴るは下二段活用だった)、平安時代には十数語に上一段活用で、下一段は蹴るのみ。平安末期より上二段、下二段活用が上一段、下一段活用になり始め、永原先生の時代はほぼ同数(一段化の進捗具合は諸説あり)、江戸時代には一段化がより一層進み、また蹴るが四段活用化。遅くとも幕末までには「得る(うる)」の一語が現在も下二段活用に残ったのを除き一段化が完了した。

・・余談ではあるが、未来の日本語は一段活用が五段活用に合流すると考えている人もいる。また、サ行変格活用の五段化が現在進行中との研究もあり、最終的には全ての動詞が五段活用に一本化するという予想を立てている人もいる。本編エピローグは25世紀に時間が飛んでいるが、その当時の日本語は、もしかしたらそうなっているかもしれない。

・「~です」の表現は江戸時代以降に、ややぞんざいな表現として登場、明治以降に丁寧語化した。なお、永原先生は当時の話し言葉として「~でござる」を多用していた。江戸城住みなので、べらんめえ口調の下町言葉ではなく、当時の武士や大奥が使用していた「山の手言葉」を使っていた。

・「候」は書き言葉として多用されていたが、話し言葉としては既に廃れていた。

・永原先生の一人称は、幕末まで「俺」、明治以降に「私」に矯正した。「俺」の一人称は鎌倉時代に二人称だった「おのれ」が一人称化すると共に詰まって登場した。戦国時代や室町、鎌倉時代は戦国時代以前から戦乱や私闘が多く、人心が乱れており、平安時代に京で発達した女性語が京でも廃れ、全国的に女性も乱暴な男言葉を使っていた。平和な江戸時代になると男女のみならず様々な身分や職業の人々の役割言葉が発達し、日本語が非常に豊かになった。そんな中で、室町・江戸時代には「俺」の一人称は士農工商老若男女を問わず将軍から町人の子供まで幅広く用いられた。八百屋のお七も一人称は「俺」だった。なお、かしこまった場では、武士は「それがし」「拙者」が使われていた。また、戦国時代より「私」の一人称が使われていた。

・・明治以降に、「俺」よりも影の薄かった「私」が大々的に登場、また「僕」は「下僕」の略語で幕末の武士の一部が一人称として使用したのが一般化したもの。俺は鎌倉時代でも通じるが、僕は明治以降にしか通じない言葉になる。

・・ちなみに、上代には「あ」「わ」が一人称で、現在も津軽地方に方言として残っている。その後は「我」「まろ」を始め様々な一人称が登場した。


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