永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

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美少女の休日 博物館編

「へえ、永原先生の美術品の企画展示ですかあ! いやー私もその番組見てたんですけど、もうすごいの何のって……彼のあそこ以外で興奮したのって久しぶりです!」

 龍香ちゃんは興奮気味にそんなことを言う。

 何かもう、龍香ちゃんのブレなさもいつも通り過ぎちゃうわね。

 

「いやー、優子さんの論破劇の噂もスカッとしましたけど、やっぱり先生のお宝の高額鑑定のバーゲンセールはもっとすごかったですよ!」

 

「へー、龍香もあの噂を聞いてたのね」

 

 やっぱり、大学中の噂というのは本当だった。

 龍香ちゃんは学部から違うので、あまり会う機会はないのに。

 

「いやー、目の前で見た桂子さんは羨ましいですよ。私も何の気なしにあの講義を受けてみて、何となく違和感を感じてたんですが、ええそうですよね。男の好みに合わせるのが差別主義への迎合なんて、そんなわけないじゃないですか!」

 

 龍香ちゃんが笑い飛ばすように言う。やはり龍香ちゃんも、あたしや桂子ちゃんと同じ気持ちだった。

 あたしたちは男の子に好かれるようにすることに、何の抵抗感もない。

 

「それで思ったんですけど、結局あの女って、あの味を知らないんだと思うんですよ! あんなすっごく美味しくて気持ちいい味を知っちゃったら、男の虜になるに決まってるじゃないですか!」

 

「ちょ、ちょっと龍香ちゃん!」

 

 あたしも全く同感だけど、いくら女の子しかいないガールズトークだからってはしたなすぎるわ。

 

「あはは、ごめんなさい。それでえーっと、美術館に行くんでしたっけ?」

 

「ええ、久しぶりに3人で行こうと思って」

 

「おーいいですね! 女の子3人でですか!」

 

 お互い彼氏持ちなので、トリプルデートの提案もあったけど、さすがにそれぞれの彼氏・旦那の予定もあるので、あたしたち3人で行くことになった。

 

「にしても、この3人で出掛けるのも久しぶりですね-!」

 

「そうねえ、出掛けるのは……もしかしたら2年ぶりかも」

 

「あー、そうかもしれないですね。いやー懐かしいですねえ-! ゲーセンに食事に映画! あの時の優子さんは、今の優子さんはよりも遥かに男性に近かったですね」

 

「ええ、そうね」

 

 何分、あの時はまだ女の子として復学したばかりの頃の話だもの。

 今の幸子さんはもちろん、歩美さんだってあの頃のあたしよりは女の子していると思うわ。

 

 ともあれ、あたしたちはこんな会話をして、後日美術館の最寄り駅に集合した。

 

 

「ほうほう、永原先生はこんなコレクションを持っていたんですねえ!」

 

 結局、美術展は、「日本性転換症候群協会協賛 会員たちの秘宝展」という、何だかよく分からないいかにもスポンサーの意向でねじ曲げられた感じの名前になっていた。

 

「『美術館への寄贈は行われておらず、あくまでも『個人蔵』のものを展示するので、期間限定です』かあ……」

 

 あたしが、美術館前のポスターを見る。

 このポスターはインターネット上を含めて、あらゆる場所で見る。

 やはりお客さんを集めるのにはどこも必死みたいね。

 

「でも、注目度は高いみたいですよ!」

 

 インターネット上でも、この企画展示は極めて評価が高い。

 鑑定番組に出てこなかった品も、貴重なものばかりだったからだ。

 しかしそれでも人気なのは──

 

「吉良の着物とか、幕末期の着物とか、先生の書いた日記とか、楽しみですよね!」

 

「ええ。でも吉良の着物は、私たち一回見たことがあったわね」

 

 桂子ちゃんの指摘に、龍香ちゃんがハッとなる。

 

「そう言えばそうでした! 先生が吉良上野介に貰った着物! 今思えば何千万って価値の着物で夏祭りに参加していたんですよね!」

 

 あたしたちは、そんな会話をしながら、入館料を払いつつ企画展示室の中に入る。

 ちなみに、この美術館は全ての展示を見られる料金と、企画展示だけを見る料金に別れていて、あたしたちは企画展示料金を払って中に入る。

 

「おー、以外と広々としていますね!」

 

「でも結構人がいるわね」

 

 あくまでも協会名義の展示会とはいえ、所持者の名前は書いてあって、「永原マキノさん蔵」と書かれている。同じ名前ばかりずらりと並ぶわけで、少し不気味ではあるわね。

 最初の展示品は、永原先生が戦国時代から使っていたと言う食器で、鑑定価格は1000円だったけど、当時の世俗を知ると言うことや、永原先生が本当に戦国時代から生きていることを示す意味で、展示されている。

 

「箸と食器……今と殆ど変わらないですね」

 

「ええ」

 

 鑑定番組で見たのと同じもので、展示品の解説には、「この食器は戦国時代の足軽、鳩原刀根之助が両親より受け継ぎ、使用していた食器である。彼は20歳の時にTS病を患い、名前を数度変え、以降現代に至るまで女性として過ごしてきた」とある。

 

 その隣には、「柳ヶ瀬まつ一代記」の、第一部分が展示されている。

 ここは永原先生自身が書いた部分で、漢字は崩し字になっていてよく読めないけど、展示部分の文字と現代語訳が載っている。

 

「確かにこの文章、現代語訳がなくても読めますねえ。学校の古典は全然違ったのに」

 

 永原先生は鑑定番組内でも、室町や江戸の言葉は、古典で習う平安時代の日本語に比べて、極めて現代語に近いと言っていた。

 ここは第一巻の部分で、永原先生がTS病になった日のことをかいてある。

 現代語訳もあるけど、原文の文字を楷書にしてくれた文章だけでも、「お腹痛いと思いつつも大したことがないと思って畑仕事をしていたら、急に極めて強い腹痛で倒れ、村の仲間に運ばれて、耳だけは聞こえ、夜になって気付いたら、女の身となっていた」ことが書いてあることは分かる。

 更にその続きには、本能寺の変までの村での生活や本能寺の変後の諸国流浪の経歴、更に天正壬午の乱や関が原の戦いといった戦見物の話やその後の落ち武者刈りでの金品稼ぎや更に江戸在住を目指した貯蓄の話も載っていて、あたしたちにも知らない情報が多く載っている。

 

 

 そして、次に展示されていたのは、徳川吉宗から永原先生に送られた茶器だった。

 他にも、幾人かの大名や旗本からの寄贈品が展示されていて、その中には名門と呼ばれる家のものも多く、幕末期に島津斉彬から送られた1品もあった。

 

「優子さん優子さん! これ薩摩切子ですよ! 何百万って価値がありますって!」

 

 龍香ちゃんが目を輝かせている。

 これは例の鑑定番組には出てこなかった。博物館には、「永原さんによれば、『これらの品々は、代表して徳川吉宗のものを出した』とのことだった」とかかれている。

 もちろん、諸大名のこれらもとんでもない価値のあるものばかりだ。やはり何だかんだで戦国時代から生きている不老の女性は敬意を払われるものなのね。

 

「それにしても、こんな量はどうやって持ち歩いたんでしょう?」

 

「そう言えば不思議ねえ……」

 

 言われてみれば、それは確かにその通りだった。

 

「あたし、ちょっとメールで聞いてみるわ」

 

 あたしは、永原先生にメールを送る。

 明治時代にも、永原先生は諸国流浪を経験しているけど、こんな膨大な量の宝物を持ち歩くのは不可能に近いはずよね。

 

「さ、次に行きましょう」

 

 あたしたちは、次のコーナーに移る。

 

 そこは、浮世絵のコーナーで、鑑定番組で鑑定されていたものが主に展示されていて、どうやら浮世絵については、美術館の意向からなのか、ほぼ全てが鑑定品だった。

 

「すごいですよ! これが東海道五十三次、でこっちは鈴木春信の名画! って、東海道五十三次はともかく、鈴木春信って誰ですか?」

 

「何でも、今有名な浮世絵の原型になった人みたいよ」

 

「あー本当だ。そう言えば、鑑定番組でもやってましたね!」

 

 桂子ちゃんと龍香ちゃんが盛り上がっている。

 どれも保存状態がよくて、その辺りが価値を高めているらしいわね。

 

  ブーブーブー!

 

「あ、ごめん」

 

「先生から?」

 

 あたしは画面を確認する。

 やっぱり永原先生からだった。

 

「うんそうみたい、何々? 『あの時代は厳重な鍵も鉄道も道路もない時代なので、旅に出る人向けに、質屋さんが倉庫代わりのサービスとして、ものの値段を受け取らずに預かり代として安い金利で預けてくれるお店がたくさんあった』だって」

 

「へえ、そうですか。あーでも、民衆が歩いてお伊勢参りするご時世ですからねえ」

 

 龍香ちゃんは納得した表情で話す。

 また、永原先生によれば、あの時代は戦国時代ほどではないものの、治安面の不安もあったことや、長年江戸城にいて体がなまったことへの不安もあったので、真田の故郷を訪れた時以外は、ほぼ東海道沿いを放浪していたらしい。

 実際、永原先生は最初の鉄道を鶴見で見ているものね。

 

「うーん、ともあれ、保管してくれる場所があったと言うわけね」

 

 近くで見ると、想像以上に迫力があるわ。

 永原先生の持っていた保存状態のいい浮世絵の数々の中で、最後に展示されていたのが、あの歌川広重に直接手渡されたと言う肉筆画だった。

 

「うわー、これ本当にすごいわね」

 

 浮世絵たちの中でも、特段に大きなサイズで作られていて、番組で見た時より威圧感があるわ。

 これだけ大きいのに、その精巧さには目を見張るものがあるわね。

 

「ええ、それにしても、どれも複雑な構図の作品が多いですよね」

 

「うん、教科書で見た浮世絵と少し趣が違うって言うのかしら?」

 

 龍香ちゃんの指摘に、あたしも答える。

 博物館の解説には、「浮世絵は名作の殆どが海外に流出したという風聞があるが、実は海外に流出したのは国内の評価もあまり高くなく、単純な構図の絵が多かった。また、海外流出分の何倍か以上の作品が国内に残留しており、浮世絵そのものが大衆娯楽だったため、思わぬところから出てくることがある」と書いてある。

 

「へえ、浮世絵って色々な所に転がっているんですね」

 

 それでも、ここまで保存状態がいい作品がたくさん出てくるのは、極めて異例だと思うけどね。じゃなかったらこうやって展示会もないと思うし。

 

「お、次は書物のコーナーですよ!」

 

 そこには、永原先生が愛用していた小説本などが所狭しと並べてあって、最後の方には「柳ヶ瀬まつ一代記」があって、徳川綱吉側用人の「柳沢吉保」が書いた部分が公開されていた。

 そこによれば、「それがしの元にも、上野介殿を通じて上様より伝達があり、『今後柳ヶ瀬殿に無礼の無いように』とのお達しがあった。上様のたまわく、『いかに半農の足軽出身のものと言えど、亡き兄上により士分に取り立てられ江戸城で暮らしに不自由無いようにするよう諸臣に命じられた上、東照大権現様の更にその父君以前に生を受け、百八十年もの時を生きる柳ヶ瀬殿ともなれば、我々が敬意を払うのは当然である』とのことで、それがしも全くその通りだと思う。以来、上野介殿に対する柳ヶ瀬殿の敬愛は凄まじく、深く恩義を感じ入っている様子が見受けられた。それ故に、赤穂浪人の討ち入りは、柳ヶ瀬殿を深く傷つけ、討ち入りのほうが江戸城にもたらされた暁には、数刻にも渡り柳ヶ瀬殿の嘆き悲しむ声が江戸城中に響き渡っていた」と書かれている。

 また、他にも「世論が浅野側に傾く様子を見るに、柳ヶ瀬殿の心痛察するに余りある」とも書かれていた。

 多少の誇張はあるとは思うけど、今の永原先生の言動を考えれば、大きく嘆き悲しんだのは事実だと思う。

 

「苦労してきたんですね」

 

 永原先生にしてみれば、吉良上野介は文字通り恩人として、絶大な尊敬をしていた人物だった。その彼が、ずっとずっと言われもない汚名を着せられ続けている。

 最近になって、吉良上野介を擁護する意見が急速に台頭してきたとは言え、いまだに少数派だ。今回の鑑定番組の騒動で、少しは盛り上がってくれればいいけど。

 

 

「うわー、何ここ!?」

 

「辺り一面、書物が展示されていますよ!」

 

 一代記を見終わると、次の部屋に行く。

 そこで見たのは、永原先生の日記だった。

 

 もちろん、これで全てではないけど、それでも凄まじい量にあたしたちは圧倒されてしまう。

 日記の始めは、4代将軍徳川家綱への賛辞で始まっている。

 初恋話は書かれてはいないけど、真田伊豆守殿に罪を許され、徳川家綱が家老の叱責を止め、泣くように言われたことが書かれていた。

 他にも、明暦の大火についての記録もあり、永原先生によれば、たまたま日記をつけていた時に避難指示が出たため、日記を持ちながら避難することが出来たという。

 最も、結果的には将軍家綱に真っ先に逃がされたものの、永原先生が住んでいた部屋は燃えずに済んだので、永原先生には特に物的被害はなかったとか。

 

 博物館の展示解説によれば、「永原さんの日記には、火災や喧嘩、車による事故の記録が多く、当時の江戸ではこれらが頻発していたのが分かる」と書かれていた。

 まあ、例のごとく原文はくずし字でよく読めないけどね。

 

 

「ねえねえ、これって本当なのかしら?」

 

「何だかとんでもなくおおらかな時代よね」

 

 2人組の中年女性が、眉を潜めながら話している。

 その日記には、「当時の倫理観」という表題で2つのことが紹介されていた。

 1つ目は「寛政元年六月二日、この日銭湯に入り3人の男から胸と尻を撫でられた。そのお陰で私はますます女としての自信がつき、体がよく暖まった」と書いてある。

 

「あー、修学旅行の時に言ってたっけ?」

 

「あーうん、そうだったわね」

 

 修学旅行の時に、永原先生はあたしたちに江戸時代の銭湯での痴漢は日常茶飯事だったことや、痴漢されに行く女性も後を絶たず永原先生もその一人だったことを話してくれていた。

 でも、次はもっとすさまじい内容だった。

 それは、「文政七年七月四日、以前より江戸一番の美人だと吹聴する女がいた。私は常日頃から銭湯や祭りなどで他の女より触られてきた自負があったので、自分こそが江戸一番の美人だと確信していた。そこで今度隅田川で行われる縁日の祭りで、どちらがより多く胸や尻をつねられたり撫でられたりするかで競いあった。立会人の申告では、私は胸に二十四回、尻に五十九回で私の感覚も同様だった。私は積極的に人混みに入っていったのに、あの女は胸に三十八回、尻に七十三回も触られていた。私は女として負けたことに悔しくて悔しくてたまらず、その場で声を張り上げて泣いてしまい、勝った女からは指で刺され散々に笑われ晒し者にされ、私の三百年余の人生の中でこれほどみじめな思いをしたことはない」という内容だった。

 

「もはや何をかいわんやですよ! さすがの私もこれは引きます!」

 

 すっかりエロ女の代名詞になってしまっている龍香ちゃんがそう熱弁する。

 

「あはは、龍香も納得のモラルハザードよね……」

 

 まず痴漢され、覗かれるために銭湯に行くという時点でも十分に変態だけど、女としての魅力を決める際にも、夏祭りでどちらがより多く痴漢されたかで競い合うというのもすさまじい話だわ。

 

「何より何なのよこの回数……」

 

 あたしは、半ば呆れ気味に言う。

 というよりも、それを数えた立会人もすごいわよね。たぶん立会人も何度も痴漢されたとは思うけど。

 

「驚きだわ。よく数えたわよね」

 

 ともあれ、江戸時代の「価痴観」は今とは全く違っていたわけね。

 

 次に見えるのは幕末期の日記だった。開国と共に泰平の世が崩れていくことに対し、ペリーや欧米諸国に対する悪辣な罵倒がこれでもかと書き込まれている。

 博物館の解説によれば、「様々な部分で、制度の改革は必要ではあったが、それらの外圧さえなければ、誰も幕府を打ち倒すなどとは考えず、この平穏足る世が永遠と続くはずであった。戦乱の世のような時代は、懐かしくもあり、また心踊るところもあるが、起きないことに越したことはない。戦乱への欲望は人が人足る以上存在し続ける。それは私が生まれる前の日の本に限らず、南蛮、唐、朝鮮、天竺の歴史が証明している。だからこそ、二百有余年に渡る平穏を実現した徳川は奇跡であり、徳川の前に平穏なく、徳川の後に平穏なく、徳川の他に平穏はない。私は、ペルリを含め、それを崩した人と国を全て永遠に恨み続けるだろう。浅野長矩のように」と書かれているという。

 

「恐ろしいわね……」

 

 恐らく、永原先生のキリスト教嫌いも、こうしたことが影響しているのだと思う。

 戦乱の世を知る永原先生にとって、徳川幕府を倒すことは最大のタブーだった。

 

 そして最後のページが展示されている。

 そこには、「慶応4年4月10日、ついに江戸開城が決まった。大政奉還と王政復古の大号令の時より覚悟しておいたが、私がここにいられるのも、今日が最後になる。明日にはここを出ていかねばならない。思えば永正十五年に生を受け三百五十年の人生の内、二百十年余をここで過ごした。明日を迎えるというのが、これほどに不安に思うことはない。私のこの日記も、ついに役目を終えるだろう。生きている限り、真田と吉良への御恩を、返せると信じて」と書いてあった。

 

「何だか、切ないわね」

 

「ええ」

 

 そして、明治以降の展示品は、鉄道の展示になる。

 まさにここだけ、鉄道博物館のようだった。

 古い切符、模型、鑑定番組で出てこなかった鉄道品も数多く出て来る。

 

 永原先生が逃亡を止め、人知れず生きるのを止め、社会の一員になろうと決心したのが鉄道だった。

 そしてその部屋の片隅に、申し訳程度に比良さんが所持していた日本刀も展示されていて、これでこの企画展示は終わっていた。

 

「ふー、これで終わりですか」

 

「結構ボリュームあったわね」

 

「うん」

 

 あたしたち三人娘は、この後特に予定もないので、食事屋さんだけ見つけて、昼食を食べて帰宅した。

 

 浩介くんも、後日改めて、この企画展示を見た。

 その時はやはり「江戸時代の銭湯とか祭りってやばいとこだったんだな」という感想を持っていた。

 うん、だってあの龍香ちゃんが引くくらいだものね。


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