永遠の美少女になって永遠の闘病生活に入った件   作:名無し野ハゲ豚

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修学旅行2日目 古き古都の新しき名所

「それで、どこに行きますか?」

 

 明くる朝、再びコンビニから調達した朝食を食べ終わったあたしたちはホテルの中にあった観光パンフレットとにらめっこしていた。

 恵美ちゃんはラフな短パンにTシャツ、龍香ちゃんは落ち着いた感じのグレーの膝丈スカート、あたしはというと、夏のことも考えて水色のミニのワンピースにした。

 三者三様の個性が出ていると思う。ちなみに、今日はぬいぐるみさんは持っていかない。

 

 何とか寺とか老舗とか、色々な所があるけど、中々決まらないで時間が過ぎていく。ああでもないこうでもないと議論をしても、結論は出ない。

 この周辺の老舗、永原先生が生まれるよりも前から存在する企業もたくさんあったのもそうだけど、一番多いのは江戸時代の創業で、これらはみんな永原先生より年下ということになる。

 

 永原先生は以前「私はあらゆるアメリカ人より年上だ」と言っていたけど、それもそのはずでアメリカを建国した初代大統領ジョージ・ワシントンが生まれたのは永原先生の生まれた更に200年以上も後の話だから当然のことだ。

 それと同時に、この街はワシントン建国以前からの店が多く立ち並んでいる。

 

「なあ、ここじゃ古いものなんて見慣れてるし、いっそ新しいもんでも探したらどうだ?」

 

「お、恵美さんいいこと言いますね」

 

「うん、あたしも賛成」

 

 恵美ちゃんがいいことを言うので、あたしたちも賛成する。

 そう、この街で古いものを散策しても迷うに決まっている。

 

「とは言っても、京都で新しいものってなんだろ?」

 

「うーん、確かに思いつきませんね」

 

 とはいえ、京都という都市はある意味で古さを売りにしているところもある。

 そんな京都で、「新しい観光地」を見つけるのは至難の業だ。

 

「ねえ、永原先生に相談してみるのはどうかな?」

 

 このままだとまたドツボにはまりそうなので、あたしが第三者の介入を提案する。

 永原先生なら修学旅行で引率の先生として以前にも京都に来たことがあるはず。

 

「そうですね、じゃあ早速永原先生の部屋に行きましょう」

 

「あたいも賛成だぜ」

 

 女子3人の相談はすぐに終わってしまう。

 永原先生は非常口から一番遠い一人部屋に居るので、そこに移動する。

 

  コンコン

 

「はーい!」

 

 中から永原先生の声が聞こえてくる。

 

  ガチャッ

 

「あら、石山さん、田村さん、河瀬さん。どうしたの? 今日明日は自由時間よ」

 

「その……京都は古いもので溢れているから、あえて新しい観光地に行ってみたいと思いまして」

 

 あたしたちは永原先生に地図を示す。

 

「……それなら、ここなんかどうかしら?」

 

 永原先生が、京都駅の少し西側を指差す。

 見た感じ、線路の側って感じだけど?

 

「永原先生、そこには何が?」

 

「ふふっ、2年前に出来たばかりの新しい博物館よ。最近リニューアルされたんだ」

 

 永原先生がそう言う。それにしても線路に近い博物館よね。

 多分鉄道の博物館だと思うんだけど。

 

「へー、そりゃ面白そうだな」

 

「実は私もそこに行こうと思っていてね。よかったら一緒に行く?」

 

 永原先生がそう提案してくる。

 入館料金を聞いた所「1000円」だという。

 この修学旅行、実は食費が結構大きな負担になったりもする。

 観光地価格で、どこも高いのだ。

 ここの食事がどれほどかは分からないけど、ともあれ、行って見る価値はありそうね。

 

「ふふっ、じゃあ早速行ってみる?」

 

「「「はい!」」」

 

 というわけで、永原先生の引率で、京都駅西側の博物館に行くことになった。

 ところで、今日の永原先生の服装はというと、自由時間らしく、昨日のレディーススーツ姿とは打って変わって上下とも黒で決めたロングスカートで、白いYシャツと胸と頭の左上側に付けた赤いリボンがかわいらしくちょこんと自己主張している。

 でも、永原先生の場合、髪も黒いからなんというか、かわいいんだけど「闇の人」という感じだわ。

 レディーススーツも、確かに黒いんだけど、今日はいつも付けない赤いリボンがなまじあるために、余計にそんな印象を受ける。

 

 

 4人組になってまず地下鉄の駅へ行く、そしてそこから京都駅を目指して乗車することになっている。

 

「鉄道博物館、私も京都の方に行くのは初めてよ」

 

「へー、そうなんですねえ。私もですよ」

 

 京都駅まではICカードが互換で使える。便利になったものね。

 それにしても、女の子4人組で鉄道博物館というのも、なかなかシュールな光景よね。

 永原先生と鉄道の関係。あたしの記憶が正しければ、永原先生が教師を始めたそもそものきっかけは、江戸幕府が倒れて江戸城にいられなくなり、再び諸国を放浪する生活を送り始めてしばらくしてから、日本全国に鉄道が張り巡らされるという情報を聞いて、逃げ切れないと判断して教師を始めたというものだった。

 

「こっちよ」

 

 永原先生の誘導に、あたしたちは黙って従う。時折現在地と駅の地図を確認しながら、永原先生が進む方向に、あたしたちもついていく。

 駅を出て、すぐに左に曲がる。

 

「うん、こっちでいいみたい」

 

 永原先生の読みは当たっていた。

 電車の音を聞きながら、あたしたちは目的地を目指す。

 

 すると突然、大都会に似つかわしくない広い公園が見えてきた。T字路になっているので一旦右へ。

 

「この公園の、更に奥に鉄道博物館があるわよ」

 

 永原先生が教えてくれる。

 よく見ると、水族館もある。

 

「この水族館にも寄る?」

 

 永原先生が聞いてくる。

 

「うーん、時間があったら」

 

 あたしが、つきなみなことを言う。

 まあ、そうとしか答えられないけど。でも、博物館の後に更に水族館というのも、濃すぎる気もするわね。

 

 水族館の裏を抜け、更に進むと右手に学校が見え、左手には昔の路面電車のような車両も止まっていた。

 

「ここは、アトラクションみたいな感じよ」

 

「へー、鉄道公園って感じなんだな」

 

 恵美ちゃんも興味津々だ。

 更に前へと進む、すると、前方の鉄橋から「普通 園部」と書かれた電車が横切った。

 

「なあ、あれもアトラクションか?」

 

「あはははは、もう! 何言ってるのよ田村さん。あれは普通に山陰本線よ!」

 

 永原先生が笑いながら言う。

 

「す、すまねえ……当たり前だよな。うん」

 

 恵美ちゃんもバツが悪そうに苦笑する。そもそも地図に「山陰本線」って書いてあったのに、どうして恵美ちゃんはアトラクションと勘違いしたんだろう?

 とにかく、山陰本線の鉄橋を渡ると、そこはもう「京都鉄道博物館」だった。

 

「拝観料、みんな持った?」

 

「「「はいっ!」」」

 

 あたしたちは、永原先生に拝観料を渡す。1000円札が1枚、永原先生だけ大人料金で少し高い。

 永原先生が代表して、チケットを買ってくれるらしい。

 

「鉄道はね、私にとって特別な存在なのよ。私の人生そのもの変えたわ」

 

 永原先生が博物館の入口で、そんな感慨深いことを言う。

 

「確か、永原先生が先生になったのも鉄道って言ってましたよね?」

 

「ええ、『陸蒸気』は……ごめんなさい、陸蒸気って言っても江戸生まれのTS病患者さんにしか通じないわね」

 

 陸蒸気、おそらく明治時代、それも鉄道黎明期の言葉なんだろう。

 永原先生500年の人生からしても、もはや130年前の明治は遠い昔、それでもこうやって、昔の言葉が出てしまうことがある。

 

「でも、何となくわかりますよ。あの黒い煙を吐き出す汽車ですよね!」

 

「ええ。蒸気機関車……SL……スチームロコモーティブよ。初めて見て、そして乗ってみた時は驚いたわ。合戦での火攻めでも出さないようなほどに……信じられない量の煙を吐き出して、人が走るのよりも遥かに速い速度で、休むことほとんど無く走り続けたんだもの。歩いて14日掛かった東京と大阪が2日で済んだわ」

 

 永原先生は、昔の光景を思い出しながら言う。

 以前にも聞いた。今日の新幹線に乗った身としては、2日かかってしまうのは正直ものすごい遅いと思う。

 それでも、永原先生の価値観からすれば、とんでもない革命だった。

 

「私は教師として、全国に赴任していたわ。ここの博物館には、そんな私の思い出の鉄道の車両がたくさん詰まっていると思うわ」

 

 永原先生が、入場券を買い、あたしたちにも渡してくれる。

 

「さ、入るわよ」

 

 エントランスホールを抜けて、あたしたちはプロムナードへと入る。

 そこには、3つの車両が見えた。

 一番右の青と白の車両は多分新幹線。

 あたしたちの中では、昔の映像の中だけの存在。

 

 真ん中は緑とオレンジの列車、どことなく、あたしたちの関東地域の色という感じだけど、多分虚偽記憶のノスタルジックだと思う。

 

 そして一番左側、これも昔の映像の中だけの存在。永原先生が言っていたSLとはこのことだろうか?

よく見ると「C62 26」と書かれている。

 

「ねえ先生、この3つの車両って? 一番左がSLですよね? 鉄道開業のときにはこれが走ってたんですか?」

 

 龍香ちゃんが矢継ぎ早に質問をする。

 

「河瀬さん、一番左の車両はSL末期に活躍したものよ。これはC62、通称『シロクニ』と言って日本の鉄道の蒸気機関車としては最後の形式よ」

 

「へえ、これが。でも大きいですよね?」

 

「ええ、改造形式なのよ。D52っていう強力な機関車があって……そこのボイラーを使ったの」

 

 永原先生が、何やら説明をしてくれる。

 でも、あたしたちは蒸気機関車の仕組みさえ知らない。

 

「じゃあ、真ん中の電車は何なんですか?」

 

「真ん中の電車は、80系電車よ。今日の電車の基礎を作った電車よ。この電車が東海道本線を長距離走り出したことで、日本は電車大国の道を歩んだのよ」

 

「はへー、すごい電車なんですねえ」

 

 龍香ちゃん、さっきから永原先生に圧倒されっぱなし。

 というか、永原先生って鉄道に詳しかったのね。

 

「で、一番右は何だ? 見た感じ、新幹線っぽいけど」

 

「ええ。新幹線の一番最初の形式よ。昭和39年……今から54年前に新幹線ができた時に、この車両が生み出されたわ」

 

 その名も、「0系新幹線」だという。

 

「この新幹線ができた時の衝撃は、それは計り知れなかったわ。左側の蒸気機関車は、最強の蒸気機関車だけど、機関車はブレーキ性能に劣るから、最高速度は95キロのままだったわ。その後、電車特急が出来て110キロ位にはなったんだけど、この0系は210キロで走ったわ」

 

「え!? じゃあまさか、一気に100キロもスピードアップしたんですか!?」

 

 龍香ちゃんが驚きの表情で言う。

 

「ええそうよ。あの時東京と大阪は電車特急でも6時間半、機関車の列車では7時間半もかかったわ。それがこの新幹線が開業した途端に4時間、それも相当に余裕を持った構成で、翌年には3時間10分になったわ」

 

 つまり、この電車の登場で東京大阪は一気に所要時間は半分にまで減ったということになる。

 

「この車両は、至る所で保存されているわ。ええ、とても偉大な列車だもの」

 

 永原先生が、しみじみと、感慨深く言う。

 これまでの価値観を大きく変えたその車両。でも近くで見てみると中の座席は今の車両と比べると見劣り感が否めない。

 

「これでも、当時はとても豪華だったのよ。私は……初めて乗ったのは大阪万博の時だったかな? それ以前だったかもしれないけど詳しくは覚えてないわね。でも、初めて乗った時にとても感動したことだけは覚えているわ。それは今まで歩くか馬に乗るか人力車しか知らなかった私が、初めて陸蒸気に乗った時よりも大きかったわ」

 

 さてあたしたちは再び0系の左側の電車、「80系」に注目する。永原先生によると「湘南電車」というらしい。

 このオレンジと緑のカラーも、湘南の象徴だという。

 中の座席も、古い昭和風な感じを醸し出している。

 

「ねえ、こっちもすげえぞ。何だこれ!?」

 

 恵美ちゃんが、一行から離脱し、C62の方に駆け寄ってあたしたちを呼び寄せるように大きな声で言う。

 どうやら、中から運転台を見ることが出来るみたいね。

 

「左側のこっちが機関士席、窯を焚いて管理するのが機関助士よ。蒸気機関車のデメリットの一つに、2人乗務が必須だった点があげられるわ」

 

「そもそも、後ろに石炭がいっぱいあるけど、これを燃やしてたのか?」

 

「ええそうよ、スコップを使って、あの中に放り込んでいたの。それはもう、とてつもない重労働よ。でもこのC62はまだましだったわ。一応、『自動給炭機(ストーカー)』っていうのがあって、石炭を自動で供給してくれたのよ。最も、人間の力の方が何かと都合が良かったみたいだけどね」

 

 昔は大変だったという。

 それに機関士席も、何だかよく分からない構造になっている。これらを操って運転するんだからすごい。

 永原先生も、完全には把握していないらしい。

 ちなみに、C62は永原先生も何度か乗ったという。

 そのC62の後ろ側には、昔のものと思われる客車が2両、湘南電車にも、もう一両つながれていた。

 また、0系も展示用に4両編成になっているのが分かる。

 

「永原先生、この2両は?」

 

「懐かしいわね、食堂車に寝台車。昔は移動するのに時間がかかったから、寝ながら目的地を目指したのよ。だからこうやって、食堂車もあったの」

 

 永原先生が、やや興奮気味に言う。

 よく分からないけど、多分これらの車両が現役だった頃に乗ったことがあるのかもしれない。

 

「つまり、新幹線ができていらなくなったってことですか?」

 

「そういうことになるわね。もちろん、新幹線が通っている地域ばかりじゃないから、そう言うところでは残り続けたわ。最も、今あるのは『サンライズ』だけだけどね」

 

「なあ、こっちの新幹線、新幹線にも食堂車ってあったのか!?」

 

 恵美ちゃんがやや興奮気味に言っている。

 それを聞いたあたしたちはそっちに移動する。

 

「うん、開業当初は博多までは結構時間かかったからね。今は同じ新幹線でもスピードアップのおかげで、食堂車もいらなくなって、代わりに座席で大量輸送できるようになったんだ」

 

 永原先生が笑顔で言う。

 永原先生によれば、食堂車があった頃は、車内販売もなく、また駅のスペースも有効活用されていなかった。だから今の方が断然便利だと永原先生は断言する。

 

「確かに、食堂車まで移動しないといけませんけど、車内販売は向こうから移動してくれますものね」

 

 龍香ちゃんが納得したように言う。

 

「それに、駅なら多く仕入れられて変える人も多いわよね」

 

 あたしも、そんな風に言う。

 

「ええそうよ、食堂車はなくなっても、形を変えたサービスにより便利に進化していったわ」

 

「ところで、こっちの赤いのはなんですか?」

 

 随分と角ばった、威圧感のある赤い機関車が食堂車を引っ張っている。

 更に奥にあるオレンジ色の電車と比べると、かなりごつい。

 

「この赤いのはDD54、通称欠陥機関車よ」

 

 永原先生がサラリと暴言を吐く。

 

「え!? そうなんですかこれ!?」

 

 いきなりのことに、龍香ちゃんも驚いている。

 

「メンテナンスが大変だったのよ。とある西ドイツの企業の技術を使ったんだけど、とにかくアフターサービスの悪さが目立ったのよ。鉄道車両っていうのは、運用してみて初めて分かることもあるから状況に合わせて設計変更したり改造したりする必要があるんだけど……ライセンス契約上認められなくて、何の改善もできなかったわ。2年前にEUが日本に鉄道市場の開放を要求したけど、これのトラウマがあって日本は反発したとも言われているくらいなのよ」

 

 永原先生によると、この機関車は本当にろくでもないものだったらしい。

 運用中に棒高跳び事故を起こしたり、とにかく高温多湿の日本では故障も早かったらしい。

 

「実はこの機関車が開発される少し前にDD51……通称デデゴイチっていうディーゼル機関車も開発されてたんだけど……こっちは老朽化著しいと言ってもいまだ現役なくらいよ。一般に鉄道車両は在来線30年、新幹線15年が目安だけど、DD54は10年足らずで廃車になったわ」

 

「それじゃあよっぽどひどかったんですか!?」

 

「ええ。末期にはDD51の18倍もの保守費用がかかっていて、結局初期故障を克服したDD51に置き換えられてしまったわ。むしろよく保存されていたものだと感心するくらいよ」

 

 永原先生はどうもこの車両がお気に召さないらしい。

 隣の車両に行くと、今度は103系だという。

 

「これは今でも細々と走っているわ。西日本、東日本、九州、東海……ありとあらゆる場所で、この姿を見たわ。今日の標準化という意味では、大車輪の活躍をしたけど……一番新しくても1984年製だから……さすがにもう老体なのよ」

 

 永原先生曰く、通勤形電車として、この電車は3000両以上が製造され、日本の電車史上、最も多く作られたとか。

 いずれにしても、弊害もある程度会ったのは事実だが、当時爆発的に増えていた日本の通勤輸送需要を支え、標準化に貢献したのは紛れもない事実だという。

 これで、プロムナード部分が終わった。

 案内によると、ここからは「本館」と呼ばれるスペースに入るらしい。




筆者はこの博物館まだ行ったことないです。いつか行ってみたいものですが

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