オカルトなしヒカルの碁。
佐為は特に意味もなくTS。


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頭空っぽにして適当に書いてみた。


いつもそばにいる

1「光彩」

 

 囲碁は一人では強くなれない。二人で行うゲームなのだから当然である。ところが……

 

「……あらあら、また負けちゃったわねえ」

「ありがとうございました!」

 暖かな陽射しが差し込む、白い部屋。塵ひとつ見つからぬ清潔なこの病室に、それとは似つかわしくないものが置かれている。碁盤であった。それも安物ではない。見る者が見れば、本カヤの上級品であるとわかるものであった。盤上は、白と黒の碁石が複雑な模様を成している。

 指し手の一人は中年の看護婦で、さきほど投了を申し入れたところだ。若いころは囲碁に没頭し、アマチュアのいくつかの大会で成績を収めた過去を持つとは本人談だが、どこまで本気かは疑わしい。とはいえ、まったくの素人ではなく、少なくとも彼我の実力差を理解するだけの力はあった。

 対するは、服装から入院患者とわかる一人の少女。入院しているにもかかわらず、艶やかな髪と、弾力ある肌。勝利の余韻に浸るこの無垢な笑顔は、世界のあらゆる悲劇も塗りつぶして、光を与えんが如く輝く。まだ13歳の、まごうことなき美少女である。

 

 少女の棋力は、隔絶していた。

 看護婦には、それがどれほどのものかを推し量る術はない。矮小な人間が、雲の上に何があるのかを想像できぬように、あまりにも遠すぎては見ることはできないのだ。

 だからそれは、異常といえた。

 なぜなら、少女は生まれてから殆ど外の世界を歩いたことがないのだ。彼女の世界は、この一見して白く清潔な、しかし狭く息苦しい小さな病室が全てのはずなのだ。仮にもその道を歩み、ライバルたちと切磋琢磨して辿り着いた者の棋力をも、少女は歯牙にもかけなかった。

 少女の名は、藤原彩といった。

 彩の両親は囲碁に造詣が深く、彩は幼いときから碁石や碁盤を目にする機会があった。白と黒、まったく正反対の二色が混交し、次々と盤上に展開していくさまは、幼い少女には、何物にも代え難いほど美しく見えた。自分もいつか、両親のように打ってみたい。そう思うのに、時間はかからなかった。

 だが、少女の身体は病魔に侵されていた。

 難病で、現代医学では完治の見込みはない。ただ延命治療は可能なのだという。一人娘を溺愛していた両親の悲嘆は甚だしく、やがて悲嘆は怒りに変わっていった。

 父は母を、母は父を互いに責めた。時には彩のお見舞いに来たはずの病室でも口論となった。いつしか両親は、囲碁をしなくなっていった……

 入院中、暇さえあれば病院内の図書室から借りて囲碁の本を読み漁った彩は、いつしか一回も打たぬうちに詰碁を解けるようになっていった。これだけでは飽き足らず、両親にもっと面白い本を、と見舞いの度に急かしてゆく。

 両親も、まだこの時点では彩を可愛がっていたから、二人一緒ではなくとも見舞いには来てくれたし、たいていの願いは叶えてくれた。塔矢行洋、桑原本因坊らトッププロの棋戦の棋譜なども、戯れにと持ち込まれたが、少女は随分と熱心に読み耽っていた。

 

(こんな打ち方があるんだ)

 

 そんなある日、両親が本因坊秀策なる、江戸時代の棋士の棋譜を持ってきてくれた。高価な買い物だったようだが、それを惜しむ様子はない。この日は彩の誕生日だった。

 いつもは別々にしか会えない両親と、久々に一緒に会えた。そのことを喜びながら、棋譜に目を移していく。両親はなんとはなしにそんな彩に目をやり、ぎょっとした。

 ……彩は感動のあまり泣いていたのだ。

 

 

 囲碁を、美の対象として見出してきた少女は、これ以降強さも追求し始める。

 他人が勉強や遊びに使う全ての時間は、囲碁に費やされていく。寝食、定期検診などを除く、有り余る時間は、秀策を私淑として最善の一手を追求する時間に充てられる。少女の世界は、憂き世から離れて、もはや碁盤の上にあった。

 何かに取り憑かれたかのごとく囲碁にのめり込む少女は、やがて親の見舞いの時間でさえ、囲碁以外のことを口にしなくなる。両親は、徐々に、娘への苛立ちを隠せぬようになっていった……

何年かすると、もう両親は殆どこなくなった。二人はとっくに離婚したのだろうが、囲碁以外頭にない彩には、さほどのショックもなかった。

 でも、なぜだろうか。少女は孤独を味わっていた。愛する囲碁をこれほど長くやれるというのに。

対戦相手がいないという不満も多少は解消された。囲碁を打てるという看護婦が一人おり、それを買われて彩の担当になったのだ。

 だから自分は一人ではない。そう思っているはずなのに……

 気付けばまた、盤上の黒石を殺していた。

 

 

 

 進藤ヒカルは、どこにでもいる平凡な小学生である。いや、前髪だけは非凡かもしれないが、とにもかくにもやんちゃで腕白な普通の少年である。そんな彼はある日、幼馴染の藤崎あかりとともに、祖父の家の蔵に来ていた。

 

「なんかおもしれーもんあるかもしれねーじゃん」

「やめようよぅ、ヒカルー」

 

 好奇心旺盛な少年と、それを自制するしっかり者の少女。二人は蔵の中に入り、辺りを見渡す。

 

「あ、これ知ってる。碁盤ってやつだろ」

「それって、五目並べとかやる?」

「バーカ、囲碁だよ」

 

 とりとめない会話をしていると、何かに気づいたヒカルが声を上げる。

 

「ん?」

「どうしたの?」

「なんかここ、シミがないか?」

「え、どこ?」

「ここだってここ」

「見えないよぅ」

「え、あれぇ?」

 

 さっきのは気のせいだったか。そう思ってヒカルは碁盤から興味を無くす。

 

「ねえヒカル、もう帰ろうよ。ここオバケでそうだよ」

「しゃーねえなぁ、まったく」

 

 踵を返したヒカルだったが、その時、何かに躓いてしまった。

 

「うわっ!」

「ヒカル!」

 

 少年は、頭を打って気絶していた……

 

 

 

 検査の結果とくに異常は見られなかったが、頭を打ったということもあり、絶対安静と数日の入院を余儀なくされたヒカルは、ベッドに横になりつつ間暇をもてあましていた。

 

(あーあ、ドジ踏んだな)

 

 もともと外で遊ぶのを好む少年は、二日目には病室でじっとしていることに耐えられなくなってきたのだ。

 

(いいか、怒られたらその時だ)

 

 こんなにうららかに日が射している。狭い部屋の中にいては、お日様も浮かばれまい。ヒカルは病室をそっと抜け出して、病院まわりを探検する。だが、それにもすぐに飽きた。

 

(一人じゃぁなあ)

 

 病室に戻ろう。今ならまだバレていないだろうから、怒られずに済む。母親に知られたら面倒だ。そう思って踵を返そうとしたヒカルは、しかしそこではたと目が止まった。

 1人の少女と眼が合ったのだ。

 

 綺麗な眼だなと、ヒカルは思った。入院患者だろうか、色白で、あまり外で遊ぶタイプには見えない。自分と正反対の雰囲気。でもなぜだか、目が離せない。

 

 ……対する彩もまた、少年から目を離せなかった。

 少年の澄んだ目。生命力の充溢した、あふれんばかりの光を、彼の瞳の奥のほうに確かに見た。それは闇の中で篝火が、チラチラと燃えているようで……

 彼の放つ光に魅せられて立ち尽くす。

 

 こうして二人は、互いに一目惚れをしていた。

 

 

 

 

 

 朝の眩しい光に眼を細めながら、澄明な空を見上げて募る想いを馳せる。ヒカルという名前は、なんだか周りのものに光を与えてくれそうで、藤の花は日光を浴びて彩りを増すというが、2人の運命的な邂逅には、神が気まぐれに差配したような不思議な趣きがあった。お互いに黙したままで見つめあって、なんだか恥ずかしくなって赤面しあったあと、おずおず自己紹介を交わすとヒカルの緊張も解けたようで、彩に屈託なく笑いかけてくる。同年代と話す機会のなかった彩は、始め話題を探すのに苦労したが、生来の明るさを取り戻したヒカルが導いてくれた。

 

 少年が話してくれた世界は夢のようだった。

 学校生活。授業、休み時間のドッチボール、放課後気の合う友人らと無意味な会話をして帰路につく。そんな平々凡々な日常に彩はいちいち目を輝かせて、大仰なしぐさで驚きをあらわす。ヒカルは少女が学校へ通ったことがないのでは、と察知する。

 

「お前、学校に行ったことないの?」

「ないです。ずーっと前に入院して、それ以来病院から出たことないんです」

「そっかぁ……」

 

 それはなんだか、悲しい気がした。

 学校なんて退屈で、教師は鬱陶しいし、授業は眠くなる。夏休みなどは、学校に行かなくてよくなって気分は晴れやかになる。なのに少女はそんな場所を求めているのだ。

 そればかりではない、この閉ざされた空間から自由に外出することもかなわない。自分だったら、耐えられないだろう。

 だが、彩は思いの外悲嘆してはいないようにも見えた。

 

「なぁ、お前ずーっとこんなとこいて暇じゃね?いつもどうしてるんだ?」

「いつも囲碁をしているから、暇ではないですよ」

「イゴ?」

「囲碁ですよ。ほら、これ」

 

 彩が指指した先にはいつも使っている碁盤があった。碁盤を見る少女の表情はいっそう美しく、紅潮した表情を悟られぬようにヒカルも碁盤に顔を向けた。

 

「あー、これでやるのかぁ」

「ルールは分かります?」

「うんにゃ、オセロなら分かるけど……」

「あははっ」

「って何笑ってんだよ」

「いえ、なんとなくです」

「……打ってみていい?」

「もちろん」

 

(とはいったものの、これ高そうなんだよなー)

 

 万一傷でもつけたら、弁償しないといけないのではないか。考えなしの提案はすべきではなかったと思った。どのみちヒカルは頭を使うことは苦手だから、囲碁なんてできるはずもないのだ。

 だが、なんとなく。少女の碁盤を見る表情を見ていたら、そんな気になったのだ。

 ヒカルは適当に白石を取り出して、盤上に置いてみた。おそるおそる置いたから、コトっと不恰好で鈍い音がした。休日に父親がたまにつける国営放送に映る棋士たちのようにはいかないようだ。

 彩はそれを見るとおかしさを隠しきれぬようで、とうとうケラケラと笑いだした。

 

「仕方ねーだろ、初めてなんだから!」

「ごめん……なさい、笑いが止まらなくて」

「おい」

 

 とはいえ、気の毒な境遇の少女が年相応な無邪気さを示したことで、ヒカルもなんだか笑われた恥ずかしさもどうでもよくなってしまう。彩はようやく笑いも止まったようで、ヒカルに手本を示してくる。

 

「まず、おく場所が違います。オセロだったらその線に囲まれた中に打てばいいけど、囲碁の場合は線が交差してるところに打つんです」

「あ、あぁ」

「碁石は、こう持つんです。そう、中指を上にして、人差し指を下。間に挟むように……」

「こうか……?いや無理だろこれ!」

 

 彩から持ち方を指南されるも、なかなかうまくいかずにポロポロ落としてしまう。そのたび彩は笑いながらもう一度やるよう促してきた。学校では、間違えた問題を何度も何度もやり直しさせられると嫌になったのに、飽き性の自分がなぜ持ち方にこだわっているのか、ヒカル自身わからなかった。囲碁なんてどうせこの場限りで、以降打つ機会などないはずなのに……

 

 あっという間に時間は過ぎていった。そろそろ戻らないと夕食の時間にいなくなったことがばれるだろう。彩にそう告げると、少女は一瞬だけひどく悲しそうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻って、

 

「じゃあ、最後にもう一回!」

「わかったよ」

 

 ヒカルは疲れた表情で碁石を握る。すると、不思議と指の間から余計な力が抜けた気がした。ふわふわとした感覚。その感覚にまかせて石を掴むと、綺麗に挟むことができた。そして盤上に、パチッ、と乾いた音が響きわたった。

 

「あれ?」

「やりましたね!ついに打てました!」

 

 打った本人が最も驚き、彩は喜びをあらわにしている。さっきの感覚はまだ手の中にあった。気分が高揚しているからか、すらすらと口をついた。

 

「あのさ、また来てもいいか?」

「……はい!ぜひ!」

「あとさ、年変わんねーじゃん。敬語はなしにしようぜ」

「えっと……」

「同い年の奴と話したことないから仕方ないかもしれないけどさ、オレはやっぱり普通に話してほしい」

「……わかった」

「あと名前。ヒカルって呼べよ」

「はい、ヒカル」

「また敬語じゃん!」

「ご、ごめん」

「よし」

「あ、ヒカル」

「何?」

「私のことも、彩って呼んで。お前じゃなくて」

「わかったよ、彩」

 

 以来、2人は医師や看護師らの目を盗んでは逢瀬を続けた。しかしヒカルの方は軽症である。彩に会いにいくため、頭痛がするなどと訴えて入院を伸ばしたが、母親から学校へ行きたくないだけではと勘繰られてしまい、検査でもなんら異常はなかったことで医師も相手にしなくなった。いよいよ翌日に退院することとなった。

 

「……じゃあヒカルともお別れだね」

「んなことねーよ!この病院近いしさ、また会いにきてやるから!まだ詰碁教えてもらわねーといけないしな」

「ふふっ、ヒカルは意外と才能あるのかもね。数日で一応囲碁が打てるようになったんだし」

「一応は余計だ!いつかぜってーお前を負かしてやるからな!」

「ヒカルじゃ私には一生勝てないよ」

「やってみなきゃわかんねーだろっ」

 

 出会って短い2人だが、まるで長年連れ添ったかのような関係に見えた。未来への不安を忘れ、2人は以後もずっと一緒でいられる気がした。

 

 

 

 

2「邂逅」

 

 退院後一週間たった。ヒカルはめっきり付き合いが悪くなったとクラス内で話題になった。外で遊ぶのを何より好んだはずの少年が、休み時間に何やら難しげな本を熟読していたり、ふと大人びた表情を見せるようになったことで、もともと顔立ちの整っていたヒカルに淡い感情を持った者もいた。しかし最も困惑していたのは幼馴染のあかりである。今日こそはヒカルの秘密を暴くとばかりに、この日はしつこく一緒に帰ろう、とヒカルを誘う。

 

「だーかーらー、この後用事があるんだって!お前と帰ってる暇はないの」

「うそっ!ヒカル毎日そればっかりじゃない!何の用事かも言わないし」

「そりゃー、その……」

「ほら目逸らした!」

 

 これ以上時間を食うと彩との約束に遅れると思ったヒカルはついに観念したように、

 

「……囲碁だよ」

「え?」

「囲碁。将棋と似てるやつ」

「えー!そんなのヒカルができるわけないじゃない!」

「バカにすんな!今日だって教えてもらいにいくんだ!」

「その……囲碁を習いに行ってたの?そういえば最近読んでる本も」

「あれも詰碁集っていって碁の勉強なの」

「勉強?ヒカルがねー……」

「なんだよ?」

「……ねえヒカル?私もついていっていい?」

 

 

 

 

 

 

 

 2人で打っていた中にあかりも加わったが、彩が2人より3人のほうが楽しいと言ったから、ヒカルとしては異論もなかった。以来ヒカルとあかりは彩に鍛えられてメキメキ棋力を上げていく。わけてもヒカルの才能は抜きんでていて、彩も驚くほどだった。

 ある日ヒカルはあかりと連れ添って、都内に来ていた。彩が言うには、色んな人と打ったほうが強くなれるとのことだった。ならば彩はどうやって強くなったのか疑問だったが、さすがのヒカルもそれを聞くほど野暮ではない。

 街の景観を貶めるような、無数の看板が飛び交う雑居ビル群のある裏通りを小学生2人で歩いていると、目的地が見えてきた。築40年ほどのくたびれたビルで、掃除も業者を雇っていないのかだいぶ薄汚れている。狭くて暗いエレベーターに乗り込んで、ボタンを押す。ドアが開くと、碁会所の看板が見えた。中に入ると、煙草の煙が充満していてあかりは顔を顰める。客のほとんどが中高年だったが、受付の女性は意外にもまだ若かった。

 名前を記入し、あたりを見渡すと、老人らの中に1人だけ同世代の少年をみとめて、対局できるか聞いてみると、受付の女性はたじろいだ。しかし、当の少年のほうから近づいてきて、

 

「対局相手探してるの?いいよ、ボク打つよ」

「ラッキーだな子供がいて!やっぱ年寄り相手じゃ盛り上がんねーもんな」

「奥へ行こうか、ボクは塔矢アキラ」

「オレは進藤ヒカル、こいつはあかり。6年生だ」

「あっ、ボクも6年だよ」

 

 対局しようと碁盤へ向かうと、受付の女性が呼び止めてくる。お金がかかると知らなかった2人は途方にくれたが、塔矢の口添えでサービスしてもらえた。塔矢は置き石を何子置くか聞いてきたが、同い年を相手にそんなハンディを与えられるのは屈辱だ。にべもなく断ると、塔矢は困惑したようだった。

 

「お願いします」

「お願いします」

 

 盤上は静かに進んだ。だが、じっとしているのは性に合わない。先にヒカルが攻勢に出る。しかし塔矢はかろやかにそれを躱してゆく。ある程度打つと、ヒカルはいやというほど力量差を見せつけられた。

 

(悔しい)

 

 なぜこれほど悔しいのか。

 自分はまだ囲碁を初めてひと月ほどで、初心者なのだから勝てなくて当然である。なのになぜ、涙があふれて止まらないのか……

 

「進藤……くん?」

「……ありません」

 

 ポタポタと頬を冷たいものが伝う。袖で拭いてもぬぐいきれずに碁盤に落ちていった。

 

(だせえ……)

 

 格好つけて、この有様だ。塔矢は失望しただろう、あかりにも後で茶化されるに違いない。

 

「ヒカル……」

「……いい碁だったよ」

 

 予想外の言葉をかけられ、ヒカルは顔をあげた。

 

「……慰めはいらねーよっ」

「慰めなんかじゃないよ、手つきから囲碁を初めて間もないのはわかるよ。それなのにこれだけ打てるなんて進藤くんはすごい!」

「そうよ、ヒカル。一生懸命だったじゃない。途中呼んでも全然聞こえてなかったし」

 

 改めて盤上を伺う。中押し負け。まごう事なき完敗だった。それでも、力を出し尽くすことはできた。

 

(そっか)

 

 初めて本気になれたのだ。何をやっても続かなくて、すぐに放り出していたのに。だからこれほど悔しいのか……

 

「また打とうよ」

 

 塔矢がそう言った。

 

「俺みたいなヘボでいいのか?」

「ヘボなんかじゃないよ、それにボク、同い年で打ってくれる相手がいないから……」

「え、なんで?お前つえーのに」

「強すぎるからよ」

 

 受付の女性が後ろから声をかけてきた。

 

「市原さん」

「なんだかアキラくんがこんな表情してるの見るの、久しぶりだな」

「い、市原さん……」

「あのね、進藤くん。強すぎるっていうのも悩みなのよ。みんなアキラくんと対局して無様に負けたくないのよ」

「そっか……」

 

 強すぎる故の悩み。

 ヒカルの棋力では到底理解しようもなかったが、彩はどうなんだろうかとヒカルは思った。

 

「なぁ、オレ弱いから、どのくらい強いかなんかわかんねーけど、同い年で1人強い奴知ってるぜ」

 

 

 

 

 

 

「病院?」

「おう」

「ここに強い人がいるの?」

「信じてねーな?彩は強いぞ」

 

 あかりは今日は家の用事があるとかで、珍しく同伴しなかった。代わりに塔矢を連れ立って、裏手に回る。何度も通った道だから、迷うこともない。検査の時間にさえ気を付ければ、少女の病室を訪れるのはわけなかった。

 

「あ、ヒカル!」

「彩、今日は強い奴つれてきたぜ!」

「塔矢アキラといいます。えっと……」

「あ、私は藤原彩といいます……」

「なんかお前らちょっと似てるよな」

 

 話しながらも、彩はさっそく碁盤を用意していく。対局したくて仕方がないといった様子だった。塔矢も同様だった。まったく似た者同士である。

 

「じゃあ、さっそく打ちましょう」

「お願いします」

「お願いします」

 

 そこから先の攻防は、ヒカルでは理解がおよばなかった。しかし、ギリギリの攻防で、互いに相手の喉元に剣先を向けあっているみたいで、一太刀浴びればただでは済まないような、切れ味鋭い一手一手の応酬だった。

 しかし、素人目にも塔矢が追い詰められているのはわかった。途中彩が打った手に明らかな狼狽を示す。その後も粘っていたが二目半の負け。ヒカルは自分と対局したときに見せなかった彼の表情を複雑な心境をもって眺めた。

 

「……惜しかったな」

「惜しくないさ。これは指導碁だから」

「指導碁?」

「その名の通り、ボクは彼女に手ほどきを受けたんだ」

「じゃー彩は本気じゃねーのか?」

「悔しいけど、今のボクでは力不足だね」

「そんなことはありません。私もこんなに強い人と打ったのは初めてです!」

「ありがとうございます、また打って貰えますか?」

「はい、喜んで」

 

 

 

「ただ、藤原さん。進藤もだけど、あんまり藤原さんのことを他言しない方がいいと思う」

「なんで?」

「2人は気づいていないかもしれないけど、藤原さんの棋力はトッププロに全くひけをとらない。マスコミとかに知られたら騒ぎになるだろうね」

「あー、それは面倒だな。でもそれだと彩が打てないよな」

 

 塔矢は少し考えて、名案が浮かんだという風に、

 

「思ったんだけど、碁を打つのに相手がこの場にいる必要はないんじゃないかな」

「は?」

「塔矢くん、それはどういう……」

「インターネットだよ、ノートパソコンを用意して、ここで打てばいいんだ」

 

 

 肝心のパソコンは塔矢が用意してくれた。どうも、ネット碁をやりたいと母親に言ったところ買ってくれたそうな。一般家庭では高価な買い物だが、トッププロの年収からしたら微々たるもので、塔矢の母も囲碁に理解を示してくれた。

 こうして、インターネット上の伝説の棋士が生まれたのだった。

 

 

 

 

 

3「days」

 

 突然、ネット上からsaiが消えた。

 saiは平日でも誰彼構わず打ち続け、並み居る強豪を歯牙にもかけなかったため、その名は一躍有名になり、インターネットの世界を飛び越して日本棋院にもsaiの正体を探る者からの電話が毎日あったほどだ。とくに、例の塔矢行洋との一戦は囲碁を嗜む人すべての記憶に残るような名勝負で、現役最強とも言われる行洋を激戦の末破ったsaiはいよいよ注目度も増してきた。中国の某棋士などは、新型のAIなのではと邪推するものもいたが、どちらかというと人間らしい思考をしているように見え、当の彼はすぐに自説を引っ込めたという。

 

 ただ強いだけではない。

 その棋譜はいつだって洗練されていて美しい。どんな格下に対しても決して手を抜くのではなくて、相手の力量を最大限引き出す。そんなsaiの打ち筋に憧れる者も多かった。しかし、いまだその正体は闇に包まれたままだった。結局saiは一度も負けることなくその年の5月を境に姿を消し、二度と現れることはなかった……

 

 

 

「なんでだよ、彩」

 

 葬儀は淡々と進み、あっけなく終わった。

 ヒカルは彩が眠るお墓の前に佇む。

 風が強く吹き付けてくる。新緑の木々が葉を揺らした。

 藤の花が咲き誇る季節に、彼女は死んだ。死の間際まで、ヒカルたちに決して苦しそうな様子は見せなかった。

 なぜ言ってくれなかったのか。そうしたら、彩との残りの日々を大事にしようと思えたかもしれない。

 念願だったプロ試験に合格したことで舞い上がっていたのか、彩の病室を訪う機会は減っていた。対局も一度で切り上げることもしばしばだった。不満を訴える彩を適当にあしらったこともあった。今となっては後悔しても遅い。覆水は盆に帰らない。

 

 5月5日、学校が休みで、その日は朝早くから病室に行くと、彩はいつも以上に打ちたがった。

 

「一局だけな」

 

 そう気怠げに返事をして、碁石を握った。

 前日はプロとして初めて、客仕事をこなし、東京に戻ってきたばかりで睡眠時間は少なかった。眠気まなこをこすりながら、ぼんやりとした思考で打った。

 

(やっぱつえーな)

 

 プロになるほど実力はつけた。最初の頃とは雲泥で、だからこそ彩の力を実感できるようになった。

 余計なことを考えていると、彩の得意な打ちまわしで中央が攻め立てられていた。なんとかかわそうという一手を打つ。

 長考する場面ではないように思えたが、やけに間が長い。

 

「彩?お前の番だって」

 

 返事はなかった。目の前で彩は倒れ臥していたのだから。

 

 

 

 

「あら、もしかして進藤くん?」

 

 声をかけてきたのは中年の女性だった。その手に藤の花を携えている。返事できずにいると、彩の墓に花束を供えて手を合わせた。ついでヒカルも同様に手を合わせる。

 

「えっと、彩の……お母さん?」

「あら、違うわよ。私は彼女の入院してた病院の看護師よ」

「ああ……」

「あなたのことは、彼女から何度か聞かされたわ」

「そうなんですか」

 

 会話が途切れ、2人は沈黙を紛らわすようにお墓に目を向けた。やがて女性は、

 

「進藤くんに渡すものがあるの」

「俺に?」

「生前彩ちゃんが、もし自分になにかあったらヒカルに渡してくれって。頼まれたのよ」

「彩が……!?」

「はい、これ」

 

 そういって差し出されたのはA4の封筒だった。中は厚みがあり結構な重量だった。渡し終えると女性は一礼して去っていく。呆然と立ち尽くしていたが、封筒の中を開けてみる。するとそこには、

 

「……棋譜?」

 

 棋譜があった。百枚はくだらないだろう。

 

(これって……)

 

 一番上にあったのは、塔矢行洋とのあの名勝負の棋譜だった。一枚二枚とめくっていくと、ネット碁を中心に、彩が打った中でも特に印象に残るようなものばかりだった。

 

「これ、俺の……」

 

 中にはところどころ、ヒカルとの対局もあった。プロになった後の棋譜もあれば、プロ試験中、伊角の反則にペースを崩したことを聞いた彩が、その続きを打ってくれた、その時の棋譜もある。院生時代、彩に恐れをなして逃げ惑っていたころの棋譜もあった。

 

(懐かしいな……)

 

 彩がヒカルの足跡を辿ってくれている。二人三脚で歩んだ道のりを反芻する。

そろそろ枚数も尽きかけてきて、残りは二枚だった。一枚はまだヒカルがろくに打てない頃。囲碁とオセロの区別もつかずに誤った場所に打ったもの。棋譜とはとうてい呼べないものだった。

 

(あいつ、なんでこんなの残すんだよ)

 

 気恥ずかしくなったヒカルは、それを飛ばして最後の一枚を見る。すると最後だけは棋譜ではなかった。

 

(……手紙?)

 

手紙には、ヒカルへの感謝の言葉が書かれている。読み進めるうちにだんだん目頭が熱くなってきた。病気が悪化し始めていたのを黙っていたこと。棋士として才能に溢れ、輝かしい光の道を歩み始めたヒカルの重荷になりたくなかったこと……

 そして掉尾は以下のように綴られていた。

 

 

 

 私はヒカルのために存在した。

 ならばヒカルもまた、誰かのために存在するのだろう。

 その誰かもまた、別の誰かのために。

 千年が、二千年が、そうやって積み重なってゆく。

 神の一手に続く遠い道程……

 私の役目は終わった。

 ヒカル、好きでした———

 

 

 

 

 

 

(バカヤロー)

 

「オレが誰かのために存在するって……?そんなの当たり前だろ……オレはお前のために存在したかった!」

 

 慟哭が、止まらない。

 2人とも馬鹿だから、お互いの気持ちに気づいていたのに、見えないフリをしていた。

 全てはもう遅かった。

 

「あれ……」

 

 封筒の底には、まだ何か入っていたことに気づく。涙を袖で吹いて取り出してみる。

 扇子だ。

 

「これ……アイツの……」

 

 彩が使っていた扇子だった。

 余計な装飾などはない無地のそれは、彼女が使うと優雅で、口には出さなかったが、彩が扇子を弄る仕草は好きだった。

 彩がやっていたように、風をたなびかせるように、勢いよく扇子を開いてみる。

 また涙が溢れだしてくる。

 彩は、自分の碁を、ヒカルに託したのだった。

 

 

 

 

4「いつもそばにいる」

 

 中国での武者修行を終えて帰国した伊角は、ある想いを胸に、進藤ヒカルの家を訪れていた。

 ヒカルは順調に勝ちを重ね、同期で一番早く二段に昇格した。連勝も続けており、塔矢アキラがライバルとして見ていることを週刊碁が伝えると、早くも次世代のホープと目されるようになったことなどを、日本に帰ってきてから新聞で知った。

 

(成長したな)

 

 ほんの一年前は同じ場所で、ともに並び立っていたはずだった。けれども、プロ試験がその明暗を分けた。

 ヒカルと打った最後の対局は、伊角にとって不本意なものだった。プロ試験、彼を警戒するあまり、ハガシの反則を侵し、それをなんとかごまかそうと投了を躊躇った。プロ試験は今年も受ける。新たな気持ちでスタートを切るために、ヒカルと一局打ち切ることは、伊角が前へ進むためには為さなければならないことである。そう言って対局を申し込んだ伊角に、ヒカルは扇子を取り出して伊角に対峙した。

 

 

 

 盤面はほぼ互角の様相を呈していた。ヒカルが攻めれば伊角はそれを防ぎ、伊角が攻めてもヒカルも躱す。

 ヒカルは伊角の一手一手から確かな成長を感じ取る。プロ試験の時でも、すでに低段位のプロを上回る棋力を備えていたのに、より読みは深くなった。すでに森下師匠に匹敵するような強さだった。今はまだ互角だが、このままでは形勢は伊角に傾くだろう。そう考えたヒカルは、右辺の白模様を荒らす一手を打つ。彩の打ち方だった。

 

(オレには、アイツがついてる)

(いつだってそばにいる)

 

 死は、悲しいことかもしれない。それでも、彼女に出会えて良かった。囲碁に出会えて良かった。

 

 彼女が探し求めた、神の一手。

 そこへと続く道は永く、険しい。

 終わりのない道を歩んでいこう、彼女はいつもそばにいる。

 

 

 

 

 

 

 

 




仕事中浮かんだネタ。


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