夜も明けてすぐのこと。
大淀から受け取った『職務についての但し書き』をやっとのことで読み終えた提督がそのまま机に突っ伏している執務室に、ドアの良質な木材を叩く小気味良い音が鳴った。
それが耳に届いたのかのろのろと上体を起こした提督は、おおかた大淀か漣がやって来たのだろうという軽い気持ちで「どうぞ」と重い瞼を擦りながら招き入れた。
「入るよ」
その声に提督はふと違和感を抱いた。
大淀でも漣でもない、かといって明石の声にも当てはまらない、低く幼い声。
果たして提督の疑念は的中した。中に入ってきた人物は彼の全く見知らぬ少女だったのだ。
漣よりも更に一回り小さいと思われる身長に、透き通る空色の長い髪と眠たげな瞳。セーラーも漣のものとは少々デザインが異なり藍色が基調となっていて、その襟元と被った鍔付き帽子の中央の白い錨印が特徴的だった。
提督は予想外の事態に、言葉を失って目の前の少女を見つめるばかり。一方の彼女はというと、彼の様子をさして気にすることもなく、帽子を取って姿勢を正し敬礼をした。
「暁型駆逐艦二番艦゛響゛です。これから、よろしく」
駆逐艦という言葉で、漸く回り始めた提督の頭が理解した。彼女はおそらく一昨日の建造でやって来た新しい艦娘であると。
それはともかく提督は、処理落ち気味の思考でようやっと挨拶を返した。
「あ、あぁ。よろしく頼む。あと、そんなに畏まらないでくれ」
「そう言ってもらえると、助かる」
彼の言葉で、響は態度を多少和らげた。どうやらあんまり気難しい性格でもないようなので、彼もほっと安堵の息を吐く。
が、ここから何をすれば良いのか咄嗟に思い付かない。持ち前の人見知りのためかどうにも考えが詰まってしまう。
「……司令官?」
途端に沈黙した提督の姿に、響が訝しげに訊ねたそのとき、半ば乱暴ともいえるノックと共に返事も待たず扉が開けられた。
入って来たのは、相も変わらずテンションの高い漣だった。
「ご主人様、おはようございまー……?」
挨拶の途中で、漣の言葉が途切れた。ドアの音に振り向いた響と、目と目が合ったのである。
何事かと見構えていた響は、突然現れた桃色の髪の少女が自分と同じ艦娘であると分かると腕を下ろした。
「えっと、君はだ…「クール系ロリキタコレッ!」
「えっ、ちょっ、わっ」
そして響が名前を聞こうとした瞬間、漣が動きを再開したかと思うと響に急接近してごく自然な動作で抱き付いた。
その不審な行動は先ほど構えを解いていた故に響にとって全くの不意打ちとなり、彼女は対応できずに漣のされるがままになってしまう。
「ふおお、モチモチでふかふか……」
「……」
「お、落ち着け。漣」
「はっ」
初対面にしては度の超えた所作と響の無言と無表情が気になって、漣の来訪でショックから目覚めた提督が慌てて諫めた。
流石の漣も彼の声で正気を取り戻し、おもむろに響の体から離れた。
「すみません、つい理性が……」
「謝るなら響に謝ってやれ」
漣は気まずそうに、服装を整える響に向き直った。
「ゴメンなさい」
深々と首を垂れる彼女に、響は表情の見えない顔で答える。
「大丈夫。突然だったから、少し驚いたけどね……えっと」
「漣」
今度は落ち着いて顔を上げ自分の名を名乗る少女に少々戸惑いつつも、響は微笑んで返した。
「……漣、か。ボクは響だよ。よろしく」
「うん!」
漸く怒涛の一悶着が着いたところで、提督はある考えを思い付いた。
「そうだ。漣、響に営舎の案内をしてやってくれ。終わったら、今日はゆっくり休んで、明日から一緒に頑張ろう」
「お任せあれっ」
「分かった」
提督の提案に二人は同意を示して、
「さ、響ちゃん、れっつらゴー!」
「うん、行こうか」
さっそく執務室を出て行き、入れ替わりに大淀の姿を認めた。彼女は駆逐艦娘二人と挨拶を交わすと、礼をして室内に入った。
「おはようございます、提督」
「あぁ、おはようございます」
「お疲れのところ申し訳ありませんが、響さんの受け入れ手続きの用紙と、鎮守府正面海域における第一作戦の要綱です」
「どうも」
何だか疲れ気味の提督の顔を思案気に見つつ、大淀は数部の書類を彼に渡した。
「あと、もうすぐ朝食が出来上がるのですぐお持ちしますね」
「いつもすみません」
「いえいえ、お料理は好きですから。それでは、後ほど」
彼女は屈託ない笑顔を見せると、提督が何かを言う前に足早に執務室を離れていった。
「……」
提督はその優しさにどこか救われた気分になってちょろり涙を流したが、新しい書類はふてぶてしく机の上に残るのであった。