MSV. 弾劾のハンニバル《完結》   作:suz.

32 / 36
[Interlude]


P.D.324: 呪詛と祝福の指輪

P.D.324----------------

 

 

 

 

 

 白く清廉な光。窓辺でさえずる小鳥の声。

 コンコンと控えめなノックの音でアルミリア・ボードウィンの朝は始まる。天蓋つきのベッド、真白いシーツの上で、薄すみれ色の髪がさらりと泳ぐ。

 眠気眼をこすりながら身を起こすころ、ちょうど砂時計が起床時間を告げるのだ。

 (うすぎぬ)のカーテンを持ちあげれば、アーリー・ティーの支度をしていたメイドがうやうやしく一礼する。

 

「おはよう。とってもいい香りだわ」

 

 ソーサーに乗せて差し出された今朝の紅茶は花やかにかぐわしく、水色(すいしょく)は赤味がかって鮮やかだ。昨夜は天候が芳しくなかったから、晴れの日を思わせる茶葉がセレクトされたのだろう。湿気の多い日は、芳醇な香りをいつもと違った趣で楽しめる。

 アフリカンユニオン産のとある銘柄をつぶやくと、メイドが「お見事です、お嬢様」と缶のラベルを見せた。

 はにかむアルミリアは、気恥ずかしくも誇らしくて、胸を張って紅茶を一口ふくむ。……やっぱり、アルミリアが淹れた紅茶よりずっと香り高くておいしい。 

 婚約者に振る舞ってあげたくて練習しているうちに、すっかり紅茶の味を覚えてしまったのだけれど、まだまだメイドたちの足許にも及ばない。

 ファリドのお屋敷でもお茶を嗜んでいるだろうにアルミリアの紅茶をおいしいと褒めてくれるマクギリスの気遣いに、嬉しくなる一方で情けなさも募ってしまう。

 

「マッキーは、今日こちらに戻ってくる予定よね?」

 

「はい。午前十時には〈ヴィーンゴールヴ〉にご到着と、当家執事が承っております」

 

「ほんとう? 予定より少し早いわ!」

 

 歓喜に声を弾ませたアルミリアは、身を乗り出してしまったことに気づいて、コホンと小さく咳払いをした。結婚を目前にした淑女の振る舞いは、もっと優雅ではくてはならない。

 姿勢をただして紅茶を飲み干すと、微笑ましげなメイドにソーサーを返却した。

 フィアンセの帰還を待ち焦がれていたことを知っているから、ボードウィン家の使用人たちの心遣いはあたたかだ。

 それがどこか腫れ物にさわるふうでもあって、なおさら軽妙に振る舞わなければと気が引き締まる思いもある。

 

 ボードウィン家は先日、長男ガエリオ・ボードウィンの葬送を済ませたばかりである。

 

 エドモントンで名誉の戦死を遂げた兄は、最期まで誇り高く、武官としての務めを全うしたのだと聞いた。〈ヴィーンゴールヴ〉をあげて執り行われた葬儀では、誰もがガエリオの早すぎる死を悼み、嘆き悲しんだ。

 のびのびと快活で分け隔てなく、清らかだったガエリオ・ボードウィン。年の離れた兄と死別し、アルミリアは目が溶けるほど泣き続けた。

 しかし家人が悲しむほどに屋敷の空気は重くなっていき、ボードウィン邸はガエリオがいたころの陽気さを失ってしまう。カルタ・イシュー嬢の戦死、イズナリオ・ファリド公の失脚——暗いニュースばかりが舞い込んで、アルミリアの母上もふさぎこんでしまっている。

 平和の守護者であるギャラルホルンがそんなでは、世界だって混迷に閉ざされてしまう。

 明るい話題として、マクギリスとアルミリアの結婚式が求められているのだ。

 だから立派なレディにならなければ。エドモントンの一件から多忙を極め、なかなか会えない婚約者を機嫌よくお出迎えすることが、今日のアルミリア・ボードウィンに果たせる責任なのだから。

 

 

 

 

 いつもより丁寧に身支度をととのえ、朝食を終えたアルミリアが向かったのは温室だった。

 剪定ばさみを手に、大輪の白百合を摘み取っていく。

 誇らしげに花開いたカサブランカは庭師が育ててくれたものだ。アルミリアにできるのは水を与えて愛でることと、うつくしく咲いた花を刈り取ることだけ。

 育て方を教えてほしいと乞うたけれど、お嬢様に土仕事をさせるわけにはと拒否されてしまった。

 そんな日々も、もうすぐ終わる。

 ぱちん、と鋏が茎を断つ。倒れてくる花をやわらかく受け止める。庭師の気遣いであらかじめ花粉を取り去られた百合はアルミリアを汚すことなく、それでも香しく咲き誇る。

 

(マッキーは、どんなお花が好きかしら)

 

 摘み取った百合を抱きしめ、寂しく微笑むアルミリアは、ボードウィン家で育てられてきた十一年の末にファリド家へと嫁ぐ。

 あなたはマクギリス様のもとへお嫁に行くのよ——と母に聞かされたのはアルミリアが八歳のときである。そのころには彼に恋をしていたから、青き(フェンリル)の花嫁として認められたのだとはしゃいでしまったものだ。

 立派なレディに成長したから選ばれたのではなく、結婚が決まった以上は淑女でなくてはならないだけなのに。

 

 この屋敷で、あたたかい家族に育まれてきた。いつか花嫁になるための準備期間を、父と、兄と、母とともに。いとおしい日々である。父ガルスも兄ガエリオも軍人であったから任務で留守にする日は多かったけれど、帰還を「おかえりなさい」のキスで迎えれば、しばらくは在宅でいてくれた。

〈ヴィーンゴールヴ〉にいるのならお見合いでも……と縁談が持ち上がった途端、はぐらかすように任務へ行ってしまうようになったのは、いつのころからだったろう。

 

 武官であったという兄がどんな仕事をしていたのか。アルミリアは何も知らない。危険がともなうことも知らなかった。火星に監査へ赴いて、それから不在がちになっていたガエリオが戻ることは二度となかった。

 お兄様『も』お仕事がんばって、と子供じみた意地悪をして送り出したあの日、どうして頬にキスをしなかったのだろうとアルミリアは後悔し続けた。軍人になってから疎遠がちだったカルタのことも、もっと話をしていればと悔恨が胸に刺さってじくじくと痛む。

 当たり前だった日常を恋しく思う。

 もう戻れないことが悲しくて、どうしようもなく胸が詰まるけれど、亡くなった戦士たちの誇りに恥じないように生きていくことが、残された者のつとめであるはずだ。

 

 

 マクギリスの帰還は午前十時と聞いたが、〈ヴィーンゴールヴ〉に戻ってくる時間が予定よりも早くなっただけで、アルミリアとの逢瀬の約束が早まるわけではない。

 待ちわびる足は落ち着かず、廊下の踊り場に出てはうろうろと迷ってしまう。立ち止まっては時計ばかり見てしまう。

 不意に、ボードウィン邸の前に見覚えのある車が停まった。ぱっと顔をあげたアルミリアは窓辺に駆け寄ると、身を乗り出しそうにガラスに両手を触れる。

 

(マッキー!)

 

 焦がれた婚約者の到着だ。車を降りたマクギリスは運転してきた将校と言葉を交わし、おそらく暇を出したのだろう、青い軍服姿の部下が一礼して去って行く。

 車を見送ったマクギリスは、腕時計を見て、そして空を見上げた。

 微かな風にブロンドが揺れる。きらきらときらめいて、まるで遠い世界の王子様のようだ。なのに彼は顔を伏せて、指先で前髪に触れる。まるで絶世の美貌を隠しているように、アルミリアには思えてならなかった。

 彼の目線の先に何があるのか、アルミリアにはわからない。ぼんやりと虚空を見つめるひとみは、鳥を見送っていたかもしれないし、それとも何も映していなかったかもしれない。

 ただ、悲しい目をしていた。

 マクギリスもまた親友を亡くして間もない身だ。兄とは幼馴染みであるとともに、仕事の同僚でもあったという。思いがけずファリド家当主に繰り上げられて、アルミリアには計り知れない心労もあるに違いない。

 

(マッキー……)

 

 かけられる言葉はなく、時計の針だけがカチコチと進む。

 そして約束の時間になって初めて、逢瀬を告げるチャイムが鳴った。執事が玄関を開き、客人を迎える用意をしている。

 アルミリアは鏡に姿をうつすと、両手のひらで両頬をつつんで、ぎゅうっと押し上げた。落ち着いたグレーのワンピースに、白いパンプス。喪服の時間は終わったのだから、沈痛な顔なんてしていられない。

 

(しっかりして、アルミリア・ボードウィン! わたしはフェンリルの妻になる女よ)

 

 とびっきりの笑顔で愛しい人をお迎えするのが、淑女としての矜持だ。手袋をはめて、その上から指輪をつける。白いグローブを戒めるように輝く金色のリング。婚約指輪だ。もう十一歳の子供ではいられない、いてはいけない。

 逸る足に落ち着きなさいと叱咤して、玄関へと駆け下りる。

 

「いらっしゃい、マッキー! お仕事お疲れさま!」

 

「ありがとう、アルミリア」

 

 飛びついてしまわないように、精一杯の背伸びをして駆け寄った幼いフィアンセに、マクギリスはやわらかく笑んで頬を寄せた。

 ただ身長差のある恋人のように。それだけで胸がいっぱいになる。

 

「おかえりなさい……っ!」

 

 ハグを交わした背中ごしに見れば、彼を運んできた車とは異なるリムジンが停車していて、運転手はギャラルホルンの軍服姿ではなかった。

 あの金髪の青年はマクギリスの部下ではなく、ファリド家お付きの運転手だろう。

 監査局での仕事のときは監査局の部下をともない、新しく異動した統制局での任務には統制局の部下を連れ、私用のときにはファリド家の従者に送迎をさせるよう、マクギリスは取りはからっているようだった。

 軍の内情はわからないけれど、カルタ・イシュー一佐の後任として地球外縁軌道統制統合艦隊の指揮官になるのだと噂に聞いた。

 

 

 ボードウィン家使用人たちに見送られ、アルミリアは温室で手ずから作った白い花束をふたつ抱えて、車に乗り込む。

 両腕いっぱいのカサブランカの花束は思いのほか大きな荷物である。マクギリスが手伝いが必要かと尋ねたが、アルミリアは自分で抱えていたいのだと首を振った。

 前々から約束していた今日の逢瀬は、デートだけれどデートではない。

 車窓から見える景色はほどなく、歴代セブンスターズが眠る霊園へとたどりついた。青く整えられた芝生に見守られ、ご先祖様たちが眠っている墓地である。アルミリアがここを訪れるのは、兄ガエリオの葬儀以来だ。

 ボードウィン家の紋章たる八本足の軍馬スレイプニールが描かれた門を開き、華奢なヒールで厳かに足を踏み入れる。

 

「お兄様、お爺さま、ボードウィンに連なる英雄諸卿。ごきげんいかがですか」

 

 花束を抱きしめ、アルミリアは丁寧に膝を折ると、碑の向こう側へと語りかけた。

 礼儀正しいしぐさで微笑む。

 

「ご先祖様がたに、今日は明るいニュースを持ってきたのよ。近ごろは悲しいお話ばかりだったけれど、もう大丈夫。わたし……、アルミリアは、このたび結婚することになりました。といってもね、お相手は以前もご報告したマッキーよ。でも、お式の前にもう一度お伝えしようと思ったの。おめでたいニュースは、何回聞いたっていいものでしょう? それに、次に会いにくるわたしはアルミリア・ファリドなのだもの。アルミリア・ボードウィンとして最後のご挨拶をしないといけないはずだわ」

 

 用意してきた報告を終えて、一度立ち上がる。今朝摘んだばかりのカサブランカの花束を手向けると、両手のひらを祈りのかたちにあわせた。

 

「……あのね、お兄様。お兄様が、亡くなられても……マッキーがね、娘婿としてボードウィン家を継いでくれるって、約束してくれたの。ボードウィン家はセブンスターズの一家門のままよ。このお墓も、わたしたち夫婦でずっと大切に守っていくわ」

 

 だから安心して、と、続けようとした言葉が、涙に吞まれてかすれる。泣いてはだめだと自制心で嗚咽を飲み込む。また子供だからと笑われてしまう。

 こぼれおちそうな悲しみを振り切って、アルミリアは踵を返した。

 カルタにも白い花を捧げなければならない。今日はそのために来たのだ。

 栗鼠(ラタトスク)の紋章が守るイシュー家の墓碑を振り返って、ふと、ひどく胸がざわついた。

 かつては姉のように慕ったカルタもまた、マクギリスに恋をしていた。セブンスターズの第一席イシュー家の誇り高き一人娘として、席次の低いファリドの庶子と結ばれることは決して赦されなかったけれど。

 花嫁を夢見る少女にとってマクギリス・ファリドとは、まるで絵本から出てきた白馬の王子様だ。透き通るブロンド、怜悧な碧眼。紳士的な立ち振る舞い。彼に焦がれる女性は数知れない。婚約披露パーティーでも、頬を寄せたいと近付く妙齢の淑女たちのドレス姿を、アルミリアは何度でも思い出す。

 うつくしい彼女たちから、彼を奪ってしまう。ボードウィン家という血筋と家柄だけを理由に、身の丈に合わない子供でしかないアルミリアがマクギリス・ファリドを手に入れる。

 ……だからみんなつらくあたるのだろうか。

 

「アルミリア?」

 

 ざわりと響いた潮騒がアルミリアの心をかき乱して、そして遠ざかっていく。

 

「マッキー、あのね、わたし…………」

 

 何かを口にしようとして、しかしアルミリアは首を振った。祈りのかたちに組み合わせた指先が婚約指輪に触れて、ぎゅうと握る。

 言いたいことは、本当はたくさんある。

 マッキーはどこにも行かないで。本当はお仕事にももう行かないでほしいわ。だって死んでしまうかもしれないんでしょう? 戦わなくていいなら、戦わないほうがずっといいでしょう? 今ごろどうしているのかって心配しながら待つのはもういやよ。あのね、マッキー。あのね。わたし、わたしは——。

 

 無責任なわがままを押しとどめるために、アルミリアはもう一度、みずからに言い聞かせるように首を振った。

 ガエリオもカルタも失って、悲しみの淵にいるのはマクギリスも同じだ。なのに、久々に会って何を話せばいいかわからないアルミリアのことも真摯に見つめていてくれる。子供の婚約者がいると笑われてしまう彼のためにアルミリアができることは、一日も早く立派なレディに成長することだ。

 花嫁となり、妻になり、母になる『役割』を果たせるなら、きっと誰も指差して笑ったりなどしないはずだ。

 

「何でもないわ。うんと素敵な結婚式にしましょうね!」

 

 今は笑っていなければ。家柄だけで選ばれたちぐはぐなふたりの結婚式は、また冷たい言葉の雨に晒されるかもしれないけれど。祝福してもらえるかはわからないけれど、それでも。

 

 あなたの帰る場所になるために、わたしはいつも笑っていたいって思うの。

 

 誓いをたてようと強がるのに、青いひとみからはころりと涙がこぼれおちる。

 アルミリア、と呼んだ静かな声が耳朶を打って、抱き上げられたことがすぐにわかった。マクギリスがお姫様抱っこをしてくれなければ抱きしめ合うこともできないのだ。

 

「慣れない靴では疲れただろう? 気付くのが遅れてすまないね」と、やさしい彼は赤くなったかかとを見つけて言い訳にしてくれる。

 

「マッキー、あのね 」

 

「うん?」

 

「だいすきよ」

 

 この世界であなただけが、わたしをわたしとして見てくれる。

 だからあなたのためにできることなら、わたしは何だってしたいのよ。




【次回予告】

 戻る場所なんてない。帰るとか、逃げるとか、生きるとか、そんな選択肢は最初から用意されちゃいなかった。
 道の途中で家族の命が手からこぼれていっても進み続けなきゃならなかった団長の気持ちが、今になって少しずつわかってくる。
 華は散った。それでも俺は、進み続けることをやめられない。
 次回、弾劾のハンニバル。
 最終章『ウィル・オー・ザ・ウィスプ』。

 俺たちで、光を描くんだ。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。