MSV. 弾劾のハンニバル《完結》   作:suz.

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019 過去の清算

“武器の卸売りから人材派遣、輸送の仲介役まで、金さえ出せばどんなものでも手に入る。”

 

 モンターク商会の謳い文句といえばそんなところだろう。ユージン・セブンスタークが仮面の女社長と会談してから二ヶ月が経とうとしている。あと一歩でライドの足取りがつかめるか――と思っていたのに、モンターク邸は焼け落ちてしまった。

 しかもギャラルホルンの夜襲で、だ。

 あれから明日で一週間が経つ。坂の上にある大きな屋敷が黒焦げになったのに、六日経ってもまだ何の報道もないなんて、クリュセは一体どうなってしまったのだろう。

 苛立ち任せにブロンドをがしがし乱して、ユージンは肺腑の底からため息をつく。

 

 地元の名士たちの不正が次々暴露され、職場であるバーンスタイン議長閣下のオフィスも大わらわである。未成年買春をやっていたという顧客データをモンターク商会が全宇宙の報道局に流出させたせいで、各政府関係者も事務所に詰めかけるレポーターのせいで、この一週間窓すら開けられないでいると聞く。

 一連の事件には一切無関係なクーデリアのもとにも問い合わせの電話がガンガンかかってきて、通信回線がパンクしている。

 

 ……いや、まったく関係がないとも言い切れないのか。

 モンターク商会がアリアンロッドの強制査察に遭った理由は、違法なドラッグの輸入だ。持ち込まれた薬物を使用していたのは、ほとんどが出席率を底上げしたい教育機関だった。

 火星連合政府が就学率の向上を掲げ、生徒総数と出席率に応じて補助金を出していたせいだろう。子供たちはドラッグ入りの給食を求めてうきうきと登校するし、学校の評判があがればあがるほど新入生も集まりやすくなる。学校も薬の売人も、子供たちも誰ひとりデメリットを体感しないwin-winどころかwin-win-winの関係だった。

 薬漬けになっていたのは学童だけではない。違法な風俗営業の疑いで暴かれたのは、見目麗しい少年少女を地下室に囲い、前後不覚のドラッグ中毒にさせていた売人どもの存在だった。〈ヒューマンデブリ廃止条約〉で失職した連中が、矛先を変えて再起したのだろう。

 

 結局、火星は無法地帯のまま、何も変わっていなかったのだ。

 

 職場ではチャドにククビータ、デクスターといった人当たりのいい頭脳要員を総動員し、受話器片手にペコペコ頭を下げ続けて、今日も午前は潰れてしまった。何だかもうずいぶん仕事らしい仕事をしていない気がする。

 あっちこっちで記者会見が開かれては、みな頓珍漢な言い訳をしている。記者の質問に首を斜めに振っては傾げ、要領を得ない。連合政府どころか、クリュセはしばらく停滞状態だ。元気なのは命知らずなジャーナリストくらいだろう。

 短気なお前に電話対応は無理だと事務室を追い出され、ユージンは窓のない応接室に追いやられるようにしてSPらしい(?)仕事を押し付けられた。

 ソファでは今朝方クーデリアのオフィスビルに現れたちょび髭の男が優雅に紫煙をくゆらせている。

 

「オイオイ灰皿はねえのかよ、ユージン元副団長ー?」

 

「あ゙!? お嬢のビルは全館禁煙だっつったろうがオッサン!」

 

(かて)ぇこと言うなって。この俺様が確たる証拠を持ち込みにきてやったんだぜ?」

 

 トド・ミルコネンはぺらぺらり紙束を揺らしてみせ、本物の契約書だと不敵に笑んだ。上から目線で脚を組み替えるしぐさが癇に障って、ユージンは「そうかよ」と吐き捨てる。

 だがしばらく見ないうちに白髪が増えたトドは、ユージンの記憶の中よりずいぶんと人相が明るくなったように感じられた。

 瀟洒なスリーピースのスーツ姿に、こなれた煙草とアタッシュケース。狸親父が、妙に馴染んでいて小憎らしい。目尻の皺は陰険そうだった印象を上書きするように、どこか茶目っ気のある笑い皺を深くしている。

 

「そいつが流出した顧客リストの原本ってわけか」

 

「おうよ」

 

 トドが胸を張ってみせる。その『確たる証拠』とやらは、ユージンにも見覚えがあった。要するに紙媒体の契約書そのものだろう。それも直筆の。

 

「だからあのときわざわざ紙とペンを……」

 

 モンターク商会のオフィスで、ローテーブルにセットされた上等そうな紙の契約書と飾り物のようなペン、インクの壷が脳裏に蘇る。直に見たときは地球圏から持ち込まれた貴族的文化くらいにしか認識していなかったが、確かにギャラルホルンの情報統制が行き届いた現在、()()()()()()()媒体としてこれ以上なく有効な証拠品だ。

 

 紙が貴重であるがゆえ、火星ではデータというデータが電子化されるのが常である。

 おかげで、銀行口座を開設できない子供や貧乏人は貧困から抜け出すこともできない情勢が長く続いた。

 現金で支払える店なんてスラム限定で、市街地にいけば『現金』なんて概念すらなかったという。クーデリアのような特権階級、ザックのような富裕層の生まれなら目にする機会もなかったと後から聞いた。

 当時、現金といえば貧乏人のものだったのだ。

 こんなもの焼けてしまえばおしまいだと目の前でなけなしの給料に火をつけられたことだってある。汚水のタンクにバラまかれ、欲しけりゃ泳いで拾ってこいやとゲラゲラ笑う一軍の大人どもの罵声は今も耳に残っている。

 路地裏で立ちんぼする少年少女の姿が絶えなかったのは、ほとんど物々交換のように生活していかねばならない金融システムのせいだ。食べものをおごってもらうため、屋根のある部屋に招き入れてもらうため、大人の靴を舐めて命をつなぐ。それが当たり前だった。

 

 CGSは男限定、かつ阿頼耶識システムの適合手術成功を条件に子供も雇っていたから、ユージンは生き残ることができた。IDを洗い出し、フルネームで銀行口座を作り、給金を振り込んでくれるという優良企業だったのだ、当時は。

 今にして思えば、月給は一軍の三〜五%程度しかなく、それも死ねば全額マルバ・アーケイ社長の懐に戻っていくのだからブラック極まりない。参番組は非正規雇用で社会保障もないし、産業医による治療も診察も受けられなかった。現金で給料を受け取っていた三日月は賢かったということだろう。

 それでも、あのころのユージンには破格の厚遇に思えたのだ。成長をうながすサプリメントが盛り込まれた冷たいポレンタだろうと食事があるだけありがたかったし、汗臭い蛸部屋であれ屋根の下で眠れるなら僥倖だった。

 給与から衣食住の天引きがあって月収二万ギャラー程度の手取りではあったが、大人の『ガス抜き』をほどほどに抑えるなり、一軍に頭のついた作戦参謀を置くなり対策をとってくれていたなら、オルガとて社長の椅子まで奪うつもりはなかっただろう。(社員も基地もすべて放り出して逃げ出したことは、もはや擁護のしようもないが)

 

 ないよりマシなものをかき集め、ユージンたちは大人になった。

 

 だから薬まみれの食事の何が悪いのか、今ひとつ理解できかねるのだ。

 学校では読み書きや計算を教えてもらえるのだろう。学費はタダ、制服は無償で配布、給食費もいらない。宿舎も無償で提供される。そこでは消灯時間から起床定刻までゆっくり眠っていてもいいのだろう。教師に因縁をつけられ叩き起こされて、サンドバッグとして便利に弄ばれたりはしないのだろう。

 仕事をしなくても食事があって寝床もあって、弾避けに使われて死ぬことも殺めることもない。上等ではないか。

 

 連合政府がラスタル・エリオンによる傀儡でも、命がないよりずっとマシだ。ギャラルホルンの軍事力に頼りきりの平和でも、テイワズにおんぶに抱っこの学校教育も、ないよりずっとマシだったはずだ。

 クーデリアが願った経済的独立が一〇〇%叶ったわけではなくとも、ひとまず脱植民地化は果たした。鉄華団残党も皆殺しは免れた。学校施設も充実し、すべての子供に教育が行き渡ることを是とする政府を作り上げた。

 当然、それだけでいいなんて思っちゃいない。ないよりマシ、それだけだ。

 鉄華団の復興よりも現状維持のほうがマシ。たとえいつ殺されてもしょうがない束の間の平和でも、帰る場所がある。真っ当な仕事だけでやっていけるようにもなった。血縁もない男所帯を家族と呼んで、守るためだの何だの喚いて命を賭けるだなんて馬鹿馬鹿しいことは、もうやめるべきだ。

 暁は健やかに育っているし、アドモス商会もカッサパファクトリーも経営は軌道に乗っている。

 もしもトドが持ち込んだ()()とやらが、この安寧を破壊しかねない災いの種であれば。遠慮なくギャラルホルンに売り渡す。状況の悪化を回避することこそが責務だ。そのためなら手段は選ばない。

 国家元首SPとして、今のユージン・セブンスタークにはその覚悟がある。

 

「俺が聞きたいのは、なんであんたが事務所(ここ)に来たかだ」

 

「証拠をおさえたんなら、やるこたァ決まってんだろ? 警察があんなザマじゃあ、クーデリア先生の事務所が一番確かな(スジ)じゃねえか」

 

 アタッシュケースをたぐり寄せると、パチンと見せつけるようにロックを解く。トドが手許から僅かに覗かせた中身は、ぎっしりと詰め込まれた――、ハッとするどく息を呑む。

 

「あんたの言いたいことはよぉくわかったぜ……。それじゃ、もうひとつ質問に答えてもらおうじゃねえか」

 

「おうおう、何でも聞いてくれ? 今の俺様は心が広いからな」

 

「……いちいち腹立つオッサンだなこの野郎……」と口角を苛立ちに引き攣らせたユージンだったが、そんなことはどうでもいい。「あいつはどこへ逃げた」

 

「あいつゥ?」

 

「ライドだよ。赤毛のガキだ。あいつは今どこにいやがる!」

 

「あぁん? モンターク商会は倒産しちまったから知らねえなァ」

 

「おい、知ってんだろオッサン! ライドはっ……他のガキどもは無事なんだろうな!?」

 

「俺はなーんにも知らねえ。あいつらはもう火星にゃいねーからな」

 

「なんだって……?」

 

 返す言葉を見失ったユージンに、優位に立ってやったとばかり、トドはにんまりと口角を釣り上げた。ジャケットの裡ポケットから携帯灰皿を出して煙草を押し付け、新たな一本に火をつける。

 ふうと優越の紫煙を吐き出した。

 

「七年もありゃガキはどうにでも育つってモンよ。おめぇもあいつらもみんなクソガキばっかだが、いつまでもガキのままじゃあねーだろう?」

 

 ぐっと二の句を喉に詰まらせながら、ユージンはどうにか「うるせえ」とうなった。あいつらがもう小さな子供じゃないなんて、そんなことは百も承知だ。

 だが、ユージンにとってライドは弟分のままだ。快活で、絵が得意で、チビどもにお菓子を配っていた赤毛のガキなのだ。年齢差が埋まらない限り一生変わらないだろう。だって、あいつは鉄華団の兄弟だった。兄貴が弟を心配して何が悪い? あいつらは守ってやらなきゃならないほど弱くないかもしれないけど、それでも。

 大事な弟分を庇護してやりたくて、何が悪い。

 二年も前からずっと、あいつらが目の届くところにいないことが不安でしょうがない。一日も忘れたことなんかなかった。

 

「ちくしょう……」と悪態がこぼれる。拳を握る。ライドたちは火星を離れて、ここじゃないどこかへ逃げたってのか。

 目の届くところで元気に生きていてくれれば他には何も望まないのに。せっかく真っ当な仕事だけでやっていけるようになったってのに。またユージンの気持ちを踏みにじって。

 

「なんで俺の言うことは聞いてくれねえんだ……ッ! オルガは復讐なんか望まねえ、もう戦う必要なんかねえんだって何回言っても聞きやしねえ!! お嬢がどんな気持ちで、俺らのためにっ……クソッ!」

 

 苛立ち紛れにソファを蹴る。頑丈な木枠を力任せに蹴りつけたせいで、革靴のつま先が派手に傷んだ。ああ。苛立ちに金髪を掻きむしり、グリーンの双眸には悔し涙が浮かぶ。情けなくなって拳で拭った。

 ふるえる指先を閉じ込めるように握りこんで、壁を殴りつける。

 

(俺たちはもう戦えねえッ……みんながみんなお前らみたいにタフじゃねえんだ……!!)

 

 頼むからもうやめてくれ。止まってくれ。懇願に等しい嘆きを、トドの前でぶちまけるわけにもいかずに嚥下する。咽喉は焼けつくようにひりついて痛む。

 家族の死を、もうこれ以上見送りたくないのだ。どう自己暗示をかけて諦めようと目を逸らしても、仲間が死んでいくことに、もう、心が耐えられそうにない。

 まなうらに焼き付いた戦場の情景に、ユージンは今も苦しめられている。指標(オルガ)を失い、理解者(シノ)を失い、手の中にはもう何もない。あるのは胸にぽっかり開いた大穴と、目には見えない心の傷だけだ。

 せり上がってくる嘔吐感を両手で塞いで封じ込め、ユージンは膝をついた。

 

 ぽたり、絨毯に涙が染みる。ひとりぶんの陰の中へ、ぱたぱたと雫が後を追うように雨が降る。フラッシュバックに喉が引き攣るが、慟哭はなけなしの意地でどうにか噛み潰した。

 オルガが見下ろしている。どうしたんだ、大丈夫か? 疲れてるなら休むか? ――だなんて、無邪気に。シノがけらけら笑っている。骨は拾ってやるからよと。たしなめるようにビスケットが苦笑する。

 無様にうずくまるユージンをのぞき込んだ三日月の青いひとみは、笑っていない。

 その隣から、いっそう冷たいグリーンアイズが、見限るように背を向ける。手の中の拳銃をユージンに向けてくれさえしない。

 

( ラ イド…………!)

 

 助けてくれ。もう赦してくれ――解放してくれ。幻覚の中、孤独な戦いを強いられ続けるユージンに救いの手は伸ばされない。

 嗚咽はトドが吐き出す紫煙よりも細く頼りなく、ふうと吹かれて霧散する。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 嫉妬、憎悪、汚辱に恥辱――消えない過去に縛られて、輝かしいはずの未来はすべて愚かしい過去の清算のみに消費される。

 

 俺たちの踏み出す足は、前に進んでいるだろうか。

 

 心を殺して、魂を売り払って生きるのが『家族の幸福』なら、()のしあわせは一体誰が願ってくれるんだ? 無抵抗で死ななきゃ罪がかさむのが『社会の秩序』なら、大人しく殺されてやるのが『世界の平和』なら、俺たち宇宙ネズミが生きててもいい場所なんて、どこにも存在しないのか。

 なあ、ライド。喰い物にされるばっかりの生活はもうやめにしようって、団長は鉄華団を作ってくれたんだよな。俺たちは居場所を守りたくて戦ってた。胸張って帰れる場所はもうないけど、俺たちは……俺はまだ、生きていいんだよな。

 だったら、俺は――。

 

 

 

 

  ▼

 

 

 

 

〈ヴァナルガンド〉の医務室にはふたたび沈黙が降りていた。

 何のために戦うのかを再考する、これは猶予なのだろう。ライドは壁にもたれかかって白い天井を見上げた。

 こうして目を覚まさないエンビのもとに集うのが日課になりつつある。耳に痛いほどの静寂に、規則正しく響くデジタルの心拍音。医療ポッドに頬杖をつくトロウも、一昨日くらいからもう一言も発しなくなった。医務室に来て眠り、当番の時間になったらふらっと起きだして、仕事を過不足なくこなしたら戻ってくる。

 束の間の平穏はどんよりと、鉛で満たした澱を泳ぐように重苦しい。

 一度はフロアに散ったオリガミの花を一輪とりあげたヒルメが、またため息をつく。

 エンビが目覚めたときのためにと日々の出来事をタブレットに書き付けていても、二行も進まないうちに、この文面をエンビが読んだらどう思うだろう――と立ち止まって、書いて消してを繰り返してしまう。

 

「なあ、ライド。俺らはこれからどうするべきなんだ?」

 

 無感動に目を伏せ、ヒルメが口火を切る。視線は花瓶に落とされたままだ。肩をすくめるライドも、敢えて目を合わせることはしない。

 

「さあな……俺らはお姫さんに雇われの傭兵だ。生き残ってから考えるさ」

 

「俺は、誰かに『間違ってない』って言ってほしかっただけだったんだ。戦うことを選んだんじゃなく、ただ認めてほしかった。だからエンビに、ライドに、お姫さんについてここまできた」

 

 自己正当化のためだ。醜い承認欲求だ。そのためにリタを死なせた。エンビまで殺してしまうかもしれなかった。

 

「それがどうした。俺だってギャラルホルンやら副団長たちが『間違ってる』って言われたらスカッとする」

 

「本当は向こうが正しかったとしても?」

 

「認められないものはある。赦したくないヤツはいる。全否定されたら腹が立つ。そういうもんだろ。間違ってたのは自分かもしれないって悩んで答えまでたどり着けたんだ、お前は強いと思うぜ」

 

 そうだろ、と、自分に言い聞かせるようにライドは細く嘆息した。

 誰も皆、誰かの正義にすがりたいのだ。悩むことは苦しい。責任を負うのは恐ろしい。それなら失敗しないように、誰かが敷いたレールの上を歩く従順な奴隷になってしまえば――と逃げだしてしまう弱さを、責めることはできない。

 潔癖なエンビは、そんな生き方は卑怯だと毛嫌いしていたが、だから正論のナイフを振り回したしっぺ返しを喰らってきたのだろう。

 

 罪に染まったこの手を未来に向けて伸ばしていいのか、誰もみな自問自答できずにいる。

 ここから何処へ行けばいいのかも。わからない。

 

 今までは生活のために戦っていたが、だから世界の波に流されたり振り回されたり、受動的な立場だったのだろう。欲しかったのは家族全員のあたたかい食事と、安全な寝床、それから家族の命が使い捨てにされない仕事。……見果てぬ夢だ。たとえアルミリアが『人として当たり前の権利』だと主張しようが、効力はすぐには望めない。

 同じ世界に生きるためには、価値観を統一する必要がある。だからこそ火星市民には『子供』と『少年兵』を別のものと認識させ、子供を愛し、害獣は殺すようにと刷り込みを行なっている。

 それが自然の摂理だとして、人間が動物の肉を『糧』と見なしてきたように。

 

 生来の悪者(テロリスト)であれ作られなかった命を捨て、ありとあらゆる屍から目を背ければ安寧は手に入るが、偽造IDで買った日常でさえ無抵抗の死を望まれ続ける。

 死に切れなかった孤児にとっては、生き続ける未来そのものが夢物語に等しい。

 

 元副団長ユージン・セブンスタークの判断も、ある意味では正しいのだ。

 眼前の敵は〈法〉や〈秩序〉ではなく創作された『民意』である以上、迎合するのが手っ取り早く平穏を得られる手段だろう。何もかも忘れて、責任転嫁してしまえばいい。諦めてしまったら楽になれる。鉄華団は反体制組織で、残忍で凶暴で、人々のしあわせを壊す害獣だったから殲滅された。それが世界のためだったんだ、粛正されるべき犯罪者集団だったんだ……とでも自己暗示をかけてしまえばいい。

 ギャラルホルンと一戦交えるには力が足りなかったのは紛れもない事実である。できないことをやろうとして殺された、愚かな子供にすぎなかった。

 武器一切を手放し、クーデリアの斡旋してくれる真っ当な仕事に就けば、成長して大人になれる。ギャラルホルンが統べる平和の片隅で、弁えた暮らしをするだけなら取り締まられることはない。

 そこでささやかな幸福を手に入れたいと願う気持ちもわからなくはない。

 

 ただ、それもひとつの人生だと思えるかどうかが『穏健派』と『強硬派』の溝になった。

 

 断絶の正体に気付くまでに余計な軋轢も生んだが、ユージンだってヤマギだって、もちろんライドたちだって、家族だった連中の不幸を望んでいるわけじゃない。

 ただ安心したい、それだけだろう。

 生存や笑顔という目に見えるしあわせの雛形に押し込んでしまえば、不安や焦燥に胸を掻きむしられることはない。

 

「……打って出よう」

 

 トロウの声が不意に、静寂を割る。童顔の中にあって一際鋭いダークブラウンの虹彩が、何らかの強い感情を押し込めようと煮えているのがわかった。

 気持ちは察せるが……、ライドはつとめて冷静に釘を刺す。

 

「だめだ、トロウ。エンビの目が覚めるまではこっちから動く気はない。当座は大人しくしてろ」

 

「逃げるのか? 諦めるのかよ!?」

 

「そうじゃない。今は勝負に出る時じゃないんだ」

 

「それじゃあ俺らはいつ戦うんだよ……? こんな真似されて、黙ってろっていうのか!? ずっと馬鹿にされて、足蹴にされて、消耗品みたいに扱われて、挙げ句にこんな……ッ!」

 

 眠ったままのエンビを見下ろして、耐えかねて目を逸らす。仮死状態と診断されたとはいえ目覚めない理由は判然としない。投与された薬剤のせいか、それとも受けた精神的苦痛のせいか。傷だらけの兄弟が痛々しくて拳を握る。たぐり寄せた両手の中には何もない。

 

「……やられっぱなしじゃ、いられねえよぉ……!!」

 

 殺してやりたい。殺してやりたい。思いつく限り酷い目に遭わせて、殺してくれと懇願されるまで家族の苦しみを思い知らせて地獄に突き落としてやりたい。――沈黙を守ってきたトロウがぶちまけた激情にも、ライドは静かに首を振る。

 エンビは仲間内では頭の切れるやつで、射撃の腕も確かだった。諜報活動にも長けていたし、頼りすぎていたのは事実だ。だからトロウも自責に駆られ、弔い合戦だと憤りを露わにできなかったのだろう。

 一等家族思いのトロウが今の今まで黙っていただけでもリーダーとして褒めてやるべきかもしれない。これまでよく堪えた、とでも。

 

 アルミリアについていってどうなるのか、いくばくかの疑念もある。世界に対して変わってほしいと願うことしかできない彼女に何ができるのかも不透明だ。手は打ってあるとのことだが、深窓のご令嬢の奇策が何をどのように変えるか、予想がつかない。

 それに〈マーナガルム隊〉は、アルミリア・ボードウィン嬢の権力と財力、ご意向なしには動かせないのだ。お姫様が大金持ちで、なおかつ人道主義者だからエンビは医療の恩恵を受けられている。処置が間に合わなければ間違いなく落命していただろう兄弟に対し『救命』という選択が公使できたのだって、結局は金の力だった。

 この〈ヴァナルガンド〉の医療ポッドでなければ生還できたかもわからない。たとえば〈イサリビ〉のような三百年前に開発されたモデルで、大したアップデートもされていないメディカルナノマシンでも救えたかは五分である。

 アルミリアにとって従業員に充分な医療を保障することが当然の義務でも、傭兵が使い捨ての肉盾にすぎない火星では破格の厚遇だ。それが現実であり、この醜悪な世界の『常識』だ。

 

「ここで動いても無駄に潰されるだけだ。俺らの仕事はお姫さんの護衛なんだぞ? この〈ヴァナルガンド〉を墜とさせるわけにはいかない。命令は『待機』だ」

 

「団長だったらっ……こういうとき意味のある仕事にしてくれただろ! なあ、くれよ、意味を! 作ってくれよライド!!」

 

 つかみかかる手も、すがるような目にもライドは取り合わない。

 トロウの剣幕に圧されることもなく、ただまっすぐに見つめ返して宣告する。

 

 

「俺はオルガ団長じゃない」

 

 

 宣言に続いて、空白。時間が止まったような静寂が降りた。

 見開かれた目がやがてぱちくりと瞬く。しぐさはいつにも増してあどけなく、トロウを幼い少年のころの面影に押し戻したようだった。

 そっか、と、嘆息する。

 

「……俺ずっと、ライドは団長になるんだと思ってた」

 

 どこかすっきりした顔で、トロウは大きく息を吐きだす。久しぶりの深呼吸、視界が澄み渡って行くような感覚。何度も握った手のひらに、突き刺さり続けた爪の痕。憑き物が落ちたような心地だった。

 

「でもライドはライドだ」

 

 俺が間違ってた。――そう穏やかにむすんだ言葉に重ねるように、アラートが鳴り渡る。艦内のランプが弾けるように赤く染まる。

 警告音の大合唱に身構えたそのとき、ブリッジからアナウンスが響いた。

 

『艦隊規模のエイハブ・ウェーブを捕捉! 総員、ノーマルスーツを着用してください――!』

 

 ウタの声が尻窄みに遠のいたのは、イーサンがマイクを奪い取ったからだろう。

 

『パイロットは全員MSで待機だ!! いいか、逸って飛び出すんじゃねえぞ!』

 

 

『警戒レベル最大! アリアンロッドの、おそらく本隊です……!』

 

 

「なんだって……!?」

 

 待ち受ける敵は、アリアンロッドの艦隊が第一、第二――、うごめく機影の最奥にはスキップジャックが泰然と構えている。いつの間に接近していたのか、この〈ルーナ・ドロップ〉を丸ごと吹き飛ばせるほどの戦力だ。

 三十分以内に開戦可能な距離で、支配者の銃口は狼の群れを殲滅しようと待ち伏せている。


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