MSV. 弾劾のハンニバル《完結》   作:suz.

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017 花と祈り

「……知りたくなかったことばっかりだ」

 

 ヒルメの嘆きが医務室の静寂に落ちて、そして沈黙に喰われた。

 ギャラルホルンが守る絶対安全圏に生まれて生きた民衆にとっては、あのラスタル・エリオン公こそが善なる平和の指導者なのだ。

 貧困を自業自得だと罵らせてくれる、待遇に不満を持つ強欲な労働者は圧倒的軍事力で一掃してくれる。経済圏が軍隊なんて物騒なものを持とうとしたときには、戦争を起こして警告してくれた。〈マクギリス・ファリド事件〉では卑しい男娼あがりの裏切り者を罰してくれたし、犯罪者集団も殲滅してくれた。〈ヒューマンデブリ廃止条約〉を締結し、少年兵(テロリスト)を根こそぎ駆除してくれたのだ。

 ギャラルホルン様おかげで平和を脅かすものはなくなった! ――と、諸手をあげて喜ぶのが正しい民衆のあり方らしい。

 まったく、やっていられない。

 

「あの……わたしがこんなことを言うのは、筋違いかもしれないのだけど」

 

 壁の華がわずかに声をうわずらせれば、ライドとヒルメが振り向いた。二対の眼光が鋭くて、アルミリアは思わず祈る両手を握りしめる。

 まるで狼のようだと、無意識のうちに指先は畏怖にふるえていた。

 狼。――厄祭戦よりもはるか昔に絶滅してしまった、群れなして生きる獣。賢く勇敢で、家族とともに暮らすイヌ科の肉食動物であったという。糧を奪われ、住む場所を追われ、やがて姿を消したと本で読んだ。マクギリスが遺してくれた紙の本だ。彼の蔵書がなければ、アルミリアは今も無知なままだったろう。

 歴史を記した本を読むほど、この世界にはさまざまな心があることを知った。

 

 確かに狼の牙は鋭く、爪は人の肉をやすやす切り裂く。異なる摂理で生きる人と獣が言葉を交わし、手に手を取り合うことは不可能に等しかったかもしれない。

 それでも。生き抜くために、家族を兄弟を住処を守るために抗って、そして散っていった彼らを省みる責任が人間にはあるはずだ。侵略者の向ける冷たい鉄の銃口にも果敢に立ち向かった彼らを忘れ、安逸と生きるなんて、卑劣だ。

 覚えていなくてはならない。居場所を守りたかっただけの戦士たちを、害獣と呼んで駆除しようとした『罪』の記憶を。

 アルミリアは青いひとみで現実を見据える。乙女のくちびるは理想を語る。

 

「しあわせを望む権利は、誰にでもあるはずなの。犠牲を踏みつけにする世界のほうが間違ってるのよ。罪から目を逸らしながら、しあわせになんて……なれないわ」

 

「いや、なれるんじゃないですか? 俺らを使い捨ての道具としか見てない連中は」

 

「ヒルメ、」

 

「何も知らないほうがしあわせだなんて、問題意識を持たないほうが正しいなんて、絶対におかしいわ。そんなの、偽りのしあわせよ……!」

 

「あなたがそういう考え方だから、俺たちはあんたを利用してるんですけど、わかってます? あんただって、少年兵(おれたち)を使ってギャラルホルンのやり方は『間違ってる』って証明しようとしてる。同じじゃないか。ギャラルホルンも、あんたも、俺たちも。『間違ってない』って言ってほしい、そのために都合の悪いものを否定したいだけだ」

 

「ヒルメ! 抑えろ」

 

「現状、俺ら『少年兵』は生まれたことも生きてることも全部ぜんぶ間違ってるんです。治安を乱す、悪者(テロリスト)なんですよ! 宇宙ネズミがあがいたところで正しいのは法と秩序(ギャラルホルン)で、作られなかった俺たちだって、上から目線の同情で生かして欲しいわけじゃない……!!」

 

 激昂のまま椅子を蹴飛ばし、ヒルメの長い腕がもがくように薙ぎ払う。ライドを押しのけたその手がバッと作り物の花を散らして、――ヒルメはようやく我に返った。

 医務室のフロアに散った、オリガミの花束。

 エンビを見舞うために、ひとつひとつ手で折られたものだ。ひざまずいてひとつ拾い上げると、いびつな折り目を丁寧に正した部分が目に留まった。赤い花、青い花。白や緑、オレンジ色。子供たちに教えながら、アルミリアが折ったのだろう。

 

「……ごめんなさい。俺、言い過ぎました」

 

「いいえ。あなたの言葉に傷ついたのは、あなた自身ではないかしら……。それに、あなたがたの力を借りてギャラルホルンを全否定しようとしたのは、本当のことです」

 

「俺からも、すいませんでした。俺らはお姫さんに雇われてる傭兵で、あなたの理想の賛同者ってわけじゃない。エンビは……頭のまわるやつなんで、俺らの中じゃ現状に反感持ってたんですけど。その結果がこんなじゃ、さすがに……その」

 

「ええ、わかっています」

 

 薄すみれ色の長い睫毛をそっと伏せて、アルミリアは祈る。弟分を思いやるライドの言葉は、雇用主(アルミリア)にかける言葉以上にやさしくあたたかく響く。

 どうして彼らは、生きることが罪科であるという冷たい棘を飲み下そうとするのだろうと、悲しくてならなかった。

 家族みんなに行き渡るだけの食事を、夜の眠りを、戦わなければ得られないものと彼らに教えたのは世界だ。圏外圏に生まれた少年たちを蔑み、搾取し、生きたいと願う自由さえも奪ってきた。

 無関心によって踏み躙られ続けた彼らは、夢見る未来でさえ『飢え』を想定する。家族みんなで囲むあたたかい食事を、餓死からの回避としか思っていない。眠るときには交代で見張りを立てるのが当たり前だと思っている。害されることが当たり前すぎて、哨戒のいらない夜を想像することもない。

 飢えないための食事と、夜警の合間に得る眠り。彼らが求めているのはそれだけだ。

 誰からも攻撃されないことを『平穏』と呼んでいる。

 奪う権利と奪われない自由を天秤にかけている異常性に気付くこともできない。

 

 彼らを――マクギリス・ファリドを――そんなふうにした世界を変えなければと思った。

 だからアルミリアはここにいるのに。

 

 当事者たちは泣きたくなるくらいに無欲だ。

 

 過ちを認めるとき、ともなう胸の痛みを思い出す。確かに自分自身を肯定してくれる人は、優しく、あたたかくうつるものだ。厳しい人よりも、赦してくれる人を信じたくなる。犯した過ちを責める人よりも、看過してくれる人こそが『正しい』のだと。

 誰しもそうだ、都合良く甘やかしてくれる言葉を求めてしまう。

 だからアルミリアは、子供だと嘲笑する者を赦さないと言ってくれたマクギリスを信じた。子供の婚約者がいると後ろ指を差される夫への申し訳なさごと受け止めてくれる彼への愛は深まっていった。

 免罪符を欲する弱い心を理解することはアルミリアにもできる。

 

 しかしこうも考えるのだ。

 アルミリアが子供であることは、恩赦を乞うべき『罪』だったろうかと。

 

 結婚はファリド家とボードウィン家の間で取り交わされた契約だった。なのに責められるのはいつもマクギリスとアルミリアで、年齢差があることなど百も承知で嫁がせたはずの父は娘を守ってくれない。おしめの取れたばかりの子供と、中身のないお人形だとひそひそ笑み交わす人々は、アルミリアの耳に触れないよう隠れるだけの罪悪感を持ちながらも、今もどこかで逆賊に利用された未亡人を憐み笑っているのだろう。

 ジュリエッタだって、生まれが()()と誰かが決めたルールのせいで自由に未来を選べない。女性ならばいつかは花嫁になるものと、敷かれたレールの上を葬列のように歩んでいる。

 出生地という非選択的要因によって地域的に継承させられた貧困でさえ自業自得だと人は上からものを言う。養父による虐待など()()()問題、略取された過去は()で、変革を望んだのは不当な暴力だと。阿頼耶識システムは禁断の力であり、()()()()()とまで。

 そうした支配的な『常識』のもと、社会秩序に根を張ったカースト意識が積極的に差別を肯定し続けている。

 

「生きたいと、しあわせになりたいと願う権利をあなたたちから奪ってきたのは、わたしたちギャラルホルンです。恥ずかしいわ。だって、わたしたちは三百年もの長い歳月をかけて、ひとを殺めなければ生きられない世界を作り上げ、守り続けてしまったのだもの……その罪をあなたたちに押し付け、弾圧している〈法〉と〈秩序〉こそ、糾されなければならない『腐敗』です」

 

 保護者を失った子供たちには然るべき保護が必要だろうに、そうさせなかった罪を、今こそ問わなければならない。身ひとつでスラムをさまよう子供たちが生きていけないことなど自明だろうに、救済の必要性から目を背けてきた人々が、彼らを傭兵にしたのだろう。少年少女が今日食べるパンのために働かざるを得ない惨状を創造してしまった責任が果たされない限り、世界は前には進めない。

 

 かつて鉄華団が隆盛し、イズナリオ・ファリド公によるアーブラウへの内政干渉が暴かれたとき、人々はギャラルホルンの腐敗を目にしたはずだ。当時、地球経済圏はギャラルホルンを重荷に感じていたという。アフリカンユニオンが、アーブラウが政治の力でギャラルホルンを止めたことはどれほどの希望になっただろう。

 鉄華団の活躍は、少年兵の有用性を世界に示し、ヒューマンデブリの増加を呼び込んだかもしれない。それは同時に、飢えに苦しみ寒さに震え、死を待つだけだった少年たちが武器をとる機会を得たことでもある。

 孤児院の整備、里親制度、行政による保護と支援――この世界に足りないものは何か、いくらでも目に入ってくる社会へと変わっていったはずだ。

 

 現に〈革命の乙女〉と謳われたクーデリア・藍那・バーンスタインは孤児院や小学校を整備し、人身売買の未然防止に努めた。火星連合政府発足後五年以内の識字率九〇%達成を掲げ、学校施設の建造や教員の招致といった具体的な対策を打ち出し、実現にまで漕ぎ着けている。

 具体的な目標を設定すれば努力は必ず実を結ぶ。

 それでも火星にはまだ、両親の遺産が尽きたからと保護施設を追い出され、路地裏をさまようストリートチルドレンが数多くいる。

 リタたちのような幼い子供たちが商品として売買されるだけでなく、孤児院や公立小中学校すらいまだ略取の温床だ。教育機関の乏しかった火星には発達や知能レベルに応じた教室編成が必要で、教師が何人いても足りない。需要と供給のバランス、モラルの低さが、悪質な虐待者をも「先生」と呼ばせてしまう。中絶手術に医療保険が利き、ほぼ無償での堕胎が可能になったことが裏目に出てしまったらしい。

 

 クリュセ市警は賄賂(チップ)を多く払ってくれる側の味方につく。ホテルの従業員だけでなく飲食店、医療現場でさえ謝礼が待遇に直結する。

 みな決して高級取りではないから、少しでも安定した生活を求めている。独立以前は無法地帯だった圏外圏の情勢はいまだ不安定で、今日ある仕事が明日も同じように続いているとは限らないのだ。騙し合い、奪い合い、法の目をかいくぐって命をつなごうとする。

 

 そんな世界でさえ、傭兵たちは裏切らない。ライドたちはみな信用を勝ち得ることに重きを置き、勤勉で、真面目だ。家族を大切に思えばこそ、支払われた額面を理由に約束を違えることはない。

 そんな少年兵たちと接するたびに、アルミリアは『違い』を思い知ってきた。ヒルメやトロウ、エンビは自身と同じ年ごろなのに、齢一桁のころから兵士として育ち、傭兵として完成した体躯と戦闘技能、戦略的思考力を持っているのだ。

 

 ギャラルホルンには、MSパイロットになるための学校がある。地上で戦う兵士、宇宙で艦隊を指揮する司令官、整備士に技術者――それぞれ別々の教練を受ける。

 優秀な演説家をMSに乗せて前線で戦わせたりはしない。機体を調整する整備士がおり技術者がおり、炊き出しをする給養員たちがおり、補給物資を運んでくる需品部隊が行き来するのが軍という組織だ。作戦の立案者も、現場の指揮官も、みなそれぞれの仕事をする。

 

 ところが〈ハーティ小隊〉の面々は、生身での諜報・暗殺任務、保護したヒューマンデブリたちの教練、果ては食事の支度まで二つ返事で快く買って出る。十代半ばのMSパイロットがそんな万能性を持っていること自体が異常だ。

 それだけの力を宿していなければ生き残れなかった世界のせいで、彼らはこうも強く成長したのだろう。長く続いた地球圏による搾取が育ててしまった問題を、少年兵たちは体現している。

 

「生きとし生けるものすべて、誰もが等しく生きる自由を持っているものよ。それを『命』と呼ぶの。なのに、わたしたちギャラルホルンが――」

 

「あの。その『わたしたちギャラルホルン』っていうの、やめませんか。あなたは何も悪くないでしょう?」

 

 ヒルメが眉根を寄せ、アルミリアが青い目をわずかに見開く。そしてそっと、薄すみれいろの睫毛がまたたいた。

 ゆっくりと、噛みしめるように首を横に振る。

 

「いいえ。直接的な加害者だけを責める時代は、一日も早く終わりにしなければならないわ。わたしはセブンスターズの一員ガルス・ボードウィンの娘で、英雄ガエリオ・ボードウィンの妹。そしてマクギリス・ファリドの妻です。血も、罪も、理想もすべてわたしのものよ」

 

 アルミリアだって、犠牲者を喰らってきた罪のひとかけらだ。手放すことはできない。

 だから今、少しだけ安心している。

 雇用主と傭兵の関係はいつだって非対称だ。もしもアルミリアが「解雇(ファイア)」と言い渡せば一言で収入源を失う。異論反論を述べる権利を奪われた労働者たちは、劣悪な労働環境にも耐え忍ぶほうを選んでしまう。不条理な現状か、死か――どちらがマシかと上から突きつけられてきた。

 生きた声を聞くことができたのはアルミリアにとって意味ある実りの一歩だ。

 

 アルミリアが行動を起こす力をマクギリスが遺してくれたから、今、ここにアルミリアを子供だと笑う者はいない。十八歳も年の離れたマクギリスとの結婚を『身の丈に合わない』なんて誰も言わない。

 そんな世界に生きたかった。連れていってあげると、彼は約束してくれた。蔵書を読みふけり、モンターク商会を引き継いで得た現在は、目指していた世界に昨日より確実に一歩、近づいている。

 

(今ならわかるわ、マッキー。わたしには世界が見える。あなたの理解者には……なれないかもしれないけれど)

 

 青い理想があふれさせた透明な涙が一筋、アルミリアの頬を伝って落ちた。泣いてしまってはだめだという自制心は、いつの間にか解けている。視界はクリアだ。くちびるは微笑んで、どこか晴れやかですらあった。

 医務室に張り詰めていた緊張の糸が緩んでいく。ライドが肩をすくめた。

 

「なるほど、あの女騎士がお姫さんをギャラルホルンの後継者に推すわけだ」

 

「女騎士……?」とヒルメが胡乱げに眉根を寄せる。バルバトスの首級を想起したのだろう。

 

「あの女もお姫さんの味方らしいぜ。俺たちにとっちゃアリアンロッドの総大将に違いねえけどな」

 

 この世界の行く末をアルミリア・ファリド嬢に託したいという一点においては同志だとしても、件の女騎士は主君ラスタル・エリオン公のために戦って死ぬ覚悟だ。オルガ・イツカのために武器を手放さずいるライドたち鉄華団残党『強硬派』とは相容れない。

 理想の賛同者ジュリエッタ・ジュリスは、世界に抵抗するための手段たる〈マーナガルム隊〉とは異なる足場の上に立っている。

 

「わたしにはギャラルホルンの『罪』を暴く責任があります。いつか遠い未来に……いろいろなことがあったけれど、それでもしあわせだったと笑える世界であるために」

 

 染み付いた罪が赦される日など来ない。免罪符などどこにもない。ギャラルホルンが法と秩序の番人であるなら、労働者を使い捨ての道具のように扱う現状を打破し、公正なる平和を実現する義務がある。過去から目を逸らして進んだ未来は、きっと噓だ。

 忘れることで自分だけ責任を逃れようとするなら、子供たちに目隠しをして無知蒙昧な人形に仕立てようとするなら。

 こちらにだって考えがある。

 

「罪を知らない人々が罪を知る人々を虐げて本物のしあわせが得られるのならそんな世界、いっそ壊れてしまえばいいのだわ」

 

 白い指先を組み合わせ、乙女のくちびるはあくまでも穏やかに平和を祈る。

 セブンスターズの一家門たるボードウィンの家の名の許に生まれ、三百年間で腐敗しきった楽園に育まれたアルミリアには、愛する男の理解者にはきっとなれないだろうけれど。理想の体現者にならばなれるだろう。

 怒りの中に生きたというマクギリスの人生を思う。ああ、今なら彼と同じ憎しみを抱ける。

 

 

 自作自演の断罪者(ギャラルホルン)を死刑台に送らなければ、(フェンリル)の安息はどこにもないのだと。

 

 

 それなら、わたしは――。

 青く青く澄んだひとみが見据える未来はただひとつ。武器商人の仮面はアルミリアにはもういらない。決意を閉じ込めた手のひらは、もういかなる神にも祈ることはないだろう。


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