誰もいない廊下は、どうやら居住ブロックのようだった。
なのに、重力区画ではないらしい。女騎士の腕の中、アルミリアは覗き見るようにあたりをうかがう。この月面基地とは一体どういう作りなのだろう。
誘導用のバーが手すりの位置で行き来しているのが見えたが、ジュリエッタは何につかまることもなくすいすいと無重力を泳いでいく。
(まるでお魚だわ……)
柔軟な挙動にすっかり感心しきって、アルミリアはほうとため息をついた。
そういえば〈方舟〉の格納庫で同じような感慨を覚えたことがあった。ヒューマンデブリだった少年兵たちが暮らしているところへ、連れていってもらったときだ。
扉をひとつ越えたらそこから先は重力がなくて、アルミリアはふわふわ、ふわふわ浮いてしまうばかりで歩くこともままならなかった。
でも、ライドの手を取って顔をあげればそこは、高い高い天井にまで続く、どんな水族館よりも大きな水槽が広がっていた。まるで、透明な海の底へ来たようだった。
ヒューマンデブリのお仕着せであるという白と赤のノーマルスーツで、子供たちが錦鯉のように悠然と泳いでいたのだ。怪我をして脚がうまく動かせない子供も、脚の発達が阻害されて地上では体重を支えきれなかった子供も、みんな一緒に。
ああ、重力の枷さえなければ彼らはこうも自由なのだと、胸がいっぱいになった。
あの言葉を失うほどの感動を、アルミリアはひどく印象深く記憶している。それでもなおモンターク邸に呼び寄せて一緒に食事をと望んでしまうのは、アルミリアのエゴだ。
無重力では食べ物だって冷たいレーションしかないし、ベッドもふわふわ浮いてしまわないようくくりつけるような作りになる。重力がないとすべてが宙に浮いてしまうから、そういう構造になるのは合理的かもしれない。でも、1Gではない環境においても快適に暮らせる衣食住がいまだに開発されないのはどうしてだろうと、アルミリアは残念に思う。
人々はどうしてエイハブ・リアクターで重力を発生させ、地球と同じ重力場に作り変えて、地球の文化をそのまま持ち込もうとするのだろうと。
地球生まれの人類は、1G環境に適応できるのかもしれない。だが、地球とは異なる重力環境でこそ真価を発揮する人々は、不自由を受け入れなければならないのか? 宇宙開発コロニーでも、たとえば海の底であっても、栄養価が高くておいしいものを用意できる料理人という職業が、確立されていいはずだ。重力がなくても安全であたたかな眠りを保証してくれるベッドも。
重力を発生させることも大事かもしれない。エイハブ・リアクターがそれを可能にしてくれているけれど、それでも、無重力用の安寧があってほしいとアルミリアは思う。
無重力でこそ自由にあれる子供たちが望んでくれるかは、まだわからないけれど。でも、せっかく重力の枷から解き放たれた彼らが食事を制限されたり、冷たく硬い寝具しか選べないなんて。そんなの、不平等だ。
どこにいても自分自身に合った生き方を選べるような『選択肢』に存在していてほしい。
二本の脚で歩く生活でも、無重力を泳ぐ生活でも。あるいは車椅子でも。どんな暮らしを選んでも、足りないものなど何もない世界であればいい。どこへでも行けて、どこにいても人が人らしく、幸福を追い求められる世の中になればいいのにと、願ってやまない。
(でも、それっていつ選べばいいのかしら。後になって変わることは、きっととても難しいわ……)
思案に沈んでいると、不意に、とある部屋の前でジュリエッタがしなやかに旋回した。人魚が人間へと変化するような挙動を経て、靴裏の磁石を器用に使って立ち止まる。
小さなドア、個別にロックがついている。インターフォンはないらしかった。
「両手が塞がっているので……」と、ジュリエッタが端切れ悪く解錠コードを耳打ちする。
どうやら、アルミリアがロックを解除しろということらしい。鍵開けの役目をもらって、ちょっぴり嬉しくなったアルミリアは、内心でごめんねとことわって、リタを抱きなおした。
指先でパスコードを入力すると、空気が擦れるパシュ、という音とともに扉がスライドする。
中は暗く、一歩踏み込むことで灯りが点った。やはり重力はない。見渡すまでもない一室は、単身者用のワンルームのようだった。誰の部屋だろう……というアルミリアの心中を察知するかのように、ジュリエッタがこたえる。
「わたしの部屋です」
アルミリアをベッドに腰掛けさせるようにおろしてから、ため息混じりにジュリエッタはヘルメットを取り払った。ついでに窮屈なまとめ髪もざっくりと解いてしまう。
麗しきブロンドの女騎士、ジュリエッタ・ジュリス。ギャラルホルン最大最強の艦隊、音に聞こえた月外縁軌道統合艦隊〈アリアンロッド〉の総司令官だというのに、彼女は一般兵と同じ間取りで寝起きしているらしい。
「気を遣わないでください、どうせ寝るだけの部屋です」
「ありがとう……ございます。でも、どうしてわたしをここへ?」
「あなたの身に何かあったら、きっとあの方が悲しみますから」
無感動な返答は、まるで独り言のようだった。
「お兄様は、わたしの死を悲しまれるかしら?」
「わかりません。わからないけれど、もし――……何であれ、わたしは、あなたを死なせるわけにはいかないのです」
マクギリス・ファリドの戦死直後、あの男は実にすっきりとした顔をしていた。まるで憑き物が落ちたみたいに。戦闘後はアイン・ダルトン三尉の脳を焼き切って動かなくなった愛機〈ガンダム・キマリスヴィダール〉をいたわり、ヤマジン・トーカに礼を述べたと聞いた。もう
そんな彼が――英雄ガエリオ・ボードウィンが――実の妹の死体を目にしてどんな顔をするのか、ジュリエッタにも想像つきかねる。悲しむか、悲しまないか。泣くか、泣かないかも。兄妹の情や家族愛といったものが、彼の中でどのようなかたちをしているのかも。
予測不可能だからおそろしいのだ。
「正直、あなたが〈ヴィーンゴールヴ〉を離れてくれてよかったと思っています。『死んだ男のことは忘れろ』なんて、誰の口からだって聞きたくはない」
後半は、どこか八つ当たりめいた投げやりさでジュリエッタは吐き捨てた。
死んだ男。――ジュリエッタにとっては、ガラン・モッサをも意味する。ジュリエッタが師と仰ぐ傭兵は〈ヴィーンゴールヴ〉の生まれで、ラスタルとは士官学校時代の同期であったことを話には聞いたものの、ジュリエッタが出会ったときには既にIDも何もかも捨て、ラスタル・エリオン公を影から支える密偵だった。
ギャラルホルン内での立場のことは、ジュリエッタにはわからない。ギャラルホルン特有のルールもすべて理解しているわけではない。
だが、ジュリエッタにとって『ひげのおじさま』は育ての親だ。血のつながった両親よりも思い入れのある男である。父親よりも父親らしく、
アルミリアならば
心の底から慕ってきた傭兵は、死んだ。
鉄華団に殺された。今から八年ばかり昔のことだ。彼の落命は任務中の出来事だったし、存在すら捨てて旧友に尽くすことを決めていた男を偲ぶ資格など、ジュリエッタにはありはしない。
まぼろしはまぼろしとして消え、無に還った。もう戻らない彼を悼み、嘆き、もう一度おじさまに会いたいと泣き叫びたいジュリエッタの悲嘆も、同じ無に帰さなければならない。
そんな複雑な胸のうちに追い打ちをかけるように『忘れろ』だなんて。絶対に言われたくないとジュリエッタは思う。彼は命の恩人なのだ。家族を亡くしたジュリエッタを拾い、食べ物を与え、教育を受けさせてくれた。何もしてくれなかった善人よりも、救ってくれた悪人にこそ恩義を感じる。当然の心理だろう。
思い出という心の砦を守るのはジュリエッタ自身だ。こればかりはラスタルにだって踏み荒らされたくない。
だからアルミリアにとっての『マクギリス・ファリド』もそうなのだろうと、気を回すことくらいできる。
「ジュリエッタさん……」
これまで抱いていたあなたの印象とずいぶん違うわ――と、喉まで出かかった言葉を、アルミリアはこくりと嚥下した。
誰にだって、故人を偲び、懐かしむことくらいある。
「あなたは、お兄様とご結婚なさるの?」
「さあ。ラスタル様が望まれるなら、わたしに異論はありません」
うっそりと笑んだジュリエッタの横顔は、傭兵を慈しんだ乙女の悲しみよりも、よほど冷たく冴え渡っていた。
ラスタル・エリオン個人の私兵という立場にあるジュリエッタは『准将』という椅子に座るほどの栄誉栄達を叶えてなお、後ろ盾を持っていない。
なぜって、ラスタル・エリオンという男が、あくまでも個人的に
新体制となったギャラルホルンは代表一名をトップに、『
〈マクギリス・ファリド事件〉後は『統制局』管轄下の戦闘部隊に限り――それもMSパイロットのみ――民間、および圏外圏、またコロニー出身者の志願・登用が認められるようになった。
尖兵となるならば出世の道は開かれるが、それは出自の
コネがなければ出世どころか、生活さえ覚束ない。一方で『監査局』や『貴族院』といった部署はより身内主義を顕著にし、右手では賄賂を断りながら左手できっちり受け取っている。(昔はまったくの野放しだったのだから、表の顔を取り繕うようになっただけマシなのかもしれないが……)
ともあれ、ジュリエッタは民間の出身。所属はアリアンロッド。万が一にもラスタルがいなくなるようなことがあれば、ジュリエッタはすべてを失ってしまうのだ。地位も名誉も仕事も居場所も、何もかもすべて。
そして今日、衝動的にこう感じた。
復讐者は、いつラスタル・エリオンの喉笛を喰い破るかわからない――と。
体じゅうの血液が温度を下げたような、ぞわりと這い上がるような、それは恐怖だった。焦燥かもしれない。未知の暗闇にひとり置き去りにされたような、得体の知れない不安感が襲ってきた。
後ろ盾のないジュリエッタは、従者として主君よりも先に死ななければならない。でなくば生きたまま何もかも奪われるだろう。ジュリエッタはだから、恩人であり養父であり、時の支配者であるラスタル・エリオン公より先に死に損なってしまった場合――思いがけず生き残ってしまった場合――の手を打っておく必要がある。その緊急性を肌で感じさせられた。
もしガエリオ・ボードウィンと結婚できれば、ジュリエッタの所属は自動的に『貴族院』に異動となる。他部署とは違って貴族院は、当主が亡くなっても後継者に仕えることができるシステムだ。やがて次なる主君となる嫡男は、ジュリエッタみずから産めばいい。
セブンスターズ各家門の使用人らは先祖代々お仕えしてきたというルーツが信頼に直結するため、一世代で成り上がれるポストは『妻』一択。
民間出身の正妻はこれまでいなかったようだが、ガエリオが望んでいるというなら問題ない。英雄ガエリオ・ボードウィンの発言に異を唱えられるのは、現体制のギャラルホルンではラスタル・エリオン公とガルス・ボードウィン公たったふたりだけだ。
もしもジュリエッタがガエリオによって娶られ、子供でも産めれば、ボードウィン家が新たに後ろ盾になってくれるだろう。男の子が生まれれば跡継ぎとなり、女の子が生まれればセブンスターズの内々で嫁に出される。どちらにせよ貴族院が生活を保障してくれる。それがただ問題を先延ばしにするだけの浅知恵であっても。
どうにか生きていける。女であることを利用し、子供を道具にすれば何とか生き延びることができる。
アルミリアを助けたのも、同じ理由だ。
「何にせよ、わたし自身の保身のためです。できれば戦いの中で死にたいですが、それはわたしが決めることではないので」
とつとつと吐露された打算が、まるで自傷のような苦笑で締めくくられる。
〈レギンレイズ〉の高機動発展型に搭乗するジュリエッタは、もう
MSでの出撃が許可される作戦は、決して多くない。兵隊として対等に戦えそうな相手も、この世界には鉄華団残党くらいのものだ。ヒューマンデブリという尖兵を奪われた海賊は保身のため欲をかかなくなり、弱体化させられた海賊が返り討ちに遭わないように、それでも非正規航路をくぐり抜けようとする船団を襲撃するようにと民兵への締め付けが日に日に強くなっていく。
テイワズやタントテンポ、モンターク商会などの流通網から旧型量産機が数多市場へ流れているというのに、腕のいいパイロットは戦闘職に就けないよう規制が敷かれ、粗悪品も見分けられない非力な労働者が小さな反乱を起こしては鎮圧される繰り返し。
三日月・オーガスのように自在にガンダムを駆るパイロットはいなくなった。
アミダ・アルカのような判断力と射撃精度に優れたパイロットももういない。
悪魔を討った女騎士ジュリエッタ・ジュリスが一番強くないと都合が悪いからと、他を弱体化させて、仮初めの最強に祭り上げられているのが現状である。
生きる場所も、死に場所も、何も見えない暗闇をさまようような日々を送っている。今回アルミリアが鉄華団の生き残りを護衛として同伴していて、ああ、わたしはまだ戦場で戦士として終われるのだ——と、ほっとしたくらいだ。
ジュリエッタの胸中を慮って、アルミリアの心は悲しみに似た痛みでいっぱいになった。
お兄様をよろしくお願いします、なんて。とても言えない。MS操縦の腕ひとつで成り上がった凛々しき女騎士とギャラルホルンじゅうが彼女を持ち上げているのに。当のジュリエッタは居場所を得るため、ただ生きていくためだけに、こうも多くの苦悩を抱えているのだ。
白く血色の褪せたアルミリアのくちびるが
「すべての人々が愛され、笑っていられる世界は、作れないものでしょうか……。大切な人を愛して、手の届く子供たちを慈しんで……そういう世の中にはできないのでしょうか」
「どうでしょうね。ギャラルホルンにとってどうでもいいものは、愛されてはいけないルールですから」
まるで組織を見限ったかのようにジュリエッタが微笑した。けれど、目は少しも笑っていない。リタを見つめて、そして痛ましげに目を伏せる。
金色のまつげは剣先のように鋭く、化粧をしない目許が無感動にまたたいた。
生きる場所は、すべてギャラルホルンが決めるものだ。鉄華団の居場所は戦場のみと決められ、閉じ込めるように殲滅された。残党たちも、ジュリエッタでさえ、支配者によって定められた場所でしか生きることはできない。
希有な美少年に生まれたことを利用し、待遇に不満を抱かない
ところが、マクギリスだけが夜ごと性的に搾取されていたという
中でも破格の寵愛を得ていたのがあのマクギリス・ファリドだ。ただ金髪碧眼がうつくしいだけの男娼を、正式な養子へ、そして後継者の椅子さえ与えるという好待遇に、
あいつは裏切り者だ。
それが七年前、醜悪なるこの世界が出した答えだ。
あれは卑しい男娼で、火星生まれの孤児だった――と養父が得意げに暴露したとき、誰もがイズナリオ・ファリド公の肩を持った。
血もつながらない孤児に名前をつけてやり、生まれの悪さ、身分の低さにもかかわらず教育を与えてやり、養子にまで迎えてやったというのに、立場を弁えず暴力革命に踏み切った逆賊。親不孝という重罪を暴かれ、マクギリス・ファリドは准将という階級を剥奪され、世界から弾劾された。
怒りの中に生き、そして破滅した男の死に顔は、穏やかさとは程遠かった。この世界に失望し、諦観しきった碧眼を陰鬱に伏せていた。
最期の最後まで抗いたかったのだろうブロンドの美男子は、かつての親友の腕の中で息を引き取ったという。
その亡骸は、尊厳を奪い尽くされた残骸だった。荼毘に付されたとはいうが、それもどういう経緯で行なわれたのやら。
「その遺体は、わたしが責任を持って葬ります。ファリド公のクローン体ではと疑われるのは、あなたの望むところではないでしょう」
「ありがとうございます、ジュリエッタさん……!」
金髪、ライトグリーンのひとみ、火星生まれの孤児――という条件で九歳まで生き続けることは限りなく不可能に近い困難だ。アルミリアが連れていたという情報だけでも、マクギリス・ファリドのクローン説は容易に成立する。
受け取ろうとノーマルスーツの両腕を伸ばせば、白魚の腕がびくりとこわばる。緊張に身を硬くしていることには、アルミリア当人が誰より無自覚だろう。無意識の奥底で、理性よりも直感的にジュリエッタを拒否しているのだ。よく見れば頬は青白く、くちびるは色を失っている。この状況でアリアンロッドの指揮官が信用できないのは仕方のないことだと、まつげの剣先をそっとおさめた。
「その子供は、ファリド公の聖遺骸として担がれる可能性があります」
はっとアルミリアが瞠目する。逆賊として断罪された彼を聖遺骸とする者が――革命の徒が、この世界のどこかにまだ残っている。そのことを、ジュリエッタは言外に告げたのだ。
革命思想は潰えていなかったのかと、アルミリアの双眸にあつい涙が集まっていく。
「ええ」とジュリエッタは微笑する。一方で、頭の中の冷静さを司る理性は、そうまでして勝ち馬に乗りたいかと浅ましい民間出身者をあざ笑っている。
血に汚れ、屍肉を抱きしめてなお高潔なアルミリアを直視しかねて、踵を返す。ジュリエッタはそして、おもむろにクローゼットを開いた。
「わたしの予備のノーマルスーツをお貸しします。これに着替えてください」
そうしたら、小さな遺体はアルミリアのドレスにくるんで、骨のかけらひとつ残さないように焼き尽くす。どうか幼い魂が、生前の痛みや苦しみを忘れ、あるべき場所へ還れるように。
どこへいっても信用のないジュリエッタでも、司令官としてそれくらいの権限はある。
状況が飲み込めないのかパイロット用のノーマルスーツを見つめるばかりのアルミリアに、ジュリエッタは不思議とすっきりした気持ちで笑いかけることができた。
「あなたには帰りたい場所がまだあるのでしょう?」
そしてそれは、ここではない。
今のギャラルホルンにはないどこかへ、アルミリアは帰ることができる。
ならばジュリエッタにできるのは、この心やさしいお姫様を然るべき場所まで送り届けることだけだ。