ファリド家のハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉、そして〈ガンダム・バエル〉を買い取るためにギャラルホルン月面基地を訪れたアルミリアたち。しかし、ラスタルはそれらを引き渡すつもりはないという。
支配者は預言する。
『罪』を知れば、心の安寧は妨げられてしまうと。
何も知らず、考えず、ただ与えられた役目に準じて生きてこそ人は『幸福』に終われるのだ――と。
010 反撃開始
俊足がフロアを蹴る。
敏捷な宇宙ネズミがふたり、ビスコー級クルーザー〈セイズ〉のタラップから飛び出し、駆ける。
武装は両手で構えた拳銃ひとつ、あとは直感と肉体が武器だ。発煙筒が作り出した白い闇を迷うことなく突っ切って、エンビ、トロウは一直線にそれぞれの愛機を目指す。
身を低くしてマシンガンの雨をくぐる。闇雲に掃射するだけでは当たるはずもない。フロアを蹴るふたつの足音は実に身軽で、侵入者を見失って慌てだす兵士の靴音にばたばたと紛れて行方不明だ。視界の悪い戦場、撹乱ならば阿頼耶識使いにこそ分があるというもの。
すばしっこい宇宙ネズミに傷をつけるなら混戦ではまず不可能である。狙っても狙わなくても、凶弾の犠牲になるのは空間認識能力に乏しい側だ。
よし、これで――とライドがタラップを駆け上がろうとした、そのときだった。
ぐわんと空間ごと振り回されるかのように、足許が揺れる。揺れ、というにはあまりに凶悪な鳴動をともなって、ドックが傾いていることが体感できた。床下で巨大な獣が大口を開けているかの地鳴り、そして断続的に基地を殴りつけるかのような爆発が起こる。足の下から迫り上がってくる不穏な気配。
重力が解放されたのかと思ったが、違う。
ドックどころの話ではない、月面基地そのものが崩壊しているのだ。
……おかしい、ヒルメの狙撃はまだのはずだ。エンビたち実動部隊は生身だし、携帯している手榴弾に要塞そのものを破壊できるレベルの威力はない。
(自作自演か!? まさか老朽化部分を爆破して、基地ごと放棄するつもりじゃ――)
はっと気付けばラスタルの姿は消えている。いや、これはチャンスと思うべきだと駆け出そうとしたとき、アルミリアが腕の中で身じろいだ。
「いやっ、待って!!」
悲鳴はしかし、ライドに向けたものではない。
突き上げるような震動によってひび割れ、不安定に傾いていくフロアの上で、ごろり、ずるりと強制的な寝返りを打たされた金髪。わずかに閉ざし損ねたまぶたの奥から濁ったライトグリーンがのぞく。白くなくなったジャケット、半ズボンから突き出る棒きれのような脚が置き去りになってねじれる。
ずる、ずる、とすべり落ちていく痩身が、緩慢に遠ざかっていく。
次の瞬間には、煙に隠れて見えなくなった。
「リタ!!」
「お姫さん――!」
薄すみれ色の髪が舞い上がる。ライドの手を振りほどき駆け出した残像のように、散った涙の粒。宙に浮いたまるい水滴が物語るのは、今度こそ重力が解放されたということだった。
心なしか酸素も薄く感じる空間を、ライドの舌打ちが鋭く鞭打った。地響きは増している。ピシピシピシと砕ける音も四方八方から聞こえてくる。天井が崩れるのも時間の問題だろう。
そしてついに壁を走った稲妻模様。
「戻れ! お姫さん、そっちは危ねぇ!」
幼い遺体をようやく抱きしめたアルミリアへ、叫ぶ声は届かない。
ガクンと嫌な振動があった。突き上げるような衝撃とともに、一際巨大な稲妻がフロアを駆け抜けてくる。迫る。速い。あっと声をあげる猶予もなく亀裂はライドとアルミリアの間を分断した。
裂け目を飛び越えようにも重力は1G未満、……だが体感するに、六分の一というわけでもなさそうだ。一歩間違えば着地点を見失う。少なくともこの重力場はエイハブ・リアクターの制御によって発生させられている。
(慣性制御システムはまだ生きてる……投棄はされないのか? 一体どういう――!)
一瞬の思考、生身で飛ぶには既に遠い。爆発とともに流入した風の影響でまだら模様に薄れる白煙の向こう側にはノーマルスーツを着用したアリアンロッド兵士の気配がある。リタを抱きしめるアルミリアを追って近付けば、ライドだけ射殺されかねない。そうなればアルミリアが巻き込まれる可能性も出てくる。
ラスタル・エリオン公本人ならまだしも、一般兵はアルミリア・ボードウィン嬢を襲撃するわけにはいかないはずだ。
ライドはふたたび苛烈に舌打ちすると、背にしたタラップへ駆け戻ることを選んだ。俊足が不安定な足場を蹴る。すぐさま、革靴の足音を察知した銃口が撃ってきた。
『撃て撃て!』と好戦的な号令が響いてくる。マシンガンの咆哮に背を向けるなど、屈辱以外の何ものでもない。苛立ち任せにスーツの合わせに手を突っ込めば、とめていた窮屈なボタンが勢い余って弾け飛んだ。
ハーネスに仕込んだ拳銃を引き抜く。セーフティを解除するまでコンマ数秒、振り向きざまに三発お見舞いすれば着弾の手応えが聞こえてきた。
「当たんじゃねーか……ッ!」
まるで、三日月・オーガスが導いたみたいに。鉄華団の節目節目に立ち会ってきた拳銃は、今回もまたライドを守ってくれた。
かすめた程度に銃弾を浴びつつも、悪魔の加護を実感できれば怖いものなど何もない。あるのは背筋が伸びるような緊張感だけだ。何発か牽制を放ちながら金属質のスロープを全速力で駆け上がる。カンカンカンと高鳴るライドの足音を回収するかのように、ビスコー級クルーザー〈セイズ〉のタラップが繰り上がっていく。
飛び込みの要領でハッチの中へと転がって、跳ね起きて最後にもう一発お見舞いし――、わずか一八〇秒で〈セイズ〉は動き出した。
予定よりも早い。ブリッジのウタも相当焦れていたのだろう。このままデブリ帯に逃げ込めば、ライドも
ライドは壁の通信パネルを殴りつけた。
「ブリッジ!!」
大至急、姫君の救出作戦を練らなければならない。
▼
せっかちな
俊足を駆り立てて月面基地の廊下を抜ければ、
この月面基地は厄祭戦以前から存在するそうで、しかも今回の取り引きで乗り付けたドックは老朽化が進んでいる。脆そうな壁を手榴弾でぶち抜いて突破できるのは都合がよかった。
兵士との交戦を避け、施設の脆弱さを突く。
宇宙ネズミにもそれくらいの頭はあるのだと、奴らも思い知ればいい。
エンビはヘルメットの奥で好戦的にくちびるを舐めるとバイザーを開いた。そして手榴弾をひとつ取り出すと、剥き出した犬歯でピンを引き抜く。壁に向かってブン投げる。入れ違いにバイザーを閉ざし、的確な射撃によって射抜けば、エンビの目の前に立ちふさがっていた壁に直径二〇インチほどの風穴が開いた。
空気が流出する渦の中へ、臆することなく身を投げる。
吸い込まれ、放り出された向こう側にはエンビの搭乗機、鮮紅色の
V04vm–0191 〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉1号機。
厄祭戦末期に九機のみ製造されたというヴァルキュリアフレーム、その断片をかき集めた継ぎ接ぎの発展機だ。
ぐるんと滑りでたエンビが曲芸のように一回転し、つかみとったのはコクピットの緊急解放レバーである。手首でコックをひねれば、ガコンと音をたてハッチが開放された。
すかさずシートまで滑り込むとコクピットハッチを閉ざす。もう一方の手で起動をかける。背中をぶつけるように、阿頼耶識システムに接続――起動完了。
『こちらアルフレッド!』
吠える。呼応するように、トロウの搭乗が確認できた。
『
刹那、一撃の閃光が飛来する。ヴァルキュリアライフルの狙撃が返事のように狙い澄ました一点を撃ち貫いた。
〈グリムゲルデ・ヴァンプ〉2号機、ヒルメ機は頭部センサーを開いてモノアイを露出させた『
操舵士ウタ、砲撃手イーサンほかブリッジオペレーターも含めて〈ハーティ小隊〉は全員それぞれの持ち場についたようだ。
そして戦闘準備もできた。
バーニアをふかして飛び立つエンビの機体は、目が覚めるような鮮紅に彩られている。一瞬にして監視カメラの視線が集まるのが肌で感じられた。びりびりと伝わる緊張感と敵意。害意。戦意、あるいは純粋な闘志。
かつてマクギリス・ファリドが駆ったオリジナルの〈グリムゲルデ〉を記憶する者の目には、この姿がどのように映るのか。
両腕のマニピュレーターでハンドガンをつかむ。主武装は二挺拳銃、右腕の延長線上にはヴァルキュリアブレードを展開。
そして腕装甲がスライドし、――リアアーマーと合体する。
変形によって現れたのは、グライダー状の両翼だ。蝙蝠を思わせる鋭角なフライトユニットは、重力と大気の中を滑空するだけが能ではない。
紅い身体、藍の翼。翼と同色で染め抜かれた左肩の稲妻、右肩の
狼とは群れるものだという。
ハーティという名の狼は、今もどこかで月を喰おうと猛っている。
だからエンビたちは、憎悪の名のもとに集ったのだ。
『
餓狼の号令が鋭く響く。トロウの3号機が《
力を手放さなければ進み続けることができる。抗い続けていれば、いつかは手が届くはずだ。そう信じている。だからエンビは手を伸ばすことをやめない。
この手で勝ち取ってやるのだ、必ず。
おれたちの『本当の居場所』を。
▼
「こっちへ!」
呼び声が聞こえる。びくりと細い肩を跳ねさせたアルミリアは、恐怖で錆びついた首をブリキ人形のようにまわして、あたりを確かめる。予定外に混乱したドックで、アルミリアはライドとはぐれてしまったのだ。
視界を遮っていた濃霧が晴れ、足場がなくなっていたことを知ってしまった。
アルミリアは今、ひとりぶんだけ残されたトレーのようなフロアの破片の上にいる。少しでも動けばバランスを崩してしまうだろう。この流氷がひっくり返ったら、どんな暗い海の底へ落ちていってしまうのだろう。
抱きしめているはずの愛し子はぐんにゃりと脱力していて、冷たい。恐怖が背中を這い回るようで、脚がすくんで動けなくなってしまった。
怖いけれど、死神の足音が聞こえるようでとてもおそろしいけれど、アルミリアがつなぎとめていなければリタの遺体が無重力に流されてどこかへいってしまいそうで、抱きしめる腕をゆるめられない。なのに、これ以上の力をこめたら、何かおぞましいことが起こりそうで――。
流れ出る場所もわからない涙でおおきなひとみをいっぱいにして、ようやくふりあおいだ先には、金髪。
(マッ キー……?)
いや、違うとすぐにわかった。
まとめ髪の女性は、マクギリスともリタとも違う、青灰色の双眸でアルミリアを見つめている。アルミリアひとりが漂流するための足場しかなくなってしまったドックの床に、靴裏の磁石で着地する。
スカートの端を踏んづけてしまい、「失礼」と短く詫びた。
「ご無事ですか、アルミリア様」
「ジュ リエッタさん…………?」
「安全な場所まで誘導します。早くこっちへ」
「あ の……わたし、この子を置いてはいけません」
「構いません。わたしはあなたを運びますので、あなたはそれを落とさないでください」
ジュリエッタの両手が伸びて、アルミリアのええ――とも、いえ――ともつかない声はそのまま途切れた。
さっきライドはひとりしか抱えられないと言ったが、重力さえなくなってしまえばジュリエッタの細腕でもアルミリアひとりくらい運べるのだろう。両腕に抱きかかえられば、アルミリアはすんなりとフロアから浮いた。
かつてマクギリスがよくしてくれた、お姫様抱っこだ。
(ライドさんは、いつもお
元鉄華団の面々は、誰を運ぶときもたいてい肩に抱えあげるお米様抱っこなのだ。兄弟みたいで微笑ましい。
ふふ、と不思議な笑みがこぼれた。極限の緊張状態から解放されると思いがけず笑ってしまうのは、こういう心理なのかもしれない。
ジュリエッタの華奢な腕はノーマルスーツの冷たさで覆われており、だからこそ付着した血液が滞りなく跳ね返されていく。
兄ガエリオとの結婚も噂される、民間出身の女騎士。長く伸ばしたブロンドをきりりと束ねあげ、凛とシャープな横顔は軍人のそれである。アルミリアを支える腕は、一見折れそうに細いのに、薄くとも柔軟な筋肉で覆われていることが伝わってくる。低重力だから運べる重量とはいえ、力強い戦士の腕だ。
身を委ねるように、アルミリアはそっと目を閉じる。
戦う体躯かそうでないかを、見分けられるようになったのはいつからだろう。
【来世使える! 弾ハンde外国語講座】
■Hati(古ノルド語) Hate(英語) ヘイト(日本語) ...憎しみ
■Vamp(英語) ...つぎはぎ、焼き直し、吸血鬼、靴のつま先部分 他
(※ヘルムヴィーゲ・リンカーが"Reincarnation"からということで、グリムゲルデ・ヴァンプは"Vampire"からとりました)
■Almira(女性名) ...姫、誠実な、先に生まれた、貴族の淑女 他
(※おそらくアルミリアの原形。名付けデータベースによって梵語由来、刺語由来、西語由来など諸説あり、"アルメリア"が由来とする説もありましたが地名か植物名かはわかりませんでした語学力が来い)