では。
囮という言葉が出たとき、ユグドミレニアの魔術師たちの視線は卓の上を彷徨った。
庭園の追跡を優先させる以上、虱潰しに探すという方針は時間がかかるため取れない。
狩りやすい獲物に見せかけた囮でアサシンを誘い込んで、潜ませたサーヴァントたちで殲滅する。それが手なのは分かってはいるのだが、逆に言えばアサシンも作戦を予期しているだろうということだ。
現にユグドミレニアとルーラー側はアサシンの城への襲撃を防げずに、一度裏をかかれているのだから。
けれど、アサシンも“黒”を討つつもりなのは間違いないから、こちらの作戦に敢えて乗ってくるとも考えられる。
確かなことは、囮が誰であれその人物は危険を伴うということだ。
サーヴァントが囮をできれば良いのだが、気配であからさまに罠と悟られてしまうだろう。流石に大っぴらに歩くサーヴァントを襲撃するほど、アサシンが短絡的な訳がない。
この場にいる中で一番死ににくい生身で、アサシンの獲物である優秀な魔術師に擬態できる人間が誰なのか、それももうとっくに分かっている。
「囮なら俺がやるが……」
ノインがそう言うと、魔術師たちは目を逸らしたり頷いたりと各々な様々に反応する。
それを横目に見ながら、ノインは言葉を続けた。
「けれど正直、俺にアサシンが引っ掛かるか分からない。顔を見られているし、戦ってもいるからだ」
問題はそこになる。
デミ・サーヴァントという存在は予想されていないだろうが、人間の気配をしていながらサーヴァントと戦える特殊さを持つことはアサシンにも分かったはずだ。
そんな存在がうろうろしていて、仕掛けてくるのだろうか。
「何だよ、それじゃ役に立たないじゃないか」
「ロシェ!」
フィオレが尖った声を出し、ロシェは横を向いた。
霧の異常を察知し、篭っていた工房から出てきた所をノインに庇われた彼は、そのまま引きこもる場所に戻らなかった。その様子からして、ユグドミレニアの魔術師としては持ち直していたらしい。
が、やはり師の願いを壊し自分が罵った張本人に庇われて守られたという事実が簡単に飲み込めないらしく、ノインにだけ妙に当たりがきつかった。
英霊としての風格らしいものが無い分、そういう感情を向けやすいのだろうとノインは考えていたし、自分にだけロシェの感情の矛先が向いて、ルーラーやライダーたちに行かない限り特に何かを思ったりはしない。
むしろ、尊敬する相手を喪った哀しみからこれだけ早く立ち直れたことは良かったと思うし、それができたロシェに驚いていた。
ライダーが腕組みをして真面目な顔で言った。
「……変装するとか?ほら、女装とかしたら分からないんじゃないかな。ノインってボクと同じくらいの体格だしさ」
「いやいやいや、いやいやいや、何を言っている。無理だろう」
体格だけで上手い変装ができる訳がない。
それに何なんだ女装って、とノインはぶんぶん手と首を振った。
「えぇえ〜?ノインなら行けると思うけどな」
「ライダー、真面目に考えて下さい」
「むぅ、ひどいぞルーラー。ボクは真面目だってば!」
「尚更駄目じゃないですか……」
ルーラーが頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てる。
それで、セレニケの死という事実で重くなる一方だった空気がやや軽くなったのをノインは感じた。
カウレスが一つ咳払いをする。
「女装はともかく、サーヴァントの気配を隠して動けるのはそいつだけだろ。……囮なら俺がやるから、ノインが隠れて護衛ってのでどうだ?」
「ゥウ……」
カウレスが言うと、それまでじっと黙っているだけだったバーサーカーは、眉をひそめながら彼の服の裾を引っ張った。
カウレスは一度黙ってから、バーサーカーに聞かせる意味も兼ねてかゆっくりした口調で続けた。
「姉さんはアーチャーのマスターとして知られているだろ。それにゴルドのおじさんとロシェより、俺の方が足が速い」
「ゥウウッ……」
しかし納得が行かないのか、バーサーカーは唸っている。カウレスは困ったように茶色い髪をかいた。
そこに静かな声が響いた。
「待て。……囮なら、俺がやる」
ジークだった。
ルーラーとライダーがぎょっとしたように目を見開く。
「ちょ、マスター、本気かい!?」
「本気だ。……俺はアサシンが許せない。あいつの霧で仲間が一人死んだんだ。仇を取りたいと思うのはおかしいか?」
いつも無表情なジークの眼が燃えていた。
外にいたホムンクルスたちのうちの一人、少女の姿をしていたジークの仲間が、霧の毒で殺されていたのだ。ただそこにいただけで巻き込まれ、少女は死んだ。
それを許せないとジークは静かに激しく怒り、アサシンを憎んでいた。
「おかしくないが、危険だぞ。分かっているのか?」
「分かっている。誰がやっても、これは危険だろう」
それなら自分からやるという意志のある人間が行うと、ジークは言った。
名乗りを上げたカウレスも本音で言えば囮がやりたい訳ではない。
ジークもカウレスも、サーヴァントを相手にして生き残れる確率なら有り体に言うと、然程変わらず低いのだ。
それにどちらもマスターでもある。それなら、意志があるかないかで決めることは道理ではあった。
「でも、でもさ……君がそんなことしなくても」
けれど、道理がその通りでも納得がいかない。バーサーカーもライダーも同じようにマスターの安否が心配なのだ。
また空気が淀みかけたとき、急にルーラーが手を上げた。
「あの、一つ提案があるのですが―――――」
そうして彼女から告げられた案に、誰もが驚いたのだった。
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ふと、会議の終わったその夜少女は目覚めた。
微睡みから緩やかに意識が浮かび上がって、覚醒する。目を開けると、暗闇に沈んでいる見慣れない天井が見えた。
「聖女、様?」
少女、レティシアはその名を口に出した。
レティシアは眠っていた。アサシンへの対策を話し合う会議で一つの提案をルーラーに対して言ってから、彼女は内側に籠もっていたのだ。
いつもならルーラー越しに外界を見続けるのにそんなことをしたのは、ただノインの顔を見れなかったからだ。
ルーラーを通してレティシアのしたある提案で、ノインは呆然とした顔になっていた。
まさかそんな表情をさせてしまうとは思っていなくて、ついレティシアは幼い子どもが頭を抱えて丸くなるかのように閉じこもった。
そうして会議が終わり、各人が明日に備えて引き揚げた。ルーラーは睡眠を取るため部屋に戻り、レティシアも同じく眠る。
しかし、数時間ほど眠ったルーラーの意識が軽くレティシアへ接触してきたのだ。
目覚めて外を見た方が良い気がする、と。
だからレティシアは自分としての意識を持ち、自分の体で三度目の覚醒をした。
音を立てないよう、借りている部屋の扉を開ける。廊下には月に照らされたガラス窓の格子の影が落ちて、不思議な紋様を描いているように見えた。
静かだが、城の全員が眠りに付いている訳では無い。魔術師たちは各々何かの作業に取り組んでいる。
それでも、レティシアのいる廊下は彼女の
靴音が聞こえるくらいには静かだった。
ルーラーの借りた部屋は、ホムンクルスたちが眠っている場所に近い。すぐに彼らの眠る場所につく。
そこにはジークと、彼のサーヴァントになったライダーがいる。彼らが眠っている大広間の片隅をレティシアが覗くと、ライダーは毛布をうっちゃってジークに抱き着くようにして眠っていた。
レティシアの中で、ルーラーがライダーに怒った声を上げている。
―――――もう、ライダーったら!
そんな聖女の声にレティシアは胸の奥が暖かくなるような気持ちになる。
そっと足音を殺して近寄って、ジークとライダーに毛布をかけてから、レティシアは辺りを見渡した。
ジークの横には空いた寝床が一つある。毛布は丁寧に畳まれていて、その上に絵本だけが乗せられている。
―――――そこは、ノイン君が使っている場所だと思います。
ルーラーは教えてくれたが、当人の姿は無かった。
「おい、ルーラー。そこで何をしている?」
急に話しかけられ、レティシアは驚いて飛び上がりそうになった。
振り向くとそこにはトゥールがいて、無表情にレティシアを見下ろしていた。彼女が慌てて口を開こうとした気配を察してか、トゥールは人差し指を唇に当て、声を抑えてほしい、という仕草をする。
気付いたレティシアが何度もこくこくと頷くと、トゥールは小声で言った。
「……ジークに会いに来たのか?」
「ええと、あの……」
トゥールはレティシアの視線を辿って空の寝床を見ると、納得したように肩をすくめた。
「ノインの方か。彼ならさっき出て行った」
「え?……どこに?」
「さあな。だが、サーヴァントの気配を探ればルーラーのお前なら分かるだろう」
当たり前だが、トゥールはレティシアをルーラーと思っていた。
「あ、そ、そうですよね。うっかりしていました」
トゥールにやや胡乱気な眼で見送られながら、レティシアは大広間を出る。
ついおどおどした声で言ってしまったことに頬を抑えて息を吐いてから、レティシアはふと窓の外を見た。
何かの影が過ぎったように見えたのだ。
窓から下を見下ろすと、確かに動いている人影が見えた。
城の外、開けた場所で目にも止まらないくらいの速さで動き回る人影が二つある。
空中で交差した後、彼らは距離を開けて止まった。それでレティシアには、彼らが誰だか分かった。
片方は黒い髪の少年で、片方は若草色の装束の青年である。
「ノインさんに、“黒”のアーチャーさん?」
レティシアはつい呟く。
まるでそれを合図にしたかのように、彼らがまた動いた。
少年が踏み込みレティシアの視界からその姿が消える。だが、青年はあっさりと少年の腕を取って投げ飛ばした。
鞠のように跳ねた少年は城壁を蹴って無理に軌道を変え、離れた所に着地―――――しようとして先回りしていた青年に、襟首を掴まれて地面に叩き付けられた。
地面が撓む。
その瞬間をレティシアは確かに見た。
地面に大の字になって倒れたのは少年。彼は、一度両手で悔しげに顔を覆った後、何も無かったかのように起き上がって、青年に丁寧に頭を下げた。
作法に則っているようなものではないけれど、真っ直ぐな感謝の念が込められている。そういう礼だった。
青年は満足そうに微笑んだように見えた。
彼は一言二言少年に話し掛け、少年が頭を上げて首を傾げると、そのまま霊体になって消え失せる。
後に残された少年は、サーヴァントの装束を解く。
辺りを見回してから転がっている瓦礫の上に腰掛けた。そのまま何をするでもなく、足をぶらぶらさせながら星空を見ている。
―――――行かなくて、良いのですか?
レティシアはその一言で我に返った。
「邪魔にならないでしょうか?」
―――――そんな訳、ありませんよ。
窓のガラスに優しく微笑むルーラーの姿が映っているように見えた。
背中を押されたようにレティシアは歩き出す。見張り台へ繋がる階段から外へ出ると、冷たく澄んだ夜気を感じた。
下を覗くと少年は変わらずそこにいた。階段を降りようとしたところで、足元の小石に靴が当たり、乾いた音が響く。
途端、梟のように首を巡らせて少年が城壁を見やった。
無表情が綻び、赤い眼がレティシアの姿を捉えて見開かれる。
「……レティシア?」
自分の名前を呼ばれた少女は気恥ずかしそうに微笑みながら、小さくノインへ向けて手を振った。
喧嘩をしていた訳でも何でもなく、アーチャーに教えを乞うていたとノインはレティシアに説明してくれた。
アーチャーは『神授の智慧』というスキルを持っている。
これは英霊としての特殊な出自に由来する以外のスキルを、マスターの同意があれば他のサーヴァントに与えることができるという破格のものである。
とはいえ、ほとんどの英霊は一つの完成体故に英霊にまで昇華されるのだから、まず新たなスキルを求めないし、聖杯大戦のような形でもない限り、そもそも他のサーヴァントに教えを授けるようなことは起きない。
だが、ノインはサーヴァントでもあるが未熟で完成には程遠い。逆に言えば成長の余地があった。
だから案自体は前から考えられてはいた。が、ダーニックを斬っている彼をそこまで信用して良いのかと、アーチャーのマスターであるフィオレが躊躇っていた。
けれどアサシン襲撃の際、辛うじて残った記録でノインが失敗したとはいえセレニケを守ろうとしていたこと、ロシェを庇っていたことが分かった。
自分を拷問にかけ、普通なら恨んでいるだろうセレニケ相手でもそういう行動を取るのならノインは信用に足る。
フィオレはそう判断し、アーチャーに指示を出した。
思いがけなかったことをアーチャーに言われ、ノインは戸惑ったものの受けることにしたそうだ。
「スキル……とは一つの魔術のようなものですのね?どうして殴り合いに?」
他の教え方は無かったのですか、とレティシアが尋ねると、ノインは鼻の下を手で擦りながら簡潔に答えた。
「格闘術のスキルだからな」
実際にやらなければ覚えられないでしょう、とアーチャーが言ったそうだ。
様々なスキルを持つ大賢者がノインに授けることにしたのは格闘の術だった。
ノインとて戦闘型のサーヴァントと融合しているから無手で戦えない訳ではない。だがスキルにまで昇華されるほど完成していない。
故に槍を手放してしまうと君は途端に脆くなる、とアーチャーに指摘され格闘を伝授されることになった。
レティシアが見ていたのはほんの一部だけで、アーチャーに数時間あしらわれ続けていたそうだ。
「でも、お陰で覚えられた。十全に、とはいかないかもしれないけどな」
そう語る少年はどこか嬉しそうだった。
彼の隣に座った少女は、頬杖をついた。
「男の子は、皆さんやっぱりそういうの好きなんですか?殴り合いとか……」
「いや、別に好きな訳ではない。ああいう人に何かを教えて貰えたのが、嬉しいんだ」
ロシェの気持ちが少し分かった、とノインは苦笑しながら言った。
「それなら先生と呼ばないんですか?アーチャーさんは気になさらないと思いますよ」
レティシアが言うと、ノインの眉が少し下がった。
「……俺はそうは呼べない。彼はフィオレのサーヴァントだから、俺が言うのは何だか妙だ」
どう妙だとは言えないが、とノインは困ったようだった。けれどすぐ、思い付いたように少年は顔を上げた。
「レティシアの先生にも、彼みたいな人はいるのか?学校に行っているんだろう?」
「え?……ええと」
頭の中に何人かの人たちの顔が浮かぶが、幾ら何でも、神話の中の大賢者と比べてどうこう言える気がしなかった。
けれど、ノインはレティシアの話の先を促すように黙ったままだ。
ぽつぽつと、この事態に巻き込まれる前の日常を少女は語る。記憶を手繰るうちレティシアの言葉は滑らかになり、ノインは首を横に倒したまま聞いていた。
何となくその仕草で、レティシアにはノインが猫の子みたいに見えた。喩えるなら、塀の影にできた暗がりからこっちをじっと覗いている、黒い仔猫だ。
自分がそんな風に見えているなんて、きっとこの人は思いもしていないんだろうな、と思うと胸の奥に灯りが一つ点ったように感じた。
レティシアは彼女にとっての他愛もないことを語って、ノインはすべてを聞いた。
「あ……すみません。私ばっかり話してしまいました」
ふと我に返ってレティシアが言うと、ノインは慌てたように首を振った。
「そんなことない。楽しかった。謝られても……その、困る」
「そうですか?」
「そうだ。俺はきみの話が聞いてみたかっただけだから」
何気なくノインから、レティシアは頬を押さえて横を向いてしまった。
「レティシア、どうかしたか?俺は、何か変なことを言ってしまったか?」
「……いいえ。ノインさんはそういう人なんですね。私、少しだけあなたのことが分かりました」
頬を押さえていた手を離して、レティシアはノインを見た。
「俺のことが?」
「はい」
少年は自分のことを尋ねられると、すぐきょとんと戸惑い顔になる。迷い子のようになってしまう。
レティシアにはそれが寂しかった。何か言いたくて、口を開く。
「あ、あの、ノインさん。ノインさんはさっきアーチャーさんに何を言われていたんですか?」
「……それも見ていたのか」
「す、すみません。覗き見するつもりじゃなかったんです」
分かっている、とノインは頷く。
別に隠さなくちゃならないことでもないから、と言葉を続けた。
「名前を、早く見つけなさいと言われたんだ」
己の中の英霊、力を貸してくれている『彼』の真名を得なさいと、アーチャーは言った。
ルーラーにただ聞くのではない。自分の内側にいる『彼』に問いかけ、答えを自分で得なければならない。
「誰かに与えられては意味がなくなる。が、名前を得て力をきちんと借りられたなら、まだ強くなれるから」
そうすることは君がこれから先、生き残る力になると告げられたそうだ。
真名を知ることをノインが試したことは無い訳ではなかった。けれどいつも上手く行かなかったから、いつしか諦めていた。
そうアーチャーに言うと、彼は微笑んで告げた。
今のあなたならば可能性はある、と。その言葉を、ノインはもう一度信じることにしたそうだ。
「真名を……知らないのですか?」
「ああ。知らない」
知らない誰かの力を受け入れて戦うなんて怖いのではないのか、とレティシアは声を失った。
彼女もルーラーを宿しているけれど、それは彼女があの聖女ジャンヌ・ダルクだと分かっていたからだ。
もし誰か分からなかったなら。全く知らない英霊に体を貸してほしいと言われたならば、自分は頷けたのだろうか。
そのレティシアの不安を見て取ったのか、ノインはあの笑みを浮かべた。へらりと気の抜けた、悲しくなる微笑みだった。
「明日、アサシンを討伐できたならそれから瞑想でもして名前を尋ねに行く。……自分の内側に行くっていうのも、変な話だけどな」
「明日ですか?」
「明日だ。そのためには、明日の夜もこうしてここに帰って来なくちゃならない訳だが」
そこまで言った所で、急にノインは足元の小石を拾うと、ひょいと投げた。
弧を描いて飛んだ石は数メートル離れた大きな瓦礫に当たる。
「うひゃっ!?」
ぴょんと飛び出たのはライダーと彼に手を引かれたジークである。
驚く少女と頬杖をつく少年に、ライダーはにこにこと、ジークはややばつが悪そうに笑みを浮かべたのだった。
ライダーとデミ少年の身長は一センチ違い。
デートをやや近距離で見守る役に決定。
ギリシャ系格闘術を履修。