では。
ミレニア城塞に不吉な白い霧が立ち込めるほんの少し前のことだ。
結果的に、“黒”のアサシンの狙いに最初に気付いたのは、カウレスだった。
ルーラー、アーチャーたちと合流したカウレスは、各々が調べた先で見た遺体の状態を突き合わせた。
ライダーとカウレスが考えたように、魔術師たちの中には効率的に魔力を摂取できる心臓をただ抉られて殺されている者と、何かの情報を引き出す為に拷問されてから殺された者がいたのだ。
犠牲者の選別を行っている時点で、アサシンのジャック・ザ・リッパーは血に狂った殺人鬼ではない。
おまけに一度相対したアーチャーとフィオレの記憶から、自分に関する情報を根こそぎ抹消する、何らかのスキルか宝具まで持ち合わせているのだ。
そこまで暗殺者として優秀なサーヴァントが、拷問で一体何を手に入れようとしたのかが重要になる。
カウレスの使った降霊術で死者の念を再生した結果、拷問されている魔術師は城への潜入方法を聞き出されてから殺されていたことが分かった。
つまり“黒”のアサシンの狙いは、ミレニア城塞への侵入。そしてマスターの暗殺である。
隠れ潜み続けるのではなく、本気でアサシンは自分以外の“黒”を潰そうとしていたのだ。
それを悟ったとき、カウレスは全身から血の気が引く思いがした。
そうと分かれば、城に取って返さなければならない。城にいるサーヴァントは、バーサーカーとノインだけ。マスターはフィオレとセレニケがいる。
降霊術を行った地下から飛び出し、カウレスは外への階段を駆け上る。
「アーチャー!城に急いで戻ってくれ!アサシンの狙いは城にいるマスターだ!姉さんが危ない!」
姉と繋がる携帯の番号をカウレスが押し終わる前に、アーチャーは既に姿が消えていた。最速で城へ戻ったのだろう。
電話でカウレスはフィオレに急を告げる。しかし、途中で妨害されたように通話が切れた。画面は圏外になっており、それがどうしようもなく嫌な予感を掻き立てた。
カウレスとアーチャーに続いて、屋内から飛び出したライダーが彼に詰め寄る。
「ねえキミ、つまり、アサシンはもう城にいるのかい!?」
「その可能性が高い!結界の解除コードを知ってた奴が殺されたのは、数時間も前だ!あんたたちも早く戻ってくれ!」
言うと、ルーラーとライダーの顔がさっと青褪めた。
まだ日は沈んでおらず、人影はあるが言っている場合ではない。ライダーとルーラーもアーチャーの後を追って正に飛ぶような勢いで駆け出し、たちまち姿が見えなくなった。
カウレスもその後から、全力で追いかける。
姉と相棒の姿が走るカウレスの頭を過った。
とにかく無事でいてくれと祈りながら、もどかしい程遠く見える城塞へ駆け出した。
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霧はあっという間に、城の中にまで忍び込んで来た。
城内のゴーレムが壊れて倒れていることから、何らかの攻撃性がある霧だとノインは判断する。
デミ・サーヴァントだからか、ノインに痛みはない。ただ、体が妙に重かった。敏捷ステータス辺りが低下しているのかもしれないが、それでもノインは速いのだ。
“黒”のアサシンの狙いがマスターの暗殺だと判断したとき、真っ先にノインが思い出したのはセレニケである。
フィオレの側にはバーサーカーがいる。が、セレニケにはいない。彼女の人と成りがどうあれ彼女はライダーの命脈を握っている。
ノインが廊下を駆け戻ると、既に白い霧が立ち込めていて先が見通せなくなっていた。それでも数メートル先に、ぼんやりと動くセレニケらしき人影が見えた。
―――――ぴり、と殺気が肌を刺したのはまさにその時だった。
―――――不味い!
跳躍し、槍を構えてノインはセレニケの前に立った。
突然霧の中から現れたノインにセレニケは驚いたように眼を見開いたが、直後に自分を取り戻したのか鞭で廊下をぴしりと叩いた。
「これはどういうことなの!?」
口を開きかけるより先に、ひやりと冷たいものがノインの首筋を撫でた。
―――――へんなの。あなたはとってもおいしそうだけど、ちょっと食べにくいかも。
「ッ!?」
あどけない誰かの声が耳元で響き、ノインは背後に向けて槍を振るう。
何かを斬った感触はあった。だが、浅い。
―――――いたいなぁ。ひどいことするのね。
声が霧の立ち込める廊下に反響し、感覚が乱される。脳に霧が毒のように染み込んでいる感触があった。痛みは感じない分、不快感が募った。
すぐ間近にいるのは確かなのに、場所が掴めない。
「デミ・サーヴァント、聞いているの!?」
耳に突き刺さる甲高い叫びを上げたセレニケに、集中力が掻き乱される。
彼女の方を振り向いた瞬間、ノインは見た。
セレニケの背後に、人影があった。
子どものように小柄な、黒い靄―――――呪詛を纏った誰かが正にセレニケの背中に触れるのを見たのだ。
唄うような、嗤うような、呪いの声が囁いた。
―――――『
「ッ!」
反射的にノインは手を伸ばした。伸ばして、セレニケの腕を掴む。
だがセレニケの腹が膨れ上がり、眼球がぐるりと裏返った。
直後に水の詰まった風船が弾けたような音がする。
ぬるま湯のような何かが顔にかかり、視界が一瞬真っ赤に染まった。
「な……!?」
ノインの掴んでいたセレニケの腕が、がくりと落ちた。腸が、肝臓が、鮮血が、臓物の何もかもが廊下にぶちまけられている。
糸の切れた操り人形のように、セレニケの体は自分の血溜まりの中に倒れ込んだ。
鮮血が跳ねて、ノインの頬に飛んだ。鉄臭い臭いが鼻腔を満たす。
セレニケ・アイスコル・ユグドミレニアは、疑いようもなく死んでいた。
―――――ひとりめ!
「アサシン―――――!」
子どものような小さな影が、霧の中へ消えかける。
その刹那にノインは雷光のような勢いで槍を滑らせた。今度は逃さず、槍がナイフを持った小さな肩に深く突き刺さる。
アサシンを槍の穂先に引っ掛けたまま、ノインは槍を振り回し霧の中から暗殺者を引き摺り出して、壁に叩きつけた。
槍を引き抜いてとどめを刺そうとしたところで、ノインの槍が一瞬鈍る。
霧から引き剥がされ姿を現したのは、短い銀髪の幼い子ども。まだ幼くあどけない顔立ちの、小さな体躯の少女だったのだ。
予想外の姿に、ほんの刹那ノインの動きが止まる。
それでも躊躇いは瞬間で掻き消える。少年が槍を振り下ろそうと動いたときだ。
「えっ……!?」
横合いから、予想外の声がした。
ノインの眼が動くより前に、倒れたままだったアサシンが下から掬い上げるようにして、手から光る何かを放つ。
標的に光が突き刺さる前に、ノインは動いてそれを叩き落とした。
からんと乾いた音がして、銀色の細いメスが二本、廊下に落ちる。
「え、デミなのか……!」
庇われた誰か―――――ロシェは呆気に取られているようだった。だが、ノインに彼を構う余裕はない。
アサシンはノインがメスを防いだその時間で霧に飛び込み、姿を消していたのだ。
―――――いたいことをした。わたしたちを、刺した!
そんな呪いじみた叫びだけが、廊下に反響する。サーヴァントの殺意を初めて直に、まともに浴びたロシェは尻餅をつく。
更には霧を吸うと肺に刺すような痛みが走った。咳き込むとロシェの手には血が付いていた。
「なに、何なんだよ、コレ……!?」
「呪詛だ。このアサシンは呪詛使いなんだよ。セレニケがそれで殺された」
ロシェはそこで、ようやくセレニケの死体に気付いた。流れる血が、彼の茶色い革靴を暗い色に染める。
血族の無惨な死体を目の当たりにして、ロシェの喉が呼子の笛のように鳴った。
そこから視線を逸しロシェは頭から彼女の血を浴びて、全身が血塗れになっているデミ・サーヴァントの背中を見た。暗殺者の殺気を浴びても、その背中は揺らいでいなかった。
槍を構えているノインは全く気が抜けないのだ。セレニケを殺したのは恐らく呪詛である。
対魔力スキルのある自分ならば、毒性の霧も呪詛もまだどうにかはなる。
だが、ロシェを何が引き金か分からない呪詛から守るのは、ただの攻撃を防ぐより難しい。それに霧が解除されなければ、彼は毒で殺されてしまう。
息詰まる時間が流れた。
そのとき何処か遠くで、何かが壊れるような音がした。
それを合図にしたかのように、急に殺気が薄れた。
「もう来ちゃったの。おもってたよりはやいね」
霧の中から、銀髪の少女が現れる。
肩から血を流す少女はナイフをくるりと回すと、切っ先をノインに突き付けた。
アイスブルーの瞳が飢えた獣のように光っていた。
「つぎは、ぜったいかいたいするからね」
「待て、アサシン!」
ノインは叫んだが、アサシンが止まる訳もない。
少女はガラス窓に体当たりをすると、外に立ち込める霧の中へ姿を消す。
「くそ……!」
ノインも後を追おうとし、片足を窓枠に掛けたところで思い付いて振り返った。
「ロシェ!おい、ロシェ・フレイン・ユグドミレニア!」
まだ尻餅をついたままだった少年は、鋭いその声に首を巡らせて反応する。
「監視用のゴーレムがいるだろう!この廊下の映像と音声の記録を撮るんだ!」
「あ……!」
呆然としかけるが、ロシェはすぐに意味に気付いたのか立ち上がった。
彼がどう動くかを確かめる前に、ノインは窓枠を蹴り、底が見えない霧の中に飛び込んだ。
内臓が浮き上がるような浮遊感を味わうがそれはすぐに止まり、足元に硬い地面を踏み締める。
霧による痛みはないが、とにかく視界が悪く、勘が狂わされる。
直感スキルでもあれば、とちらりとそんなことを思った。
前に進む。彼方から小さな足音が聞こえた気がする。
―――――軽い足音……?子どもか?
アサシンは子どもだったのかどうか。
考えようとしてノインは自分がそれを思い出せないことに気付いた。
「やられた……!」
記憶から己の存在を抹消する、アサシンの特性が発揮されていた。
ノインには最早アサシンの姿形も、攻撃方法も思い出せなくなっている。鮮明なのは腹の中をぶち撒けて死んだセレニケの遺体だけだ。
それでも、聞こえる物音を頼りに進もうと踏み出したときだ。
「ノイン君!」
呼びかけられ、ノインは止まる。槍を手の中で滑らせかけ、引き戻した。
現れたのは鎧を付けた聖女。険しい顔のルーラーがそこに立っていた。
そして彼女が現れると時を同じくしたのか、霧が晴れていく。気付けばノインは夕焼けで橙色に照らされる中庭に立っていた。
既に気配が無い。完璧にアサシンに逃げられていた。
槍を引き、ノインはルーラーの血相が何故か変わっているのを見た。
「どうしたのですか、その血は!?」
「あ」
完全に忘れていたが、ノインはセレニケの血を頭から浴びていたのだ。
鎧から顔から全身が真っ赤で、髪の先から血が滴っている。驚かれるのが当たり前だった。
「……俺の血じゃない。これはセレニケの―――――」
言いかけ、ノインは思い当たった。
セレニケが死んだ。つまり、ライダーのマスターが消えたのだ。
マスターのいなくなったサーヴァントは、遅かれ早かれ消滅してしまう。
「ルーラー!ライダーは!?」
今度はノインが焦る。
ルーラーは寸の間黙り、複雑そうに後ろを振り返った。
「ライダーたちは間もなく来ます。彼らは無事なのですが……」
それにしては歯切れの悪い返答だった。
何かあったのかと問う前に、彼女の背後から人影が二つ現れた。
「ど、どうしたんだい、それ!?」
ライダーの大声で、ノインは彼の方を見た。その横にはジークがいて、右手の甲を左手で押さえている。指の隙間からは刻印が見えていて、その意味が分からないノインではなかった。
強い風が吹いて、瓦礫の欠片が落ちる。かつんと乾いた音が、三人の間で響いた。
セレニケが死んだとき、ライダーには無論その異変は伝わった。
魔力供給のラインが断たれ、ライダーの体から力が抜けていく。そこに出くわしたのが、外にいた仲間を探していたジークだった。
消滅しかかっていたライダーを何とかできないのかと、ジークはルーラーに尋ねた。
彼女には令呪があり、ジークにはサーヴァントの欠片が鼓動していた。二つの要素が組み合わさり、ジークは”黒”のライダーのマスターとして成立することになった。
アサシンの襲撃が終わったのち、再び血族用の会議室でジークとライダー、ルーラーは何があったかを述べた。
そんなことがあるのかと、彼らから事情を聴いたフィオレは額を手で押さえた。
「サーヴァントの心臓が何らかの作用を及ぼしたのかもしれません。彼の令呪はマスターたちのものとは些か異なっていますし」
”黒”のアーチャーの落ち着いた声の見解で、フィオレに頷く。実際ジークの令呪は、ユグドミレニアの者たちの赤いものとは異なり黒かった。
それでもセレニケの死という衝撃を受けたからか、フィオレの顔色は悪い。カウレスとバーサーカーはそんな姉を心配そうに見ていた。
「ともかく、起きたことは仕方がありません。ライダー、ラインはきちんと繋がっていますか?」
「うん。それは無論。魔力もたくさん流れて来てるよ」
元々魔力供給用のホムンクルスだったジークである。ライダーに流れる魔力は、セレニケがマスターだった頃より多い。
だが、それはそれとしてこのままジークをマスターとして認めて良いのか、ユグドミレニアの長としてフィオレは迷っていた。
マスター権だけで言うなら、ゴルドやロシェがいるのだ。ジークの令呪を移せば、また彼らはマスターになれる。
「ライダーのマスターはそいつのままでいいと思う。ホムンクルスなんだから供給できる魔力の量で言えば、僕たちより優秀だろ」
テーブルの上に廊下に仕掛けていた監視用ゴーレムの残骸を並べながら、ロシェがややぶっきらぼうに言った。
「それはそうかもしれませんが、あなたは構わないのですか、ロシェ?」
「別に。僕は元々先生以外と契約するつもりは無かったし、ライダーと相性がいいのは僕やゴルドよりそいつだろ」
ゴルドも同じ意見なのか、肯定の唸り声を上げた。
「それよりも、こっちを見てくれよ。当主様」
アサシンを追う直前にノインが叫んだ一言で、ロシェは廊下の監視ゴーレムから、ぎりぎりで映像を取った。
ほとんどは霧のせいで壊されていたが、僅かながら声が拾えていた。
聞こえたのは、奇妙に籠った何人もの声が重なっているかのような声。それも、どことなく幼い人間が話しているように聞こえた。
もう一つの音声はアサシンが呪詛使いだと叫んでいたノインの声である。だが、それも覚えていないノインは首を捻っていた。
「アサシンは子どもなのか……?」
「何で忘れてるんだよ。こいつと戦ったんだろ?」
そうは言っても記憶が消されているんだから仕方ない、とノインはロシェに向けて首を振った。
呪いを扱う黒魔術師の血を全身に浴びたことをルーラーに心配され、問答無用で頭から聖水をぶっかけられたノインは、まだ濡れている髪のまま会議に参加していた。
「それでも、このアサシンが呪詛使いだってことは分かっただろ」
「ええ。ロシェとゴーレムのお陰ですね」
フォルヴェッジの姉弟に言われ、ロシェはやや得意げに鼻を鳴らした。
アサシンの殺気に中てられていた彼だが、ゴーレムが絡むと途端に元に戻るのだな、とノインはその様子を見て思う。
加えてカウレスが携帯のカメラで撮影していた白い霧の映像を持ち出した。
ルーラーが口を開いた。
「霧と呪詛……。アサシンは或いは悪霊の類かもしれませんね。ジャック・ザ・リッパーが魔術師とは思えませんし」
「それなら、ルーラーの洗礼詠唱が有効となるでしょう」
「うーん、それは良いけどさ、問題はどうやってアサシンを倒すかってことだねぇ?」
一度失敗したからには、もうアサシンは城にはやってこないだろう。
潜伏していると思われるトゥリファスに向かうしかないのだが、どこにいるかがルーラーの探知能力でも分からない以上、こちらから先制攻撃ができない。
「囮で誘い込む、か?」
ぼそりとジークが発言する。
危険だが、時間が限られている今、それが最善の手だった。だがそうなると問題は、誰が囮になるのかということになる。
会議室に沈黙が落ちた。
連続殺人鬼は怖い話。
セレニケが脱落しました。