「悪い、パワプロ。」
スライダーを後ろに逸らしちゃった一也が、マウンドまで謝りに来た。
「気にすんなよ、一也。」
俺がそう言っても、マスクの奥の一也の表情は厳しいままだ。
「狙った所に投げられたと思ったんだけど、俺が思ったよりもスライダーが
曲がったからしょうがないって。」
「悪い、パワプロ。」
まだ試合に負けたわけじゃないし、そこまで気にする必要は無いと思うけどなぁ。
「じゃあ一也、試合が終わったらジュース奢ってくれよ。それでさっきのはチャラな。」
俺がそう言うと一也は目を見開いてから、プッと笑いだした。
「わかったよ、パワプロ。奢るのはアップルティーでいいか?」
「一也って熱いアップルティーしか飲まないじゃん。夏にそれはキツくね?」
「いやいや、冷たいのは邪道だろ?」
俺達はそんな事をグローブで笑い顔を隠しながら話す。
「あ、パワプロ。俺が決勝点を打ったら奢りチャラな。」
「おう!期待してるぜ!」
俺の返事を聞くと、一也は笑顔でキャッチャーボックスに戻っていった。
◆
パワプロと御幸がマウンドで話をしていた頃、ベンチのクリスは強く拳を握り締めていた。
(あのスライダー…、俺なら止められた。)
怪我をしてからのクリスは、感覚を新たに作る事で精一杯だった。
それ故に、この試合のマスクを御幸に取られた自分の感情に、今気付いたのだ。
(これがスタメンを奪われた時に感じる感情か…、悔しいな。)
クリスは素直に自分の感情と向き合っていく。
それが成長する為に必要だと本能的に感じたからだ。
(認めよう。御幸、お前は俺のライバルだ!)
クリスはこれまでの野球人生で、試合ではマスクを被り続けてきた。
そんな日々の中でクリスは、いつしか無意識の内に自分は挑まれる立場だと思っていたのだ。
クリスは元プロ野球選手の父親に、初めて野球を教えてもらった時の事を思い出していた。
(あの時は上手くいかない事が当たり前だった。そして、出来る様になるのが嬉しくて、
親父に誉めて貰えるのが嬉しくて、野球が好きになっていったんだ。)
クリスは一度目を瞑ると、笑みを浮かべてマウンドの2人を見詰めた。
「御幸、マスクを被るのは俺だ。お前が成長するのなら、俺はそれ以上成長してみせる。」
クリスのこの言葉が聞こえた控えのメンバーは、驚いてクリスの方に振り向く。
そしてクリスの言葉が聞こえていた片岡は帽子を深く被り直すと、
教え子達の成長を喜ぶ様に笑みを浮かべたのだった。
◆
8回の表に稲実の原田が振り逃げで出塁した事で、パワプロの完全試合は崩れてしまった。
稲実ベンチは5番バッターにバントを指示して原田を2塁に送る。
この試合、両チームを通じて初めて得点圏にランナーが進んだ。
そんな状況に球場の観客達が歓声を上げて両チームを応援していく。
パワプロはその雰囲気を楽しむ様に笑顔で投球をすると、原田を2塁に釘付けにして
8回の表の稲実打線を抑えた。
回は変わって8回の裏、ようやく巡って来たチャンスの場面を活かせずに落ち込む
稲実メンバーを鼓舞する様に、成宮はこの試合で一番の力投を見せた。
青道の5番バッターをフォーシームのみで三振に抑えると、続く6番バッターの結城も
チェンジアップで三振で抑える。
この成宮の力投に心が奮い起った稲実メンバーは、グランドを埋め尽くす様に
声を張り上げていく。
そんなメンバーの様子を見て、成宮は世話が焼けるとばかりに鼻を鳴らすと、
青道の7番バッターをカットボールでショートゴロに打ち取った。
8回の裏を終えると、成宮はパワプロの14三振を超えて、
青道打線から17三振を奪っていた。
ノーヒットを継続するパワプロと、圧倒的な奪三振能力を見せる成宮の投げ合いに、
球場に駆け付けた高校野球ファンは声が枯れる程に声援を送る。
そんな2人の投げ合いも大詰めとなる9回を迎える。
9回の表はパワプロがリズム良く3人で抑える。
そして9回の裏の先頭打者である御幸は、打席に向かう前に
熱いアップルティーを口にするのだった。
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