「君の名は。キルヒアイス」   作:高尾のり子

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第15話

 

 

 キルヒアイスは三葉の部屋で目を覚ました。いっしょに四葉が寝てくれていたようで、目が合った。

「おはようございます、四葉」

「おはよう、お姉様」

「どうして、私たちは、いっしょに眠っていたのですか?」

「うん、それは……私が淋しかったからだよ」

 姉が心配だったからとは答えずに、四葉は着替えるため自室へ行った。三葉の部屋に手紙がないか探したけれど見つからなかった。修学旅行の3日目が、どう終わったのか、わからないまま、目を閉じて着替える。乱れている髪を整えるために鏡を見ると、何度も泣いたように目が赤い。

「京都見学も恐ろしい展示物が多かったのでしょうか………空襲は無くても、あそこは応仁の乱……本能寺の変……蛤御門の変……池田屋事件……枚挙にいとまが……」

 もう日本史の教科書は読み切っているので京都の戦禍が強調されていたなら、とても三葉がショックを受けたのではないかと思えてくる。

「私が広島と京都にいたしましょうと提案したとき、他の生徒たちも嫌がるような反応だったのは、このことを知っていたから……やっぱり、東京や大阪で遊ぶ方が……」

 同級生たちに悪いことをしたのではないかと思いつつ、通学路に出た。

「おはよう、三葉ちゃん。元気?」

「おはよう、三葉。大丈夫か?」

「はい、この通り立ち直っております。どうか、ご心配なく。ありがとう、サヤチン、テッシー」

「そっか。よかった」

「もし、学校で何か言われてもオレが守ってやるからな」

「テッシー……ありがとう」

「私もよ」

「サヤチンまで、ありがとうございます」

 なんだか二人が優しいので沈みかけていた気持ちが明るくなった。もう馴染んできた道を高校まで三人で歩き、穏やかに午前の授業を受けて、校庭で昼食を摂り教室へ戻ってきて困惑した。

「「「………」」」

 黒板に大きな字で、宮尿三吐、と書かれているし、その隣りに下手な絵で三葉の姿が描かれ、泣きながら口から白いものを吐き出して、スカートから黄色いものを垂らしている描写がされていた。

「……ひどい……」

 もう漢字の意味も理解できるし、部首の変化で似たような漢字が、ひどく侮辱的な意味に変化することもわかる。なにより描かれている絵が女性に対して非礼にすぎることは前後千年で変わらないと感じられた。

「誰だ?! こんなの書いたヤツ!!」

 克彦が怒鳴り、早耶香が黒板消しで消去してくれるけれど、クラスメートは誰も何も言わないし、犯人は不明だった。教室の後ろの黒板にまで、屎尿酒・新発売! おもらし祭り開催! 前夜祭はオネショです、と書いてあり、また侮辱的な絵もあった。足が動かなくて茫然としていると、早耶香が急いで消してくれている。

「…………」

 どうしていいか、わからない、これは宮水三葉に対して、ひどい侮辱と名誉の毀損がされていることはわかる。けれど、犯人が不明で、たとえ犯人がわかっても女性として振る舞っている今、よくラインハルトがやっていたように拳や石つぶてで解決するわけにもいかない。それならアンネローゼなら、どう反応するだろうか、そう考えるのと同時に身体が動いた。

「どうか、これ以上の侮辱はやめてください。今日を限りに、皆様といさかうことのないよう心がけたいと存じます」

 そう言って頭を下げると、教室内から舌打ちされるのが聞こえた。舌打ちされたのは三葉が泣き出すことを期待して仕掛けたのに思ったより反応が薄かったからだった。けれど、自席にも悪戯がされていて椅子は濡れていたし、ノートに落書きまでされている。ノートへの落書きは黒板に書いてあったことの何倍も酷く、卑猥で侮辱の限りを尽くしたものだった。三葉だけでなく克彦との関係まで邪推されて描かれ、さらには勅使河原建設と糸守町町長のことまで書いてある。こういう本人の行為や実力と関係ないところまで、えぐってくる構図も、皇妃の弟へのやっかみと侮辱に似ていて、人間という存在が悲しくなる。

「…………」

 涙が出そうになってハンカチで拭うと片付ける。早耶香が手伝ってくれ、克彦は犯人捜しをしたけれど、おおよその目星はついても確定までは至らなかった。やりそうな数人はわかるけれど、確証がない。

「卑怯もんが……」

 すぐに授業が始まり、そして放課後になると二人が心配そうに声をかけてくれる。

「三葉ちゃん、あんなの気にせんときよ」

「はい……」

「ああいうことするヤツって、ホント人間の屑だよな」

「………」

 同意も否定もせず、むしろ三葉に今日の出来事を、どう報告するか、迷いながら帰宅した。

 

 

 

 三葉は赤毛を整え、鏡で軍服に乱れが無いかチェックすると男子トイレを出て、軍務省にある式典室へ入った。高級軍務官僚が証書を読み上げてくれる。

「この度の功績により汝ジークフリード・キルヒアイスを帝国軍中将に任ず」

「はっ」

 敬礼して証書を受け取ると、実感と充実感が湧いてくる。

「……」

 そうだ、ここだ、こここそが、私の本来いるべき場所、私はジークフリード・キルヒアイス、本来生きるべき姿、と三葉は直立不動で胸を張った。式典室を出ると、次にノルデンが入り、しばらく待っていると誇らしげな顔で出てきた。

「いよいよボクも中将だよ。キルヒアイス中将」

「やりましたね」

 二人でガッツポーズする。カストロプ動乱の平定でキルヒアイスの戦功はラインハルトが報告し、またノルデンが果たした役割もキルヒアイスの記述をラインハルトが削除することなく上申したので、艦隊攻撃の功と伯爵救出の功が認められ、昇進したのだった。浮かれている中将二人へ軍務尚書エーレンベルク元帥が廊下へ出てきて小言をいう。

「勝つには勝ったようだが、ホーランドなにがしという戦術名は感心せんな。そは敵将の名であろう。次に用いるとしても、今少し考えるよう」

「「はっ!」」

 二人で相談して、ジークフリード・ノルデンアタックへ改称してから、三葉だけがラインハルトに呼ばれて元帥執務室へ入った。

「昇進、おめでとう。ミツハ」

 いつのまにかフロイラインが外れていて、それが一人前扱いされている気がして嬉しい。

「ありがとうございます。閣下」

「閣下は、よせ。今は二人だ。エーレンベルクに何を言われていた?」

 二人きりなので三葉は直立不動をやめて、それでも男性っぽく腰に手をやり答える。

「ホーランドアタックって名前は敵のだから、やめろって」

「くだらんな」

「ホントくだらない。で、相談してジークフリード・ノルデンアタックにしました」

「………かなり俗っぽい名前だな……まあ、いい」

 ラインハルトは気を取り直して、それでも気が進まない様子でフリードリヒ四世からの推薦状を三葉へ見せた。推薦状にはラインハルトの元帥府入りを希望する士官の名があった。

「ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ? 中尉待遇で? 誰ですか、この人」

「………ヒルダ、と言えばわかるか?」

「あ! あの!」

「そうだ。ミツハが助けた伯爵令嬢だ」

「え、でも、あんな女の子が中尉待遇で来るんですか?」

「反対か? 反対だろう」

 ラインハルトが嬉しそうに訊く。明らかにラインハルトも気乗りでない様子だった。

「だって、中尉って士官学校をちゃんと卒業するか、幼年学校から回ってくるか、そういうのが普通じゃないんですか?」

「そうだ。それが常道だ。伯爵令嬢だから中尉だとか、子爵家の嫡男だから少将だ、などというのはバカげた話だ」

「ノルデン中将さんはともかく、ヒルダって女の子だし……」

「ミツハが言うと面白いな」

「この身体は男ですから」

「たしかにな。ま、それは、ともかく、どうしたものか……」

「今回も皇帝からの推薦状だと困りますね」

「ああ……父親は良識派として評判の良い伯爵なのだが……」

「そもそも、どうして志願したんでしょう? 傷の方は、もういいのかな?」

「面接もかねて会ってみるしか、あるまいな。同席してくれ」

「はい」

 三葉はラインハルトの隣りへ移動して立ち、内線で呼び出されて控え室にいたヒルダが入室してきた。中尉の軍服を着ており、ぴしりと敬礼した。

「ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフです! ローエングラム元帥閣下とキルヒアイス中将のお役に立ちたく不肖ながら参りました次第です!」

「「………」」

 ラインハルトと三葉が黙り込んでしまったのはヒルダの右目のためだった。左目は美しい瞳をしてるのに、左は義眼で薄い茶色の目だったけれど、本人の緊張や心理状態と関わりがあるのか、ないのか、異様な光りが浮かび、二人を驚かせた。

「失礼いたしました。まだ、義眼の調子が馴染まないようです」

「……他の、傷は? もういいのですか? フロイライン・ヒルダ」

 つい三葉は直立不動から、ヒルダへ数歩、近づいた。

「はい、おかげさまで」

「そうですか。よかった。それにしても、キレイな目だったのに、かわいそう…」

「ありがとうございます…」

 礼を言ったヒルダが少し赤面したのでラインハルトは志願動機を察した。そして自分の元帥府は中学校の中庭でも高校の校庭でもない、と腹立たしく感じる。

「中尉」

「はい」

「レールキャノンが、もっとも有効な射程距離を述べてみよ」

 ごくごく初歩的な知識を問い、相手を試したラインハルトへヒルダは瞬時に答える。

「はい、10光秒から3光秒です」

「ほお、一応は正解したな。一通りの勉強はしてきたのか」

「まだ未熟者ですが精進いたします!」

「………だが、女の身で戦場は、なにかと苦労するだろう。後方勤務を望むなら、そのように取り計らってもよいぞ」

「閣下」

 ヒルダが義眼を外して見せた。眼窩に空洞ができ、ヒルダの美しい顔貌に空虚な印象をもたらしてくる。よく見れば、手や首の後ろにも有角犬に刺された傷跡があり、おそらく背中には数十箇所はあるはずだと三葉は想った。

「もはや、私は自分を女とは思っておりません。もともと、父からも男のようだと言われて育ちましたし、ご迷惑でなければ、キルヒアイス中将のお手伝いをさせていただきたい所存です」

「…………キルヒアイス、どう思う?」

「気持ちは嬉しいけれど、……また危ない目に遭ってしまうかもしれませんよ?」

「覚悟の上です」

「「………」」

 ラインハルトと三葉が目で語り合う。二人とも判断に迷い、結局は皇帝からの推薦状がものをいった。

「わかった。キルヒアイス、使ってやれ」

「はい」

 結論が出た頃に正午を迎えたので三葉はヒルダを昼食に誘った。

「お昼、いっしょに食べますか? 士官食堂の使い方、教えてあげるから」

「はい、ありがとうございます」

 もともとヒルダが好意をもっていた上に、どこか女性的な雰囲気もする中将と、男勝りではあっても女性である中尉は30分のランチで仲良くなった。

「じゃあ、夕飯もいっしょに、どこかのレストランに行こう。おごってあげる」

「そんな申し訳ないです」

「いいの、いいの。予定がないと、いつもラインハルトさんと食べるだけになるし。たまには女の子と出かけたいから」

「フフフ、思っていたより普通の方なんですね。キルヒアイス中将」

 夕方に会う約束もしてラインハルトの執務室へ戻った。午後からラインハルトが思い出したように、もしも次に指揮官として、どこかの地域を占領することがあったとしても、婦女暴行だけでなく略奪も制止するよう、たしかに帝国軍は過去何度も領土内でさえ略奪をしているが、それは文化ではなく憎むべき蛮行であると言い、ゆえにその場合の処置などを学んでいたけれど、だんだん集中力が切れてきた頃、来客があった。

「まず、お人払いを願います」

 パウル・フォン・オーベルシュタイン大佐がラインハルトと話しているのを、三葉は隣で直立不動で傍聴している。

「キルヒアイス中将は私自身も同様だ。それを卿は知らないのか」

「……」

 初対面っぽい人に、知らないのかって堂々と言うほど有名な話なんだ、そういえば幼年学校から、ずっと同じ部署って人事的にすごいなぁ、私の町でも小学校から高校までクラス同じって子まずいないのに、と三葉が余計なことを考えていると、オーベルシュタインの話は進んでいた。

「さまざまな異なるタイプの人材が必要でしょう。AにはAに…」

 三葉は空気を読んだ。

「元帥閣下、私は隣室に控えていた方がよろしいかと」

「そうか」

 ラインハルトが頷いたので隣室へ移動する。

「よし、私、空気読めた」

 自分の判断が正しかったことに自信をもって拳を握る。そして、しばらく静かに待っていると大きな声で呼ばれる。

「キルヒアイス!」

 かなり緊迫した声なので、急いで戻る。

「はい!」

「キルヒアイス、オーベルシュタイン大佐を逮捕しろ。帝国に対し不逞な反逆の言動があった。帝国軍人として看過できぬ!」

「はい!」

「しょせん、あなたもこの程度の人か……」

 三葉はブラスターを抜いて正確にオーベルシュタインの胸部を狙った。

「両手を頭の上にあげ! 膝をつきなさい!」

「けっこう、キルヒアイス中将ひとりを腹心と頼…」

「両手を頭の上にあげ、膝をつきなさい!」

「……」

 オーベルシュタインは三葉の方を向いた。あ、この人も義眼、しかも両目、と今さら気づいたけれど油断はしない。

「キルヒアイス中将、私を撃てるか。私はこの通り丸腰だ。それでも撃てるか?」

「丸腰…」

 三葉はブラスターの狙いを胸部から太腿にかえた。

「両手を頭の上にあげ、膝をつきなさい! 最後の警告です!」

「撃てんだろう。貴官はそういう男…」

 三葉がローキックを放つ。

 ベキッ!

 ブラスターは発射口を天井に向けて、強烈なローキックを放ってオーベルシュタインの足元を崩すと、左手で頭を押さえつけ、床に組み伏せた。

「制圧、完了!」

 できた、習った通り、うまくできた、と三葉は達成感を持ちつつ、油断せずブラスターをオーベルシュタインの頭に押しあてる。相手が丸腰だった場合の制圧方法の一つを実戦でも成功でき、白兵戦の訓練が無駄ではなかったと感じている。そして、猟犬が猟師に獲物を見せて、誉めて欲しそうな顔をするようにラインハルトを見る。

「制圧しました!」

「……よくやった…」

 ラインハルトは、まだオーベルシュタインの話の続きが気になっているけれど、とりあえず三葉を誉めた。

「光りには影がしたがう……しかし、お若いローエングラム伯には、まだご理解いただけぬか…」

 それでも、オーベルシュタインは話を続けていた。以前に出会ったキルヒアイスから受けた印象や事前調査による見込みとは、ずいぶんと人物像が違い、自分の人物眼に少し自信が無くなったけれど、今はキルヒアイスという人物よりも、ラインハルトに自分を売り込む必要があり、それに失敗すると軍上層部から劣悪士官として排除されるので決死の覚悟で臨んでいる。床に組み伏せられた衝撃で両目の義眼が転げ出てしまい、まったく視界が無い状態でも、言い募った。そんな様子にラインハルトは感心して頷く。

「言いたいことを、……何が何でも、しっかりと言う男だな」

「恐縮です。ゴホッ…ゴホッ…」

 三葉が膝で体重をかけて背中を押さえつけているので咳き込んでいた。

「ゼークト提督からもさぞ嫌われたことだろう、違うか」

「あの提督は…ゴホッ…部下の…ゴホッ…忠誠し、ゴホッ…」

 三葉が絶対に動けないよう組み伏せているので、かなり苦しそうだった。

「キルヒアイス、もういい。離してやれ」

「え? いいんですか? でも…」

「我々と同じ方向性なのか、試しただけだ。そして、オーベルシュタインの目指すところと我々のそれは共通だ」

「ってことは皇帝を倒すための仲間?」

「「………」」

 二人は否定しなかったけれど、軽率に口に出すことではないという沈黙をしている。三葉は力を抜いてオーベルシュタインを立たせてやり、転がっていた義眼も拾って渡した。

「コンタクトレンズと違って、両方を落としてしまうと大変そうですね」

「……。かたじけない。……キルヒアイス中将……」

「オーベルシュタイン、よかろう。卿を貴族どもから買おう」

 かなり鋭い男だと感じたので三葉と長く話をさせたくなかったゆえ、ラインハルトは話をまとめた。夕方になり三葉はミッターマイヤーに教えてもらったレストランでヒルダと夕食を楽しんでいた。

「ヒルダって本当に色々なことを知ってるね」

「いえ、父に言わせれば、女子が知るべきことを知らず、政治や軍事といったことにばかり興味をもって困りものだと」

 会話が弾み、二人で2本のワインを飲み、別れ際に三葉は名残惜しくてヒルダの頬へキスをした。

「……キルヒアイス中将…」

「お別れの挨拶だよ。でも、また、いっしょに過ごせるといいね」

「はいっ」

 ヒルダを公用車で送らせると、三葉はラインハルトの部屋へ行った。

「遅かったな。キルヒアイス、いや、ミツハ」

「ごめんなさい。つい、話が弾んで」

「まあ、女性同士だ。そういうものなのかもな」

 一人で飲んでいたラインハルトは三葉へグラスを勧める。

「飲むか?」

「う~ん……少しだけ」

 三葉はグラスに半分だけワインをもらって座った。

「伯爵令嬢は、どうだ?」

「うん、可愛い」

「……いや、そうではなく使えそうか、という話だ」

「女の子をさ、そういう言い方するの、どうかな?」

「……」

 酔っているキルヒアイスの瞳に批判的に見られると、ラインハルトは返答を考えるのに数瞬を要した。

「彼女は自ら、自分を女とは思っていない、と言ったぞ」

「それは身体も心も傷つけられて、そう思わないと気持ちの整理ができないから。そのくらいのこと、わかってあげようよ」

「…………そう受け取るべきなのか………やはり、女性というのは、わかりにくいな。だが、彼女は我々の部下として来たのであって、客人ではないぞ?」

「なら、皇帝が後宮の女性を、あいつは使える、あいつは要らない、そんな風に言ってたら、どう感じる? もっと、単純に自分のお姉さんが、そんな言い方を他人にされていたら、どう? 立場の上下があれば、何を言ってもいいの?」

「………………わかった。オレが悪かった」

 ラインハルトが素直に非を認めて、お互いに一呼吸おいたとき、12時になった。

 

 

 

 キルヒアイスは見慣れたラインハルトの部屋でワインを飲んでいたので安心した。

「ただいま、戻りました」

「ああ」

 そう答えてキルヒアイスのグラスへワインをそそいだ。

「ラインハルト様、すでに、かなり飲んでいるようですから、このあたりで…」

「そんな顔色だな」

「今日は何がありましたか?」

「オーベルシュタインという男を覚えているか」

「はい」

 ラインハルトはオーベルシュタインについて語り、それからヒルダについても一応の説明をすると、夜が更ける前に二人とも休んだ。キルヒアイスは定刻に起きて、元帥府へラインハルトと出仕すると、それぞれに別の仕事を精力的に進めていく。その過程でヒルダの馴れ馴れしさに少し困っていた。

「キルヒアイス中将、お昼をごいっしょしてもいいですか」

「いえ、今日はラインハルト様と会議をかねて食べる予定ですから」

「そうですか。では、ご夕食の予定は? 友人から東洋料理の美味しい店を教えてもらったのです。ごいっしょしていただけませんか?」

 そう言いながらヒルダが気安く肩に触ってくるので、さすがに中将としても職場の上司としても威儀を正す。

「マリーンドルフ中尉、ここへ遊びに来ているおつもりなら帰ってください」

「っ……失礼いたしました」

 頭を下げたヒルダが涙ぐんでいたのでキルヒアイスは心が痛んだけれど、言うべきことは言っておき、ヒルダと距離をおいた。一言苦言を呈してからのヒルダは優秀な事務能力を発揮してくれたので部下として有能だと判断して、昼食時にラインハルトとの話題の一つになった。

「使えるという表現は三葉さんに怒られるかもしれませんが、彼女の能力的にはそう言って差し支えないかと思います」

「そうか。なら、適度に使ってやれ」

「はい。……」

「どうした、キルヒアイス、何か言いたいことがあるのか?」

「オーベルシュタイン大佐の方です」

「うむ。あの男が門閥貴族どもの手先ではないか、と、一時はオレも疑った。しかし、貴族どもの手に負えるような男ではない。頭は切れるだろうが、癖がありすぎる」

「ラインハルト様のお手には負えるのですか?」

「奴一人を御しえないで宇宙の覇権を望むなんて不可能だと思わないか」

 ラインハルトは不敵に微笑して昼食を終えた。

 

 

 

 三葉は自分の部屋で目を開けると、四葉に起こしてもらってヨガマットに立とうとしたけれど、少し迷って階段へ向かった。

「ちゃんとトイレでしたいから………ぅぅ……ぅ~……」

 けれども部屋を出たところで下着や脚を濡らしてしまい、頬も涙で濡らした。かすれるような声で泣き出した。

「…ぐすっ……ひっく……ぐすっ……ひーっ…ううっ…ひーっ…」

「………」

 最近はヨガマットがあれば泣かなくなってたのになぁ、と四葉は啜り泣く姉への慰めを実行してみる。お昼休みから四葉も、ずっとトイレに行っていないので力を抜くと、すぐに溢れてきた。

「お姉ちゃん、見てみて」

「…ぐすっ…」

「私もヨガしてみた。ヨガって気持ちいいね」

 四葉のパジャマも濡れて、廊下の床で二人の水たまりが混じって一つになっている。

「いい汗かいたし、お風呂に入ろう」

「………バカにして……」

 姉が涙に濡れた目で睨んできた。

「……四葉まで、……そうやって……私をバカにして……」

 睨みながら、ぼろぼろと涙を零すので四葉は、どう慰めていいか、わからない。

「お姉ちゃん……泣かないで。バカにする気なんか、ないから」

「どうせ、……ひっく……ちょと濡れるくらい、たいしたことない、とか……そんな風に、四葉は割り切って……ぐすっ……」

「………」

「ぐすっ……小学生のおもらしと、いっしょにしないでよぉ……私は高校生なんだよ……高校生にもなって、学年みんなが集まってるのに、おもらししたのと、家の廊下でするのは、ぜんぜん違うんだから……」

 修学旅行の終わり方を思い出してしまい、三葉は脚の力が抜けて水たまりへ座り込みそうになる。四葉は支えてあげようとしたけれど、体格の差がありすぎて二人とも水たまりの中に座り込んだ。

「ぅーっ……ひぅーーっ……ひぅーーーっ…」

「そうだよね。じゃあ、明日、私も学校で、おもらししてみるよ。それで、お姉ちゃんの気持ち、ちょっとはわかるかもしれないから」

「…………………。やめて! 絶対やめて!」

「私なら、きっと大丈夫だよ。からかわれても、それがどうした?! って言い返すから」

「お願いだからやめて! 四葉は大丈夫でも、四葉までおもらししたら、おもらし姉妹とか、もっと色々言われるから! お願い、はやまったことは絶対しないで!」

 すがりついて懇願されて四葉は頷いた。

「うん、わかったよ、しないよ。とにかく、お風呂に入ろう」

 その場を片付けて二人で入浴しても、三葉は泣き声をあげないものの、ぽろり、ぽろりと涙を零している。四葉は姉の身体を手で洗って慰めるように撫でる。

「はい、バンザイ」

「……ぐすっ…」

 素直に全身を洗ってもらい、髪も洗ってもらう。四葉は姉の髪を洗いおわると、そのまま頭を抱きしめて頬をつけて、しばらくジッとしていた。

「…………なによ……慰めてるつもり? ……小学生のくせに……」

「ううん、そんなつもりじゃないよ」

「………」

 否定されると言い様がなくて三葉は黙って湯船に入る。すでに四葉は二度目の入浴なので、そのまま湯船へ浸かった。向かい合っている姉は涙が零れそうになると目元まで湯船に浸かって誤魔化し、呼吸のために、また浮上する。

「お姉ちゃん、ちょっと」

 そう言って四葉は姉の涙を指先で拭き取って、その指先を見つめ、匂いを嗅ぎ、それから舐めた。

「…う~ん……」

「……ぐすっ……」

「お姉ちゃん、唾液を出してみて。私の手に」

 四葉が右手を向けてきた。

「唾液? なんで……ヤダよ……」

「お願い」

「…………」

 妹には借りが多いのでお願いされると断れない。気が進まないけれど、唾液を出す訓練は長年してきたので、少し貯めてから四葉の右手に垂らした。垂らして、すっと舌先でヨダレを切り、糸を引かないように終えた。

「これでいいの?」

「うん、ありがとう」

 四葉は垂らしてもらった姉の唾液を見つめ、匂いを嗅ぐ。

「ちょっと、ヤダ、何してるの? 四葉、変!」

「………」

 匂いを嗅ぎ終わると、四葉は姉の唾液を舐めた。

「っ……」

 三葉は湯船に入っているのに鳥肌が立った。聞いたことがある、世の中には同性を好きになる人間がいると、漫画で読んだことがある、世の中には妹や姉や兄や弟を家族愛を超えて愛する人間がいると、そのハイブリッドが自分の妹なのかもしれないと感じると、さっきまでの行為や今日までの世話焼きが、すべて理解できてくる。さっき、全身をくまなく洗ってくれた。優しく指先で探るように、どこもかしこも洗ってくれた。それから頭を愛しく抱きしめられた。そして何度も夜の12時に眠いだろうにヨガの世話をしてくれる、それに感謝はしているけれど、下心があったのかもしれないし、もしかしたら何度も、そんな姿を見せたことで妹が変な方向性に目覚めてしまったのなら、責任も感じる。

「よ、四葉……あ……あのね、女の子は、男の子を好きになるべき……なんだよ。あと、家族は…、ずっと、家族なんだから」

「は? それより、私の唾液、どう感じる?」

 四葉は左手に唾液を垂らして、三葉に近づけてきた。

「ちょっ、ヤダ! やめて!」

「いいから、どう感じるか、教えて」

「ヤダヤダ! 四葉、お願い! 変な子にならないで!」

「………」

 四葉は不満そうに諦めた。それから両手を合わせて混じり合った唾液を観察しながら、姉に問う。

「あのさ、お姉ちゃんは自分を普通の人間だと思う?」

「私は絶対ノーマルだから! ありえないから!」

 湯船の中で三葉が身体を守るように自分を抱いたので、四葉は姉の思考に気づいた。

「何か変な勘違いしてる?」

「変なのは四葉だよ! おかしいから! ダメだよ、お姉ちゃんは四葉のこと、妹としか想ってないから! 妹以上でも妹以下でもないの!」

「…………。はぁぁぁ……」

 タメ息をついてから、四葉は湯船を出た。身体を近づけていると姉が変な勘違いをしているので冷静にさせるために距離をおく。

「お姉ちゃん、落ち着いて聴いて。ワープだって宇宙船が必要なのに、時間をポンポンと飛び越えるお姉ちゃんは普通の人間だと思う?」

「ぇ……………さあ? わ……私は……普通の女子高生だもん……」

「う~ん……使命感とか、ない?」

「使命感?」

「なにか、しなきゃいけない。どうして、私には、こんな力があるんだろう、みたいな」

「……………そんなの、ないよ」

「………。じゃあ、自分や私の唾液とか、おしっこを、どう思う?」

「そんなの、どうも思わないよ。四葉、変だよ、そんなものに興味をもたないで。お姉ちゃんは四葉の将来が、すごく心配」

「まだダメなのかなぁ……今夜は性急すぎたかも、お姉ちゃんには、もっとゆっくり目覚めてもらった方がいいのかなぁ…」

 つぶやきながら脱衣所へ出て行った妹の方向性が、とても心配になり、三葉は修学旅行のことを忘れて眠ることができたけれど、やっぱり朝になると思い出した。

「………」

 目が覚めたけれど、布団から出たくない。学校に行きたくない。

「お姉ちゃん、もう時間だよ」

「…………」

「まだ目が覚めないの?」

「………目覚めないから……私は……ずっと、目覚めないの……」

 いろんな意味で目覚めたくない。布団に潜り込んで丸くなった。

「学校、遅れるよ」

「……行かないから……」

「休むの?」

「うん」

「…………それをすると、余計に行きにくくなるよ? 昨日、お姉様が行っておいてくれたから今日は頑張りなよ」

「あ……手紙あるかな…」

 三葉は布団から顔を出して周囲を見回した。手紙はあった。

 

 宮水三葉さんへ

 お元気でしょうか。

 入れ替わりましたおり、身体が重いように感じて心配いたしております。

 また、広島で私も体調を崩してしまい、本当に申し訳ありませんでした。

 そして、どのように報告申し上げるべきか迷っておりますが、からかいや冷やかしを学校で受けることがあり、幸いにしてテッシーとサヤチンが守ってくださいましたが、あまりに品性のない誹謗でしたから、筆舌に耐えません。

 憶測するに、お父様の立場や、テッシーからご好意をいただいていることへの羨みが動機なのかもしれません。

 どのように対処するのが適正か、わからずにおります。

 ご指導ください。

 

 読み終えた三葉は再び布団に潜り込んだ。

「お姉ちゃん、ホントに学校いかないの?」

「……筆舌に耐えないって……からかわれてるの、おもらしのことに決まってるよ……ぅっ…うぅっ…ぐすっ……ひーっ……ひーぅぅぅ…」

 かすれた泣き声が布団から漏れてくるので、四葉はティッシュの箱を布団へ入れてやり、今日の登校は無理だと思い、一階へ行った。

「……ぐすっ………ぅう……」

 しばらく泣き続けた三葉は、ずっと布団の中にいたので二度寝して昼過ぎに起きた。朝食も昼食も食べていないので空腹に負けて一階へおりた。トイレに入ってから祖母の姿を探したけれど、家に一葉はいなかった。何か町内会の集まりでもあるのかもしれないし、出先での神社の仕事かもしれない。

「……お腹空いた……」

 冷蔵庫を開けたけれど、食べる物はなかった。牛乳だけを飲んで空腹を誤魔化す。

「ぐすっ………お婆ちゃん……また……働かざる者食うべからず……で……」

 昔気質の祖母は病気ではないのに学校を欠席した孫娘へ食事は用意してくれない。優しさと厳しさを使い分ける祖母だということは物心つく前から知っている。

「……ぐすっ……この欠席は…心の病だよ……ぅぅ……お腹空いたぁ…」

 きっと、このままでは夕食も用意してもらえないので、三葉は着替えて普段着になると、神社の掃き掃除をしておく。せめて一つでも仕事をしておけば、ご飯を食べさせてくれるかもしれないという希望で境内を掃いていると、参拝に来た町内の老人に出会った。

「やあ、三葉ちゃん、ご苦労さん」

「ご参拝ありがとうございます」

 今まで何度も口にした礼を言って、掃き掃除を続けるけれど、神前へ手を合わせて戻ってきた老人に訊かれる。

「三葉ちゃん、学校は?」

「……今日は、ちょっと……」

 三葉が答えにくそうに目をそらすと老人は察した。

「ああ、あれを気にして……そんなん気にせんときよ。失敗は誰にでもあるから」

「っ……」

 もう知ってる、きっと、もう町中に知れ渡ってる、2年生は3クラス、約100人が帰宅して両親に話したら300人、祖父母もいたら500人、兄弟姉妹がいたら、もう1000人、そのお爺さんお婆さん兄弟姉妹が世間話したり、学校で笑い話にしたら、もう完全に町民全部が知ってる、と三葉は思い、境内の玉砂利の上に崩れると、また泣き出した。すでに老人は歩み去っていて、誰もいないので、声をあげて泣いた。

「うわああぁあぁ! ああああぅううう! もう、ヤダよぉお……絶対、学校いかないもん……ぅうう……うううひいううぅ…外にも出ないもん……お祭りなんか、絶対に出仕しないから!!」

 もう夏祭りは目前に控えているし、秋になれば新米を扱う秋祭りもある上、今年は糸守町の直上を1200年に一度の彗星が通るから観光客も来るかもしれない。何より夏祭りのタイミングは最悪といっていい、おもらしのウワサが町中に回った後で舞台にあがるくらいなら、イゼルローン奪回を命じられる方がマシだった。

「ぐすっ…ぅう…ぐすっ……ゼッフル粒子を超大量につくって……ぐすっ…回廊全体を封鎖してさ…ひっく…そこへ小惑星を何個も何個も加速して、ぶつければ…ぐすっ……あとは、表面がベコベコになったところに圧倒的な兵数で陸戦要員を送り込めば……そうだ、オフレッサーさんに頼んだら喜んでやってくれるかも…ぐすっ…内部構造は私も見たから……そうだよ、地の利は、こっちにもある……ぐすっ…」

 別の現実に逃避しながら泣いたまま部屋に戻ると、また布団という要塞にこもる。しばらく、籠城していると四葉が小学校から帰ってきた。

「お姉ちゃん、気分はどう?」

「………もう一生、ここから出ないから」

「寝たきりになるには、あと70年ばかりは早いと思うけど……」

「ぐすっ……小学校で私のこと、言われてる?」

「………。少しだけ」

「……ぅぅ……ぅ、ひっく……小学生にまで……笑われてるんだぁぁ……私はぁ……ぅううぅ……ひぅぅぅぅ……」

「少しだけだよ。ちゃんと仕返ししておいたから、二度と言わないように」

「ぅぅぅ…ひぅぅぅ…あぅっぅぅ…ああぁぁ…ぅあぁあぁぁ…」

 丸まった布団が震えている。ゆっくりと四葉が布団を撫でていると、早耶香と克彦が学校帰りに寄ってくれた。四葉が玄関で応対して、三葉に問う。

「サヤチンさんとテッシーくんが来てくれたよ」

「……ぐすっ……サヤチンにだけ会う……テッシーには、ありがとうって………こんな顔、見られたくないから……」

「わかった」

 女子としての見栄を大切にする姉の気持ちを玄関で二人に伝え、早耶香と戻ってきた。

「サヤチンさん、どうぞ」

「お邪魔します」

「…ぐすっ……」

「三葉ちゃん、今日は学校に来れる気持ちじゃなかった?」

「…ぅっ…ぅっ……四葉、…泣くから、出て行って」

「お姉ちゃん……」

 さんざん泣いたのに、まだ泣くのかな、と思いつつ四葉が出て行くと、三葉は早耶香に抱きついて号泣し始めた。

「うああああああ! はあああああ!! ああああああん!」

 廊下にいる四葉が今までの泣き方は、やっぱり妹の前だから控え目だったんだと思い知るほどの慟哭を親友に抱きついてしている。

「三葉ちゃん……、よしよし」

「わあああああん!」

「いっぱい泣いたらいいよ。よしよし」

 こんなに三葉が泣くのは二葉が亡くなった後から無いので、早耶香は抱き返して背中を撫で、三葉が落ち着くのを待った。

「…ぐすっ…うぐ……ぐうぅ…ふえ……ぐすっ…」

「もっと泣いてもいいよ」

「うぐっ……うん……ありがとう、サヤチン……」

 やっと嗚咽が止まって三葉はティッシュで顔を拭いた。

「……サヤチン……学校で……私のこと、何か言われてる?」

「今日は本人が欠席してるから、とくに何も」

 本当は一部の生徒が笑い話にしているけれど、それを伝えることは控えて早耶香は安心させるように三葉を何度も抱いてから帰った。また、三葉が布団にこもって時間を過ごしていると、夕食が終わった頃に四葉がオニギリを二つ持ってきてくれた。

「また、お婆ちゃんの働かざる者食うべからず、が始まって、これだけはもらってきたから食べて」

「うん……ありがとう…」

「はぁぁ……お婆ちゃんも厳しいよねぇ…」

 籠城に対して兵糧攻めという常道をいく祖母に四葉はタメ息をついた。

「昔気質なのはわかるけど、このパターンでお父さん、家を出て行ったのに……」

 町長選挙へ立候補するという俊樹へ、反対だった祖母は食事を用意せず、どちらも主張を曲げなかったので結局、別居している。

「……ぐすっ……美味しい……ありがとう、四葉」

 ほぼ24時間ぶりの食べ物に三葉は妹の存在をありがたく思いつつ食べた。食べ終えて入浴すると下着も替え、時計を見た。

「あと30分、いっそ、しばらくオーディンで暮らしたいなぁ……」

「トイレも行っておいてあげたら」

「うん、そうする」

 ほとんど尿意は無かったけれど、ちゃんと出し切った上で12時を迎えた。

 

 


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