春日野春彦は転生者である。
しかしそれは、前世と今世のぶっ続けで意識が継続しているというわけではない。自分の中に自分ではない誰かの記憶があるという感覚が始まりだった。それが年をとるごとにだんだんと自分の中に溶け込んでいき、中学に入学する頃には今の自分が出来上がっていた。
自分はそのことには折り合いを付けたつもりだ。初めこそその奇妙な感覚に戸惑ったが、成長の過程でそれを含めた上で自己を確立することができた。前世の自分と今世の春日野春彦は同一人物だということは理解できている。今はもう、そこに一々違和感を覚えることはない。
だからと言って、前世に未練があるわけではない。というか、未練を感じるほど細かいことは覚えていない。
それなのに、
「……」
久しぶりに夢を見てしまった。おそらく前世の自分であろう人物の記憶の断片。幼い頃こそよく夢に出てきていたが、記憶が自分に馴染むに連れその機会は少なくなっていった。
内容は別に大したものではない。家族や学校の友人であろう人との、なんでもない日常をただただ主観で見せられる。
今日の夢はなんだったか。目を開ける前に少し思いを馳せてみる。
確か自分は部活が始まる前に部室で友人と駄弁っていた。内容は……部活が面倒だとか、顧問の悪口だとか……ダメだ、どうやらそこまでしか思い出せないようだ。
懐かしいような寂しいような、とにかく不思議な感覚だ。別に真剣に心を痛めているわけではないのだが。今日の夢だって、友人の顔はぼやけていた。声も曖昧だ。何かを懐かしむほど深いことは覚えてはいないはずなのだ。
それなのに、夢を見た後は決まってこの感覚に見舞われる。そしてそれは心地が良いものではない。
朝から憂鬱な気分だ。いっそのこと休んでしまおうか。
……いや、確か昨日ラフィが来ると約束をしたはずだ。それに、やっぱり学校には行きたい気がする。
そうと決まればさっさと起きてしまうに限る。このままいつまでも布団の中にいたところで、気が落ち込んだままだろう。
思い立った自分は、布団をめくって身体を起こし、大きく伸びをしてから瞳を開けた。
「あっ……」
「……」
扉の前にサターニャがいた。
おかしい。なぜ彼女が自分の部屋にいるのか。
色々と疑問は浮かぶのだが、寝起きの回らない頭では何から尋ねれば良いのかの判断が出来ない。
「……なんで?」
やっとの思いで口から出た言葉は、ひどく簡素なものだった。
「いやっ、あの、おばさんに呼んできてって言われたから……」
「そっか……」
そっかじゃないんだが。それでも返す言葉が思いつかないので流すことにする。
「と…とにかく、下で待ってるから。あんたも早く降りてきなさいよ……」
「おう……」
そう言うとサターニャは部屋を出て行った。
今のは一体何だったんだ。ここは確かに自分の家で自分の部屋のはずなのだが。
疑問だけが頭に浮かぶのだが、それを確かめるためにもとりあえず支度を済ませることにしようか。
「おはようございます、春彦くん」
「……おはよう」
下に降りると、昨日と同じくコーヒーを飲んでいたラフィが話しかけてきた。制服姿で姿勢を正しカップを口元に運ぶ姿はとても様になっている。
……なっているのだが、そのにこやかな表情の源が隣で母親の質問責めにあっているサターニャの困り顔だと思うと、何とも言えない気持ちになる。
「で、これはどういう状況?」
「わたし、サターニャさんの元にしばらく泊めてもらうことになったんです」
「それはおめでとう」
「いや何もおめでたくないからね!?そもそも泊めるのも認めてないし!」
ものすごい勢いでサターニャが訂正してきた。
まあ何があったのかは大体予想がつく。それでもラフィの興味がサターニャに移ったのであるなら自分にとっては都合が良いことだ。
彼女に振り回させるのは嫌いではないのだが、自分1人だと身がもたない。可哀想ではあるのだが、サターニャには生贄になってもらうことにしよう。
頑張れサターニャ。強く生きろ。
頭の中でラフィのおもちゃにされるであろうサターニャの姿を想像していたら母が朝食を運んできた。二人は相変わらず言い争いをしている……というか、サターニャが一方的にラフィに弄ばれているが、自分は気にせず食事を取ることにする。
と、思ってトーストに口をつけたところで母さんが2人には聞こえないような小さな声で耳打ちしてきた。
「で、どっちが本命?」
思わず食べ物を吹き出しそうになるのを気合いで止める。
やっぱりこいつ頭おかしいんじゃないか?まだ出会って2日目の友達なんだぞ。万が一聞かれたら気まずいとかいうレベルじゃないんだが。そういうのってもっと親密な相手がいる場合にやるんじゃないのか。
「あのさぁ……ほんとやめてくんない?そんなんじゃねーから」
「またまたぁ!いつの間にか名前で呼びあっちゃってさ」
「それは……外国じゃこれが普通なんでしょ」
「へぇ?まぁ一年中鎖国してた息子が開国してくれたならお母さん嬉しいわ」
「……いいから早くどっかいけよ」
へいへいとつぶやきながら母さんは台所に戻って行った。
母親という生き物は皆がこう面倒な絡み方をしてくるものなのだろうか。できれば全員であってほしいなぁ。もしうちだけこうだったとしたら心が持たない。
結構本気でイラついたため何か一言悪態でもついてやろうかと思ったのだが、去っていく時の穏やかな笑顔が頭をよぎりやめた。
……今まで心配かけてきたし、今日のところは見逃してやろうか。
「まったく、なんで朝からこんなに疲れなきゃなんないのよ……」
「わたしは楽しかったですけどね」
「そりゃお前はな……」
朝食を終えた自分は未だラフィに対して騒ぎ立てていたサターニャをなんとか宥め、学校に向かって出発した。
サターニャは既に疲労困憊といった様子だ。対象にラフィの顔は心なしかつやつやとしているように見える。
しかしまぁ、この二人のやりとりを見ていたら朝の憂鬱な気持ちはどこかにいったようだ。低血圧なため舌の回りは遅いが、テンション自体は平常に戻れた。
なるほど、人が弄ばれているのを眺めるのはそれなりに面白いものなのだな。ラフィの気持ちが少しわかった気がする。
「あっ、犬……ですよね?」
特に何を喋るわけではなく3人でダラダラと歩いていたのだが、ラフィが声を上げたのでそちらの方をに目をやる。するとそこには、つぶらな瞳をした真っ白の雑種犬がこちらの方を向いて佇んでいた。
というかラフィはなぜに疑問形なのだろうか。
「へぇ!これが犬なのね!」
なんなの?こいつら揃いも揃って人生で犬見たことないの?サターニャの道徳観念といい、一体どんな人生歩んできたのだろうか。
てか急に元気になったなこいつ。
「どうでしょうサターニャさん。この子を手懐けてみたらいかがですか?」
「いや、野良犬だろ?やめといた方がいいんじゃ……」
「ちょうどいいわね!わたしも2匹目の下僕が欲しいと思ってたし」
「…………一応聞くけど一匹目って?」
「あんた」
しばき倒すぞサターニャ。いや、下僕がどうとかは2万歩譲って認めるとしても犬と同列はないだろ。話の流れとはいえ仮にも昨日知り合った相手を匹で数えんのかお前は。
ラフィはこっち見ながら笑いこらえんのやめろ。
そんなこんなでサターニャは右手を前に出しながら犬へと近づいていった。噛まれねぇかなと期待していたのだが、犬は興味を持ったようで尻尾を振りながらトテトテと寄ってくる。
その様子に満足したサターニャはふんぞり返りながら右手を犬の頭に乗せようとしたのだが……
「えっ!?」
「あ」
「あら」
サターニャの手が触れる直前のところで犬は急に走り出し、彼女が反対の手に持っていたメロンパンの袋を咥えるとそのまま全速力で駆け抜けていった。
一瞬のことに呆気にとられた自分たちであったが、気を取り戻した時にはもう犬の姿は見えなくなっていた。
「ちょっ!あんたそれわたしのメロンパンよ!?返しなさいよ!」
「ぐふっ…む、無理だと思うよサターニャ。もうどっかいっちゃったし」
思わず吹き出してしまった。
それに気づいたサターニャは怒りの表情でこちらに顔を向けてくる。
「なに笑ってんのよ!あんたわたしの下僕でしょ!?いいから取り返してきなさいよ!」
「砂利でも食ってろ赤ドーナツ」
「赤ドーナツ!?」
「ぷっ…ま、まあまあ2人とも落ち着いてください。ちょうどいいですし今日は学食に行って見ませんか?」
「いいんじゃね?俺も一回行って見たかったし」
「よくないわよ!わたしの楽しみにしてたメロンパンを犬にとられたのよ!?っていうか春彦赤ドーナツってなんなのよ!」
「まあまあサターニャさん。ここは心の器のみせどころですよ」
「そうだぞサターニャ。あと俺はあんぱんの方が好きなんだわ」
「なにもう奪う前提でいんのよ!?あーもう!わかったわよ!」
いじけたサターニャは早足で先に進んで行ってしまった。それを追うように自分とラフィが後をついていく。
今朝の憂鬱な気持ちが嘘のようだ。やっぱり学校は休まなくて正解だった。
今日もきっと楽しい1日になるのだろう。