「ここがボースか……」
ハーケン門での入国審査に手間取り、リベール王国のボースにリィンが到着した時にはもう日が落ち切ったところだった。
「まいったな……」
道中で狩った魔獣が落としたセピスを集めた袋を手にリィンは悩む。
手持ちのミラは少なく、セピスを換金しようと思っていたのだがすでにその手の店はしまっているかもしれない。
ただでさえ土地勘のない場所なのだから、換金に手間取れば今日の宿を探すこともままならなくなる。
「最悪は野宿か」
覚悟を決めて歩き出そうとすると、そこにリュートの音が鳴り響く。
「おや? そこにいるのはリィン君じゃないか」
「あ……オリビエさん?」
音に振り返るとそこには白い服を纏った気取った男が立っていた。
オリビエ・レンハイム。
自称旅の演奏家、愛の伝道師、漂泊の詩人にして不世出の天才演奏家。
彼と知り合ったのはエレボニア帝国で最もリベールに近い町、紡績都市パルムからの道中でたまたま一緒になったことからだった。
根っからの芸人気質と言うべきなのか、所構わず歌い出す迷惑でうざくはあるのだが憎み切れないとにかく不思議な印象の人だった。
「今、ボースについたのかい? 随分と審査に時間が掛かったんだね?」
「ええ、まあ……」
「ふむ、そうなると今から宿探しかね?」
「その前にセピスをミラに換金ですね。それをしないと食事もできませんから」
苦笑するリィンにオリビエがふむっと顎に手を当てて考え込み、提案した。
「それならいい店を知っているんだが、どうかね一緒に? もちろんボクの奢りでね」
「え……?」
そんな提案にリィンは最初は断ったのだが、オリビエの強引な説得に観念して夕食を奢られることになる。
入った店の名前は『アンテローゼ』。
もしも過去に戻れたとしたら、リィンはこの時の自分を何をしてでも引き止めていただろう。
当然、その時のリィンは彼がこれから引き起こす騒動を知る術はなかった。
*
「――リィン君を招待したボクはまずレストランのグランドピアノで一曲披露してから夕食を共にしたのだよ」
リィンの説明にオリビエが横から補足を入れる。
相変わらずオリビエとは狭い牢屋に二人きりだが、隣の牢屋に誰かがいるという安心感をリィンは感じていた。
「グランドピアノって、あんたリュート弾きじゃないの?」
「フッ、天才というのは得物を選ばないものだよ」
エステルと名乗ったツインテールの少女の突っ込みにオリビエは気取った仕草で応える。
実際に聞いたリィンも彼のピアノの腕前は確かなものだった。
そのレストランの支配人が専属のピアニストに彼を雇いたいと頼み込んだと聞いているが、納得できるほどの腕前だった。
「それでどうもオリビエさんは報酬をミラではなく、料理とワインで引き受けたそうなんです」
「それはオリビエさんらしいね」
ヨシュア、黒髪の少年も呆れた様子でリィンの補足に頷く。
「でも、それがどうして二人ともこんな牢屋に入れられることに?」
「ああ、ここからが聞くも涙、語るも涙の話なのさ――」
「えっと……ピアノを弾き終わってオリビエさんと一緒のテーブルで食事をしていたんですが」
仰々しく語り出すオリビエを無視して、三人の視線がリィンに集中している。
リィンもまたオリビエの語りを無視して説明を続ける。
「いろいろ話しながら食事をしていたんですが、ふいにオリビエさんが席を立ったんです……
トイレかと思ったんですが、戻ってきたオリビエさんの手には新しいワインのビンがあったんです」
「それで?」
「その時は単におかわりを取りに行ったくらいにしか思っていなかったんですが、どうもそれが高級なワインだったみたいなんです」
「え……? もしかしてワイン一本勝手に飲まれたから牢屋に入れられたの?」
信じられないと驚くエステルにリィンは苦笑する。
「そのワインは高価なもので、確か名前は『グラン=シャリネ』1183年物だったかな?」
「『グラン=シャリネ』っ! しかも1183年物ですって!? 王都のオークションで出た幻のヴィンテージワインじゃない」
その名前に声を上げたのは褐色肌の女性、シェラザードだった。
「ほう、シェラ君はなかなか詳しいみたいだね。ボクも噂に聞いてかねてから飲んでみたいと思っていたのさ」
「オ、オークションって……どれくらいの値がついたの?」
恐る恐るの様子で尋ねてくるエステルにリィンは顔をしかめながら答えた。
「50万ミラで落札されたものだったそうです」
「50万ミラ!? たかがワイン一本に!?」
「とんでもない世界だね……まさかオリビエさん、そのワインを……」
「フッ、言うまでもない。美味しく頂かせてもらったよ。
鼻腔をくすぐる馥郁たる香り。喉元を愛撫する芳醇な味わい。ねえ、キミたち、信じられるかい?
薔薇色に輝く時間と空間が確かにそこに存在したんだ……」
その時の瞬間を思い出すように悦に入って語るオリビエに三人の呆れたため息が聞こえた。
「もしかして、あなたも?」
「とんでもない。オリビエさんに勧められましたけど、俺は未成年ですよ」
シェラザードに疑いの声を向けられてリィンは否定する。
「それにそのワインはどうやらレストランのものではなく、この街の市長に頼まれて保存していたものだったそうなんです」
「なるほど。単純に50万ミラの損失じゃなく、レストラン側からすれば市長の信頼を裏切ってしまったことになるものね」
「ええ、その後は戻ってきた支配人がオリビエさんが持ってきたワインを見て怒り出して――」
最初はリィンも何が起きたのか分からなかったのだが、支配人が怒りながら捲くし立てるワインの価値に顔を真っ青にした。
なんとかオリビエに謝罪をさせようとしても、酔っ払っているのか何を言ってものれんに腕押しで言葉が全く通じない。
そうこうしている内に兵士がやってきてオリビエ共々、リィンは捕まりハーケン門の地下牢に入れられることになった。
「それは災難だったわね」
「巻き込まれたリィン君に同情するよ」
「やっぱりロクでもない話だったわね」
人の気も知らずにまだ一人で語っているオリビエに四人は深々とため息を吐く。
「ねえ、シェラ姉……この場合ってどうなるの?」
「うーん……市長が訴えれば訴訟になるはずだけど、リィン君の場合はオリビエに巻き込まれただけだときちんと証明できるかどうかが問題ね」
「どちらにしても入国直後に問題を起こしたことで、帝国へ強制送還になってもおかしくないね」
「…………やっぱりそうなりますか」
予想していた最悪を他人から言われてリィンはようやく実感する。
元凶を睨みつけても、彼はそんなことなどお構い無しに自分の話を延々と語っている。
そんな様子にリィンはため息を吐き、仕方がないと割り切る。
――元々、行き当たりばったりの行動だったんだ……
こんなことが起こるというなら、それはリベールという国に縁がなかったと考えるべきかもしれない。
それに仮にこの国に留まれたとしても、目的の人物を探し出して会えるとは限らないのだから。
「それなら次は……確かクロスベル……だったかな」
ユン老師、リィンの剣の師の言葉を思い出しながらリィンは小さく呟く。
「……リィン君、君はリベールには観光に来たのかな?」
「え……うん。まあ、そんなところです」
突然ヨシュアに振られた質問にリィンは歯切れを悪くして頷く。
「そう……てっきりカシウス・ブライトを訪ねてきたのかと思ったんだけど」
しかし、そんなリィンの内心を見透かしたようなヨシュアの言葉にリィンは驚きの声を上げそうになる。
「どうして……そう思うんですか?」
「八葉一刀流、リベール、クロスベル……この三つを繋げて考えれば自然とね」
「っ……」
八葉一刀流のことは話していない。
それに太刀は牢屋に入れられる時に取り上げられて手元にはない。
そもそも、彼と顔を合わせたのは一瞬だけ。
その一瞬でヨシュアが自分が八葉一刀流であることを見抜いて、リィンの目的を言い当てた。
隣の牢屋なのに鋭い琥珀の瞳を向けられている錯覚。
リィンは蛇に睨まれた蛙のような緊張感に喉を鳴らす。
自分と同じ年頃の少年のはずなのに、その瞳の深奥はリィンが想像できないほどに理解できない。
「ど、どうして俺が八葉一刀流を使うって分かったんですか?」
「え……? だってリィン君がさっきオリビエを殴る時に叫んでたじゃない」
答えたのは陽気な声音のエステルの言葉だった。
「…………あ……」
エステルの指摘にリィンは我に返る。
直前まで感じていたヨシュアからのプレッシャーは勘違いだったのか、牢屋の中の空気は変わっていなかった。
なんだか無性に恥ずかしくなってリィンは顔を伏せて、咳払いをする。
「お察しの通りです。俺はカシウス・ブライトさんに会うためにこのリベール王国にやってきました」
「へえー父さんって帝国でも有名なんだ?」
「え、父さん……?」
感心した声をもらすエステルにリィンは虚を突かれる。
それをおかしそうにヨシュアとシェラザードが苦笑する。
「そういえばちゃんと名乗っていなかったね。僕はヨシュア・ブライト」
「あたしはシェラザード・ハーヴェイ。カシウス先生は遊撃士としての私の先生よ」
「あたしはエステル・ブライト。よろしくねリィン君」
「俺はリィン・シュバルツァーです……本当にお二人が――」
「そしてボクは漂泊の詩人、オリビエ・レンハイム。リィン君とは徒ならぬ関係さ」
延々と一人語り続けていたオリビエが絶妙なタイミングで名乗る。
もちろん徒ならぬ関係というのはオリビエの口から適当に出てきた言葉だ。
なのだが、今そう言われるとリィンにとって致命的とも言える状況に追い込まれる。
「無性に殴りたいんだけど……」
先程は身の危険を感じて手を出してしまったが、今は苛立ちの感情に任せて殴りたいと思ってしまう。
武術を学ぶものとして、何よりも暴力を振るうことはリィンが最も忌避していることなのだが、それでも目の前の男を殴りたい欲求に苛まれる。
「いいんじゃないの?」
「むしろ僕達の分までお願いするよ」
「そうね、もういい時間だから静かにさせてくれるとありがたいわ」
隣の牢屋からリィンの意思を尊重する三つの言葉がかけられる。
それを免罪符にしてリィンは拳を握り締めた。
「えっと……リィン君…………優しくしてね……ポッ」
頬を赤らめて恥らうオリビエにリィンは最後の自重をやめた。
「八葉一刀流、八の型――」
意外と耐えたのでリィンはもう二発ほど殴ってからその日は眠った。
どこか満足そうに気絶するオリビエは気にしないようにした。