魔導兵 人間編   作:時計塔

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神になる男

 包丁がまな板を走る音が聞こえた。不眠症を患ってからかなりの月日が経つ。今日も嫌々ながらも早朝にその身を起こす。意志とは裏腹に、その体は健康そのもののようだ。

 その男は教師である。学園に赴任してから約半年が過ぎようとしていた。いや、正しくは夏に働き始めた、と言ったほうがいいのだろうか。

 彼は少々面倒な生き方をしている。ついこの間までは自らの殻に引きこもったまま時を止めていた。いわゆるニートというやつだったのだ。

 ただ、彼はニートでも生きていけた。それは金があるからとか、誰かが美味しいご飯を作ってくれるとか、身の世話をしてくれるとか、そんなレベルの問題ではない。(もちろんそれも含めて)

 

(おはよう左霧。今日はいい天気ね)

「朝から貴様の声を聞くと虫唾が走る。ただ、天気がいいことは良いことだ」

(今日は体育だものね)

「そうだ。女子学生が元気に走り回る姿を見ているのは微笑ましいな。教師になって本当によかった」

(あなたの目がいやらしいって最近会議であがっているのだけど)

「けしからん。俺はただ、最近の学生は発育がいいな、と」

(やっぱり、体育は私が受け持つべきね)

「いや、拒否する。メンドくさい仕事を頑張っているのだ。体育は俺にとって一種の清涼剤。断固反対だ」

 

 そう言うと、男は元気に立ち上がった。女のような顔立ちだ。目は細く、睫毛は長い。艶のある黒髪。豊かな胸とくびれた腰。正に、大和撫子とは彼のことを言うのだろう。残念なことに。

 

「き、貴様……また下着を変えたな! ぴ、ピンクは勘弁してくれ……」

(あら、好きにしろと言ったのはあなたよ。力を貸してあげる代わりに自由にしていいって)

「……ふん。そうでもしなければお前とは付き合ってなどいられないからな」

(分かっているじゃない。流石、前世からの恋人ね)

「虫唾が走る。せめて蒼色にしてくれ」

 

 自らの裸体に装着していた下着をそろりと脱ぎ、タンスから蒼色の薄い生地の下着をそろりと履いた。胸が崩れるのでもちろん上も装着。

 決して彼が変態だとか、特別な性癖だとか、女物の下着が大好きなのだとか、そんなことは決してない。

「やはり蒼色はいいな。男は海に憧れるものだからな」

 

 ――――決して変態などではない。女物の下着に慣れてしまうと、こんなふうに自然とそうちゃくできるようになる。男として、終わっている気もするが、そこは目を瞑ってやろうではないか。

 

(左霧)

「なんだ、今日は朝から騒々しいな。お前とは必要以上にコンタクトを取れたくないのだが」

 

 男は頭に鳴り響く声を鬱陶しそうに振り払った。そこには一切の容赦はない。昔から、としてこれからも、男はこの声の主と仲良くするつもりはない。

 ――――己の、宝物を奪ったから。

 

(今日も、頑張りましょうね)

「――――ふん」

 

 ただ、生きるためには、彼女が必要なだけ。

 運命共同体、などという大それた言葉はいらない。ただ、生きるためには、彼は彼女を、彼女は彼を、必要とする。それだけのことなのだ――――それだけの。

 今日も男は日向を進む。体を締め付ける薄い布生地の違和感には慣れない。締め付ける胸の抑えには多少慣れた。生理は三日前に止まった。

 男にとって、全ては当たり前のこと。月経も、初潮も、全て経験済み。

 霧島左霧は――――男女の体を併せ持っているのだ。

 

 

「おにーさま、行ってらっしゃいませ」

「左霧様、お気を付けて」

「――――ああ」

 

 女中と妹の見送りにも素っ気ない態度で接してしまう。決して悪気があるわけではない。頭の中は憂鬱な仕事内容でいっぱいいっぱいだからだ。

 魔術師だって金がなければ生きていけない。なんて世知辛い世の中か。今まで生きてきた中でこれほどまで、お金という存在の大切さを知ったのはつい最近のことだった。きっかけは、己の労働による賃金についての家族談義の時だった――――。

 

「左霧様、誠にお伝えづらいのですが」

「ならばいい。伝えづらいことを無理に話す必要はない。これでもお前のことは分かっているつもりだ。無理をするな」

「――――家計が火の車でございます」

「伝えなくていいって、言ったのだがな……」

 

 華恋の目は真っ直ぐに左霧を見抜いていた。これは冗談ではすまない事件なのだとそこから察することができる。左霧が生まれるその前から、おそらく母よりもずっと昔からこの霧島家に仕えて来た謎の女中。今は霧島家の家事全般を担っているが、その存在は左霧とて詳細は知らない。

 一つ分かることは、この女は容赦がない。主とはいえ、甲斐性がない奴であれば説教の一つや二つ――いや、下手をすれば鉄拳制裁とて厭わない。まるで彼女の前では左霧は子供に戻るしかないのだ。

 

「まぁ、左霧様も働き始めたということですし、その点については褒めて差し上げます。特に体育の時間はとても張り切ってらっしゃると右霧様から報告を受けております。――この変態」

「っく、右霧余計なこと……」

 

 華恋は汚物を見るような目で左霧を見下した。当主の貫禄などあったものではない。自らが失態を演じようならば、右霧がそれを随時華恋に報告し、左霧が説教を受ける。気の休まるところなどどこにもないわけだ。

 

「いい年をしてよくもまぁ、子供のようにはしゃいでらっしゃるそうですね。分かっているのですか? この職を失えば、この一家は路頭に迷うことになるのです。どんなにあなた様が偉大な存在であろうとも、この世は金で回っております。――変態であろうとも」

「変態って言うな! お前はそれが言いたいだけだろう?」

 

 言いにくいことをズバズバという。何だか華恋が楽しんでいるように見えるのは錯覚ではない。だが、左霧はこの感覚が嫌いではなかった。この女にすれば己は童子であり、手の平で転がされてもおかしくはない、とそんな風に思ってしまう。

 

「しっかりなさってください。桜子様も、もう小学性ですよ? 桜子様は左霧様を見てらっしゃいます。戸惑っていることでしょう。以前の左霧様とは雰囲気や感じ方が違う。それでもあなた様を兄と慕っておられるのです」

「分かっている、俺に似て賢い子だ。俺を父と知りながらもその言葉を口に出さないことが何よりの証拠だ」

「――――でしたら」

「俺に、父を名乗る権利などあるわけがない。育児放棄、いやそんなことすらどうでもよかった。ただ咲耶の死を嘆き、娘を託されたにも関わらず俺は殻に引きこもってしまったのだからな……」

 

 咲耶が残した忘れ形見。それが霧島桜子という少女だった。妻に似て活発で行動力のある性格。容姿は己に似ているかもしれない。

黒い髪、大きな赤い瞳、白い肌。

生えたばかりの鬼の角。

その姿を見る度に、自分が少女を汚してしまったのではないかという疑問に苛まれる。妻は他の誰かと結ばれ、幸せな家庭を築くことが出来たのではないかと。少女にも違う未来があったのではないか、と。

 

「あなた様がいなければ、桜子様はこの世に誕生しませんでした」

 

 華恋は全てわかっている。この男は軽薄そうに見えて、実は色んなことを抱え込んでしまう性格だということを。そのせいで、ひどく悩んでしまうことも。

 だから華恋は嘘偽りのない事実を口にする。もしかしたら、などという言葉は無意味であることを。

 

「愛してあげてください。それが、あなた様のこれからすべきことです」

「愛する、か。俺は愛情の注ぎかたなぞ分からん」

「簡単です。いいことをしたら褒めてあげる。悪いことをしたら怒ってあげる。――全力で」

「なるほど、それは、難しいな」

 

 親とは何か。家族とは何か。自らの幼少期を振り返ってみても、参考にするべきものは何もない。母からの愛情は一片も感じたことはなく、父に至っては不明、そもそも存在するのかすら分からない。

 こう思ってみると、結局自分は霧島家という生家を何も知らずに生きてきた。ただ、己は鬼の力を持ち、淫魔の力を持ち、神を討つ力を持たされたということだけ。

 

 

「おにー様? お返事は?」

「分かっている」

「分かっている、ではありません! わたくしが行ってらっしゃい、と申しているのですよ? しっかりなさってください!」

 

 不機嫌そうに兄を叱る妹。今でも信じられない、と左霧はマジマジと娘を見つめた。自らの肉体からこのような少女が生み出されたことが。あの時は、赤子だった少女がいつの間にか両の足で立ち、言葉を話し、感情をぶつけるようになるまで成長したことに。

 最も、朝飯をよくこぼすところは驚いた。そういえば、妻もあまり行儀が良くなかった。食事は楽しければ何も問題はない、と豪語していたくらいだ。本当によく似ている。

 

「あ、おにー様……」

「個人的には大人しい女が好みだが、自己主張できることは良いことだ。俺が悪かった。行ってきます」

 

 娘の頭を壊さないように優しく撫でた。少し驚いた少女は僅かに目を細めながらも、それを甘んじて受け入れた。

 これで機嫌が治るのなら、安いものだ。最近になってよくやく扱い方がわかってきた左霧はホッとため息をついた。とにかく、謝る。不満でも謝る。これをやれば娘は大抵大人しくなるのだ。

 

「今日の鍛錬が終わったらケーキが食べたいです!」

 

 もちろん、それだけでは収まらない日もある。一見大人びた雰囲気を持っているが、六つの子供であることは間違いない。我が子ながら欲深く、計算高いことに左霧は密かに将来を心配している。

 

「考えておこう。――――華恋、留守を頼んだぞ」

「承知しております。さぁ桜子様、いつまでもパジャマを着ていないで、制服に着替えましょうね――――そのパジャマは洗濯機に入れてくださいね。食べこぼしで悲惨なことになっておりますから」

 

 朝から頭の痛い会話を耳に入れつつ、左霧は仕事場に向かう。麗しき労働という名の地獄の時間が、始まった。

 

 

 

「この国は独自の文化営んでいる。例えば日本という空想の国を知っているか? そう、よく小説や映画にもなっているな。俺たちの国は、日本とよく似ている。日の丸の国旗も大昔は武士と呼ばれる者たちが闊歩していたことも」

 

「日本、という国は帝国主義なんですか?」

「違う。日本は、民主主義の国だ。戦力を持たず、平和的に物事を解決することに大義を求める――――まぁ一種の理想郷だな」

「その国では、誰が一番偉いのですか?」

「偉い、か。最高責任者という意味では内閣総理大臣という立場の人間だ。帝国でいうなら帝の宰相だな」

 

 例を上げて説明する。生徒が馴染みやすい話題を引っ張り込んで分かりやすく丁寧に。

 ベストセラーである『日の国』と呼ばれる小説は、その理想主義が故に検閲を喰らい今や出版禁止になってしまったが、それでもこの国の体制に不満を持つ若い子らは知っていた。

 

 

「その国は――――幸せなのですか?」

 

 

 流石に言葉が詰まった。生徒は純粋にそう聞いている。だからこちらも素直に答えるべきなのだ。幸せか、否か、の二択を。

 

「君は、幸せになりたいのか?」

 

 生徒は僅かに目を見開いた。他の者も、皆同じ目をしていた。

 左霧が授業を嫌う理由の一つがこれだ。楽しい話題など一つもない。歴史など紐解けば、国が作った我が国のための精神教育だ。これこそが正しい歴史、などこの世に一つもない。にも関わらず、生徒たちにそのことを教えることができない歯がゆさ――――。

 何にも勝る、生徒たちの不安げな瞳。何を頼って生きていけばいいのか、自分たちはこの先どうなるのか、その生に意味はあるのか?

 

 

「幸せになりたいわけではありません。ただ――――そんな国は有り得ない、そう思っても、私は自由になりたいのかもしれません」

「実に素晴らしい意見だ。ただ、それを口にすることはもうやめたほうがいい。非国民と疑われる可能性があるからな」

 実際、この学園にいる限りそのようなことはない。この学園は、生徒たちが最後の自由を手に入れるために作れた楽園。

 そう雪江が――――前の学園長が作り上げた政府非公認の学園。『雪ノ宮女学園』なのだ。

 

「自由など、自分で作るものですわ。坂崎さん」

「天王寺、さん」

 

 

 蒼色の髪が、風に揺られて彼女の頬を撫でた。ゆったりとした姿勢でそれを耳元にかけながら静かに少女は語る。

 

「自由による束縛、という言葉がございます。何をするにも自由、などという決まりが出来てしまっては何をどう決めたら良いのか、という悪循環に陥ってします。おそらく日本という国もそうならないように、ある一定の条件下でその自由とやらを謳っているのではないでしょうか」

 

 周りの空気が変わった。その少女は最近編入してきたばかりだった。しかし、誰もが彼女を知っていた。雑誌やインタビューでも取り上げられていた、あの天王寺グループの令嬢なのだ。その少女が、なぜかこの学園にいる。そんな事実を、周りの生徒はまだ受け止められずにいた。

 

「日本という国は、少々理想的過ぎますわ。民主主義などと大々的に打ち出してしまっては何をするにも民の言うことを聞かなくてはなりません」

「天王寺、それの何が悪いのだ? 民あってこその王ではないのか? それこそが国家の在り方ではないのか?」

「その通りでございます。ですが、民主主義とは優秀な王の下で行われるべき政治。民の言うことを聞くだけの王など愚の骨頂。ですから、滅びたではありませんか、日本は。信頼する民に裏切られて……」

 

 

 『日の国』の最終巻は出版禁止のはずだ。しかし天王寺ほどの者となると有害図書扱いのものまで回覧可能となるのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えている時間ではない。このまま一人の生徒に話を持っていかれては先生の威厳がなくなってしまう。

 挑戦的な目で見つめる少女を納得させるにはどうしたらいいか――――簡単なことだ。

 

「王が優秀であろうとも、国はいずれ滅びる。それは民がより優秀な王を求めている証拠ではないか。俺は日本という国が好きだ。例えばこの国は男女の差別がない。女性にも能力があれば高い地位を望むことができる。確かに日本は最後滅んだ、が、その意志が滅びたわけではない。最終巻で綴られたのは日本の意志を継いだ豊かで差別のない、戦争のない、まさに理想郷となった国ができたのだ」

「――――綺麗事です。所詮は小説の中のお話。現実は、帝国主義。圧倒的な物量こそが人を従わせるではないですか。そこに日本という国が太刀打ちできるのですか? 戦力を持たず、戦うことができるのですか?」

 

 小説の最後を知っているのは天王寺だけではない。左霧ほどマニアックな読書家になれば抑えるべきところなのだ。どうやって手に入れたのかはもちろん秘密だが。

 

「極論だな。その思想こそ、帝国の精神論を受けた者の意見だ。悪くはない。それこそが真に正しい、偽りのない帝国人の言いそうなことだ」

「――――何がおっしゃりたいのですか?」

 

 少し苛立った声で天王寺の令嬢は左霧を見る。その目は更に挑戦的な瞳をしていた。左霧の言葉がカンに触ったのだろう。つまり、そう言われることに対して不本意だということだ。

 

「いずれ帝国は滅びる。一人の者の手によってな。その時こそ、真の王とは誰なのか、分かる時が来るだろう」

 

 令嬢はマジマジと左霧の目を見ていたが、等々堪えきれなくなり吹き出して笑っていた。男の言ったことの意味が理解できたからだ。

 

「安心しろ生徒諸君! 君たちは解放されるぞ! 望まぬ結婚などしなくてよい! 未来は君たちのものだ! だから黙って俺の嫁になるがいい!」

 

 霧島左霧の発言は、その日会議にかけられた。様々な意味で彼は危険な状態にある。だが、生徒たちからの人気は依然として高いようだ。

 国語の時間と歴史の時間は生徒たちの楽しみになっていた。優しく丁寧に古文を教えていたかと思うと、歴史の時間ではこうやって生徒たちを口説こうとする。

 雪ノ宮学園で、今話題沸騰中の存在。

 その正体は、魔導兵と呼ばれる魔術師を超えた人工魔術師。

 

 この物語は、神を目指す男とそれを支えた魔術師たちのお話である。

 


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