魔導兵 人間編   作:時計塔

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色んな仕事

「それでは盟約により、天王寺家は霧島の軍門に下ります」

「ああ、そうか」

 

 天王寺領――中央区。

 広大な屋敷は瑠璃には少々広すぎた。己の力量を見定めることの出来なかった報いなのだろう。今、彼女は全てを失った。

権力も、人望も、富も。

それでも彼女は、その中でかけがえのない何かを手に入れた。

 それを言葉にすることはとても難しいけれど、決して悪くはない結果だと瑠璃は思えるのだ。

 なぜなら――――。

 

「瑠璃、行きましょう」

「はい、義姉様」

 

 久しぶりに寄り添った姉の背中は大きかった。いや、背丈は大して変わりはない。だが、その後ろ姿は頼もしく思えた。なぜだろう、姉という響きだけで妹というのはここまで甘えたくなってしまうのか。瑠璃は姉の胸へ今すぐに飛び込みたい衝動に駆られたが、目の前の男がいる手前なんとか制御することができた。

 

「左霧先――左霧さん。義妹のしたことは決して許されることではありません。本来なら死をもって償うべきです。魔術師の世界に優しさはいらない。そんな風に私たちは習いました。ですが、左霧さん。私はそれでも言います――――義妹に指一本でも触れてみなさい。刺し違えてでもあなたを殺してみせる」

「――――そうか。それはまた、約束と違うことになったものだ」

「ええ、ですから私が代わりに」

「義姉様、自分のことは自分でカタをつけます。ですから私は左霧様の下へ嫁ぎます」

「いいえ、瑠璃。あなたはまだ若いわ。結婚なんてあと一〇年早い。私が嫁ぎます。絶対に」

「……何の話をしているのだ」

 

 感動の仲直りは何処へ。彼女たちはいつの間にか結婚談義へと話を移行し、再び喧嘩を始めてしまった。どちらが左霧と結婚するのかという勘違いから発生した取り返しのつかない事態。どうやら瑠璃は、左霧が戦闘時に話したことを『プロポーズ』と受け止めてしまったらしい。それを姉に話したら百合は目を充血させながら瑠璃を罵った。結婚は女の墓場だとか、独身貴族こそ勝者だとか。そのうえで何故か自分が結婚するなどと言い出すものだから瑠璃とて納得がいかない。

 

「妻は一人で結構なのです。父の姿を見てつくづく思いました。よって私だけで十分なのです」

「それには納得、でも結婚には断固反対。あなたにはまだ経験が足りないわ」

「何ですか経験って? 義姉様はあるのですか? その経験とやらが」

「ある――――と思う」

「どっちなんですか?」

「と、とにかくダメよ結婚なんて、お姉さん認めません」

 

 あーでもない。こーでもない。左霧を置いてけぼりで勝手に話を進めてしまう二人。似たもの同時であるが故に、憎しみ合い、慈しみ合う。彼女たちは今、数年間の空白を埋めるように言葉を尽くす。時間は沢山ある、ゆっくりでもいい。だが、それでも言葉で伝えたい。己の感情をぶつけ合いたい。大好きだから。

 

「左霧様は私と百合姉さん、どっちがよろしいの?」

「こら瑠璃! ああ聞きたくない! 行き遅れと今が旬の若い生娘! どちらがいいかなんて聞かなくても分かるわ!」

「今が旬の生娘だな」

「聞きたくないったら!」

 耳を抑えながら行き遅れの痛切な悲鳴が虚しく響き渡る。

「が、どっちもいらん。結婚など、一度で十分だからな」

 

 その言葉に二人は押し黙る。

それは左霧が一度婚姻を結んでいることへの嫉妬。

そして、それ以上踏み込むことの出来ないラインを引かれたような気がしたからだ。

 

「左霧様、私はこれからどうしたらいいのでしょうか。私はきっと人として壊れた生き物です。今でも人を殺すことに何のためらいもありません。でもそれは私に限ったことではないはずです。あなたも、そしてお義姉様も、同じではないでしょうか?」

「ああ、俺も雪子に言われなければ人を殺すことに何のためらいもない」

「私も、沢山殺したわ……」

 

 人を殺すこと。生命を奪うこと。それは罪なのだろか。いけないことなのだろうか。そんな判断すら出来ないほど、彼らは人とは違う教育を受けていた。

 魔術師として生まれた者たちの究極を目指すため。

 魔王――――それこそが魔術師の頂点だ。

 

「左霧様、あなたは何を目指すのですか?」

「目指すものか。強いて言うなら安息だな」

「安息?」

 

 これから様々な変化が起こるだろう。力の均衡が大きく傾いた。他の勢力が放っておくわけがない。近々大々的な集会が行われるはずだ。その集会でこれからの左霧たちの運命が決まる。

 当然、安息などあろうはずがない。それでも左霧は目指す。永遠の安息の地を。

 

「ついていきます。どこまでも」

「好きにしろ。が、学校には通えよ。若者は勉学が優先だ」

「学園……私が通ってもよろしいんですか?」

「当たり前だ。学園長が、新しい学園長が許可したのだ」

「彼女は、私を許してくれますか?」

「彼女の母親はお前のせいで動かなくなったわけではない。元々寿命だったのだ。古い魔導兵は記憶媒体が少ない。一〇〇年も動いたのだ。それだけでも驚嘆に値する」

「だとしても、死期を早めたのは私のせいです……」

 

 瑠璃の表情は変わらない。どんな時でも合理的な判断を下さなくてはならない彼女は、それと引き換えに表情をなくしてしまったのだ。

 だが、あの壮絶な母親の愛を見せられたからなのか。今、瑠璃の心には確かに芽生えつつある人間らしさが彼女の体を震わせていた。

 どんな言葉も、無意味だ。左霧は押し黙る。結果的にそうなってしまったのは事実であるし、慰めなどかえって傷つけるだけなのだ。

 

「甘えるなよ、天王寺瑠璃。雪子はそれでも前を見て進むと誓った。お前を許したから学園に通うことを許可したのだ。――――お前が奪っていった無数の魂も含めて」

「――――はい」

「そしてお前は俺の軍門に下ったのだ。ならば俺の言うことを聞け。そして考えろ。お前と雪子の違いを。魔術師の在り方が変わりつつあることを。胸を張って生きろ。誰かに虐げられたとしてもそれでも胸を張って生きろ。この霧島左霧の従者として」

「誓います。血の一滴から髪一本に至るまで、あなた様の御心のままに」

「――――いいだろう。ならば俺もお前を守ることを誓う。黙ってついてこい」

 

 瑠璃は生まれて初めての感覚に陥っていた。胸がドクンドクンと高鳴り。心なしか体温が熱くなってきている気がする。

 妖気に当てられてしまったのか。そういえば目の前の男は淫魔の血を引いているのだとどこかで聞いた気がした。それでも瑠璃はいいと思った。この気持ちが、作られたものであったとしても、決めたのは自らの意志なのだから。

 義姉はそんな瑠璃の胸中を察したのか、寂しさと同時に精一杯の喜びを現した。

 

「瑠璃! 初体験は痛いってよく言うけどあれ嘘だから! だから思いっきりヤっちゃいなよ!」

 

 義姉は指をいやらしく動かし、輪っかを作り、それをもう一本の指で貫いていた。もはやこの女に婚期は訪れることはないな、と密かに左霧は手を合わせた。とうの瑠璃はその意味が分かっていなかったのだが。

 

「義姉さん、東野さんと仲良くね」

「だーれがあんなヘタレと仲良くなんてするもんですか! 私を置いて勝手に倒れちゃって! 役立たずもいいところよ」

 

 本当は違う。時雨は百合が倒れたあとも必死で結界を張り、百合の体を守っていた。百合は瑠璃のことで頭がいっぱいだったので己がどんな状況なのか判断できていなかったのだ。哀れな時雨の努力に二人は気の毒そうに思う。そんな時雨は応急処置を施し、現在は病院で安静にしているらしい。

 おそらくこの女をもらってくれる男といえば、時雨ぐらいだろう。

 

「さぁて! そうと決まればさっさとゼ○シィ買いに行かなきゃね! 待ってろよ私のバージンロード! ついでに私たちもマイホーム!」

 

 本人はそれに気がつかない。人生とは得てしてそういうものだ。

 戦闘のダメージも綺麗さっぱりなくなった恐るべき回復力に驚く隙もないまま百合は天王寺を去っていった。姉妹二人で帰る場所を見つけるために。瑠璃は天王寺を去ることにした。母を置いて去ることは心苦しいが、それでも自らの帰るべき場所を見つけたのだ。姉といる大切な場所を。当然母は半狂乱になって瑠璃を咎めたが霧島家の次期当主が出てきてとなっては何も言えなかったようだ。瑠璃をお願いします、という端的な言葉で逃げるように引きこもってしまった。

人間としても魔術師としても中途半端な女だ、と左霧が愚痴を零していたのがおかしかった。

そんな姉の頼もしさに瑠璃は改めて感謝した。たまにしか見せないところが残念ではあるけれど。

 

「――――雪子さんは?」

「ああ――――雪子は」

 

 雪子はあの後、もう涙を見せなかった。母を抱き上げてその体にキスをした。

 さよならのキス。そのあとは笑顔でこちらに振り向いた。

 その笑顔を見るたびに、左霧は女を思い出し、いつかの声が響き渡る。

 どうしてだろう。様々な疑問が左霧を襲う。それを無理矢理に片付け、精一杯笑顔を作る雪子を迎えた。

 

「どうしたい?」

 

 左霧はまず聞いた。雪子という少女が、これからどうしたいか、またどの選択肢を選ぶかを聞いた。

 それは残酷な話だった。だが、左霧はそれを聞くべきだと判断した。

 

「雪子、仇討ちだ。その女を殺すべきだ」

 

 セーレムの声が雪子の頭に響いた。霊力を補給しとりあえず声を出せるまで回復したようだ。毛を逆立たせながら怒りを浮かべている黒猫の姿が容易に想像できた。

 

「ダメよ」

「なぜだ、その女が憎くないのか?」

「憎いわ」

「殺したくないのか?」

「殺したい、のかもしれない」

「なら」

「それでも私は――――受け入れるの」

 

 許さなくては、と少女は笑った。誰かが憎しみの連鎖を止めなくてはいけないのなら、私がその役目を受ける。そう少女は語った。

 左霧は知っている。少女がそんなに強くないことを。心が引きちぎられそうになっていることを。

 ――――誰よりも我侭なことを。

 なぜ、それが出来る? 

 何もかもが似ている。

 

(……許してあげて。ねぇ左霧、彼女を)

 

「でも、やっぱりちょっと無理みたい」

 

 雪子はそう言うと先程から呆然と立っている瑠璃へと近寄り、その頬を強く打った。瑠璃の珠のような頬が真っ赤に晴れ上がり痛々しいそうだ。だが、誰もがそれを受け入れた。瑠璃も当然受け入れた。そのうえで笑っている雪子の考えが理解出来なかっただけ。

 

「どうして、笑っているの?」

「笑いたいからよ」

「嘘」

「うっさいわね。私がそう言っているんだからそうなのよ」

 

 腕を組み、そっぽを向く雪子。その姿はいつもの通りだった。いつもの通りに振舞っていた。

 瑠璃は俯いて両手を握った。己のした罪の大きさが、どれほどのことなのかをその体が感じているらしい。自然と肩が震えた。

 

「ごめ――――ゴメンなさい」

「言葉だけで許せると思っているの?」

「――――思ってない。でも私は、どうしたらよいかわからないの。あなたはどうしたら許してくれるの?」

 

 先ほど、許さなくてはと健気に笑っていたというのに今は意地悪そうに笑っているのだからタチが悪い。まるで弱い者いじめをしているかのようだ。

最強の魔女である瑠璃は今、生まれたての小鹿のように震えていた。それをひとしきり面白そうにからかった雪子は、ただ一言語った。

 

「学園に通いなさい」

 

 それはどういう意味なのだろうか。結局彼女から許すという言葉を引き出すことは出来なかった。

ただ、学園に毎日通いなさい。あなたは一般常識を学ぶべき、とだけ。

 瑠璃の贖罪の日々が始まる。それは辛く長い道のりだろう。だが、彼女はチャンスを作ることができた。雪子はチャンスをくれたのだ。その意味の答えを見つけることが瑠璃のこれからの目標だ。

 

 

 

 

 雪子は烏の森を潜り、『幻燐城』を訪れた。中央区から南へ少し行った場所にある全てが木々で覆われた地域。この地を訪れる者は自殺者か殺人者かの二通りだ。何もない、ただ虫の鳴き声が聞こえるだけ。行く手には永遠の闇は広がっている。全ての生きとし生きる者たちが敵となる恐るべき自然の要塞

 

 ――――ただ、ある者たちを除いては。

 

 

「霧島家へようこそ、雪子さん」

 

 絶世の美女がそこにはいた。どれくらい歩いただろうか。気がつけば深くなった霧の中をひらすら歩いた。そしていつの間にか霧が晴れたと思ったらそこには大きな城があった。木材で作られた芝居劇で見るようなあの城だ。周りは堀で埋められておりそこには水が流れ、外敵を拒むように出来ている。その城の門で、一人の美女が笑みを浮かべていた。

 どこか、あの人に似ていると雪子は瞬間的に思った。

 

「霧島、霧音様ですか?」

「ええそう、私が霧島家当主、霧島霧音です。遠いところから遥々ようこそ」

「あの」

「わかっています。その人形を修理なさりたいのですね? どうぞ中へ」

 

 人形、と呼ぶその声に何のためらいもなかった。霧島霧音――――自らの息子を人形に変えた母親。そして魔導兵計画の第一人者であり現在もその研究を続けているとされている。

 

「私が来ることを分かっていたのですか?」

「まさか。息子から連絡があったのです。驚きましたでしょう? こんなところに住んでいるなんて」

「いえ、そんな」

 

 澄んだ声が森に響き渡る。まるで霧音の声を邪魔しないように虫は鳴き止み、木々は黙りこみ、風はピタリと止まった。

 細い目を僅かに開け、口を抑え上品に笑う。目の下の泣きボクロすらも彼女の美しさを際立たせた。

全ての者が魅了される女。

故に世界は彼女を森に閉じ込めた。

誰も、彼女に会えないように。

 

「このお守りを持って烏の森を潜れば母に会える」

「お母様は、生き返るの?」

「違う。生まれ変わるのだ」

 

 魔導兵は死なない。その説明を一通り受けた雪子に、左霧は一つの提案をした。

 この世で、唯一魔導兵を修理できる者の名前とその住所を。

 自らの母の名前を――――。

 

「記憶は全て消える。生まれたままの状態だ。右も左も分からない。お前の、雪子の母親はもういない」

 

 それは初めに告げた通りだった。永遠のお別れ。例えまた会えたとしても、その時の雪江は全く違う存在になっている。何もかもが新しい存在へと。

 でも、それでも雪子は知っているのだ。雪江の性格も、匂いも、仕草も、あれも、これも、全てを。それを知りながら、新しい雪江を受け入れていかなくてはならない。

 それは、永遠の苦しみではないだろうか? このまま会えない方が幸せなのではないか? そんな雪江と付き合っていけるのだろうか? 家族に、なれるのだろうか?

 

「――――行くわ、私」

「……そうか。話は通しておく、あとはお前次第だ」

 

 左霧はそう言うと母親と連絡を取るために霧島家の使いへ伝達を渡した。今時、電話一本でどうとでもなるというのに。だが、左霧が母、と呼ぶときの機械的な声色が怖くて何も聞けなかった。時々、左霧はそのような特徴がある。主に自らの過去に触れることを聞かれた場合、強くその色を現した。だから雪子も『今』は聞かないでおいた。

 

 

 

 

 修理は滞りなく終わる、らしい。実際にその目で見たわけではない。丸一日霧音は庵に入り、修理にかかっていた。その間、雪子は城を見学する許可を得た。霧音の工房と自らの部屋以外はどこでも行って構わないという破格の許しを得て。

 すれ違う人は皆女ばかりだった。小さな子供から年老いた老人まで全てが女だった。今天王寺に出払っている魔術師たちも皆女だけなのだとか。一体どういうことなのだろう。

 その意味を知るのにはそんなに時間がかからなかった。

 

 着物を着崩した女が森から帰ってきた。バッグはパンパンに膨らんで今にもはちきれそうだった。

 見たところ魔術師ではない。魔力を持つ者はどこか違う気がする、とは雪子の直感なのだが、この場合当たりだ。彼女は全うな人間であり、ごく普通の一般人だ。

 

「――――女のお客さん、は珍しいね。ここは一見様お断りなんだけど」

「あの、わ、私、左霧さんに」

「左霧、様の? へぇまたこんな小娘を手篭めにしてあの御方も好き者だねぇ」

 

 ケラケラと笑いながら女は寝不足気味の瞼を抑えながら涙を拭いた。香水と汗が混じった独特の匂いと大人の女が醸し出す色気が雪子をより緊張させた。

 

「あの御方の紹介なら大歓迎さ。我らが霧島の唯一にして最後の男児だからね。また霧音様に似て綺麗な顔してるんだわ! 小さい頃にてぇつけとけばよかったよ全く!」

 

 悔しそうにタバコを吹かす女の愚痴を、雪子はただはぁと相槌を打つしかなかった。その間にも次々に女たちが森から帰ってきた。疲れている者、元気な者、泣いている者、笑っている者、色んな人がいる。いずれも魔術師ではない。ならば、彼女たちは何をしているのだろうか。

 

「あの、あなたたちは魔術師ではないですよね?」

「あ? ああそうさ。私たちは魔力を持たないただの一般人。霧島家とは何の関係もない外部から来た連中ばかりだよ」

「じゃ、じゃあ、一体何をしているのですか?」

「何って。そりゃ仕事をしているに決まっているじゃないか?」

「仕事?」

「仕事だよ仕事! あんたの母ちゃんだってやってただろう仕事! 魔術師だろうがなんだろうが仕事しなきゃ飯を食えないからね! 私たちは、まぁ言うなれば表の役とでも言えばいいのかね?」

 

 まぁやっていることは裏の仕事だけどね、と女はまたケラケラと笑った。明るくて元気な人だと雪子は好感をもった。タバコの匂いは好きになれないが、姉さん気質で頼りがいのある性格のようだ。

 そういえば、母は魔術師という職業だけではなく経営者という役割も持っていた。いくつもの子会社を持ち、雪ノ宮グループの筆頭だったのだ。ということは必然的に自分にその役割が与えられるわけで……。

 そこで雪子は考えるのをやめた。先のことをあれこれ言っていても仕方がない。ひとまずは、そう雪江を目覚めさせることだ。

 

「どんなお仕事をされているんですか?」

 

 察するところ、水商売か何かだろうと雪子は推測した。学園の付近にはそう言った店はないが、南区は特に大御所と言われるくらい金の回りが良く、商売も繁盛しているらしい。

 

「なんだいあんた? 左霧様からそんなことも聞いていないのかい? ははーん、あの人ったら言いにくかったのかね。そりゃそうよねぇ~、こんな若い子に、ねぇ」

 

 何だか自分が小娘と思われていることに腹が立った。それくらい知っている。お酒を飲んで歌ってネクタイを頭につけて寿司を家族に渡す、あれだろう? それくらい分かっている。一見様お断りくらい知っている何回も入ったことがある! 私を誰だと思っているの? 

 この時、雪子は何も分かっていなかった。知らなくても良いことだ。大人の階段を登り初めて雪子にとっては、知る必要などまだなかった。

 

「娼館だよ、しかも高級娼婦。まぁ偉い人とか金回りのいい人間としかやらないっていう」

「しょうかん?」

「嘘だろ? 娼婦だよ娼婦! 男と寝て夜を過ごすの!」

「オトコトネテヨルヲスゴス?」

 

 女は腹を抱えて笑った。この時ばかりは雪子も怒れなかった。本当にわからなかった。そんな曖昧な表現でわかる者などいるわけがないだろう、と呆然とした。

 ――――はっきり言ってください! なんて言わなければよかった。

 

「セ○クスするんだよ! それで金もらうの! 一つ勉強になったねお嬢ちゃん!」

「――――――――セ」

 

 ただの小娘であることを認めた。

 世の中、色んな仕事があるのだなと思った。

 いつの間にか雪子は倒れてしまった。

 左霧さん、どういうことですか? 

 


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