雪子は、左霧たちの戦いに目を離せなかった。
いや、離す暇がなかった。なぜなら勝負は一瞬の内についてしまったからだ。
左霧が呪文を唱えた時、彼の頭に二本の禍々しい角が生えそれから――――。
それから何が起こったのか分からなかった。瑠璃が目を見開き、防護壁を作った途端にそれを壁ごと突き破り彼女の前に接近した。
この惨状を招いた人物を、彼は軽々とあしらった。さっきまでフラフラだったニートが。
「左霧さん……」
雪子はその後ろ姿が別の者のような気がして近寄るのに躊躇した。母の体も心配だったが、あの男のことも、認めたくはないが確かに心配なのだ。
「私を、どうするつもり」
「戦争に負けた後の女がどういう扱いをされるか、聞いたことがあるか?」
瑠璃は間近に迫った左霧の顔から目を逸した。
もちろん知っているつもりだ。戦争で負けて一番悲惨な扱いを受けるのはいつも女だ。
それが自分の身に降りかかることなど思っても見なかった。惨めな自分の成り行きを、瑠璃は自らあざ笑う。
「左霧先生、お願い、やめて……」
「俺はお前の知っている左霧ではない。故にお前の言うことなど聞く必要はないな」
百合に見向きもせず、左霧は瑠璃の顔をぐっと近くに寄せ無理矢理視線を合わせようとする。無礼な扱いに慣れていない瑠璃はそれだけで顔が熱くなり思わず手を上げた、がそれも防がれ、腕を壁に押し付けられた。
「お、おやめなさい、あなたは一体なにを!?」
右腕の翔子が叫び声を上げた。が、そこから一歩も動くことが出来ない。その男の闘気に押された足が立ち竦んでしまったのだ。当たり前だ、瑠璃とて恐怖で頭がおかしくなりそうだった。それを守っているのはただ誇りのみ。それも今にも壊れそうなプライドだ。
「お好きになさい。ただ、部下たちに手を上げないで」
「そんな口が叩けると思っているのか? お前の部下は散々学園を襲い、人を襲ったのだぞ?」
「それでも、私の部下だから。勝手なのは分かっているつもり、だけど、お願い、します」
足が震えた。声が上ずっている。ああ、自分は小娘なのだと確信した。結局覚悟など出来ていなかった。死ぬ覚悟も、この男に純潔を取られる覚悟も。
情けない。情けない。だけどそれでも嫌なものは嫌なのだ。自然と涙が出てきた。それは悔しくて情けなくてただただ自分の為だけに流す、勝手な涙。
そんな彼女に左霧は言う。
「見てみろ。今から彼女の言葉を聞け。そしてそのあとにお前が何を思うのか。その言葉次第でお前の処遇を決めてやる」
「――――? 何を言って?」
「黙っていろ」
左霧は瑠璃を睨みつけゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。
自分の大先輩の、一生が終わるところに立ち会うことが出来た。
ボロボロになりながらもただ娘を思い、娘の為だけに生きてきた彼女。
――――雪ノ宮雪江の一生が終わる瞬間に。
「雪子や……どこにいる?」
「お母様!? 私はここよ? 目が覚めたのね」
「ああ、私の可愛い娘だ。ああ、可愛い、どうしてこんなに愛しいのだろう」
「お母様ったらまたそんなことを言って……いつも私を困らせてばかり」
「くっくっく……お前こそいつも私を困らせてばかりだったぞ。特のほら、初等部に上がりたての時ベッドに世界地図を描いたお前の芸術的センスには頭を悩ませた」
「お、お母様!? 何ですかいきなり!?」
雪江は自らの体を見つめた。なんと醜い体だろう。間接部分には人形のようにツギハギが施され、指の一本一本は今まで隠していたがネイルでもしなければ汚らしい乞食のようだ。
ずいぶん長い時間を生きたものだ。思えば自分が作られたのはおよそ百年前になるのか。当時は戦時下の中で食物一つに困っていた時代だった。生きることが苦しくて、貧しくて、だが、それでも生きることをやめなかった人類の輝きが眩しかった時代。
雪江は語る。静かに語る。これは未来へ向かう過去の亡霊からのメッセージ。
雪江という存在を残すための切実なる願い。
人類初の魔導兵から最後の魔導兵に託した最後の言葉だ。
「雪子、お前の、本当の親を殺したのは私だ」
「お母様……私の親はお母様よ? 悪い冗談はよしてください」
「お前の親はお前を人ならざる者へと変えた。よく聞け雪子、お前の親はお前を」
「やめてくださいお母様、どうしたのですか? そんなつまらない話、聞きたくないわ」
「――――魔導兵に変えたのだ」
――――魔導兵。それは人であって人ならざる者。死んだ人間の器に精霊を取り込み、霊力と魔力を同時に供給できるシステム。つまり精霊がいなくても魔導石と呼ばれる精霊の死骸を取り込むことで半永久的に魔力を作ることが出来る。魔術師たちの永遠の夢が叶えた愚かな兵器。
「私も左霧もそしてお前も人によって作られた傀儡だ。死んでいった幾万の精霊たちから作られた魔導石を媒介し、一度死んだ体をそれによって生かされている」
「死んだ、体?……」
雪子は母の言葉が信じられなかった。今まで人として生きているつもりだった。だけどどこか自分が他の人と違うのではないか、という違和感は確かにあった。身体能力や天才的な頭脳。それらがもし人に作られた物だったとしたら?
それにそうだ。あの時、自分は死んだのだ。翔子に殺され、そして気がついたら生き返っていた。それはどう説明する? 人間ならまず有り得ない。死んだ人間が蘇ることなどあってはならない。目を逸らし続けた現実がグルグルと雪子を襲う。
「私は、人ではなかったの?」
「――――その通りだ。お前は人類最後の魔導兵。魔導兵一〇〇番。コードネーム:イヴァと呼ばれた奇跡の魔導兵」
皮肉な話だ。人類の母であるはずの名前が、よりにもよって人ならざる者の名前に使われるとは。だが、雪子は何だかしっくりくるものがあった。ずっと違和感のあった事柄が一つ一つその枠を埋めていく。パズルのピースを合わせていく感覚。
雪江はなおも語る。それは雪子に伝えなくてはならない自らの贖罪。どうしても言うことが出来なかった事実。まさにこの時だからこそ言わなくてはならない過去。
「お前の親は、父親は前代の帝。女中との間に誕生した――――王位継承権十番目の娘。お前は正真正銘のお姫様なのだよ」
それは雪子の知られざる真実だった。
今から数十年前、帝国では魔導兵の研究が盛んに行われていた。宮廷魔術師と呼ばれる帝国直轄の術者たちがこぞって集まり、最強の兵器を作るために日夜駆り出されていた。
雪江はそのずっと前に作られた初代の魔導兵――――サンプル00などと呼ばれていた。当然研究を積み重ねていた魔術師たちは喉から手が出るほど欲しい玩具だった。雪江は帝国の申し出を再三にわたって断り続けた。だが、強気な姿勢を崩さない帝国に対して遂に承諾の旨を伝える。
もちろんそんな気などさらさらない。上手く潜り込んで研究対象の魔導兵を全て破壊してやろうと考えた。
守るべき者がなかった雪江はただの破壊神だった。戦争のために作られた兵器は対象がただ欲しかった。欲望のままに突き進むしか、なかった。
「お願い、この子だけは……」
名もしれぬ女は、カプセルに入った娘を抱きしめながら泣いた。その女を無気力な目で雪江は見下ろした。愚かな女だ。何をそんなに必死になっているのだろう。自らの命の方が大切ではないのか? この世界に、自分以外に大切なものなどありはしない。女の言葉が理解できなかった。
当然、雪江はその女を殺した。無力なただの人間の胸を大きく貫いた。
既にカプセルに入った子供たちは九十八番目まで破壊した。中には化物のような顔した赤ん坊もいた。殺した。ただ、欲望の赴くままに。
「……アァー……マァマァ」
九九番目のカプセルが音も立てずに開き、そして一〇〇番目のカプセルも同時に開いた。
アァー……マァマァ。アァー…マァマァ。
――――マァマァ。
「――――可愛いですか?」
一〇〇番目の赤ん坊から目を離さずにいた雪江に、声をかける女がいた。
美しい女だった。歳は二十前半位だったか。薄紅色の着物を着て、カラカラと下駄を鳴らしながら九九番目の赤ん坊をそっと抱き寄せた。
「その赤子は、お前の子か?」
「ええ、そうです。私のただ一人の息子」
「なぜ、魔導兵に変えたのだ」
「愛しているから」
その女はおそらく狂っていた。美しく微笑みを浮かべる女は、だけど狂気に満ちていた。その赤子は決して泣かなかった。この世に生まれたことを恨んでいるような、憎々しい目で母親を見つめていた。母親はそれでも息子をあやした。頬にキスをした。息子はそれでも母親を睨んでいた。
「あなたもわかるでしょう? 胸が熱くなってどうしようもない衝動に駆られる。愛して、愛して、愛してやまないこの抗いきれぬ母性! ああ、なんて、なんて愛おしい」
雪江は女の熱に浮かされたかのように一〇〇番目の娘を抱いた。少女のような雪江には少しばかり不釣合いな格好ではあったがしっかりと両の手で抱きしめた。
赤子は手を口に当てながら、マァマァ……アァーアァーとばかり言う。
キョロキョロと何かを探し求めている。それが何か、雪江は何故かわかった。
女の死体から白い液体が滲みでている。はち切れんばかりの苦しそうな胸からドクドクと母乳を吐き出していた。
赤子はそれに向かうため雪江の体から抜け出そうとした。そして血だらけの母親の下へ寄り添い、そして乳を吸った。美味しそうに、吸っていたのだ。
わっっと雪江は泣き出した。泣き出して赤子を抱き寄せて抱きしめた。赤子は嫌がり、遂には大声で泣いた。
その大きな声! 私はここにいるよ! そう叫んでいるような気がした。
その小さな手! 何かを掴むために必死で掲げた手は、虚空を舞いまた掴もうと手を上げる。
「愛してあげなさい。その人が愛せなかった分まで。それが、あなたの償いです――――私は、もうこの子を愛することは出来ないけれど」
女はそう言うと、霧のように姿を消した。まるで最初からそこにいなかったかのように。だが、女の言った言葉を少なくとも雪江には届いていた。
雪江という魔導平が母性を感じ、初めて愛を知った日だった。
それからはただ、償いという名の幸せな日々。
初めてハイハイ出来た日! 初めて両足で立ったあの日! 初めての食事! 初めての添い寝! 初めての躾! 初めてのお風呂! 初めての――――。
だけど、だけど、雪江は苛まれた。自分がした過ちと、およそ人とは違う自分に育てられた人ならざる少女。
もっと幸せな人生があったはずだ。敵の自分に育てられたなどと話せば、きっと自分は嫌われるだろう。怖かった。それだけが怖かった。何よりも、娘から拒絶されることが怖かった。
娘、そう思っていたのは自分だけなのかもしれない。何よりも血の繋がりを求めていたのは雪江だった。殺人者の戯言だ。
「雪子、すまない。私はお前に母と呼ばれる資格など」
「――――許しません。絶対に」
「――――そうか。そうだな」
雪子は『母』に怒る。
今までその事実を隠していたことに?
雪江が自らの母親を殺めてしまったことに?
――――否。
「どんなことがあっても、あなたが私のお母様であることに、変わりはないの。あなたが私の親を殺しても、あなたが人形であったとしても、血の繋がりなど関係ないと言ってくれたのは、あなた――――だから」
ああ、だからこの少女は奇跡の魔導兵なのだ。
雪江は今、この瞬間のために自分という存在が生まれたのではないかと思う。
だってこんなにも幸せだから。こんなにも満ち足りているから。
「私を育ててくれて、ありがとう――――大好きなお母様」
「――――――――あ」
名も知らぬ女中よ、すまない、と雪江は謝る。
私が恨めしいだろう、呪わしいだろう。さぞ、憎いだろう。
だが、一つ。
たった一つ決めたことがある。
私はどんなことがあってもこの子を渡す気はない。
盗人であろうと、殺人者であろうと、人形であろうと。
私はこの母性を狂っているとは思わない。
娘に捧げてきたこの一六年間がその証明だ。
地獄に落ちよう。喜んで地獄に落ちよう。
しかし私は生まれ変わる、何度でもその輪廻の輪から巡り巡って、あの子の下に還ろう。
「おかあ、さま?」
「長く、生きすぎた」
「いや、嘘よ、だって、お母様は、魔導兵なのでしょう?」
「魔導兵は死なない、か。それでもな、雪子、死というものは平等に訪れるのだ」
雪江はもう体全ての機能が停止していた。肢体全ての修復回路が絶縁状態だからだ。長いあいだ使い込まれた体は、魔導石の修復機能の負荷に耐えきれず自然と崩壊していく。
つまり魔導兵は永遠の存在などではない。されど、魔導石がある限りその命は生き続ける故に不死身と呼ばれているのだ。
――――そして死、とは。
「私は旧式だからな。記憶容量が限界だ。魔導兵の死は、記憶の抹消ということだ」
「何を言っているの? お母様?」
「もう限界なのだ、私は。とっくの昔に。今まで騙し騙しやってきたが。百年となるとさすがの私も疲れたのだよ。お願いだ雪子、お前との思い出まで消されていくくらいなら、私は全てをリセットしたい」
「そんなこと――――出来るわけがない! お母様は忘れても、私はあなたをずっと覚えているの! 私は? 私はどうするの? お母様がいなくなって、私はどうして生きていけばいいのよ!?」
雪子は何が何でも母親から離れまいと駄々をこねた。それは最後の抵抗であり、結末が分かっていても尚、その事実を否定したいからだ。いや、しなくてはならなかった。親子だから、親子だと思っているから。
「やれやれ困った子だ。いつもお前は私を困らせてばかり」
「そうよ、だってお母様の子だもの。私はこれからも」
「雪子、さらばだ」
「――――迷惑をかけるわ」
「雪子、愛している」
「お母様、お願い」
「雪子、どこにいる、もうお前の顔も見えない」
「一人にしないで」
「もう、何も聞こえない」
「おかあさ、お母様?」
人形は死ぬときどんな風なのだろうか。ネジが動かなくなるその瞬間まで言葉を綴り続けた母。
雪子は無言で母を抱きしめた。母の亡骸を抱きしめた。あの頃のぬくもりはもうない。これからももう感じられない。感じるのは己の鼓動のみ。
――――雪子、お前は今日から雪ノ宮雪子だ。
――――セツコ?
――――そうだ雪が降る時期に舞い降りた私の宝物だ。
――――宝物?
――――ああ、愛おしい、私の娘……。
――――オカアサン!
お母様、誰よりも尊敬する我が母。私を育ててくださった何よりも愛すべきお人。
私はもう泣きません。あなたがくれた強さがあるから。あなたが与えてくれた暖かさがあるから。
あなたの心は私の胸にあるから。
「だから、今だけは泣かせてちょうだい?」
雪子は大声で泣く。左霧は黙ったままそれを見守る。瑠璃も左霧に従いそれを見ていた。
これが母の愛なのか。この巨大で押しつぶされそうな愛が、母の愛なのか。
かくして、天王寺侵略戦争は一人の魔導兵を犠牲にして幕を閉じた。
「お母様―――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!」
一人の少女の悲痛な叫び声を残したまま。
一人の母親の愛に皆、恐るしかなかった。