「雪子、魔力の使いすぎだ。私はもう何もできないぞ」
「な、何ですって!? やっぱりあんたしょぼい精霊だったのね! チェンジよチェンジ!」
「失礼な! 私は精霊の中でも由緒正しいブリティッシュショートヘアだ! 貴族なのだぞ! 偉いのだぞ!」
「知らないわよそんなこと! ただの毛並みのいい猫じゃない!」
「毛並みこそ猫の誉れなのだ! これ以上の侮辱はいくら我が主とて許さぬぞ!」
雪子は先ほどの戦いにより一気に魔力を消失した。いや、雪子自身にはまだ魔力と呼ばれる力は皆無だ。セーレムとの契約によりセーレムの持っている魔力を間借りすることで一時的に強大な魔力貯蔵量を維持することに成功したのだ。
「雪子、お前にはまだ自ら魔力を生成する力はない。そんな状態で戦いに挑むのは愚か者のすることだ」
「でも! だからってこのまま放っておけっての!? 学園にはお母様がいるのに!」
「落ち着け。私に考えがある」
セーレムは雪子にある提案をした。精霊自体が持っている霊力(マナ)――――すなわち魔術師が持つ魔力の元素となる力をそのまま魔術へと転換させようというのだ。
霊力と魔力に大きな違いはない。ただ人間が体内に宿している魔術回路に馴染むよう変換された力が魔力、というだけのことだ。
しかしこれには大きな欠点がある。
「それじゃ、あなたは何も得をしないじゃない? 精霊は合理的な生き物なのでしょう?」
「ふっ……侮るな。お前の微々たる活力をもらったところで、なんの得にもならないからな」
セーレムは挑発するようにニヤリと小さな口元を歪めて雪子を見た。
ムカつく、その一言しか思いつかない雪子であったが、否定できない。
弱さを知ってこその強さ。そんな言葉で自分を納得させ、セーレムの指示に素直に従うことにした。
「それに、活力ならもらっているさ」
「え? 何ですって?」
「いや、独り言だ」
セーレムは雪子の強気で向う見ずな性格を危うく感じるとともに一種の好感持っている。
自分が面倒を見てあげなくては、という保護欲のようなものを掻き立てられるのだ。
そう、本人には口が裂けても言えないことだが、さながら娘と接しているような感覚だ。
自分のような老衰した精霊には若者の元気な力が必要なのだ。それが活力として与えられなくても雪子の存在そのものがセーレムにとっては活力になりつつある。
もちろん本人は絶対に言わないが。
「光の魔術とやらは燃費が悪いな。お前の先生はとんでもない魔術師だぞ」
「当たり前よ、この私の先生だもの」
なぜそこで雪子が威張るのか甚だ疑問だが、そんな些細なことなどどうでもよくなるほどの事態が怒った。
「う……そう、あなたはそこまで……そう、そうなの……」
翔子が立ち上がったのだ。灼熱の瞳をユラユラとたぎらせながら……目の前の相手をようやく外敵と見なしたのだ。戦うべき、滅ぼすべき相手だと。
「翔子さん、おやめなさい! もうあなたに戦う力はないはずよ!」
光の魔術は、決して人を殺める力ではない。魔力の根本的な部分を調和し、粒子へと還すことが目的だ。
つまり、戦意喪失。それを目的に構成された極めて珍しい術式なのだ。
「雪子さん、あなたは私の攻撃を無に還し、そして私の魔力を光へと還した」
翔子は空を見上げた。魔術は神が与えた力。それを神に還す魔術。さながら、神の使いとでも言うべきか。
だが――――。
「雪子さん、あなたは恐ろしい人よ。いえ、なってしまった。その力は魔術という存在そのものを否定する」
「否定……?」
「魔術は、神に抗うために神から与えられた力。あなたの信仰する神と、私――いえ私たちの信仰する神は違うのよ」
「私は別に神なんか信仰していないわよ。先生から教わったことを実践しているだけだわ」
「だとして、このことがわかってしまった以上、私を含めてこれから多くの魔術師からその命を狙われるでしょう」
翔子は何やらおかしな模様の書いてある小瓶を取り出した。その蓋を取り中身を飲み干す。セーレムはその様子をジッと見つめていたがやがて苦々しく雪子へと訴えた。
「……雪子、まずい。一旦引くことを勧める」
「馬鹿言わないでよ! 早くお母様のところに行かなくちゃっ!」
「奴の魔力が戻った……霊薬(エリクサー)だ! この女、調合の心得も持っているのか!」
霊薬(エリクサー)はその名の通り霊力を回復させる魔法の薬だ。その調合法は独自で、この時代に作ることのできる魔術師は少ない。翔子はその中の一人だということだ。
完全に積んだ、セーレムは判断した。故に撤退を指示したのだ。なにせ、雪子の魔力は微々たるもので、要である自分の霊力も底を尽きているのだから。
「私がなぜ瑠璃様の右腕なのか……それは決して魔術師として優秀だからではないの」
「……くっ……あつっ」
先ほどとは比べ物にならないほどの膨大な炎が校庭を支配し始めた。翔子は制圧作戦で既に消費していた魔力のまま雪子と対峙していたのだ。
つまり、これが翔子の真の力。
再び現れた双剣。
そして現れた炎の化身。
「おいでなさい、サラマンドラ。ええ、暴れていいの。もう、容赦はしないわ」
翔子は抑えつけていた感情を顕にする。背後に控えている炎の怪物を操る巫女は笑いながら無力な少女を見下した。
魔術師の本性が翔子を解き放つ。
「吼えろ、地獄の使者よ。全てを灰塵と化す死の雄叫びを上げよ!!」
「逃げろ、雪子!!」
セーレムの叫び声が聞こえる。だが雪子はその場を一歩も動けなかった。
立ちすくむことしか出来なかった。
「今度こそ終わりよ、さようなら――――紅炎(フレア)の踊り(ダンス)」
精霊サラマンドラは双剣を手にした。炎の戦士は踊り狂うように雪子へと突進していく。
叫び声が遠い。セーレムはまだ何かを叫んでいる。
また私は何もできない女の娘。
死の淵で雪子はただ、悔しかった。
炎に焼かれていく肢体を見つめながら雪子は謝る。
「先生、ゴメンなさい。私……」
母を思う。
「お母様、お母様……」
この日、雪子は生まれて初めて死んだ。
そして初めて魔術師としての敗北を知った。
※※※
「天王寺の魔女、一応理由を聞いておこうか。なぜ、私の学園を襲った?」
「帝国からの命令よ。サンプル0の破壊というね」
「帝国の犬に成り下がったというのか、天王寺は」
「うーん……その言い方はちょっと気に入らないわ、それ」
「グッ……グァァァァァ!!」
既に学園長室では事が終わっていた。さすがは一国一城の当主である雪江。最強の魔術師である天王寺瑠璃を前にしても引けを取らない戦いであった。
雪江の精霊である氷狼――フェンリルは果敢にも敵を恐れず力を発揮した。室内は氷漬けになっておりその激しさが窺える。
しかし、適わなかった。
たった一度の攻撃で雪江は精霊ごと粉砕された。
「じゃあ改めて聞くわね。この領地を私にくださいな。そうしたらあなたの大切な生徒たちは全員助けてあげる! あと、私を入学させてくださらない? 一度通ってみたかったの」
「…………断る。生徒たちは解放しろ。お前の編入は許可できん。さっさと消え去るがいい」
唾を吐くように雪江はそう切り返す。
瑠璃は別段怒ったふうでもなく、かと言って困ったふうでもなく、ジッと雪江から目を離さなかった。
帝国の命令――――という言葉は本当だろう。雪江は自らの出生を知っている。自分が人間ではないことも。戦うための道具であることも。
今更、過去を隠蔽しようとするところが、何ともこの国の腐敗した根幹を漂わせる。律儀に刺客を送ったところで別段害があるわけでもないのに。
雪江はただ、娘と、生徒たちと過ごす一日一日を大切に過ごしていただけなのだ。
「あっ……あ~……あちゃ~」
突然、瑠璃はひょうきんな声を上げ、わざとらしく悲しげな表情を作る。蒼色の髪が左右に動く。そのおかしな光景に雪江はとりあえず笑みを浮かべようとした。
が、次の瞬間、それは急激に襲いかかってきた。足元からガラガラと崩れ去るような感覚。宝物をどこかに無くしてしまったような喪失感。
雪江が、雪江を保つことのできる精神安定剤。
「え~……誠にお悔やみ申し上げます。あなたの大切な娘である雪ノ宮雪子さん? は先ほどお亡くなりになりました……もう翔子ったら殺すなとあれほど」
「……なんの冗談だ?」
冗談でも言って欲しくないことがある。
そんなことを想像するたびに、胸が締め付けられたような感覚に襲われるのだ。
そんなことは有り得ない。あの子は今安全な場所に避難してあるのだ。
賢いあの子は家でちゃんと留守番しているのだ。
私の帰りを待って。最近反抗期なのがちょっと心配なのだが、ふてくされながらもお帰りと言って迎えてくれるのだ。
「……あ、そっか。あなたは持ってないのね。雪子ちゃんはね、さっき学園に来たのよ。あなたを心配してね」
「嘘をつくな! 貴様、なぜ我が娘の名を知っている!?」
「嘘じゃないわよ。しょうがないわね、今見せてあげるから」
『ない』とは雪江に魔術感知の能力がないということだ。そのため、雪江はこの学園にどれほどの魔術師が潜伏しているか把握できていない。
そして、自らの娘がこの死地に訪れていることも。
「ちちんぷいぷいー、それっと。はい、これがあなたの娘、でこれが私の右腕の翔子です、じゃん!」
おかしな呪文を唱え映し出された光景。雪江は取り付かれたかのようにそれに魅入る。
何か、黒い塊が炎の中にある。
雪江はそれから目を逸らさずにいた。いや、逸らせずにいた。
その塊を蹴り上げている狂った女がいる。
ああ、この子は同じクラスの藤沢翔子じゃないか。雪子がクラスの子に話しかけてもらったとか喜んでいたなぁ。仲良くしてほしいな。
思考がぼやける。血が足りないのだろうか。裸のまま全身を切り刻まれた痛みは、不思議とこの間だけは何も感じさせない。
翔子が息を切らしながら黒い塊を蹴り上げる。
何をそんなに怒っているのだろうか。
いや、そもそもなぜこの子はここにいるのか? 右腕? つまり天王寺の手先だということか? これはいっぱい食わされた。内情が筒抜けではないか。
ようやく塊は炎から取り上げられた。真っ黒で何も分からない。
小さなビーズで出来たブレスレットが燃えずに残っている。
ああ、あれは雪子が小さな時、祭りの縁日で買ってあげた品だ。
馬鹿な子だ、あんなものをまだ……。雪ノ宮家の長女として恥ずかしい。
愛しい子。我が子。我が
がぁ?
「ひぃヒヤァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!? あ、あああああああああああ!? どう、どう、し、して!? せ、せつ、ゲホ! せつ、こ!?」
狂ったように悲鳴をあげた雪江に、瑠璃は少し驚いていた。先程まで脅しにも全く屈せず、一〇〇本の刃で肢体を切り刻まれても不敵に笑っていたあの女が。
たった、たったひとり、我が子を失っただけで壊れてしまった!
「ぜつ、ぜつご~~~~~! あぎっ! ぜつご~~~~! どうじで!? どうじで!? ごんなごと!?」
玩具を取り上げられた子供のように悲鳴を上げる雪江。
泣き叫び、涙の雨を瞳から流す。オロオロとそこらじゅうを彷徨ったかと思うと再び光景に目を移し、叫ぶ。
「ころ、ころ、殺してやる!! 絶対、絶対だ!! ああああああああああああ!!!! お前たちは、絶対に、殺す!!!! 決定事項だ、ああ許さん!! あああああ!!!!」
「聞くに耐えないわね。人形がどうして子育てなんかに現を抜かすのかしら? まぁいいわ、よいしょっと」
そして戦いはまた始まった。
守るべき者を失った亡霊と、聖人との途方もない戦いが。
勝算は目に見えていた。雪江は既に戦意を消失している。
だが、体がそれを良しとしない。体の奥から沸き起こる訳のわからない熱情にうなされながら、抗いもせずそれに従う。
なまじ体が丈夫なだけ、一発でとはいかないか。瑠璃は何だか哀れな気分に襲われる。
「クロちゃん、食べちゃって」
漆黒の化物は瑠璃の背後で唸る。
髪を逆立てながら怒り狂う雪江を前に鼻を鳴らしながら悠々と突進した。
「シネェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!!」
「愚かな人形。親子共々さようなら」
吹雪が怪物を襲う。氷塊が怪物の肌をえぐる。徐々に怪物の体が氷漬けにされていく。
「ガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
一喝で全てをなぎ払う。室内は轟々と灼熱の息と化し、フィールドは一変した。
一秒だ。一秒で、瑠璃は雪江のテリトリーを犯した。
雪江は悟った。何もかもを失ったのだと。
何もなかった自分に、何かをくれた存在を。
願いは届かない。
だって自分は人形だから。
神様は人の願いしか聞かない。
だけど雪江は願う。
刹那の中で、ただ願う。
あの子を守ってください、と。
最後の瞬間、瑠璃は顔を歪めた。
その光景を見つめたまま。
その表情を見つめたまま、雪江は瞳をゆっくり閉じた。