罠だった。それに気がついたのは百合が落ち着きを取り戻した時だ。左霧と時雨に抑えられ叫び声を上げながら呪文(スペル)を唱える百合。
灼熱の業火を司る『天王寺』の呪文、それは天王寺の縁者だということの証。時雨はそのことを知っていた。
大財閥である東野家と魔術の総本山である天王寺。それに一体どんな縁があったのかは不明だが、とにかく彼らには傷がある。
深い傷が。
私と同じくらい。
左霧は胸に秘めた熱望を抑えつつも、百合の肩を支える。
人の心は弱い。
それを補う力が魔術だと言うのなら、
魔術師は、とても弱く儚い存在だ。
「西区は囮ってこと……?」
「はい、統率された動きと少数精鋭。おそらく、天王寺はほぼまとまりつつあるのです。ゴメンなさい、僕の情報は混乱を招いただけでした……」
何をやっているのだろう。左霧は自らを殴り飛ばしたくなった。秀蓮という男を倒してから三年あまりが過ぎているのだ。いつまでも派閥同士のくだらない争いを起こしていたら天王寺といえど弱体化の一途を辿るに決まっている。
しかし、彼らの力は衰えを知らない。今回は単純に砂上や東野が桁外れに強い魔力を秘めていたため、苦戦することはなかった。だが、明らかに精錬された魔術師が増えていることは確認できた。彼らは恐怖に怯えこそすれ、勇猛果敢に立ち向かってきた者も多かった。その場合、ひとり残らず塵芥に変わってしまったわけだが。
おそらく、カリスマ性を備えたリーダーがいるに違いない。直感に頼ることは好きではないが、そう捉えざるを得ない状況のようだ。
「そんなに落ち込まないでください、左霧先生。こうやって西区を潰せただけでも、俺や――――百合は満足ですから」
時雨はそう言って百合を一瞥した。一方の砂上はバツが悪そうに彼から視線を外し、黙ったままだ。仕方がない、というふうに時雨が肩をすくめる仕草をする。何だかお似合いの二人だと左霧は心の中で笑った。口に出そうものなら恐ろしいことになりそうだからだ。
「二人とも、ゴメンなさい。私、教師失格よね。こんな、感情に流されるような人間なんて……」
「百合先生は、立派な方だと思います。ですが、どんな事情があれ、集団行動を乱すことは決してやってはいけないことです。それは生徒ですら分かっていることです」
後輩に説教され、小さくなる百合。それを時雨が小さく笑い、睨まれる。そんなことはおそらくわかっているのだろう。それを知っていても許せないこと、などいくらでもある。だからこそあまり強く言う必要ないと判断し、左霧はこの話題に区切りを付けた。
これ以上おかしな行動をとるのなら、『見捨てる』という選択肢もある。だが、それは『霧島右霧』の判断であって、『左霧』の判断ではない。
甘い男よ、あなたは。左霧は心の中で愚痴を吐いた。
「急いで戻りましょう。――嫌な予感がします」
「――どうやら、その方が良さそうですね……見てください、あれ」
「黒衣の集団……間違いない、天王寺だわ」
北東の空が急に暗くなった、と思いきやそれが徐々に近づいてくる。まるで闇が押し寄せてくるような感覚に三人は戦慄を覚えた。
「西区に誘導させ、北区の本陣から襲いかかる……踊らされっぱなしですね」
「冗談言ってる暇はないわよ時雨! 学園が、私たちの生徒が!」
「休校中です、が部活動や委員会などで残っている生徒もいます。まさか、生徒に手を出すほど天王寺は落ちぶれているのですか?」
「こんな手を打ってくるほどの策士です。僕は十分有り得るかと」
念のため、休校中で本当によかった。万が一に、と学園長の判断は正しかったのだ。だというのに自分はまんまと相手の罠にかかってしまったのだ。
甘かったのはどちらか。状況を見ていなかったのはどちらか。
感情に流されていたのは、誰か。
焦る気持ちを無理矢理押さえつけ、三人は来た道を走る。時雨の魔術によって体は驚く程軽い。それでもどれくらいの時間がかかるか分からない。
お願い、無事でいて。
左霧の、右霧としての思いが『奇跡』を起こすか。
審判の時は、近い。
※※※
「翔子、状況を知らせて」
「はい、瑠璃様。現在学園敷地内を完全に包囲。生徒たちは全員一箇所に集めました。先生……魔術師の連中も全て制圧完了。残りは学園長のみです」
「霧島左霧は?」
「……捜索中です、がおそらく西区の調査へ向かったものかと」
「そう……その程度の人物ということ――いや――そう判断するには早計か」
覇王、天王寺瑠璃は、その手についた血を振り払い前を見据えた。
加賀英孝、竜胆涼子、篠田加奈女は既に絶命していた。
それは大きな何かに食い潰され、または踏み潰されたかのように限界を留めていない。
まるで勝負にならなかった。相対した瞬間に彼らは負けを悟った。対する瑠璃は、彼らに見向きもしなかった。
うるさい虫を払うかのように軽々と命を弄ぶ。最もそれは瑠璃だけに留まらず、百合や時雨、左霧にも言えることだ。立場が違いだけ。敵か味方の死が変わっただけなのだ。
魔術師は力こそ全てであり、それ以外の感情は邪魔になる。どこか聖人にも似た表情のまま瑠璃は今、学園長室の重い扉を前にしている。
「生徒たちはいかがいたしますか?」
「むやみな殺生は好かないわ。私たちの敵は魔術師のみよ。最も、脅しの材料にはなってもらうけど」
この状況を瑠璃は何とも思っていない。策を弄して敵を倒すことは古来から伝わる戦術だ。もちろん正々堂々と戦うことも好きだが、簡単に落とすことができるならそれに越したことはない。それを卑怯と呼ぶ連中など蹴散らせばいいだけの話。
父はそれを嫌ったが、だからこそ愚かだったのだ。瑠璃は愚かで大好きだった父のことを思い出し少し感傷に浸る。
「――――あら、これは……」
「侵入者です。私にお任せください」
「――――そう、殺さないでね。だけどやるからには徹底的に、ね」
「御心のままに」
魔術探知――優秀な魔術師は自分の系列とは異なる魔力を感知すると即座に居場所を特定できる能力を持っている。瑠璃はこの区に来た時からずっと監視していた獲物が自ら巣に引っかかったことに歓喜した。
翔子を一瞥し、瑠璃は扉を開ける。その様子を確認したあと、藤沢翔子は頭を上げて自らの額に浮かび上がった玉のような汗を拭い取る。
あのお方は人を殺すことを何とも思わない。だからこそ、『彼女』が入ってきたとき、嬉々として自ら出向こうとした。翔子はさりげなくそれを阻止したのだ。
「雪子さん、まだ早いわ。まだ――――」
先ほどの侵入者は、雪ノ宮雪子。今日の目的である『雪ノ宮雪江』の娘だ。
母親がもう数分で殺されるであろうこの時に、一体無力なこの娘は何をしに来たというのか。
来てはダメ、あなたまで殺されてしまうわ。翔子は焦燥に駆られながらも雪子の味方になることはない。翔子は天王寺の魔術師であり、瑠璃の右腕だ。この学園に侵入したのも、スムーズにことが済むよう下調べをするためだったのだ。
もっとも、こんな面倒なことをしなくても瑠璃ならば簡単に占領できただろう。圧倒的な兵隊の差。加えて瑠璃のカリスマ性と実力。負ける要素が一つもない。
いや、あった。しかしその異分子は現在ここを離れてしまっている。天王寺を知りすぎるが故に、間違った選択をしてしまったのだ。西区は既に瑠璃の派閥に組みしている。雪ノ宮を襲った連中も全て瑠璃の配下たちだ。天王寺はほぼ瑠璃に屈したと言っていい。例外的な連中もいるが、それも時間の問題だ。
西区に向かったのも霧島左霧の判断だろう、と瑠璃は予想した。おそらく派閥争いで分裂した天王寺の中でもっとも勢力の弱い西区を狙い撃ちにし、情報を取り出そうとしたに違いない。
「甘いわ、先生。瑠璃様は全て存じていた」
最初の襲撃からことは既に始まっていた。雪ノ宮を焚きつけて霧島左霧を離脱させる。彼と彼女は少々厄介だと瑠璃様は言っていた。天王寺の内部を知っている唯一の人物で、父を殺した怪物だと、霧島一族のことを嬉しそうに話していた。自らの父親を殺した人物にも関わらず賞賛していた点については今ひとつ理解に苦しんだが、瑠璃という覇王の考えることは所詮参謀役にしかならない翔子には理解出来るはずもなかった。
「戦いたい、けどそうも言ってられないわ。感情を優先する人間ほど愚かな者はいない」
自分の感情を押し殺し、合理的に考えた結果、左霧を学園から離脱させることになった。おそらく西区に向かうだろうという瑠璃の予想も的中。
西区は確かに天王寺領の中で一番小さな地域だ。もし、翔子が天王寺を手に入れようという野望を抱いた場合(ありえないが)まず落とすべき拠点という点でも左霧は間違った選択をしているわけではない。
ただ、裏をかかれただけだ。相手が悪すぎた、というだけのことだ。
わざと西区の警備を薄くし、その分の兵隊は全て北区から中央区まで充てられた。
雪ノ宮にこれだけの兵隊を割いた理由は、雪ノ宮がそれほどの実力を持っている、ということではもちろんない。
天王寺に喧嘩を売ればどうなるか、そういったプロパガンダが必要なのだ。天王寺瑠璃はここまでやる、だから黙って従え、という暗黙の了解が必要なのだ。
翔子は早足で校門まで向かう。雪子をここに入らせてはいけない。天王寺の魔術師は容赦しない。魔術師に半人前などない。あるのは強いか、弱いかの二つだけ。
弱肉強食だからこそ、守るべき者がいなくてはならないのだ。
瑠璃は明らかに雪子を殺そうとしていた。あの聖人のようなお方は自らの邪魔をするものに容赦しない。そして味方するものに最大限の慈悲を与えるのだ。
翔子は雪子を止めるためにそして瑠璃の命令に従うために雪子を倒さなければならない。
出来るだろうか。いや、できる。あんな小娘一人、なんてことはない……。
しかし、だが、自分は甘いのか?
「翔子、さん? あなた、どうしてここに?」
「――――雪子さん」
時間は翔子に猶予すら与えなかった。
学園で交わした会話。
接点はそれしかない。
自分に微笑みかけてくれた美しい少女。
私とは大違いだな、と思った。
自分は下賤な生まれで、こうやってスパイのような行為をしながら生きてきた。
裏切りと血みどろの世界。
どうしてこんな世界にあなたは入ってきたの?
知らなかったら美しいままでいられたのに。
「気をつけろ雪子。魔術師だ」
「……翔子さん、あなたは、何?」
精霊を連れている。黒い猫だ。猫の精霊なんて珍しくもない。だが人の言葉をしゃべれるなんて珍しい。
どうでもいい。翔子は雪子の目を見据える。あれは怒りだ。憤怒だ。賢い子だ。自分を一目で敵とみなしたその判断、テストなら花丸をあげたい。
「言葉は無用よ、雪子さん。わかるでしょう?」
「お母様はどこ!? そこを通しなさい!」
「無駄よ。あなたでは瑠璃様に勝てない。そして、私にもね」
烈火の炎が翔子の周りで渦巻いている。プロミネンス――太陽の周囲に吐出する紅炎をそう呼ぶ。それが翔子を中心に踊り始めた。翔子はそれを操る炎の怪人となり雪子を睨みつけた。
「どうあっても、戦うの?」
「あなたが、お母様を救いたいのであれば、ね」
「どうして学園を襲ったの!? どうして私たちを!」
「サンプル0を破壊するためよ。帝国からの勅使……命令でね」
「何を、言っているの?」
「雪子さん……いえ、ラストナンバー……あなたは自分のことを知らなすぎる。それは罪よ。無知は罪」
雪子は怒りのあまりに恐怖を忘れていた。だが少し冷静に相手を見てみると、そこには炎をまとった怪人が笑みを浮かべながら自分を喰らおうとしている。
恐怖――それを感じるのは当然だ。あの悪魔と相対したとき、雪子は何一つできず、怯えていた。
今は助けてくれる先生は、いない。縋る者は何もない。
また、私は逃げるの? お姫様のように守ってもらうの?
――――冗談ではない。
「光の加護はいつでも私とともある」
「――――光の、魔術?」
翔子は僅かに躊躇した。目の前の少女がそこまで力を付けていたとは予想外だった。今、スペルを唱え、自分の知らない力を身にまとった相手に思わず見惚れてしまった。
例えるなら、神話の女神、アルテミス。戦女神、ヴァルキリー。そんな単語がフツフツと浮かび上がる。
黄金の女神、その杖を振りかざし、大地に実りを与えたもう――――。
「面白いわ、遊んであげる」
自分を少しでも驚かせたお礼に一瞬で楽にしてやろうと、翔子は呪文を唱える。
「我、求めるは深紅の刃。全てを切り刻む熱風の剣と化せ! いでよ紅神剣!」
翔子の前で踊る紅炎がその姿を変えた。
ドロドロとしたマグマに変わり、やがてその中から赤く燃えたぎる剛剣が二本浮かび上がった。巨大な剣は空中に浮かびあがり、翔子を守る騎士となる。
「もう一度言うわ、雪子さん。おやめなさい。今ならばあなたを痛めつけなくて済むの」
「いやよ。ここで逃げたら、何も変わらないの。私は魔王になる女よ」
「残念です。腕の一本は、覚悟してください!」
手を空高く振り上げ、翔子は双剣に命令を下す。
遂に翔子は攻撃に移った。その深紅の剣は、まるでその血を求めるかのように暴れまわり、雪子へと向かっていく。
「光は常に私と共ある」
地を走り、空を駆ける二つの剣。雪子にそれと戦う力も魔力もない。
雪子にできるのは、先生に教わった一つの魔術だけ。
「守るための力」
誰かを守ることなんて雪子には出来ない。だが、せめて自分の体くらいは自分で守りたい。
半人前以下と言われてもいい。
私は、私のできることをやりたい。
「雪子さん、これでおしまいよ!」
赤く燃えたぎる二つの剣は、雪子へと振り下ろされた。
勝利を確信した翔子。当たり前だ。勝って当然であり、負けることなどあってはならない。
実力差は歴然。敗北の確率は零に等しい。誰がどうみてもそうなるに決まっている。ああ、そうよ、当たり前。どうして戦いを挑んだの、雪子さん? 馬鹿な子ね。ええ、本当に!
なんだろう。これは、なんなのだろう。
ざわざわと感じる嫌な予感は。
手応え? そう手応えがない! 人が苦しむ時の悲鳴、舞い散る血しぶき、倒れふす肉塊。
胸が痛い。動悸が激しい。私は勝ったはずだ。勝った。勝ったのだ。勝った――――。
「よし、初めて成功したわ。今度はこっちからいくわよ!」
なぜ、声が聞こえる?
「先生ゴメンなさい! 約束破っちゃいます! 汝に神の怒りを与えん! 爆ぜろ光爆!」
たった今、死んだはずの少女は、不敵な笑みを浮かべながら神に祈りを捧げていた。
何とも信仰心のなさそうな少女なのに。
どうして神様は彼女の言葉を聞くのだろう?
というか、爆ぜろて……。
翔子は色んな疑問が走馬灯のように浮かび上がった。
しかしその光を見たとき、とても自分の魔力量では防ぎきれないことを悟った。
一体なんなのかしら? 本当に。
規格外すぎて、もう私には無理です、瑠璃様。
薄れゆく景色の中で、翔子が見た最後の光景は慌てふためく雪子とそれを呆れながら見つめる黒い猫の姿だった。