まだ、彼だった頃。彼の中にいた私は表に出ることはほんとんどなかった。
私は緊急時に発生する自動制御システムのようなものだ。
左霧という男が危険な状態に陥った際にあらゆる手段で彼を守ることが私の役目だった。
「左霧様」
「咲夜、どうした?」
「今日は満月でございます。見てください、あんなにはっきりと」
「咲夜は月より団子だな。もうそんなに食べてしまったのか? 俺の分も取っておいてくれればよいものを」
「誰が花より団子ですって?」
「誰もそんなこと言ってないだろ……まぁそのとおりなのだが」
「左霧様、食事は、戦争でございます」
「意味がわからん……それよりも、その、なんだ」
「何ですか? 左霧、様」
「……お前、わざとやっているだろう?」
「クスクス……ゴメンなさい、左霧」
こんな甘ったるい会話を日常的に聞く羽目になった私はとても災難だと思う。
彼には許嫁がいた。それも飛びっきりの美人で、気立てもよく世が世ならお姫様という身分だったはずの女だった。
どういう風に転がってしまったのかは分からないが、彼らは相思相愛だった。狂気の成れの果てか、それともそうなる運命だったのか。
運命――――。
「お呼びでしょうか、咲夜様」
「右霧……よね? ゴメンなさい、声だけだととても判断できなくて」
咲夜様は、黒髪を真っ直ぐに伸ばした日本人形のような人だった。
失礼なことは承知だが、語彙の乏しい私にとってはそれが精一杯の表現の仕方だ。
もはや現代に残る生きた文化遺産のように古風で、箱入りで、体の弱い、普通の人間だった。
しかし、その心は、誰よりも気高く、誰よりも強靭で、生まれながらの品位を備えた者というのはこういう人を言うのだろうか、と初めはただ、驚いた。
私は精霊だから人をどうしても低く見てしまいがちだが、咲夜様は別だった。あと一応左霧も、か。
左霧という男は生まれながらにして化物だった。
膂力強く、賢く、悪しき者。
生まれながらの悪。
世を乱世に陥れる存在。
そんな言葉で囁かれ、彼は隔離されていた。
彼の傍にいるだけで、彼の気にあてられた者は彼を愛してしまう。一生、彼を愛して、衰弱し、死んでいく。
迷惑このうえない特性だ。彼の一族、霧島家は『淫魔』の血を受け継いだ魔術師で、更に彼には特別な能力があった。
それは華恋が詳しいのだが、この淫魔の一族である霧島家は大昔に呪いを受け、男児を孕むことのできない体になってしまったのだとか。
霧島家から生まれる男児は鬼子、西洋でいう『悪魔』と同列に扱われ、忌み嫌われている。そのため、臨月の際に男児と判断されればその場で命を断ち、その存在を闇に葬るのだ。
ならば、なぜ霧島左霧という男が存在するのか。
それには霧島霧音という女の企みを知ることが一番手っ取り早いが、それは無理な相談なわけで。
これは推測なのだが、左霧の素体に問題があるのではないかと思う。
ここまで敢えて詳しい話はしないでいたが、左霧は『心は男で体は女』
性同一性障害だったことが原因なのではないかと私は思う。
いや、体は女、というわけでもなく『両性(アンドロ)具有(ギュノス)』で、わかりやすくいえばどっちも出来ますってことだ。
顔立ちと胸部と性器が女。性格と性器が男。
それならばこの者は何者か。
しきたりに則り、殺すべきなのか。
紆余曲折あったが、彼の生命は誕生した。
詳しいことは知らない。彼とあったのは魔導兵として契約した、彼が六歳の時からだからだ。華恋はその前から彼を知っている。
強すぎる彼の力を抑えるのが私の仕事でそれが私の生きる意味だった。
誰からも愛される力。
それは素敵なことだろうか。
決して、そんなことはなかった。
彼はそれと同時に抗えぬ殺戮衝動を抱えていた。
霧音様はそれを大層嫌い、彼を離れへ幽閉した。だが、必要な時は彼の力を必要とした。戦争用の道具としてこれほど便利な物はないと思ったのか、それともこうすることでしか彼に安らぎを与えることが出来ないと判断したのか。
長くなったが、その犠牲になった一族の一人娘が木ノ花家。
『木ノ花咲夜』といった。
代々、『癒し』と呼ばれる魔術を扱い、東北の血で細々と暮らしていたこの一族。争うこともなく、ただ人を助け、その日の糧を貰うような生活を営んでいたのだとか。
「私はお父様と二人きり、小さな家で暮らしていたの」
「それは、災難でございましたね」
「ええ、そうね。今でも霧音様と左霧をこの手で殺してやりたい」
時々、咲夜様は私を呼び出して恨み言を吐いていた。それは私が決して告げ口などをせず、淡々と機械のように相槌を打っているだけの存在だったので、咲夜様も安心していたのでしょう。
甲信越の深い山の森の中。そんな場所に連れ去られた哀れな姫君を、私は形だけ労わることにしていた。
「でもね、右霧。でもね、ダメなの」
「はい」
「私は、あの人が愛しいの」
「そうですか」
「あなたは、どうなの?」
「私……?」
「そう、あなたは彼をどう思っているの?」
咲夜様は無垢で無知だ。左霧がどのような力を持っているか知らない。その力に既に囚われていることを知らない。
自分が、九九番目の妾だということ、知らない。
初恋をした少女のように頬を桃色に染め上げて、彼女ははしゃぐ。
私はそれをどこか冷たい眼差しで見ていた。
愚かな、女だと。
「私は、私ではありませんから」
「私ではない?」
「私は存在してはならない者。私は彼の契約精霊であると共に、彼を支える道具です。道具は意思を持ちませんから」
そう言った私を咲夜は済んだ瞳で見つめていた。
いや、燃えるような熱い眼差しで私を見ていた。私はそれに気づかないふりをした。怖かったから。何が怖いか、それもわからず、ただ怖かった。
九九番目。そんな末端の女など、敷居を跨ぐことすら許されない。
しかし咲夜様はその権利を得た。左霧の寵愛を手に入れたのだ。
それはこの土地で勝っていくための力の証だ。その頂点に彼女は君臨することが出来たのだ。
左霧の妾たちは屋敷にいるが、お互いの面識はない。自分だけが左霧の正室であると信じて疑わなかったため、争いは起こらなかった。
いや、争いなど起こるはずがなかった。ただ、愛するという行為だけに囚われた者だから。嫉妬という感情すら持ち合わせていないのだろう。
「左霧、抱いてあげて。私たちの子よ」
「子……俺の、子?」
「そうよ、頑張ったんだから」
「…………そうか」
泣いている。これは赤子だろうか。
左霧の意識があるときは、私は基本的に眠っている。
だけどこのとき、しっかりと聞こえた。
生まれた。声、うぶ声。元気な赤ちゃん。
ああ、
あああ、
ああああ、
そうか、私は。
「この子をお願いね」
「何を言っているお前が産んだのだ」
「でも、無理みたい」
「俺も無理だ。お前がいなくては」
「困った人、まるで子供のようね」
人から愛された男は、一人の女を愛した。そして一つの命が誕生した。
出会い、愛し合い、命が生まれる。
魂の循環。
私には許されないこと。
私には出来ないこと。
私は孕めない。
私は抱けない。
「右霧」
「はい」
「この人とこの子をお願いね」
「無理でございます」
「あなたまでそんなことを言うの」
その言葉は咄嗟に出てしまった。普段の私なら決して出来ないなんて言わない。どんなことでもやってみせた。それが私の役目だったから。
だけどこの時ばかりは、ダメだった。頭が熱くて、クラクラした。
でも、赤子は泣く。途方もなく、泣き叫ぶ。
「あの人、大丈夫かしら」
「左霧は案外ヘタレですから」
「それは――――確かに。けど殺戮衝動の方が」
あの男はいざという時に必ずヘマをやらかす。今だってそうだ。自分には無理だと言って逃げてしまった。肝心な時はいつも私だ。あの子が子供の頃から怒られるはいつも私だった。
あの子は成長した。ずっと見ていたずっとずっとずっとずっとずっと見てきた。
これからもずっと一緒だ。変わることはない普遍の事実。
私は彼。彼は私。写鏡のような存在。離れては、ならない。
「私が守ります」
「右霧……」
「左霧もその子も、だから安心してお眠りください」
咲夜様はあの日のように熱くユラユラと燃える炎のような瞳で私を見つめた。
何を考えているのだろう。動機が激しい。悟られるな。そんなことばかり考えた。
「決して」
「はい」
「お願い、決して――――」
わかっておりますとも。稚児はいずれ、父親を殺し、その屍の上に君臨するでしょう。
それが霧島家の力の継承術。あの強大な鬼の力を引き継ぎ、そして霧島の繁栄を助けることでしょう。
「右霧、お願い、決して――――」
ああ、なんて素敵な子。可愛い子。愛しい子。
私の子。私だけの子。
頬を摺り寄せて匂いを嗅ぐ。ああ、乳の匂いがする。太陽の匂いがする。
「決して――――」
黙れ!!!!
ただ、子を孕むことしか出来ない哀れな娘の分際で、私に逆らうか。
全てを委ねよ。全てを受け入れよ。
お前はもう、必要ないのだから――――。
咲夜様は死んだ。さぞかし幸せな最後だったでしょう。愛する者の前でその生涯を閉じたのだから。
だけどね。
だけれどね。
思い通りになんてさせない。
私は変えてみせる。私はこれからこの子と生きるの。
この子の兄という存在で、生きるの。
本当は母になりたい。姉でもいい。
だけどきっと霧音様が許さない。
殺戮衝動を押さえ込むという肩書きで私はこれから表に出続ける。
左霧として、ね。
この子は私が産んだ。母は私。父は左霧。それでいいの。きっとそれがいいの!
霧音様はきっとこの子を自分の子であると公表するでしょう。不愉快極まりないが、しかし逆らったところで何ができるわけでもない。
そうしておけば、万事丸く収まるの。
そして私たちは小さな家でひっそりと暮らす。この子を育て、やがてくる継承の儀まで。
それが私のタイムリミット。その時までは幸せに暮らすの。
以後、この子を妹として扱う。そう脳髄にインプットする。そうすることでこの計画をあらかじめなかったことにする。
来るべきその日まで。この森から抜け出す、その日まで。
あの子を冷たく扱うかもしれない。
自分のことでいっぱいいっぱいになるかもしれない。
ゴメンネ。許してね。
だけど必ずここから抜け出してみせる。
この人と、あの子を連れて。
いいでしょ、それくらい。だってあなたは愛してもらったのだから。それでおしまい。はい終了。
そんなに恐ろしそうな顔で見ないでちょうだい。私からすれば、あんたたちみんな泥棒猫のようなものなんだから。
私は子供の頃から左霧を見てきたの。だから私が一番なの。残念でしたまた来てね。
渡さないわ。絶対に。残された時間を、私は幸せに過ごすの。
そのためだったらなんだってしてやる。
だって私は光の精霊なんだから。
神の使いなんだから。
彼を愛していいのはこの私『霧島右霧』だけなのだから!!