「暇だわ……いざ休みとなると私ってば何もすることがないなんて」
「だからって何故私のところに来るのですか?」
「あんたに会いに来たんじゃないわよ、先生……はいないか、やっぱり」
「左霧様はお仕事です。なんでも、西区の方に出張だとかで」
「西区ねぇ…………お母様は学園には近寄るなっていうし、ほんと、何なんだか……」
「さぁ……お茶です、一応客人ですから。一杯だけですよ」
「こんな粗茶ごときで一々ケチくさいわよ、ってなにこれ美味しいじゃない」
「ただの粗茶です、霧島家の畑で採れた一番茶でございます」
華恋の持ってきたお茶を堪能しつつ、雪子は怠惰な毎日を過ごしていた。魔術の練習に来ているのだが、先生は不在のままで一向に教えを乞うことができない。それでも教えられた魔道書の音読や呪文の反復練習、体の鍛錬は行っていた。自分が成長していることを実感できない毎日に焦燥感のようなものを感じつつある雪子。やはり一人では限界というものがあるのだと実感した。一人で何もかもやってきた雪子には今、先生という存在が必要不可欠だった。
それは決して恋愛感情とか、そういった安っぽい(雪子は恋愛をそう考えている)言葉では例えられない。
心の底で、雪子は左霧という存在を尊敬している。当然口が裂けても言えることではない。死んでも言わない。日記に誰にもばれないように書くくらいだ。
とにかく、早く先生に会いたい、勉強したい、強くなりたい。押し付けがましい女と思われてもいい。
早く、あの満面の笑顔が見たい。人を慈しむ、まるで聖母のような笑顔。困ったような笑顔、何でも笑顔で片付ける優しい人。
雪子が心おきなく接することの出来る数少ない人物なのだ。
「何か、大きな事件でも起こらないかしら」
「また物騒な……雪子さん、言霊という言葉をご存知ですか?」
「知ってるわよ、言葉には魂が宿るってやつでしょ」
「その通りです。お気を付けください」
「はいはい、説教ならセーレムで間に合ってるわよ」
華恋の言葉に雪子はうるさそうに耳を塞いだ。それを雪子の精霊であるセーレムは見逃さない。すかさず姑のように小言を発する。マリンブルーの瞳を厳しく尖らせて、しっぽをピンと伸ばしたまま、その可愛らしい姿に似合わず、荘厳な声が雪子を咎めた。
「雪子、女中の言葉を軽んじるな。お前はもう魔術師なのだぞ」
「出たわね、黒雲母。あんたも信じる口? 悪いけど、私は非科学的なことに関しては実証がない限りはくだらないと断言するわよ」
「誰が花崗岩か……魔術師は安易に忌み語を使ってはならん。お前の言霊には魔力が宿るのだぞ」
「言葉に、魔力が?」
セーレムと雪子の漫才はともかく、どうやら雪子は自分が軽率なことをしているのだと気が付いた。魔力を体内に宿す者は、魔力を言葉に乗せてしまうことがある。その言葉の意味を理解し、そうなりたいという強い願望が強ければ強いほど言葉は具現化し、運命を捻じ曲げることがあるのだ。
「……お分かりいただけましたか? 雪子さん、魔術師とは人ならざる人、なのです。あなたは自分が危険な存在に近づいてることをお忘れなきように」
「わ、分かっているわよ! けどゴメンなさいでした!」
「素直なところが雪子の良いところだ」
年齢不詳の二人にたしなめられ、少し居心地の悪い雪子。そんな雪子を若いな、と思いながら静かに見つめる黒猫。若いな、と思いながら私は永遠の一八歳だと信じて疑わないダントツ最年長の女中。
そんな三人のやり取りを見計らったかのように先程まで小さな木刀で素振りを繰り返していた桜子が学校の体操着のまま全速力で近づいてきた。ちなみに体操着はブルマではないので過度な期待はしないでください。
「雪子さん! おはようございます! にー様は留守なのでお帰りください!」
「おはよう妹。笑顔でひどいこと言うわね」
雪子に悪態をついているのとは裏腹に勢いよく抱きついてきた小さな体に思わずびっくりした。ビックリしたのはいきなりだったのと、その体は羽のように軽いことだ。この年の子というのはここまで体重がないのか、と関心して雪子は自分の体の肉を桜子にくっつけようとした。もちろんそんなことは出来ない。魔術師とは不便なものだと雪子は悔やんだ。
「それ、楽しい?」
「はい! ちっとも楽しくありません!」
「だよねーその気持ち死にたくなるほど分かるわ」
木刀を地面に叩きつけて汗を撒き散らしている桜子からちょっと距離を置きつつ、雪子はその努力を賞賛した。なぜ素振りをしているかという理由については、桜子自身もよくわかっていない。ただ、先生の役に立ちたいと華恋に進言したら木刀を渡されてひたすら振れと言われたのだとか。どう見てもお仕置きにしかみえないが、桜子はその意に諾々と従っている。
「桜子様、今日の鍛錬は終わりましたか?」
「ええ、もちろんよ、華恋」
「嘘はいけません。あと千回残っているはずです。さぁお戻りを」
「う……華恋、数えてたの?」
「華恋は桜子様を常に見ておりますよ。例えどこで何をしていようとも私は決してあなた様の傍を離れません」
華恋は厳しい声で桜子の嘘を見抜いた。と同時に我が子を見るかのような愛おしそうな目で恥ずかしげもなくそう言った。聞いている雪子ですら背中がもぞもぞしてしまう。
一方の桜子にとってはどんな言葉でも嘘を見抜かれたという罪悪感があり、素直になれないようだ。ぶすくれたように頬を膨らませていたが、渋々と師匠の言うことを聞いた。
「……それが終わったらおやつにしましょう。今日は桜子様のお好きな羊羹をご用意しましたから」
「まぁ! すぐに終わらせてみせるわ! まるごと一本残しておいてね!」
「なかなか、渋いチョイスね……」
どうやらこの一族は和を尊ぶ慣習があるらしく、食事も和食が中心で、家の作りも畳、襖といった具合にとことん和にこだわっている。
これは案外、すごいことなのだ。この国はほとんど他国の風習に侵食されつつある。例えばクリスマスやバレンタインデーなど。これらは全て外国から伝わってきた文化で、もう完全に定着してしまっている。まぁクリスマスというのは本来教会にいってミサを行うという大切な儀式があるし、バレンタインデーはそもそも製菓会社の促進などにより情報操作されてしまったため、女性が男性にチョコを送るという習慣になってしまったのだ。
そんなわけで、この情報が渦巻く混沌の世の中で、ここまで我が国を愛し、古きを尊ぶ者はおそらく限定されてくる。
一つはこの国を愛する者。一つは古い考えにしか興味のない時代錯誤な者。一つは情報が届かない場所に住んでいる者。もしくはその全て。
もっとも、雪子は和が嫌いではない。自分の家が洋式を重んじているためか、興味深い物が多い。なんといってもこの開けっぴろげな感覚が好きなのだ。昔の人は人の繋がりを大事にした。どんなものでも受け入れて茶を振舞い、談笑する。そんな昔の古き良き時代を彷彿とさせるこの空気に好感を持てる。人嫌いで有名な(?)雪子のような人物でも外面では悪態をついているが、華恋も桜子も受け入れてくれるのだ。
「それにしても、千回って……一体何本やらせてるのよっ!?」
雪子は先ほど桜子が投げ捨てた木刀を拾い上げようとした、がその重量に思わず腰が抜けそうになった。両手でようやく持ち上げることができたが、それでも手が震えて一歩も動かせない。ヤバイ――そう思った瞬間桜子の小さな手がパッと雪子の手を支えた。
一瞬目を疑ったが間違いなく桜子の小さな、小さな手だ。しかし明らかにケタ外れの力で雪子を支え、尚且その身を保っている。
有り得ない。なぜなら比例しなのだ。先ほど羽のように軽かった桜子の体重と、この恐ろしいほどの怪力が。
「雪子さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ、ありがと……」
「いえ、それでは私は鍛錬に戻ります。どうぞごゆっくり」
腰が抜けそうなほど重かった木刀を無邪気に掲げ、桜子は離れた場所からひたすらに振るう。その姿は年端のいかない童女にしては、どこか達観したような雰囲気があった。
「何だか、随分と変わったわね、あの子」
「そうですか」
「大人っぽくなったっていうか」
「そうですか」
「まだ二ヶ月しか経っていないのに」
「そうですか」
「おかしいわよね、あの子」
「…………」
この前までは兄がいなくて不満ばかり漏らし、自分に噛み付いてきた少女は、楽しくないと言いつつも木刀を振りかざし鍛錬を怠たることはなかった。それは雪子とて同じことだ。だが、人とはどうしても怠惰な生き物であり、したくないことを長く続けることの出来る人間など、ほんの一部に過ぎない。遊びことに熱心になるはずの少女は、雨の日も風の日も、文句こそ言うが、それでも言われたことはキチンとこなす。育てる側としてはこれほど楽なことはない。
「今まで甘えていた分の、反動ってやつ?」
「そうだったら、どんなにいいか」
「何? その煮えきれない返事? 気になるんだけど」
「雪子、人の家の事情に口を出すものではないぞ」
「そうだけど、あんたは気にならないのセーレム? あんたは知らないでしょうけど、あの子この前まで先生のべったりで文句言いたい放題で手もつけられなかったのよ?」
「子供とは、得てしてそんなものだ」
「何それ、あんた家族いるの?」
「ノーコメントだ」
遠い目をしたセーレムにこれ以上問いただすわけにはいかなかった。この数日をセーレムと過ごしていたが、どうやらこの黒猫も苦労猫らしい。伊達に年を食ってるわけではなく、いつも冷静なのは、家族を持ち、苦労をしたことがあるためならば納得できる。どこか母に通じるものがあるのはそのためか、と一人雪子は感心した。
「雪子さん、桜子様をどう思いますか?」
「生意気なガキね。成長したら更に面倒になると思うわ」
「そうでしょうか。私は、桜子様はその逆だと思います。成長するごとに、桜子様は、その感情を閉ざしてしまう気がするのです」
「何それ、人である以上、感情はついてくるのよ。どんなに人間味のない奴でも、多少の感情は持っている。持っていない奴は、クズの証拠よ」
「そう――ですね。私が間違っておりました。どうか、末永く桜子様を見守ってくださいませ」
「? あんたも先生も人に面倒なのを押し付けないでよね」
どうにもこの家族は桜子という少女を自分に押し付けようとする節がある。それは育児放棄というものではないだろうか。そうだったら許すわけにはいかないが、この前の溺愛っぷりを見ていればとてもそうは思えない。
しかしその答えを安易に出すわけにはいかない。それはまるで運命を確定されたかのようで、嫌だった。なにか、そうなにかが、
――――いや、やめよう。先ほど言霊のことについて注意を受けたばかりだ。雪子は曖昧に言葉を濁し黙ることにした。
「――――――む」
「――――――やれやれ、物騒ですね」
セーレムと華恋の空気が変わった。そのすぐあと、北の空が一瞬で黒く染まる。まるでその辺だけが太陽の恩恵を失ってしまったのではないかと疑うくらいに漆黒の闇に包まれた。
「何、あれ? ……人? 嫌な予感がする……」
「どうやら、穏やかではないようですね」
華恋は空を強く睨みつけ、その動向を伺った。黒い塊は進路を変更せず、真っ直ぐに物凄い勢いでこちらへ向かってくる。
やがてそれは霧島家に迫り、通り過ぎていった。
「――――クス」
「――――あ?」
何か、笑い声が聞こえた気がして雪子は空を見上げた。だが、それはほんの一瞬で誰かまでは特定出来ない。
馬鹿にされたわけではなく、何か子供のイタズラを許してくれる母のような笑い声だった。
「見逃して、くれましたか」
「いや、おそろくこちらに興味がなかったのだろう」
何事もなかったかのように警戒心を解いた二人はホッとしたように再び縁側でくつろいでいた。先程まで、強い魔力の波動を感じたが、華恋も魔術師の類なのだろうか。だが今はそんなことよりもあの集団だ。
「あっちは、学園の方角じゃない!?」
「そうですね――――桜子様、今日の鍛錬はおしまいです。それとお外に出ることも禁止です」
「えー!? どーして!?」
「どうしても、です。さぁ羊羹を用意してあります。麦茶と一緒に召し上がってください」
華恋は桜子を奥へ入れ、自らは縁側に立ったまま目を閉じ呪文を唱えているようだ。
「陰陽、身固、式神、我が意に従え」
「セーレム、今の何?」
「結界を張っているのだ」
「結界? この家は結界を張ってあったはずよ?」
「たった今、その結界は破壊されたのだ。先ほどの集団の長に、な」
「な!?」
だからなのだろうか、華恋の目は以前と先ほど集団が通り過ぎた方向をキツく睨んだままだった。黙っていればそこから飛び出さんばかりの殺気を放っている。
それは雪子とて同じだ。どうやら学園に何か用があるみたいだが、あそこには母がいる。そしてこの嫌な予感。不意に言霊のことを思い出し、雪子は背筋を凍らせた。
「大丈夫です、雪子さん。言霊はよほど強い魔力を帯びた者にしか扱えません」
「なら、いいけど」
「あの旗……黒い太陽を象った家紋、天王寺です」
「天王寺が、家になんの用って、決まっているか……」
先生から教わっている。魔術師が自らの領土に侵入してきたのは戦いの証。この数日慌ただしかったのはそのためか。雪子は途端に先生と母に対する怒りが募る。なぜ、自分に相談してくれなかったのか、相談してさえくれれば、
「何もできませんよ、雪子さん」
「――――わかっているわよそのくらい!」
何も出来ないとわかっていたからこそ、母と先生は相談しなかったのだ。悔しさで涙が溢れそうだ。この数日のんきに過ごしていた自分が情けない。非日常とは唐突に現れるのだ。それを今、雪子は肌で感じていた。
「我々にできることは、ただ主の帰りを待つのみです」
「私は、待っているだけの女なんて嫌よ」
「……お好きにどうぞ、私たちは人の世に関与することを禁止されているので」
「人の世に生きていながらそれを言う? 高みの見物とは随分なご身分だこと」
華恋は目を閉じたまま動かない。どうやら本当に気にならないらしい。その態度は雪子を苛立たせたが、しかしそもそも華恋には直接関わることではない。筋違いであることを受け止めて、雪子は急ぎ学園へと向かっていった。セーレムは当然そのあとに続く、主を守る騎士のように威風堂々とその尻尾を立たせたまま。
「学園は任せろ女中。お前は、お前のすべきことをなせ」
「私に命令していいのは左霧様と桜子様だけです、がその言葉ありがたく思います」
固く握り締めた拳は下ろしどころを失くしたまま空中をさまよう。
自分は無力だ、という悔しさを噛み殺し、華恋はその場所を動かない。
「私は、私のやるべきことを」
霧島家には一歩も近づかせない。そう言い聞かせ、先程から気配を消していた者共へ一瞥を下す。
「霧島家、秀蓮様の敵だ」
「許すべからず」
「滅ぼすべし」
好き勝手を言う。一方的に襲いかかり、一方的に要求し、一方的に殺された愚か者に言うことなど何もない。あれは愉快な出来事だった。この数千年の出来事の中でも最高に滑稽な男の名前が出てきた。
なるほど、だからか。華恋は口を釣り上げて下賤を見下す。
「この地へ、一歩でも踏み入れたものに容赦することなかれ」
魔術師たちは動けない。その女一人を前にして何もすることができない。それは足がすくんで動けないわけではなく、その女が発する言葉に息を飲んでいるためだ。
「雪子さん、言霊とは、こう使うのです」
「まずい! か、かかれ!!」
魔術師たちは力を合わせ強大な術式を唱え始めた。大規模魔術、この霧島家を焼き落とそうという魂胆か。
策はいい。自分を前にして相手に出来ないと判断したこの隊の頭はいい目をしている。目的だけを遂行したその決断力も賞賛する。
「動くな」
「なっ、う、動けない!」
「言霊だと!? 馬鹿な! 瑠璃様以外でそんなことができる者がいるわけ」
魔術師たちは恐怖に慄いた。
これから起こるであろう出来事を予想し、その身を停止したまま涙を流し、鼻水をたれながしながら懇願する者もいる。
全ては遅い。この地に侵入して来たその時から、彼らの運命は決まっていたのだ。
自らの主が言霊を操っていた場面を思い出した。それはそう、裏切り者を処刑した夜。たった一言で主は命を刈り取ったのだ。
「死ね」
女はそう切り捨てた。そう、こんな感じだったな、と走馬灯が駆け巡った。自らの体が崩壊していく苦痛を感じつつ、彼らは一瞬のうちに崩れ落ちた。
その場には安らかに死のみが支配している。立っているのは華恋のみ。その華恋も悲しみに顔を歪ませて死者に祈りを捧げた。
「せめて、安らかに」
皮肉だ。命を刈り取ったものが祈りを捧げるなど。だが、それが死者に対する礼儀だと大昔に誰かに教わった。
その人は歩くごとに命を刈り取り全ての者に忌み嫌われた。
だが、それでも人を愛し、そして安らかに死んだ。
あの人の血を守ることが、華恋の役目。
ならば、私は、
「私は鬼となりましょう」
本当の鬼がどれほど凶悪か知っているからこそ、自分もそう言い聞かせ奮い立たせた。
さぁ殺し合いの時間だ。
周りは既に囲まれた。
口を封じられれば自分の負け。
だかそうはさせない。
約束を守るために。
愛した男との約束を守るために。
それも母性故か、果たして――――。