霧島家は呪われている、とは名のある魔術師たちの中では知らぬ者はいない。
魔術師の中でも霧島家は異質であり異端であり異様である。
では、その具体的な内容は何なのか、と聞かれた場合、答えられる者はゼロに等しい。呪われている、と噂する者たちが多数いるのに関わらずその噂の出処が分からない。
不気味だ。実に不気味だ。
しかし、火のないところに煙は立たぬ、と言う。その言葉通りならば、霧島家には一体どんな秘密が存在するのだろう? などと疑問に思った者たちは過去に何人もいた。
戻らなかった。誰ひとりとして。
深い森に覆われた霧の要塞。一歩踏み出せばそこからは霧島家の領域。敵の侵入を許さず永遠の回廊に閉じ込める。城に入ることも森から出ることもできず、その体は土へと還っていく。
名を『幻燐城」』という。周囲の森――烏森の奥深くに佇む霧島家の根城だ。その場所では女系家族の霧島一族がひっそりと暮らしているのだ。
現当主、霧島霧音。霧の女王の名で知らぬ者はいない。出会った者全てに死を与えることで魔術師の中で『絶対に戦ってはいけない者』に分類されている。
イザナミの生まれ変わりではないか、と噂されるくらいにその性格は冷血無慈悲で実の息子を実験動物のように扱った挙句に失敗作の烙印を押して長年城に幽閉していたらしい。
イザナミとはこの国の神で黄泉を司っている。死の国の女王……霧島霧音はその名にふさわしい存在なのだ。
あの女と会ってはならぬ。
その女の一族と会ってはならぬ。
唯一、あの城から逃げ帰ってきた私が、この天王寺秀蓮が命ずる。
あの一族に手を出すな。
もし、万が一、万が一にも霧島一族と相見えることがあるのなら。
逃げるのだ。
このような言葉しか残せない私を許してくれ、瑠璃。
天王寺の当主として、お前の父として、お前には何一つ残すことが出来なかった。
私は霧島一族の恨みを買った。この右目から蝕む呪いの術は私の精神と体をボロボロに引き裂いていく。
もう、お前の顔を見るとお前に触れることも叶わない。
ああ、欲に目が眩んだ罰なのか。
天王寺とは最強の魔術師ではなかったのか。
それは俺のおごりだったのか。
瑠璃、今まで淋しい思いをさせてすまなかった。
こんなことを言うのはどうかと思ったのだが。
私はお前を愛していた。これは本心だ、といってもお前は信じてくれるとは思えないが。
優しい言葉も、暖かい心も、与えてやることが出来なかった。
私は組織を束ねることに心身を捧げ、家族を省みることが出来なかった。
母親に似た深い蒼色の髪。賢く、逞しい精神力。魔術の才能。
全て、私とは正反対だ。今だから言えることだが、娘ながらお前に嫉妬したこともあった。
母さんを支えてあげてくれ。あれは私の支えなど必要としなかったが、娘の言うことなら聞いてくれるだろう。
若いお前を置いていくのは心残りだ。母さんを置いていくのは心残りだ。
霧島。
苦悩も挫折も後悔も私は乗り越えてきた。全ての力を、力でねじ伏せてきた。
だが、勝てない。それでも勝てない相手がいるのだ。
魔術師として戦い続けたことに後悔など微塵もない。私の生涯は魔術に生まれ、魔術に死ぬ宿命だったのだから。
絶対的な悪、絶対的な負の感情。それらを超越した場所に、彼女たち一族は存在する。
瑠璃、お前の性格ならこの手紙を読んだとしても私の忠告など聞き入れないだろう。
今の天王寺は内部分裂しているはずだ。誰が天王寺をまとめるのか、そんなことばかりがお前の体を縛りつけているに違いない。
古臭くて意味のない習慣に従い、何かあればハイエナのように噛み付いてくる分家の者たちを黙らせるのは容易ではない。お前を当主の座に置くことなど、したくはない。
それでも敢えて言わせてもらおう。
天王寺瑠璃。お前を次期当主として襲名する。そして再び最強の名を手に入れよ。力を示せ、霧島を根絶やしにしてみせよ。我が無念を晴らしたまえ。
愚かな父と嘆いているだろう。しかしそれでも魔術師としての血が抑えられない。実に無念だ。あんな、あんな小僧に一本取られるようなことがあるなど!
ああ、しかしあの一族に手を出してはならない! あれは尊い存在で、美しく、可憐で、おそろしい女なのだ! 私は、
私は、こころを奪われてしまったのだ。
私は母さんを愛している。
お前を愛している。
しかし、愛してしまう。彼女をどうしても愛してしまうのだ。
恐ろしい、彼女は恐ろしい。しかし、還りたい、私は還りたいのだ。
彼女の下に還りたい。
私は狂ってしまったか、それとも最初から狂っていたのか。
いや、きっと彼女に会ってしまったから、霧島霧音に会ってしまったから。
なんて罪深い女だろうか。なんて私は愚かだったのだろうか。
私は知ってしまった。真実の愛を、情愛を、熱情を。
狂おしいほどの劣情を……。
このような者が存在していいわけがない。愛してしまう、愛してしまう、愛してしまう。
母さん、瑠璃、すまない。
それでも私は彼女を愛してしまった。
この妄執と幻惑の快楽に溺れてしまった父をどうか許して欲しい。
この思いを断ち切るためには、このような方法しかないのだ。私は天王寺の恥だ。
許してくれ、許してくれ、許してくれ。
最後まで、お前たちを愛している私でいさせてほしい。
ああ、それでも私は、
私は、
彼女の下へ還りたい。
天王寺秀蓮
※
結局のところ、父は一体何が言いたかったのだろう。天王寺瑠璃は美麗な眉を潜め、首を傾げて考えている
場所は北区。天王寺家が支配する中でも次期当主と名高い天王寺瑠璃が直轄する広大な土地。
現在、この土地の占領が完了し屋敷を奪いその一室にて瑠璃は疲れを癒している最中だった。
「これは、浮気というやつではない? 翔子、どう思う?」
「なんとも……」
「私はそう思うのだけど」
「お嬢様の言葉こそ全てでございます」
「ううむ……」
連日連夜戦い続けたためか、上手く頭が働いていない。窓越の椅子に座り、少し夜風に当たった。やがて頭が冴えるとそんなことはどうでもよくなってしまった。
瑠璃にとって父親は越えるべき壁だった。愛していると大好きとか、その程度の、いや、愛していたし大好きだったのは確かなのだが、そんな言葉では片付けられないほど父は強大な存在だったのだ。
今でもきっと父には勝てない。あと一〇年以上の修行が必要だろうか、と瑠璃は遠い目をしながら遠くの街を見渡した。百万ドルの夜景、には到底及ばないが、まぁなかなかの風景だな、と瑠璃は心を躍らせていた。騒がしくなく、それでいて寂れてもいない。人口も程々といったところだろうか。都会のようにゴミゴミとはしていない。瑠璃は中央区の本家からこちらの地域に移動したのだ。
理由は簡単、避暑地の確保と権力の確保。今派閥争いで組織は分裂している天王寺をまとめあげなくてはならない。その為には誰が多くの土地を占領し広げるかが深く関わってくる。父の遺言に従うわけではないが、瑠璃は生まれた時から王者としての責務を果たすことを義務付けられていた。
「北区の九九パーセントは制圧が完了いたしました。ここから先は我々におませください」
藤沢翔子は恭しく主である瑠璃へ頭を垂れた。それは学園で雪子と話した時とは様子が違う。学生服の上に黒いローブを羽織っている。そのローブには天王寺の家紋が刺繍で描かれている。瑠璃もまた同じくローブを羽織っている、がそのローブは先の抗争でボロボロになってしまった。
「随分、手こずってしまったわ。私もまだまだね」
「お嬢様は天賦の才をお持ちでございます。ですが謙虚たることは良いことでございます」
「お父様の言いつけだもの。それに、この程度で鼻を高くしていたらきっとお父様に笑われてしまうわ」
「瑠璃お嬢様、秀蓮様のことは……」
「いいの。お父様は戦って死んだの。魔術に生き、魔術に死んだ、それはきっと幸せなことだと思うの。さぞかし、無念だったでしょうけれど」
秀蓮が右を失い帰ってきたのは数年前だ。まだ瑠璃が中等部に入る前だったか。どうやら魔術師同士の戦いに敗れ怪我を負ってしまったらしい。それも猛毒の、呪いを。
秀蓮は本家から散々な仕打ちをうけ、それ以来自室で治療に専念した。それまでは家族に対しても冷たかった男は権力の失墜と共に心に僅かなゆとりができた。母はそれをよく思っていなかったがそれでも笑顔が増えたような気がした。瑠璃はもちろん嬉しかった。
それから秀蓮は家族と過ごすことが多くなった。形ばかりとはいえ当主の座についているため、日中はあちこちを飛び回っていたが、それでも夜はいつも屋敷に戻ってきた。瑠璃に勉強を教えてくれた、魔術を教授してくれた。当主の心構えを教えてくれた。
それからは毎日が幸せだった。それには限りがあることは分かっていた。けど幼い頃の寂しさを埋めるように秀蓮は瑠璃と一緒にいた。母と三人で旅行にも行った。冬は屋敷で三人だけの生活を送った。
霧島一族は滅ぼすべき敵であることは間違いない。父の敵、ということもあるが同時に瑠璃の本能がそう叫ぶ。魔術師としての血が疼く。常に最強を求める力が。
それでも、少なくとも、父の過ごせたこの数年は間接的にでもかの一族が関わっていることは間違いない。だからこそ自分は冷静でいられた。常に前を向いて歩き出せた。
今、やることは当主としての責務を果たすことだけ。行く手を阻むものに鉄槌を下すことのみ。
「翔子、雪ノ宮はどう?」
「到底及びません、ご命令とあらばすぐに」
「あの、私の同い年の、ほら」
「雪子さんでしょうか? 全くの素人です。ですが、ええ、やはり」
翔子は僅かに言葉を濁した。学園に侵入し、雪ノ宮雪子の動向を観察していた彼女にとっては雪子がどのような人物か大体のことは分かっている。
素晴らしい才能を持ち、それでいて奢らず、常に自らの道を行く孤高の少女。
王の証を持つ者。
「危険分子です、即刻殺すべきかと」
「……物騒なことを言うものではないわ、翔子」
「お嬢様、私の担任……先生の名はご存知でしょうか?」
「霧島、左霧。お父様の右目を奪った男よね?」
「はい、雪子さんは霧島左霧と接触し、魔術の教授を受けているようです」
「まぁ」
瑠璃の耳に霧島家の者が雪ノ宮家の経営する学園に教職として赴任している旨は翔子の定期的な経過報告から聞いていた。
美しい黒髪で明るく元気な『女性』なのだとか。生徒たちにも人気で毎日引っ張りだこのようにからかわれているらしい。
なんて楽しそうなのだろう。瑠璃は魔術師の一族として生まれてきたことに後悔はないが、唯一心残りがあった。
「私も学校に通ってみたいわ」
「お嬢様…………」
瑠璃は幼い頃から身内の者から英才教育を施されていた。家庭教師、と聞こえはいいが、実際に会う教師といえば自らを売り込みに来る困った連中ばかりだった。当然瑠璃の実力を見た途端に落胆して逃げてしまった者もいる。
同い年の者といえば、藤沢翔子くらいしか傍にいない。しかも翔子は自分の側近であり、友人とは言い難い関係だ。一応かしこまらなくていい、と伝えてあるのだがそれは翔子にとって無茶苦茶な要望であったので却下された。
「雪ノ宮を攻め込んだあとは、学園を占領して私も入学しようかしら」
「お戯れを……ですが、お嬢様は働きすぎですから、休暇という形でしたら」
「ええそうね、決まり。ならば、やることはまだまだあるわ――――翔子」
「はっ」
椅子から優雅に立ち上がり、蒼色の髪は月光に照らされて戦姫は舞う。その背後に何か恐ろしい存在が鼻息を荒くしながら瑠璃の項へ寄ってきた。
瑠璃は『それ』を優しく撫で上げ、なだめる。瑠璃にしかできない。瑠璃以外の者が触れることは許されない。
例えば、そう。
「死体の処分をお願い。これじゃ、歩きにくくって、それに臭うわ」
「御心のままに」
満足げに頷き、瑠璃は血だらけの部屋を出て行った。黒いローブの後ろは真っ赤に汚れている。返り血を浴びてもなお、その少女は蒼く凛として輝いていた。
「お母様にどう説明したらいいか、はまた今度にして……とりあえずはサクっと雪ノ宮学園をいただきましょうか」
天王寺の当主は闇夜に消えていく。百戦錬磨の父を踏み台にして、今敗北した父に代わり己が務めを果さん。
北区から中央区、雪ノ宮領へは遠くない。
結界の解除も分析済み。どれだけ大規模な結界を張ったとしても瑠璃の圧倒的な魔力の物量を当ててしまえば崩れてしまうだろう。
他の派閥連中がちょっかいを出してしまったらしいが、まぁそれは追々片付けるべきことだ。いずれにせよ、火蓋はもう切られている。
「私は自分の実力に溺れたことはないけれど、この圧倒的な兵力にどう出る雪ノ宮? それに狂気の一族さん」
瑠璃の周りには黒いローブの精鋭が集まっていた。
その数およそ数百人。
左霧たちが枠から外した数よりも上回っている。
最強とは何か。
それは有無をいわせない力。
全てを支配すること。
いいえ、違うわ。
奪うことよ。最強ならば、この世の頂点ならば、奪う権利があること。
私に、その権利があるかどうか、試してみたい。
魔王になる権利を。
闇夜に吹かれ、一斉に舞い上がった。狂風は空を舞い漆黒の翼を持つ者は少女を乗せ怒りの咆哮あげた。天王寺の兵士たちは恐怖に怯え躊躇いながらもそのあとに続くのだった。
雪ノ宮領の少し早い夏休みが始まった……。