休校、などという言葉を聞いたのは六月に入る初夏。うっすらと汗をかくほどの気温とジメジメした空気。雪子の大嫌いな季節がやってきた。
大嫌いな季節、などと言ったが、雪子が嫌いな季節は夏、冬。暑くて、寒いのが嫌い。ようは自分が快適に過ごせる季節以外は嫌いな部類に入るという至極簡単な仕分けだ。
誰しもが、これから訪れるであろう猛暑を潜り抜け、そして秋に肥え、冬に備える。
そんな予行練習的な季節の到来。小学校の教科書には夏みかんの香りが素敵だ、と書かれていたことがあった。太陽に照りつけられ、酸味が和らいだ甘蜜柑は冬のそれよりも一層美味しく感じられる。
大嫌いな季節を楽しく過ごすための秘訣は、とにかく贅沢をしまくることだと雪子は思っている。つまり、エアコン全開だったり、アイスを買いだめしたり、外にはなるべく出ないようにしたり……。
だが、今年の夏は違う。今年の夏は何かが違う予感がする。具体的には自分にとって幸せな時間がごっそりと抜かれそうな、死の淵をさまようほどの出来事が起こるような気がする。灼熱の太陽に照らされながら腕立て伏せをひたすらさせられたり、マラソンを吐くほどやらされたり、海水浴と称して遠泳に出かけることもあり得る。先のことを予想すればするほど気が滅入る。
そんな時に、拍子抜けするような事態になった。
夏休みにしてはいささか長い休暇だ。それも入学してからおよそ二ヶ月ほどしか経っていない。にもかかわらず校舎の建て替えのために休校なのだとか。
あの、新品同然の学園を、一体どのように建て替えるというのだろうか。また母がワガママを言って変な建造物でも作る気ではないだろうか。
だが、雪江は生徒たちのことを何よりも大事にしている。自分のことは言うまでもない。そんな雪江がいきなり休校など許すわけない。よしんば許したとして、生徒たちの最後の楽園と称した生活を閉ざすことなどあるわけがない。
何かあった、としか言い様がない。教師たちの様子がどうもおかしい。ここ何日か自習の時間が頻繁に行われ、嬉しいやら悲しいやら、やっぱり嬉しい時間が増えていた。
「雪子さんは、何かご存知ありません?」
「えっ? 私?」
クラスメイトに話しかけられたことに思わず驚いてしまった雪子。それもそのはずだ。この万年不機嫌そうな顔をしているぼっち女に近寄ってこれる者など、よほどの猛者かうつけのどちらかだ。
雪子だってそう思っている。だが、あえてそれを治そうとはしない。こうしていた方が楽なのだ。皆でがやがやすることはあまり好きではない。
いや、違う。それだと一人が好きだという言い方になってしまう。決してそうではないし、孤高を気取っているわけでもない。
ただ、自分が周囲にいると気を使ってしまうから。
雪ノ宮という力は他の財閥や企業とは比べものにならないほど強力な効果を発揮するのだ。
「……ゴメンなさい。母とは最近話してないの。忙しそうで」
本当のことだ。事実、雪江の帰りはかなり遅い。いつも夜中の十二時を過ぎたくらい帰ってきて、部屋に戻る。そして部屋の灯りは全く消えることがない。いつ眠っているのかすら把握できないほどに母親は多忙なのだ。
「そう……私ね、何か嫌な予感がするの。雪子さん」
「嫌な予感?」
「こんなことを言うと信じてくれないかもしれませんが、私、昔からよく胸騒ぎがすると悲しい事件が起こるの」
女子生徒は悲しげに俯いた。雪子と同じくらいの身長に、透き通るような白い肌。顔の僅かなそばかすがとてもチャーミングだ。ショートボブに切られた茶色の髪は、どこかあどけない少女の姿を残している。
「えっと、ゴメンなさい、私、名前――」
「ううん気にしないで。私目立たないから……藤沢翔子と申します」
「藤沢さん、ね。覚えた。もう忘れないわ」
何だか不思議なやりとりだった。目立たないと言いながら雪子という異質な存在に声をかけた少女。はにかむような笑顔がとても印象的だ。
何だか夢を見ているような、不思議な夕方。女子生徒たちは初めての会話にも関わらず、気付けば小一時間は話し続けていた。
「私は信じるわ、藤沢さん。あなたに不思議な力があるってこと」
「雪子さんなら、そう言ってくれると思ったわ。よかった話しかけてみて……」
ホッと胸を撫で下ろす翔子。そんな翔子に、自分も実は魔術師の卵で、今修行中なのだ、と伝えたら、この子はどう思うだろうか。
きっと彼女も信じてくれるだろう。
だが決して口には出来ない。それは禁じられた掟だからだ。
魔術師は、その姿を明かすことを禁じられている。
いつ、どこに、敵が潜んでいるか、わからないからだ。
やがて辺りが暗くなりかけると、雪子たちは合わせたようにカバンを肩にかける。今日の修行は中止だった。左霧先生は教務室で他の教師たちと何やら一日中話しているようだ。今朝から全く教室に顔を出すこともなかった。担任の百合先生もだ。
何かが、おかしい。そう言われてみれば自分も何かを予感していたのかもしれない。不意に雪子も言いようのない不安に襲われた。
「私、もう行かなきゃ」
翔子は立ち尽くしていた雪子を置いて教室のドアを開いた。その間にまるで何か長い時間が過ぎたかのような錯覚に襲われた。さっきまでの暖かな雰囲気とは違う。お互いに何かを予感するように、時計の針は時間を刻む。
「藤沢さん、また会えるわよね?」
何を言っているのか、と雪子は言葉を発してから愚かな質問をしたことを恥じる。クラスメイトなのだから当然明日も会えるはずだ。どうやら頭が緩みきっているらしい。早くも初夏の暑さにやられてしまったか、と落ち込んだ。
「きっと会えますよ。私たち、きっと」
「うん、休校、明けたら、またお話しましょうね」
「すぐに会えますわ、すぐに――」
翔子がいなくなった瞬間、教室は夢から覚めたように暗くなった。
一人ポツンと佇んでいる雪子は、さっきあったことなどまるで思い出せない。
「やばい、疲れているんだ。今日は早く寝よ……」
どうやら自分は教室にずっと一人でいたらしい。時刻は夜の七時を回っているどうせ今日も母の帰りは遅い。一人で食べるご飯は最悪にまずい。ならばどうすればいいだろう。
帰り支度を手早く済ませた雪子は、結局帰宅することを取りやめ、再び椅子に座った。
「そうだ、先生の家に行こう」
タダ飯、などという言葉に、気高い雪ノ宮の娘が踊らされたわけではない。弟子なのだからそれなりの配慮はしてもらえるだろうという浅はかな考えがあるわけでは、決してない。
淋しい、などということも決してないのだ――――。
※※※※※※※※※
「どうしてあなた様がここにいらっしゃるのでしょうか?」
「いいじゃない。別に、あ、私野菜大盛りで、ご飯は少なめでお願い。ちょっマヨネーズはダメ! ふとっ……いえ、ノンオイルのドレッシングこそ至高の食べ方よ!」
「雪子さん、好き嫌いはいけませんわ! お胸が大きくなりませんわよ!」
「胸っ! この糞ガキっ! あんたには後一〇年は早いわよ」
何だか妙なことになったな、と冷めた目で来客のご飯を特盛に盛る華恋。どうやら帰っても一人だから仕方なくここに来てあげた、とのことだ。
意味が全く分からないが、とりあえず淋しいということは分かった。飛んだ跳ねっ返り娘だ。主も妙な女を捕まえてきたと一人溜息をついた。
「そういえば、先生まだ帰ってこないの?」
「この頃はずっと深夜を回ってから帰宅なされるのです。まさか今流行りのブラック企業というやつでしょうか? 残業一四〇時間で、朝三時に出勤し、二四時間働き続けろと豪語されているのでしょうか?」
「聖職者がそんなわけないでしょ。ワ○ミじゃあるまいし」
どうやら流行語にノミネートされるまでに至ったブラック企業という言葉。ハローワークですら把握出来ない恐怖の実態だ。そのため、最近では企業の離職率も掲示しなくてはならなくなった。
だが、離職率など結局いくらでもでっち上げられるわけで、こういった社員を使い潰し、利益を貪る企業があとを絶たないのだ。
幸い、雪ノ宮財閥は優れたリーダーに支えられて、満足な成果を挙げられている。利益上げることこそが、企業の常だが資本は人なのだと雪子の母は常々言葉にしていた。
そんな母だが、自分だけは例外に置いている。
私の体は疲れを知らないんだ、と自嘲気味に話していたことがあった。雪子が、日頃の感謝を込めてマッサージをしてあげようと提案した時のことだ。
形だけでも取り繕って肩を揉んであげたのだが、なるほど、特に凝っている風には見られなかった。
だが、娘に孝行されるのが気に入ったらしく、それから頻繁にマッサージ師に適任されたことは今でも後悔している。
「でも、このままだと過労死しちゃうかも」
「あっそこは別に心配しておりません。アリのように働いていただければ結構でございます」
「……じゃああんたの心配は一体何なのよ?」
「私が作ったご飯が余ってしまうことです。そして桜子様を心配させるなど、言語道断、万死に値する!!!!」
いきなり金切り声を上げたかと思うとしゃもじを空高く掲げた華恋。
やっぱりこの女、頭がおかしいな、と冷静に雪子は突っ込んだ。どうやらこの家族、主が体を壊すわけがないと確信しているようだ。
「可哀想な先生……」
「何をブツブツ言っているんですか? それよりも早くご飯を食べてとっととお帰り遊ばして下さいませ」
「はぁ? もちろんお風呂も入るわよ? あ、ついでに泊め……」
「しゃ~らっぷ!! お黙り小娘! どこの馬とも知れない女を、この華恋がこれ以上の慈悲をかけるとでもお思いですか?」
雪ノ宮家のお嬢様だっての、と雪子は毒づこうとしたが、いささか分が悪い。残念ながら自分には先生の弟子というだけの関係しかなく、お世話になっている身だ。華恋の拙い英語は凄くムカつくが、ここは抑えて引こうと思った。
思ったよりも、自分は遠慮がちなのだと、自己評価を改めようとした矢先、
「華恋、泊めてあげて?」
ご飯粒を、わざとじゃないの? と疑うくらいに顔面に張り巡らした桜子が華恋に意見を出した。
それは以前に雪子に対して敵意をむき出しにしていた桜子とは見る目を疑うくらいの成長ぶりだった。
歳を取ると、人は頑固になり、他の意見に耳を傾けとしなくなるらしい。長年に培ってきた自らの経験を否定されることを恐れ、また傲慢になってしまうのだ。悲しいことだが、それは避けられぬことであって、簡単に意見を捻じ曲げてしまうような者に人はついていことはしない。そのあたりは、難しい判断だ。
だが、子供は違う。子供は柔軟で、急に成長する。一体以前の糞ガキはどこにいったのか、と疑うくらいに桜子は無垢な瞳を雪子へと向けた。
「一人はとても淋しいことよ。一人でいると悲しいことばかり考えてしまうの。だから雪子さんを泊めてあげてもいいわよね華恋?」
「それは……桜子様の申し出とあれば」
「あ~……いいって別に。軽い冗談のつもりだったから、私、帰るわよ」
思ってもみなかった助け舟に、内心驚きつつもこれ以上甘えるわけにはいかない。雪子はさっさと重い腰を上げて立ち去ろうとした。
「ダメよ! さぁ一緒にお風呂に入りましょう?」
「あっちょ、ちょっと……私、着替えなんて持ってきてないし」
「仕方ありませんから、私の着物を貸して差し上げます」
桜子が雪子の袖を引っ張り風呂場へと導く。どうやら、この子に気に入られてしまったらしい雪子は子供の無邪気さに立ち往生してしまった。そんな桜子の扱いに慣れている華恋は、即座に対応し主の意志に従う。
「下着は、小さいかもしれませんね。ごめんなさいね」
「……感謝するわ。それと、あんたとはそんなに変わんないから安心してちょうだい」
どんな時でも毒を吐く華恋を軽く退け、あれよあれよという間に、雪子は桜子と共に風呂場に連行されることになるのだった。
※※※
「ほら、じっとしてなさいよ。ったくいつまでもシャンプーハットなんか付けてんじゃないの」
「だって、怖いんですもの! 目にシャンプーが入ってしまったら地獄よりも苦しい痛みが待っているとおにー様が言っていたわ!」
「確かに痛いけど、そんなことにはならないから大丈夫よ。ほら、目をギュッと強く閉じてなさい」
どうしてこんなことになっているのか。風呂場に着いた途端に勢いよく服を脱ぎ、生まれたての肌を晒した桜子に続く雪子。どこか人の家の浴場は落ち着かないような気がして警戒しながらドアを開いた。
一言で言えば狭い。一般家庭の風呂場など見たことのない雪子にとっては狭すぎるのだ。
雪子が知っているお風呂場は、ライオンの口から湯が流れ、浴場は大理石で出来た人が何百人も入れるほどの広さを持っていて、ミストルームとか植物とかとにかく不必要な物に溢れている場所なのだ。
だがここは必要最低限の物しか置いてない。そして狭い。この距離感は必然的に人の距離を縮めてしまうのだった。
「髪は女の命なのよ。大切に洗ってちょうだい」
「知ってる、命令するな。うわぁ、細くて柔らかい……子供はいいわねぇ」
雪子は不承不承という具合に桜子の要望を聞き、背中を流してあげることになった。その条件ということで、脱シャンプーハットを余儀なくされた桜子は目を精一杯強く閉じ、外敵を遮断する。確かにあれはとてつもなく苦しい痛みだ。雪子にも経験があるため、自分が言いというまで閉じていること旨を伝えた。
「わたくしは、早く大人になりたいわ」
「どーしてよ? 大人になると大変なのよ? 多分ね」
雪子だってまだ大人とは言い難い年齢であるし、母の苦労を労うことは出来ても、それを支えてあげることは出来ない。そんな自分がもどかしいこともあるが、やがて訪れるであろう大人の階段を登ることに躊躇している、ということも否めない。
いずれ働き、いずれ結婚して、いずれ家庭を持つ――――とても想像なんてつかない。未知の世界だ。そんな世界に、母や先生がいるのかと思うと素直に尊敬してしまう。
つまり、自分はまだまだ子供でいたいのだ。
「だって、お胸がおっきくならないもの」
「……ガクッその程度の理由だと思ったわ」
「その程度などではありませんわ! 雪子さんにはわたくしの気持ちなどわかりません! お、おにー様のお胸の大きさを見てしまったわたくしの気持ちなんて!」
「わかるわよ! スーツを着ていても張り出さんばかりのあの大きな胸! 何度呪ったことか!!」
雪子とて、この歳にしては平均的な、ごく平均的な大きさの胸を持つ少女だ。だが、あの人の物くらいに成長することは絶望的に近いだろう。それでいて、体は締まっていて、お尻も小さい。欠点という欠点が見つからないのだ。
「桜子、先生は男の人なのよね?」
「? おにー様はおにー様よ? 左霧おにー様」
「そうよね、男なのよね」
「おにー様よ。おねー様はいてはいけないの」
「え?」
「おかー様からの言いつけなの」
何か、今おかしなことを言わなかっただろうか。
だが、それを聞き返す暇もなく桜子は早くお湯をかけて欲しいとねだり、それに従った。
本当に子供というのは面倒だな、と雪子は苦笑した。
自分もこんな頃があったのだろうか。
あったに違いない。
何も、思い出せないわけなのだが。
「こらっそんなにひっつくな、狭いんだから!」
「やーよ、おにー様はいつもこうしてくれたもの!」
「私はあんたのおにー様じゃないっての!」
風呂場が狭ければ、風呂桶も狭い。桜子の隅々まで面倒を見てあげて、ほっと一息ついたのも束の間。
雪子の下準備が終わるまでひたすらに早く、早く、と叫び桜子の声にイライラしながら即効で髪を洗い、体を洗った。あとでトリートメントをしなくちゃ、とぶつくさ文句のひとつも言いたいわけだが、そんな暇はなかった。今度は二人で仲良く風呂桶に入ることになったのだ。
「いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお」
「うるさい、しゃべるな」
「一〇〇数えないと上がってはいけないのよ」
「細かいわね……案外しっかり教育しているのかしら」
とてもそうは思えないが、しかし普段から桜子の立ち振る舞いや仕草に関しては、正直上流階級の匂いが漂っている。それはおそらく生まれからくる、先祖代々の血のせいなのだろうか。そういえば、先生もどことなく気品が漂っていた気がする。
それは決して自分にないものだ、と雪子はまじまじと桜子の赤くなった頬を見つめた。
「あんたたちってどうして三人で暮らしているの? 霧島家って本家があるのよね?」
踏み込んでいいのかどうか悩んでいたが、こうやって裸の付き合いをしている以上は、多少のことは聞いてみたい。それが年端もない少女だということにいささかの罪悪感を覚えたが、意外にも少女はハキハキと答えるのだった。
「大きな家は、とても暗いところなのです」
「大きな家って本家のこと? 暗い?」
「はい、おかー様はおにー様にとても冷たいのです」
「…………」
「他の人もなのです。おにー様だけはいつも一人でご飯を食べて、部屋に閉じ込められて、可愛そうだったのです」
「先生が…………」
どうやら、霧島家というのは察するに昔ながらの古いしきたりを重んずる一族なのだとか。そこで左霧という存在はいずれ当主に座につくことを確定されたにも関わらず、その仕打ちは酷いものだった。そんな生活に耐えることができずに、逃げてきたということらしい。
「わたくしは、おにー様について行きたかった。だっておにー様のことが大好きなんですもの。でも、私は子供だから……おにー様に迷惑ばかりかけてしまうの……」
先日の件を思い出してしまったのだろうか。兄のことを思うがあまり辛辣な言葉を発してしまった自分を、桜子は恥じている。
濡れたまつ毛からには、それとは違う湿った雫が滴っていた。
「迷惑なんて、かけちゃいなさいよ」
「えっ?」
「大人に迷惑をかけるのが、子供の仕事でしょ? 私なんてお母様の経営していた会社、一つまるごと潰してしまったことがあってね、て言ってもわかんないだろうけど」
それは、桜子が中学に入りたての頃だった。母親は相変わらず多忙で、そんな毎日に拍車をかけるように様々な分野での進出を目指していた。
雪子は友達もいないし、休日は漫画を読み、妄想に耽り、怪しげな笑みを浮かべる毎日に飽き飽きしていたのだ。
そんな時、母がいつもパソコンにかじりつき何かを操作していたことがあった。ニヤリと笑ったかと思えば、悔しげな顔でモニターを叩き壊す母。
好奇心をくすぐるには十分なおもちゃだったのだ。
母が留守の時に、その事件は起きた。
「馬鹿者! お前のせいで、何百人の者たちに生活が路頭に迷うことになったのだぞ! 恥を知れ!」
母が行っていたのは会社経営に関する取引だった。新たな分野での進出を考えていた母が次に乗り出したのが化粧品関連の会社だ。この地域の人々は色白の者が多く、関東では雪国美人と言われているらしい。
オフィスの構え、取引先も決まった。
残るは取引先との詳細に関する連絡だけだったのだ。
「え~となになに? ○○日の○時に某ホテルでお会いしましょう?」
ここだけを見れば、まぁデートの誘いかと疑いたくもなる。だが、これにはちゃんとした続きがあったのだ。しかし、雪子は憤慨した。自分に許可もなく母親と密約を交わすことなど、当時の雪子には看過できることではなかったのだ。
結果から言えば、この取引はなくなった。メールボックスに送られた一通のメールを雪子がゴミ箱に叩き込んでしまったから。
それは、取引先の社長と会うための、いわば最後の仕上げのようなものだったのだ。もちろんこんなことで取引がなくなることなど、有り得ないと思うかもしれない。
しかし、約束を破る、という行為が、どれだけ会社の信頼を損ねるのか。
子供だった雪子にはわかるはずがなかったのだ。
「ご、ゴメンなさい、お母様、ご、ゴメンなさい」
「雪子、今はそうやって謝ればお前は許してもらえる。私にかけた迷惑など、気にすることはない。だがな、お前がした選択肢が、時にどれほどの損害を被るのか、それだけは知っていて欲しい。上に立つ者に、失敗は許されないのだ。だからこそ私は会社を、この会社をたたむ……罪のない社員たちの路銀を少しでも稼ぐためにな……」
雪子の涙を見た母は心を痛めた。だがこの時ばかりは甘い言葉はかけなかった。
結局母は別の取引先と交渉して、契約を結ぶことに成功した。それはとてつもない努力の結晶で、もちろん母のカリスマ性もあったわけなのだが、
とにかく、雪子は社長になどなりたくないなと思いました!
「色んな人に、迷惑かけて生きているのよ、私たちは」
「それは、肩身が狭いですね……」
「仕方ないわよ、だって仕事だものね」
「ですねっ!」
変なところで馬が合うものだなと雪子は思った。この娘を見ていると、どうも自分と重ね合わせてしまう部分が多い。
歳の割に大人びているところ。我侭なところ。誰かに迷惑をかけることを恐れてしまうところ。
「でもきっといつかおにー様のお役に立ってみせます!」
「私も社長かぁ……魔王って世界中の社長みたいなものかしら。椅子に座っているだけならいいのになぁ」
未来を想像して笑っているところ。
何にでもなれると信じていた。彼女たちは今、その最中にたっているのだ。
「明日から休みだけど、桜子は何するの?」
「修行です! 桜子に休みなし、です!」
「私も頑張るかなぁ……いい加減筋トレから解放してほしいなぁ」
長い休暇が始まる。
長い、長い休暇が。
この休暇で、雪子は何を手に入れることが出来るのか。
失うことの虚無感? 戦うことの意味?
少なくとも、彼女たちに僅かな救いがありますように。
そして決して立ち止まらない強さを胸に抱いて、
雪子の、最初の戦争が始めろうとしていた。
「桜子様の体は、私が洗うはずでしたのに!」
「女中よ、そんなに嘆くな。それよりもこのねこまんまは少し味が薄い。醤油をかけてくれ」
「……なぜ、あなたもここに?」
「雪子の帰りが遅いからな、もぐっしかはなふきてはったんのら」
「はぁ、汚いので喋らないでください。むしろ消えてください」
出番を失った華恋は、黒猫と茶の間でお茶を飲んでいる。雪子と桜子の談義に混ざることもできず、複雑な思いで彼女たちを見守っていたのだ。
「我々は支えるだけで良いのだ」
「……分かっております」
「そうかな? そうだな……」
セーレムは食べ終わると縁側に近づき、曇った夜空を見上げてつぶやく。
「人が死ぬ、か」
「干渉はしないのでは?」
「ふむ。だが主を守るのが私の仕事だからな」
「どうやら、辛い思いをすることになりそうですね。彼女も――――あの方も」
「雪子は仕方がない。しかしお前の主はこのようなことではビクともしないだろう」
「それはどうでしょう。あの人は強そうでいて、脆いですから」
華恋は未だに帰らない主を思う。
幾千の刃を退け、
幾万の命を奪いし者、
やがてその心は穢れ、
鬼に成り果てる。
光の精霊、地上に現れし時、
鬼、希う。
「俺を殺してくれ」
「あなたは一生死ぬことを許されない」
「俺は、死にたい」
「願いは届かない」
「死にたい」
鬼は死を願う。
叶わない願い。永遠を約束された傀儡。
光の精霊、男を哀れに思う。
「あなたの代わりになりましょう」
「お前が代わりに」
「あなたの人生を歩みましょう」
「俺の人生を、お前に」
それが、最初の契り。
光の精霊が光を失った時。
全ての時計が針を止めた。
「魔導兵の、誕生」
深い深い森の中。
女は静かに呟いた。
悪鬼羅刹。
阿修羅の化身。
女は静かに笑っている。
雨の日も、風の日も、夏の暑さにも負けず、冬に寒さにも負けず、いつも静かに笑っている。
お気を付けください。左霧様
お気を付けください。右霧様
華恋は願うことしかできない。
森にひっそり佇む狂気の一族、霧島家。
その一族に囚われた光の精霊。
何のために戦うか。
誰のために戦うか。
揺るぎなき信念を抱えて、
ただ、愛のために、
愛ゆえに、私は、
――――戦う。