平穏な日々。
学園は楽しい。生徒は賑やかで、私も釣られて笑顔になってしまう。
こんなに充実した毎日は初めて。生きているって心から感じられる。
今日は色んな質問を投げかけられたの。相変わらず、私の国語はダメダメだけれど、生徒たちは笑って許してくれるの。だけど、今日の質問はちょっと戸惑った。こんな日も、あるんだなって思った。人の成長って、驚く程早いのね。桜子然り、生徒然り。
今日ね、言われたの。
先生、私たちは、何のために勉強をしているのかって。
将来のため、未来のため、自分のため――――そんなありきたりの言葉が思いついた。
だけどその生徒の瞳を見たとき、それは違うって思ったの。彼女はどうして勉強しなくてはならないのか、と訴えているのではない。その先の、もっと尊い何かに対して疑問を抱いていたのだ。
例えば、そう。こんなことは、先生である私が決して口に出してはならないことだけれど。あなたは別よ。だって心に思っていることも全部筒抜けだものね。全く、困ったものだわ。
帝国、というこの国の体制に対して、彼女は訴えかけていたのよ。そして、生徒たちが過ごすであろう最後の楽園で、彼女は未来に不安を覚えたの。自分はこの先、どうなってしまうのかということに。
おかしな国よね。この国では一八歳になったら否応なしに女は男と結婚をしなくてはならないのよ? それも国が決めた相手と。百歩譲っても親が決めた相手と。時代錯誤も甚だしいわ。
え? どうしてそんなにムキになるのかって? ええそうね。あなたもそうだったわね。あなたの場合は特に、ひどかったわね。
自分の滅ぼした一家の娘と、結ばれたのよね。
あの子のあなたを見る目は狂気に満ちていたわ。だってそうよね。目の前で父親が腐っていき、母親がだんだん白骨化していくんだものね。
さぞ、怖かったでしょう。さぞ悔しかったでしょう。さぞ、悲しかったでしょう。さぞ、惨めだったでしょう。
だけどね。不思議ね。本当に不思議。
あの子は、あなたを愛してしまった!
一体どうしてそうなったのか、本当にわからない。
きっと私の知らないところで何かあったのでしょう。今更、根掘り葉掘り聞くことはしない。
――――分かっている。あまり油断するなということでしょう。
ええ、そうね。私はあなたの身代わりで、あなたの体を使い、あなたの人生を送っているのよね。そんなことわかっているわ。何もせず、ただ殻に引きこもってしまったあなたの代わりに私が。
え? 何でそんなに不機嫌なのかって?
私の庭園、めちゃくちゃにしたでしょ。
いいえ、怒ってません。仕方がないですからね。私の不注意だものね。また作り直しだけどね!
――――ゴメンなさい。本当はわかっているの。私が全部。悪いんだって。
だけどあなたくらいになら本音で話してもバチは当たらないと思うの。
男口調で話すことも嫌。
スーツを着るのも嫌。
男子トイレに入るもの嫌。
教頭先生にセクハラを受けるもの嫌。
女らしくしたい。
可愛い服を着たい。
お化粧をしてみたい。
それくらい、いいじゃない。
嫌な私。どんどんワガママになっていくの。
だけど、怖い。男の人って怖いのね。
この前、東野先生……生物科の先生に接近された時、足元がすくんで動けなかった。
顔が熟れたトマトのようだったって?
違います。この程度で恐怖を感じてしまった自分が恥ずかしかったの。決してそんな気はありません。
そういえば、私が誕生してから男の人と会うことってあなた以外ではなかったわよね。
不思議、どうしてあなたとは普通に話せるのかな?
兄妹だから? あなたと兄と思ったことなんて一度もないんだけど……。
本当は桜子からもお姉さまって呼ばれてみたいな。
だっておにー様はあなたじゃない。じゃあ、私は、何? 一体私の存在は何なのかしら?
別に女でいても構わないって? それが許されるのなら、どんなに嬉しいか!
だけどそれはダメなの。
私はあの子の兄でいなくてはならないの。
霧島に私の居場所はないの。
霧音様の命令だから。
あなたの――お母様よ。
もう随分会ってないわよね。電話越しの声は昔よりも弱々しく聞こえたわ。
心配? そうよね。実の母だものね。
あなたを生み、
そしてあなたを殺そうとした。
イカれているわ。あなたも、あの人も。
この親にしてこの子ありってことかな? あなたはあれを封じ込めるために自らの体を差し出した。霧音様はあなたを封じ込めるために私を作った。
禁じられた秘宝で、私の心を作った。
あなたは世界を滅ぼす者よ。誰がなんと言おうが、あなたは悪であり、この世に存在してはならない者。
魔術師の抗争がまた始まりそうよ。
弟子がね、随分やる気なの。
可愛い子よ。私の生徒。ちょっと怒りっぽいけれど、素直で真面目なの。
会ってみたいって? 言っておくけど、人の生徒にちょっかい出そうなんて考えてたら、いくらあなたでも殺すわよ。
そろそろ朝よ。今日はね、会議があるの。忙しい忙しい。
魔術師たちが動いているわ。愚かな人間たち。ひ弱で、脆弱で、欲深い。罪人たちが。
そう、天王寺が策を練っているらしいの。どうやら魔術師として馬脚を現してきた雪ノ宮が目障りなのでしょうね。
やらせないわ。やらせはしない。
私は、守ってみせる。雪子さんを、仲間を、あの子を。
せいぜい傍観しているがいいわ。高みの見物はさぞ気分がいいでしょうね。
桜子を頼むって? ほんと、そればっかり!
ええ、もちろん。あの子は私の命に代えても守ってみせるわ。
あなたを殺せる唯一の人材だものね。死にたがりの道化さん!
あなたはあの子以外に興味なんてない。
あなたは全てに飽きている。
そんなに彼女が大事だった? あの子はあなたの瘴気に当たられて死んだの。
あなたのせい。あなたのせいよ。全部あなたのせい。
だけど、幸せそうな最後だった。きっと天使になれたわよね……。
私は天使になんかなれやしないわ。人をたくさん殺した。あなたも人をたくさん殺した。
あなたは奈落に落ち、私は地獄に落ちるでしょう。
せいぜい楽しみましょう。この時を、この時間を、人の生活を。
まぁあなたが表に出ることはあまりないでしょうけれど。
とりあえずは、そう、魔王争奪戦と行きましょうか。
ええ、私も演じてやるわ。
光の魔術? そうね、私は光の魔術師。
落ちた聖者。
願わくは、世界に祝福を。神に――
神に、裁きを。
精霊王に、死の断罪を。
「今日皆に集まってもらったのは他でもない。遂に奴らが仕掛けてきた。雪ノ宮の護衛……つまり学園の教師が二人重傷を負っている。おそらく後遺症も残るほどの傷だ。先週皆に伝えたと思うが、事態は悪化しつつある」
ここは、学園の地下。会議室にしてはいささか大きすぎるその一室には、ほぼ全ての先生たちが集められている。
ほぼ、といったのは、この会議室に席に座れる者たちは限られているからだ。
保健医の竜胆(りんどう)涼子(りょうこ)。
数学科の加賀(かが)英(ひで)孝(たか)。
生物科の東野(とうの)時雨(しぐれ)。
社会科の篠田加奈女
そして英語科の砂上(すながみ)百合(ゆり)。
全ての者の目は学園長に向けられている、と思いきや、全く別に人物を写していた。
ある者は驚愕の目を、ある者はおかしそうに、ある者は興味なさげに、ある者はにこやかに、ある者は暗い瞳を、ある者は――悲しげに。その人間を見つめていた。
「紹介が遅れたな。既に皆は知っていると思うが、こいつは霧島の人間だ。霧島、という言葉に皆、様々な感情を抱いていると思うが」
「人殺し」
「鬼の一族」
「女系家族」
「絶世の美女、美男子がいるとか」
「親子でまぐわうってほんとかしら?」
根も葉もない噂が飛び交う。それらは、この時代に孤立してきた霧島家に対する非難の言葉ばかりだ。
仕方がない、と左霧は割り切っている。霧島はたくさんの人を殺し、成り上がってきた一族だからだ。今よりおよそ三百年前、魔術師が盛んに勢力を争っていた時代より一族の当主たる者の手によって潰してきた家系およそ千を超えると言われている。また、その手口は闇討ち、毒殺、魔術を使った卑怯極まりない手口がほとんどだ。プライドの高い魔術師たちから毛嫌いされるのは慣れていた。
「やめてください、先生方。霧島先生の紹介が終わっていません」
教師たちの嫌な視線からかばうように砂上百合は言葉を発した。しかしその目はどこか悲しげだった。なぜあなたがここにいるの? そう問いかけているかのようだ。
その視線を見通すように、左霧は前に立ち自らの正体を明かす。教務室で話していた職場の同僚たちではない。魔術師として。同じ人たちであるはずなのに、ここにいる者たちはそれぞれ裏の顔を持っているのだ。表は善良な教師としての仮面。裏では利益を貪り、己の欲望のままに突き進む魔術師の仮面。
そして、『彼女も』また――――、
「霧島、右霧よ。私の性別は女。私は霧島左霧という男の体に宿る精霊。光の精霊よ」
―――――――――。
空気が変わった。それまで嘲笑を浮かべていたものの顔が固まる。それほどまでに霧島右霧という者が放った言葉に衝撃を受けているのだ。
言葉だけならば信じてもらえなかったかもしれない。だが、彼女から感じる桁外れな力の波動は、神聖にして犯すべからず、と思わず口に出してしまいそうな神々しさ。
精霊そのものなのだ。
「精霊が、人の体に宿る?」
竜胆涼子はそれまで不審げに見つめていた瞳を大きく開いた。当たり前だ。精霊は人間と契約を結び、主の持つ活力と引き換えに、魔力を提供するのだ。精霊と人間は対等な関係でなくてはならない。だが、精霊の持つ激しい気性やプライドは本来それを許さない。 よって、結果的に精霊は人間をいい餌として扱うようになるのだ。
それが、一般的な自然界のルールとなる。精霊は、尊い存在なのだ、と。
「これは驚いた! 精霊が人間などの体を借りて現れるなんて! 霧島家は魔導兵の研究を続けていたのか?」
加賀英孝の言葉に、一同は息を呑んだ。今の言葉は、決して口に出してはいけないワードだ。
魔導兵――――精霊の力を人間に宿した者。精霊を捕獲、または屈服させ、その器を人間と交じり合わせる。幾度もの契によって、力を吸い尽くされた精霊は己の器が消滅し、その魂だけが残る。
それは、精霊の本体。器はかりそめに過ぎない。
これを『魔石』と呼ぶ。
痛ましいことだ。気高い精霊を痛めつけ、その体を貪り尽くすことなど。決して許されることではない。
その実験を行った者たちはいずれ天罰が下ることだろう。
天が、公平ならば。
「勘違いしないで。私は別に人間に屈服したわけではないわ。それに、今でも人間という存在が嫌いだし、汚らわしいと思っているの」
右霧は侮蔑の言葉と、嘲笑を教師一同へ向けて放った。冷たくも美しい表情だ。一体、これが昨日までの本人なのだろうか? まるで態度や仕草が違う。触れたら肢体ごと切断されてしまうのではないか、と思わせるほどに殺気を放っている。
「なら、なぜあなたはその嫌いな人間の体に宿っているの。光の妖精さん」
起伏の感じられない声色で眼鏡を光らせたのは篠田加奈女だ。衝撃的な事実が露見したにも関わらず彼女は先程から一向にいつもの態度を崩さない。興味がないのだろうか。しかし、右霧に問いかけた以上は少なからず眼中には映ったということか。
「それは――――分からない」
「分からない? つまり、あなたは人に訳もわからず従っているというわけ? 精霊が、人間に? ありえないわそんなこと!」
「従っているわけではない。私は、私の意志で、彼の体に宿っているの。それは、私にしか出来ないことを成すため。彼の、そして世界の破滅を防ぐために」
砂上百合が叫ぼうとも、精霊右霧は少しも動じない。冷徹な、鋭いう口調。あの笑顔が素敵な左霧先生などでは決してない。こんな顔を生徒たちが見たらどう思うだろうか。きっと嫌われるに違いない。今はそれが、それだけが、右霧の恐怖となっている。
可愛い教え子たち、可愛い弟子。そして可愛い私の妹。それだけが、右霧の守るべき者たち。
「意味がわからない。君は一体なにを――――」
「東野、それ以上は聞くな。今はそんなことはどうでもよい。それよりも天王寺だ。奴らを殺す算段を考えろ」
話は雪ノ宮学園長の一言で区切りがついた。そして殺す、という言葉を簡単に発した。
学園長は静かに怒りを募らせている。自らの部下を二人、重傷に追いやった者たちを報復せねばならない。それは上に立つべき者のけじめであり、自らの感情を優先したわけではないのだ。
目には目を、歯に歯を。
魔術には魔術を――――。
教師が、聞いて呆れる。右霧は心の底で周りの人間たちを嘲ける。そして自らも、その同胞の一部に過ぎない、ということに反吐が出そうになる。
やっていることは、ヤクザの縄張り抗争と対して変わりはない。
違うところと言えば、圧倒的な火力と、頭の狂った者たちが大勢いることくらい。
「東野が伝えたとおり、皆で大規模結界を張る。何びと足りとも我々の学園に近寄らせるわけにはいかん。生徒たちの楽園を壊す者たちに容赦はするな」
「だけど、相手は天王寺ですよ? 規模が違いすぎる。本気で来られたら、太刀打ち出来るレベルではないわ」
竜胆は保健医らしく保守的に発言した。こちらの魔術師が七人。相手の規模はおよそ一〇〇を超える勢力の差だ。まさか全員で襲ってくることなどありはしないが、それでも危険性を考えるならば当然の問題だろう。
「結界を張ったくらいで勝てるわけないでしょう? 守りに徹した地点で負けは目に見えてますよ」
「だったら何か方法はあるの?」
「それをこれから考えるんですよ」
「使えない男。理系男はこれだから」
加賀が得意げに演説をかましたが、別段解決論が出たわけでもなく、砂上はいつものことだと溜息をついた。この男は、やれ数式は美しいやら関数は究極の真理やらと生徒たちに日常的に語りかけているようだが、生徒の通知簿には残念ながら反映しない。要は自分で発言したいだけなのだ。今回もこうやって偉そうに自分の意見を言いたいだけ。それを見据えたかのように篠田はぼそりと毒舌を吐く。
「むしろ学園に誘い込むのはどうですか? 敷地内に罠を仕掛けて一網打尽にできます」
東野はここぞとばかりに口を開いた。極めの細かい端正な顔つきは、真剣そのものだ。社会人として初めての職場であることは左霧(右霧)と変わらない。そして、自分に流れる魔術師の血も、彼は受け入れている。
「それは絶対にダメよ、東野先生。生徒を危険な目に合わせることは一番やってはいけないことのはずです」
「学校は休校にして、その間に事を終わらせることも可能です」
「校舎の建て替えとか、適当に理由をつけて、か」
「おいおい、学園長である私がいるまで、随分と物騒な話をする。まぁ出来なくもないが……どうやら、もう一人の新人は、不満なようだぞ」
雪江は喉をならし、先程から渋い顔を見せる右霧を見ている。どの意見も不満なようだ。根本的に間違っている。おそらく、雪ノ宮の魔術師は実戦経験が少ないのだ。どれも受け身な態勢を取り、攻めようとしない。
出方をうかがっている地点で負けだ。それはつまり情報で負けていることだから。
どれほどの人数が、今この町に滞在しているのか。どのような魔術を得意とするのか、弱点は何か……。
戦に必要な情報が、欠落しすぎている。
「霧島家の、次期当主として発言してもよろしいでしょうか?」
「構わん、言ってみろ」
「腑抜けはいらない。さっさと元の居場所に戻りなさい。命など、その禁断の力を手にした時に捨てたはずよ、目を覚ましなさい、雪ノ宮の魔術師たちよ」
誰もが言い返せない。どの者も、この力を手にした時にそれを捨てる意思を持っていたはずだ。
だが、彼らは人間なのだ。
臆病で、弱くて、自分のことばかりしか考えられない。
理屈ではなく、そういう風に作られているからだ。
自分を大切にし、そして他の者を大切にし、力を合わせることのできる存在。
「攻める、とでも言うの? 一体どこに? いえ、そもそもどうやって?」
「場所は西区の天王寺領。ここは今手薄で攻めるにうってつけ。二人ほど割いてもらえれば、私が情報を持って帰るわ」
「なぜ、そんなことを知っている? まさか天王寺と繋がっているのではないだろうな?」
砂上と加賀の質問に、右霧は首を振って答えた。なぜここまで天王寺の情報に詳しいのか疑われることは分かっていた。ただでさえ、他家の者がこの雪ノ宮の領地に土足で踏み込んでいるのだ。
敵か味方か把握出来ない者の言葉など信用できるわけがない。
「天王寺――天王寺秀(しゅう)蓮(れん)が床に臥せっていることは知っている?」
「なっ!」
「まさか、あの天王寺の当主が?」
「爺だもの、そろそろ老衰してもおかしくない」
「だけど、帝国最強と謳われた魔術師が倒れたってことは」
「今、天王寺は内部抗争中ってこと……!」
会議室は今までで一番ざわついている。形勢が逆転しつつある。今、天王寺は他の派閥が当主の座を巡っていざこざが起きている。おそらく雪ノ宮を襲った連中も、派閥の一部だろう。ということは、その派閥を潰したところで天王寺には何ら被害は出ない。むしろ潰してくれたことに感謝されることもありうるのだ。
そうなるとますます怪しいのは、霧島右霧だ。ここまで、誰も知りうることの出来なかった天王寺内部の情報をペラペラと口にする魔導兵。
霧島の、大量殺戮兵器はうっすらと赤い唇を尖らせて答えた。
「苦労したんだけどね。右目をえぐってやったわ。あと体もボロボロでしょうね、彼の瘴気に当てられちゃったから、もう長くない」
「……倒した、とでも言うの? あの無敗のご老体を!?」
「もう数年前の話よ。よっぽど知られたくなかったのね。わかったでしょう? 攻めるなら今よ」
全ての者の見る目が変わった。まるで怪物か何かを見るような目。わかっていた。こうなることも。分かっていた、私は絶対、誰にもなれないということを。
私たちは人になることは出来ないってことくらいは。
「――――それで、お前は味方なのか?」
誰もが口を閉ざすなかで、雪江は疑問をぶつけた。
そう、まず確認しておかなくてはならないことだ。一番初めに聞いておかなければならなかったこと。
だけど誰もが彼女の言葉に言いくるめられ、聞くことに躊躇した。
雪江もその一人だ。だが、自分は雪ノ宮の当主。霧島右霧がどれだけ恐ろしい人物だろうと、敵である以上は始末しなければならない。
「人間はよくそれにこだわる。敵か味方か。結局信じられるのは己のみだということに気がつかない」
「確かに人間は臆病だよ、右霧。だがね、君の考えは少し悲しい。それはきっと強者のみが口にすることが出来る言葉だ」
悲しい、という言葉、そして雪江の悲しげな表情に右霧は怒りを感じた。まるで右霧を哀れんでいるようだ。
冗談ではない。人間に同情されるなど。
「私は、私の願いを叶えるためにこの場所にいるだけ」
「願い、とは?」
「私の大切な人を守る。それ以外は皆、敵。殺すだけよ」
「母性に狂った精霊……か。なんとも、不思議な存在だよ」
母性、そんなもの、右霧は知らない。
気が付いた時には彼を助けていた。目が覚めた時には彼と同化していた。
それまでの記憶が一切ない。だから右霧という名前も、場所も、全てあの人が作った。
唯一、右霧が得ることの出来た心。
それが、母性だというのなら。
きっと私はどこかで母親だったのかもしれない。
大好きな人がいて、大切な子供がいて、暖かい場所があったのかもしれない。
何も思い出せない。
だけど胸が熱い。
私は、今この人を守らなくてはならない。
私は桜子を守らなくてはならない。
私は生徒を守らなくてはならない。
そのために、手を汚すことに、なんら躊躇はない。
私は狂っているのかしら? 左霧。
あなたを見つけた時に、私はもう狂っていたのかしら?
ああ、でも心が満たされるの。
誰かを守ることに、私は私を感じることができるの。
「まるで、聖母のようだ。だけど、君は……」
右霧は手を前に当て祈るような仕草をした。それは天の民ですら恥じらうくらい美しい姿だった。
だが、東野時雨は違う見解だった。
美しくそして気高い光の精霊は、どこか歪だ。
その姿からはどこもおかしな風には見えない。
しかしその奥。押し込められ、鬱屈した感情は膿のように溢れだそうとしている。
いずれ、相まみえることになるであろう。
そう、予感せずにはいられなかった。