「桜子様、左霧様はお忙しいのです。どうかご理解くださいませ」
「……そんなの知らない。おにー様は約束を破ったの。約束を破ることは悪いことなのよ」
「左霧様は好きで桜子様との約束を破ったのではありません。桜子様もわかっているのではないですか?」
「知らない! わたくし、わからないわ! そんなこと!」
桜子は自室に篭ったまま布団に潜りこんでいる。布団の幅が今の桜子の許容範囲だ。そんな少女のそばに寄り、必死に宥めている女中。母と子のような関係に少し似ている。いや、それにしては華恋が優しすぎるのかもしれない。なにせ、少女は尊い存在なのだから。自分の主であり、自分の存在そのものの証である。少女が生きてこそ、自分という存在が成り立つのだ。
運命共同体、とでも言えばいいのか。とにかく、華恋にとって桜子は何に代えても守り抜きたい主なのだ。
しかし、優しさは時にとてつもない猛毒となる。この頃、それがようやくわかってきた華恋は、今の状況が明らかに桜子の我侭なのだと理解している。ならば、どうすればよいのだろう。
少女を叱る? 叱ったところで、少女は納得するのだろうか。
少女に同意する? それは結局何も変わらないままだ。
ならば、自分は自分のやり方で少女を解きほぐすしかないだろう。
「桜様。いい女、になりたくはありませんか?」
「……いい女? 華恋みたいに?」
「まぁ……桜子様、勿体なきお言葉でございます」
華恋はうっすらと頬を赤く染めた。その表情は確かに誰が見ても見惚れてしまうほどの魅力を持っている。大和撫子、とは華恋のような女をいうのだろう。
そんな華恋を羨ましそうにジッと見つめ、桜子は呟いた。
「わたくし、早く大人になりたいわ。そしたらきっとおにー様もわたくしのことを見てくれるもの」
「ふふふ……心配しなくとも、左霧様はいつも桜子様のことを見てくれていますよ?」
「そうかしら? でもいい女になれば、きっとおにー様も放っておかないわ。わたくしはいい女じゃないから……きっとおにー様はわたくしのことを飽きてしまったのだわ!」
わっと顔を覆って、再びしゃくり声をあげた桜子の体を華恋はそっと包み込んだ。小さな体だ。自分の半分くらいしかない少女。大好きな少女。
私の生きる意味。私の存在全て。
あの人の、忘れ形見。
左霧様の妹。
敬愛すべき、あの御方のご子息……。
「桜子様――いい加減になさいませ」
抱きしめた手に、僅かな力を入れた。少女はほんの少し苦しそうに呻いた。華奢で、儚くて、脆弱だ。人間の、女で、子供でもある未成熟な桜子の体は、華恋が力を込めるだけで、簡単に押しつぶされてしまうだろう。
「華恋……苦しいよ」
「その苦しみ以上の苦しみを、左霧様は味わっておられるのですよ?」
「おにー様が? どうして?」
「桜子様に嫌われてしまったからです」
「うそ! だっておにー様は怒っていたわ! わたくしおにー様に初めて怒られたのよ!」
ああ、なんて無知で無垢で愚かな少女なのだろうか?
恨めしい、妬ましい、しかしそれ以上に、愛おしい。
あの人の愛を一身に受ける少女。
それが自分であったなら、きっと私は溺れてしまうだろう。だからこそ、少女には分かってもらわなくてはならない。
あなた様は、こんなにも祝福されて生まれてきたのだと。
「怒られることが、嫌なのですか?」
「嫌よ! だって胸がギュってなって苦しくなるわ。こんなこと初めて。嫌、苦しいの……」
「愛しているからこそ、大切だからこそ、左霧様は、桜子様をお叱りになったのです」
「愛しているから?」
「はい」
「本当に?」
「ええ」
「そう……」
華恋は上手く説明することが出来なかった。自分自身は左霧に怒られたことなど一度もない。いつも笑顔で、何をしてもあの人は笑って許してくれた。君は家族なんだ、そんなに固くならなくていい。そう言ってくれたが、あの人が心底、家族と認識しているのはおそらく目の前の少女だけだろう。
「わたくし、おにー様に謝ってくるわ」
「よくご決断なされました。それこそ、いい女の鉄則でございます」
「おにー様は約束を破ったけど、でも許してあげるの!」
「それこそいい女の条件でございます。許すことは、決して簡単なことではございませんから……」
「華恋にも難しいことなの?」
「大人になると、尚更難しくなるものなのです」
ふーん、と不思議そうに顔を傾けた桜子に華恋は優しく微笑んだ。本当のことだ。年を重ねるとそれだけ意固地になって、自分の考えを曲げることができない。
いつまで経っても自分は子供のままだ。あの時も、あの時も、あの時も……。
もう遥か昔のことだ。記憶は掠れて、靄がかかっている。
それでも、覚えている。ビックリするくらいに。鮮明に。忘れることなど出来なかった。
「華恋。お前は華恋だ。華やかに恋と書いて、華恋」
「華恋……」
「俺は恋などすることは出来ないが、そのぶん、お前には幸せに生きて欲しい。華々しく、恋をしてほしい」
嘘。あなたは恋をした。許されることではなかった。禁じられたことだった。
だけど、あなたを引き止めることなど出来なかった。
そうして、あなたの血は、こうして……。
「ありがとう華恋! 大好きよ!」
「……はい。私も――」
少女のように愛らしく、伝えられたなら。
少女のように可憐に、伝えられたなら。
「私も――大好きです」
あなたは私に振り向いてくれましたか?
「おにー様ぁ! どこにいるのーー!?」
布団から桜子が飛び出していく。まるで殻を破った雛のようだ。これから待ち受ける苦しみや悲しみを知らない。喜びも怒りも知らない。
絶望も。
希望も。
「何を考えているのやら……私も。もう、千百二十歳だというのに……」
それでも、私はあの頃恋をしていた。ありったけの激情を抱えて。押し殺して。
そして今も。これからも。ずっと先まで。
あなたを、愛し続けるでしょう。
「――――様……」
華恋の声は誰かを訴えている。この想いは、自分の心の奥底にしまいこんだまま鍵をかけている。
だが、それでも時々宝箱の中身を開けてみたいのだ。大事に閉まった心の欠片を。
繋ぎ合わせて、みたいのだ。
一人残った一室で、華恋はしばらく動けずにいた。きっと朝の出来事が後を引いているに違いない。
「本当に、見れば、見るほど……」
似ているのだ。あの人は、彼に――――。
「この家は居心地がいい。少々狭いが、ふむ……暖かいな」
「ありがとうセーレム。そう言ってもらえると僕も嬉しいよ」
黒猫と左霧は二人で雪子の修行を見物している。緑茶と和菓子を携えながら、ゆったりとした午後のひとときを過ごす。まるで世界が止まっているかのように左霧には感じられた。
何も変わることのない風景。
いつもどおりの時間。
妹がいないのが少し淋しいけれど。いや、かなり淋しいのだけれど。
それでも、この時が一番好きだ。日々の忙しい毎日の中で見出す、穏やかな時間は、何にも替えがたいのだ。
「お前、左霧と言ったか? 随分と不思議な体だ」
「そうですか?」
黒猫は丸いマリンブルーの瞳でじっと左霧を観察していた。猫とは言えど、精霊であるセーレムに値踏みされるのは少々照れる。そんなことなどお構いなしと言わんばかりに更に近寄り、セーレムは左霧のそばへ寄った。
「なるほどな、二重の、封印、か? 一体何を押さえ込んでいるのやら」
「さぁ……なんでしょうね」
「ふっ……とぼけおって。まぁいずれわかることだ。それよりも、あれは何をやっているのだ?」
唯一、この静かな時間に溶け込むことのできない女いる。うんうん言いながらひたすらに腕立て伏せをこなしている若い女を、うるさそうにセーレムは睨んだ。
「腕立て伏せだよ」
「なぜ?」
「訓練だよ」
「訓練? これが? うむ、人間は実に非効率的なことをするのだな。この程度の責め苦で魔力が上がることなど全く有り得っぶぐ!?」
セーレムが何かを言いかけると、さっと左霧は抱きかかえその口を塞いだ。そして苦しそうにもがくセーレムの耳にそっと呟いた。
「これでいいんだ」
「これでいい?」
「そう。セーレム、君はなぜ雪子さんと契約したの?」
「…………」
一人と一匹は、汗を拭いながらスクワットをする雪子を見守っている。その目には熱く煮えたぎる情熱を抱えているように見える。
欲望と野望、という言葉が似合っている。まさに魔術師にとして生まれてくるべき素材を持ち合わせているのだ。
「雪子の気概が気に入った。それに――――」
「あーーーーー!! もう無理、キツい、熱い、汗臭い! 私って不幸! 足がパンパンに腫れ上がっちゃった! 腕も引きつってる! 女子力なんて糞くらえよ!」
泣き言を喚きながら、それでもひたすらに足を動かし、腕を動かし、その並外れた身体能力を酷使する。
機械のように。人形のように。
だが、人間らしい。感情が豊かな女だと、セーレムは思う。もちろんうるさい女とも思わざるを得ない。
「桁外れの、魔力量を持っている。私が契約した一番の理由だ。潜在能力も凄まじい」
「やっぱり、ね。そう思ったよ。雪子さんの魔力量に飛びつかない精霊はいない。悪い精霊に憑かれる可能性も、ある」
「なるほど、私を疑っているのか」
セーレムはすっと美しい四本の足で立ち上がり、魔力の波動を左霧に向かって放つ。それは左霧にしかわからない、殺気。精霊に無礼を働いた左霧に対する怒り。気高く、高潔な血を侮辱した憤怒の念を感じ取れた。
「実に、不愉快だ」
「ごめんね。僕は教師だから、生徒の安全性に確信が持てなければ残念だけれど、君を始末しなければならない」
「出来ると思っているのか、貴様ごときに?」
「出来る、出来ない、じゃないんだ――――やらなければならないだよ」
強い、波動を感じた。いや、魔力の波動ではない。実際、この目の前の人間の魔力量は対して比ではない。凡人よりも少し優秀なくらい、とでも言えばいいのか。
だが、なんだろうか。
セーレムには理解できそうにない。人間の『真似』をした何かは、強い意志も持っている。
それは決して崩すことの出来ない不屈の闘志。
何を、そこまで――――。
「おにーさま! おーーーーーーにーーーーーさーーーーーまーーーーー!!」
「桜子……へぐっ!?」
いきなり現れた小さな少女の、格闘家もさながらなタックルで一発ノックアウトされる左霧。少女に悪気はない。あったとしても笑って許してもらえるのだが。
「おにーさま、ゴメンなさい!」
「桜子……僕こそ、約束を破ってしまったごめんね。君を悲しませてしまった」
少女を抱きしめて、その頬を自分の頬にくっつける。甘い香りがした。柔らかい感触がした。何もかも、守れる気がした。
「うん、許してあげるわ!」
「本当に?」
「本当よ、おにー様! ねぇ、桜子はいい女かしら?」
しばらく妹の放った言葉に呆然とし、そして笑った。この策謀を思いついた女に感謝の念を表すとともに、妹の成長を心から祝福する。
こうやって人間は成長していくのだ。傷つき、悩み、考えながら……。
「そういうことか……」
セーレムにとっては取るに足らない出来事だ。なんてことはない。一人の人間が、一人の少女を守る、というどこにでもある物語。
自分の守りたいものよりも、遥かに劣るではないか。
ならば私とこの人間の違いはなんだろうか。
私は、何を間違えたのか……。
「私は、取り戻したいのだ」
黒猫は、双眸を左霧に向けて喋った。かつては強大な力を持ち、従う者もいた。
だが、セーレムは敗れたのだ。
「その為には、力が必要だ」
左霧は何を思ったのだろう。その黒猫の姿を見て、少し悲しそうな顔をした。しかし何も言わなかった。セーレムにはセーレムの、左霧には左霧の事情がある。その壁を通り抜けていいのは、きっと――――。
「先生、終わったわよ!」
「ご苦労さま。とりあえず今日はここまでにしておこう。さぁ上がって、お昼ご飯にしよう」
「私に庶民の食事をさせようってわけ?」
「いらないの?」
「……がっつりいただきます! ああもう! また筋肉が付いちゃうわよ!」
「雪子さんも許してあげるわ!」
「はぁ? 何言ってんのこの子? まぁいいわ、もうヘトヘトで文句言う気力もないわよ」
「情けない、ならばさっさとおウチに帰りなさい、女狐」
「あーうっさいうっさい! おじゃましまーすっと!」
食事は楽しく。分け隔てなくいただく。そこには上下の関係もなく、種族の関係もない。
お腹が空いたという、当然の機能が働くだけだ。
だからこそ、食事はいい。
だってこんなにも、楽しく、
「汚い! ちょっと先生! 妹の躾がなってないわよ!」
「よしよし桜子、こっちに顔を向けて」
「おにー様、桜子はいい女かしら?」
「とっても可愛らしいよ!」
「女中、私はキャットフードが嫌いなのだ、ねこまんまにしてくれ」
「微妙な注文をしてくれる猫ですね……」
こんなにも笑顔をくれるのだから。