早朝、男は庭に立っている。この寝坊助が珍しく休日に早起きをしたのだ。いつも出勤ギリギリに起き、髪を梳かし、顔を洗い、服を着替えてご飯を食べる、というシチュエーションを全力でこなすあの人が。
今日は優雅に庭に立っている。
一体何があったのだろう?
木々が草花が、ざわめいている。
まるでそこにいる者を拒むかのように、震えだす。
「…………」
男は僅かに指を動かした。その指から歪な形の『何か』が湧き出てくる。
霧だ。霧が出てきたのだ。
すると男の体はその霧に紛れ込むように姿を消した。
男が指を動かした途端、早朝の朝日が薄れていく。
辺り一面は不気味な霧に覆われた。
やがて別世界となった庭には男の姿が浮かび上がる。
その数、およそ百人。
分身とでも言えばいいのか。
いや違う。その一人一人に質量があり、意思がある。
その場にいる者は、そう『見えて』しまう。
幻影魔術――霧島家の奥義の一つだ。
奥義、とはつまり必殺。必殺とは見破れないから必殺なのだ。
そしてこの奥義を見たものは誰ひとり見破れなかった。
決して生き残った者はいない。
やがて霧が晴れる。太陽がまるで夢でも見ていたかのように世界を照らし出す。
当然、別世界にあった霧島家の庭も光で満ちていた。
男は一人で立っている。
「おはようございます、左霧様。今日は珍しくっ……うっ!」
女中が起きてきた。恭しく、その頭を垂れて丁寧にお辞儀しようとした。
しかし、口元を抑えたまま震えている。
「あ、あなた、様は……」
『男』は女中に一瞥もくれずに庭を見ていた。
左霧が趣味で造園した庭を見ていた。
花を慈しみ、実りを楽しむことが何よりも嬉しいらしい。
興奮したように話をしていた。華恋にはよく分からなかった。
「ああ、なんて、なんて」
何もなかった。そこにあったはずの物が何もかも消えていた。
いや、ある。確かにあるのだ。
腐敗した、残骸が。
腐臭を放ち、まるで魔界に咲く奈落の花のように、歪で汚らわしい形をした残骸が。
辺り一面を支配していた。
「左霧、様」
華恋は主人の名前を呼ぶ。かすれてしまいよく届かない。もう一度叫ぶ。
ゆっくりと振り返った。主の顔。いつも美しく、まるで陶磁器のように白い肌。肢体はほっそりとしていて等身大の人形のようだ。
華恋は綺麗だね。
主は時折そんなことを言った。華恋は薄く頬を赤らめて抗議する。
自分がある程度の容姿を持っていることは認める。だから褒められるのもわかる。
だけど、恥ずかしい。
だって、主の方が断然に美しい顔をしているのだから。
主に褒められると、まるで貶されているように聞こえるのだから。
「華恋」
男の声が朝の空気に響く。
女中の名前を呼んでいる。
いつもより野太く、芯の通った重い声色だ。
華恋は、はい、と答えた。自分でも答えたのかわからない。
声が震えて上手く出せない。主から発せられている『邪気』にあてられて辛いのだ。
一刻も早くこの場から去りたい。だが、それは出来ない。
自分は、逃げてはいけない。
「華恋、すまない」
男は謝った。何に? 誰に?
もちろん全てにだ。
慈悲深い。尊い。
されど、凶悪。
凶悪にして絶対悪。狂気。狂気、狂気。
「いいえ、庭は、また作ればようございます」
「悲しむな、あれが」
「事情を話せば分かってくれます」
「面倒だな」
「仕方のうございます」
男はさも面倒そうに溜息をついた。
仕方がない。仕方がない。
呟きながら庭を見つめた。
何を思うのか。何を感じるのか。
そこにはもう、生命の息吹は感じられない。
男が摘み取ったのだ。死神のように。
「――戻る」
「――お休みなさいませ」
男は部屋へ戻っていた。まるで何もなかったかのように。
しかし、そこにあるのは現実。腐敗した庭。花の残骸。生命の枯渇。
「なんと、哀れな……」
誰もいないその庭で、華恋はそっと呟いた。
宿命じゃ、宿命じゃ。
まるで呪うかのように風が囁く。
華恋は邪気を振り払う。
汚染された空気をなぎ払う。
それが彼女の宿命。
振り払い、なぎ払い、跡形もなく消し去る。
朝日は、もうとっくに昇っていた。
――そして待ちに待った休日。
霧島家の食卓は静けさを保っていた。いつもの賑やかな喧騒はない。
食器の擦れる音だけがその静寂を破っている。
男と女は黙々と栄養を摂取するだけ。
そこにはいつものくだらないやり取りなど存在しない。
「……なんだが、珍しいですね。こんなに静かな朝食なんて」
「うん」
「あ、それ……少し白出汁を入れてみたのですが、いかがですか?」
「うん」
「左霧様、ご自分の髪を食べないでください」
「うん、おぇ」
華恋は積極的に会話を求めた。だが、主である左霧は魂が抜け落ちたように沈んでいる。
今朝、いつもどおりの時間にいつもどおり起きた左霧は、庭を見た。そして華恋に問いただしたのだ。
全ては仕方がないこと。だけど、どうしても怒りを抑えきれない。
――自分に対して、怒りが抑えきれない。
「僕がもっとしっかりしていれば……!」
「左霧様、ご自分を責めないでください」
「けど!」
「被害は最小限です。何も問題はありません」
「あったさ……」
自分が丹精込めて作った庭園は崩壊していた。
左霧が見たときは既に『邪気』は華恋によって取り除かれ、辺りには荒れた土と草花の残骸。生きとし生きる全ての生命が枯れ落ちていた。
また最初から。
けれどそれはいい。また育てれば良いのだから。
だが、
「もし、人間がその場にいたら……」
「霧島家は結界に守られています。問題はありません」
「華恋っ!」
「問題は、ないのです。左霧様」
華恋は真っ直ぐに左霧を見た。
痛ましいほどに自分を責め続ける主を見てはいられなかった。
支えなれば。
支えなければならない。自分が主を励まさなければ。華恋の心にあるのはただそれだけなのだ。
「ご飯を食べましょう、左霧様。今日も来るのでしょう? あの女狐が」
さっきとはうって変わり、恨みがましい目で華恋は主を睨んだ。
その素早さに思わず左霧は吹き出しそうなるが、こらえる。妹とは違い、左霧は食事の作法を徹底的に叩き込まれている。唯一自分に許しているのが、会話だ。
食事は楽しむもの。そう決めているのだ。
本家で食べた毒見をしたあとの冷めた飯。会話のない大所帯。あの時は、食事という時間が何よりも嫌いだった。
だが今は違う。彼女――華恋のおかげで食事は楽しいことなのだと感じられた。
「……華恋ってば雪子さんにそんなこと言っちゃダメだよ?」
「いいえ、いくら左霧様の命令とはいえそれは聞けません! あの女狐は桜子様のガラス玉のような心を傷つけたのです! 万死! 万死に値します!」
桜子は起きてない。休日でも規則正しい生活を怠らないはずなのに、今日は自室に篭ったままだ。
多分、こんなのは初めてだ。
今までも桜子がワガママを言ったり、理不尽な怒りをぶつけてきたことは何度もある。
だが、左霧は全て受け止めてきた。そして従った。
教育の仕方が分からない。躾のやり方が分からない。
ただ、桜子の嫌われるのが怖かったのだ。
第三者の介入により、その理想は呆気なく崩壊した。
だが左霧はこう思う。
「これで、良かったんじゃ、ないかな」
「左霧様……」
ふっと双眸を細め、左霧は呟いた。今の今まで、何かが足りなかった。
愛情だけでは人は繋がれない。愛は甘すぎるから。それはとても危険で癖になる味だから。
何か、決定的な衝撃を与えることが必要だったのだ。
「桜子は、愛されることに慣れている。それはあの子の魅力がそうさせるのかも知れないけれど、それだけじゃ、ダメなんだ」
「そう、ですか」
華恋は諾々と左霧の言葉を呑んだ。主がそう、と決めたらそれに従うまで。しかし、それを認めてしまったら、何かが壊れてしまうかもしれない。それが華恋は怖かった。
怖い。結局、大人になっても怖いものは怖い。自分の情けなさを華恋は心の中で嘲笑した。
「今、桜子は生まれて初めて傷ついているのかもしれない」
誰にでも愛される体質、とでも言えば良いのだろうか。気がつけば桜子の周りに人が集まってくる。
愛してやまない。守ってあげたい。一緒にいたい。大切にしたい。
人が関係を作る過程を飛ばし、一気に距離を縮めてしまう。
それは、ある意味とても恐ろしい能力かもしれない。
「まぁ……約束を守れなかった僕が悪いんだけどね」
「きっと、兄を取られたと思っているのでしょうね」
「嫌われちゃったね」
「いいえ、桜子様は左霧様を愛しておりますよ」
「そうかな?」
「はい。ただ、今は焦っているのだと思います。今までこのようなことはございませんでしたから」
霧島家に客人が来ることなど滅多にない。それも毎日入り浸っている雪子に警戒していたのだろう。夕方は雪子に付きっきり。夜は仕事の資料作り。会話らしい会話もなくなった。そんな兄の変化を何よりも恐れていたのは桜子だったのかもしれない。
「桜子様は大丈夫です。ですから、左霧様はどうかご自分のことをお考えください」
「自分のこと、か」
「あのお方が仰ってました。――すまない、と」
「そう……」
左霧はいつも想像してしまう。本来、祝福されて生まれてくるはずの赤子が世界から拒絶されるという恐怖。存在そのものを拒まれた化物。生まれた瞬間に『あなたは存在そのものが間違っている』と母に囁かれた胎児。愛はなく、情もなく、慈悲もなく、救済もない。
――それでも、
「生まれてきてよかった」
そう言った。一人の男。
男はやがて女に出会う。歪な形ではあったけれど、相思相愛だった。幸せだったと思う。よかったと思う。例え、仕組まれたことだったとしても、愛し、愛されていたのだ。
左霧は守らなくてはならない。
男の意志を、女の約束を、
それだけは、守りぬく。その為の今。その為の力。その為の『私』という存在。
「桜子を、お願いね。華恋」
「お任せください。私の命に替えましても、桜子様を立派な女子にしてみせます」
これは今までとは違う。これからは変わっていかなくてはならない。自分も、華恋も、桜子も。
この閉鎖的な環境を逸脱し、羽ばたいていかなくてはならない。
幸せだった。本当に幸せだった。僅かな時間だったけれど、本当に楽しかった。満ち足りた日々だ。これらからもそれは続いていく。だけど、ああ、それでも、
――――変わらなくてはならないものがあるのだ。
「お邪魔しま……って庭、どうしたんですか?」
「……ちょっと気分転換、かな」
雪子が霧島家を訪れると、左霧が既に立っていた。目を瞑り、じっと直立している。
整った顔立ち、細いくびれ、高い背丈。
黙っていると本当に綺麗な人だ、と雪子ですら感じてしまう。
だが、それは少し怖さを帯びている。完璧すぎて、怖い。
完璧な人間などいない。どこかしこに不完全さが残ってこその人間だ。
でも、先生は――
何を考えているのだ。私は。雪子は途端に我にかえり今の考えを撤回する。
先生はとても不完全ではないか。いや、不完全すぎるではないか。授業はド下手だし、すぐどもる。情けない声を出すこともあるし、男同士で……不潔だ。
不潔不潔不潔よ。そんなのはダメ、絶対ダメよ!
とにかく、先生は完璧じゃない。それだけは確かだ。
「……今日も、筋力トレーニングですか?」
雪子は強制的に頭を切り替えた。どうやら自分は変態チックな傾向があるみたいだと自覚した。自覚したが、認めない。こんなことがバレるくらいなら私は自殺を選ぶだろうと断言したい。決して、腐ってなど、いないのだ!
「うん」
「そうですよね、今日も女の子なのに筋肉鍛えるんですよね。女性なのに上腕二頭筋鍛えるんですよね。レディなのに腹筋をシックスパックに割れるように頑張りたいと思います(泣)」
いけない。全く切り替わってない。むしろやる気がなくなってきた。最近、体が軽くなったような気がしたのだが、むしろ体重は増えていた。急いで体脂肪で測ってみたが全然前と変わらない。具代的な数値は言えないが、人間味のある至って、普通の女子高校生の平均……のちょっと上くらいだ。あれだ、きっと胸が(Aカップだが)大きくなったからだ。
そんな言い訳が出来ないくらい雪子の体重は増えていた。絶望。女性にとって体重は、命の次に大事なほど割合が大きい。雪子は崖っぷちに立たされたような気持ちになっただが、どうやら筋力が増えてきたらしいのだ。道理で見た目は普通なのにいきなり数値が上がる訳だ。ふむふむ……。
これなら問題ない。気にしなくてもOK!
んなわけあるか!
――だが文句は言えない。それ以上に自分は魔術を学びたい、という気持ちが強いからだ。
例え、女性らしさを捨てたとしても、叶えたい願いが、夢がある。熱意もここまでくれば大したものだ。――かなりショックだが。
「じゃあ今日はセイレイを召喚してみようか」
「はいはい、今から腕立てしますから、しっかり数えてくださいね?」
「いやいや、雪子さん。そんな虚ろの目で僕を見ないでよ……。それに、もう一度言うよ? 今日は、セイレイを召喚してみようか」
「――――! 本当ですか!? 一、ニ、三!」
雪子は腕立て伏せをしながら大いに喜んだ。
やっと一歩進んだ。自分の努力が認められたのだ。
――セイレイ。遂にこの時がやってきた。魔術師はセイレイと契約することでようやく見習いとして承認されるのだ。
「本当だよ。けど、前にあったことを忘れてはいけないよ。悪魔もセイレイだってことをね」
「あ……」
雪子は悪魔が嫌いだ。どうしてだか、生理的に受け付けない。恐怖の対象であり、外敵であり、駆逐する相手、とでも言えばいいのだろうか。
とにかく一言では表せない。あの時の自分の体たらくを思い出して、雪子は恥ずかしくなった。まるで強者が弱者を虐げるように、自分は蹂躙されるところだったから。
「大丈夫だよ。もうあんなことは起こらないから。それに僕もついているからね」
師曰く、人間という存在は脆弱に作られているらしい。もちろんこの自然界において、人という生命体は高位に準ずるものだ。
だが、それはこの世界のみの話。
人間は、神によってこの世界を支配する権利を与えられた。この世界は人の楽園であり、神の遊び場だと。
神――。
神とは何だろうか?
「――わかってます」
何にせよ、ようやくここまでたどり着くことが出来たのだ。
正直怖い、という気持ちがないわけではない。
しかしそれよりも尚、追いかけたい夢がある。
夢があるということは素晴らしい。こんなにも日常がワクワクするのだ。
まるで、雪ノ宮雪子という生命体は魔術師になるために生まれてきたのではないか、と言うくらいに今の雪子は胸の奥に迸る思いを抱えている。
「精霊は高等種族。人の上に立つ者だということを忘れないで。だけど対等な立場での契約だからね。つまり、自分が低く見られてもいけないんだ」
左霧は、庭に何かを書き込んでいる。木の棒を使い幼い子供が落書きをしているみたいで滑稽だ。だが、これはれっきとした召喚用の魔法陣。自分の血で書くなどという恐ろしいことをしなくても出来るらしい。
やがて書き終わると雪子を中心に立たせた。そこで雪子は呪文を唱え、出てきた精霊と契約を交わす。
ちなみに出てくる精霊は魔術師の特性によって変わるらしい。つまり性格などによって優しい精霊や怖い精霊が出てくるのだ。
一度召喚した精霊とは絶対に契約を結ばなくてはならない。拒絶したり失礼な態度をとればそれだけで精霊は見下されたと思うからだ。そんなことになれば精霊は二度と人に力を貸さない。つまり雪子は魔術師になることが出来なくなる。
ここが、勝負どころだ。雪子は高鳴る心臓を必死で押さえつけ、深呼吸し厳かに呪文を口にした。
「我、汝と契を結ぶ者なり。精霊王の名の下に我が前へ御身を現したまえ」
空気が変わった。何者かが囁きあっている。小さな者大きな者優しそうな者恐ろしい者、万物の生命が、雪子を見定めている。
精霊たちだ。この世界には精霊が溢れているのだ。雪子の目の色彩が変わった。
――妖精眼。
魔術師のみが持ち得る魔術師たるものの証。その眼が一時的に雪子の瞳に宿ったのだ。
「黄金の瞳……!?」
左霧は驚愕した。雪子の瞳の色は異常だ。非常に珍しい、希少種。今まで見たことのない金色の両眼。
「求めるは真理! 我は、真理の探求者なり! 我は求める! 我は望む! この世の全ての英知を!」
雪子の体は震えている。恐怖と興奮とが混ざり合った複雑な感情。抗えぬ、魔術師の血。混沌と破壊を望む者たちの血筋が、雪子の本能を刺激する。
「力を求める者よ。お前は何故に我を望むのだ?」
どこからともなく声が聞こえた。ゆっくりとした落ち着きのある、厳かな声色だ。
雪子の前に、精霊が現れたのだ。
しかし光に包まれていて、その姿までは分からない。が、かなりのプレッシャーを感じる。未熟な雪子でもそれくらいわかる。
こいつは、やばいな、と。
左霧は踏み出そうとした。これはあまりにも危険な精霊だ。下手をしたら殺されるかもしれない。自らの生徒を、弟子に手出しする者は許さない。自分の全力をもってしてもとめる覚悟だ。
「待って、先生。話をさせてちょうだい」
「……だけど」
「――大丈夫。私、強くなりたいの」
雪子は振り向いて笑った。その顔に、もう恐怖の色は見られない。
どうやら雪子は危険がないと判断したようだ。精霊の本質を悟ったのかもしれない。
「――ほう、我を前にして臆さずにいられるか、脆弱なる人間よ」
「――お生憎様。私は頂点に立つべき人間よ。この程度のことで怯えたりしないわ」
「その頂点に立つべき人間が、我に何の用だと聞いている」
「簡単よ。魔王になりたいの。そのためにはあなたの力が必要。それだけよ」
「魔王とな! 何を望む? お前には地位も名誉もあるではないか。これ以上、一体何を望むのだ?」
「言ったでしょう? この世の全てよ。私は、私が思うように世界を支配したいの。――ついでにそこにいる男の契約とやらを解除したいだけ。簡単でしょ?」
「ワハハハハハ! 馬鹿な小娘よ! それはただの我侭ではないか!!」
「うっさいわね! 我侭だっていいじゃない別に! それに他の誰かが魔王になるよりも私がなった方が絶対にいいわよ。地球に優しい世界にしてあげる! あ、あと精霊にも優しいわよ、多分ね」
目の前にいるのが精霊とは思えないほど気さくに話しかける雪子。左霧はハラハラしながらそれを見ている。だが、どうやら精霊は雪子のことが気に入ったらしく、友好的だ。
その精霊が雪子を見定めている。そろそろ決定の刻だ。
「雪子とやら。世界はな、思った以上に悲惨だぞ」
「あっそ。なら楽しくしてやるわ」
「全てを知ることは絶望しか待っていないぞ」
「知らないでいるよりもよっぽどマシよ。そのためなら、神にだって挑んでやる」
「神に挑む、か……世界征服が目的か?」
「世界征服なんて誰も言ってないわよ。ただ、世界を私の言うことに従ってもらうだけ」
「……それを世界征服というのだ」
精霊にツッコまれた、と雪子はちょっとショックを受けた。自分の言っていることはおかしなことだろうか。世界が欲しい。全てを知りたい。その為の力が欲しい。
それは、いけないことなの?
「面白い奴だ――よかろう」
「――え?」
「何を呆けている。さっさと契約をかわせ、お前の精霊になってやろう。黄金の瞳を持つ者よ」
喉がカラカラだ。体が熱い。心を震わせる瞬間というものは総じてこんなものだ。雪子は今にも破裂しそうな思いに抗うように落ち着いた声色で再び言葉を綴る。
「汝の名を――」
「我が名はセーレム。しばらくは、楽しめそうだな」
「冗談。忙しくて逃げ出したくなるかもね」
セーレムと名乗った精霊は、雪子と契約したことで、その姿を現した。
光の粒子が弾け飛び、地面へと落ちていく。
黒い立派な毛並みとピンと張ったしっぽが特徴的。
気怠そうな真っ黒な瞳がジッと雪子の方を見つめている。
「なによ、ただの猫じゃない」
「失礼な奴だ。私はただの猫ではない。精霊の猫だ」
猫が喋った。そしてクワっと小さくアクビをしてキョロキョロと辺りを見渡している。
「おい、何をしている、さっさとお前の住処に案内しろ」
「命令しないでちょうだい。あんた強いのよね?」
「食事はキャットフードではないぞ。ちゃんとした物を要求する」
「聞きないよ!」
「そう慌てるな、何事も焦っては事を仕損ずると言う」
ゆったりとした仕草で黒猫は雪子の下へ寄ってきた。雪子の目はもう元の状態へ戻っている。黄金の妖精眼を持つ特別な少女を珍しそうに見つめていたが、やがて半眼になり、ブツブツと文句を言ってきた。
「魔力不足だ……猫の体しか維持出来ん。全く、これだから半人前は」
「は? それ、私に言っているの? ちょっと何この猫保健所にブチ込むわよ」
「そこのお嬢さん。私はお腹が減っている。何か食べるものを要求する」
「こんにちは、セーレム。ようこそ我が家へ。でも僕は男ですよ」
「だから聞きなさいよ! あんたの主は私だっての!」
左霧と和やかに会話を楽しみ、セーレムは霧島家へ入っていった。
どうやら一癖あるらしい精霊のようだ。召喚初日から上手くやっていけるか不安すぎる雪子だった。
何にせよ、雪子は一応精霊召喚に成功した。これでようやく先生のような魔術を使いこなせるようになる、と期待に満ちた想像をしていた。
そしてその想像は見事に打ち砕かれることになるのだった。
「雪子さんは筋トレ再開ね。僕はセーレムに食事を出すから」
「雪子よ、しっかり励めよ。私を使いこなすには経験値があと1万P足りないようだ」
先生はやっぱり鬼コーチでした。
クソ猫はとっても偉そう。あと意味が分からない。
魔術師って大変なんだなぁと、呆然とした表情で再び腕立て伏せを再開した雪子。
それはまるで囚人が強制労働を強いられているように、虚ろな姿なのだった。