「え~と、この古典の訳は教科書の二八ページの三行目に」
「違いますよ先生! もう黒板に書いてあるじゃないですか! 嫌だなぁ!」
「あんまり間違えると、その胸にある大きな果実、もぎ取っちゃいますよ?」
「ひっ! ご、ごめんね、皆」
おっさんである。この教室の生徒たちは全ておっさんである。雪子は頬付をつきながら、相変わらずとんちんかんな国語の先生の授業を受けていた。セクハラまがいの脅しを受けて涙ながらに謝る教師。も、萌え――ません。相変わらず左霧はダメ教師でした。
「精神を集中させて! ダメ、それじゃあぜんっぜんダメ! 何考えてんの!? 今は魔術の時間だよ! はい、走ってきて! 腕立てー! 腹筋! 頑張れ、頑張れ! あの太陽に向かって(以下略)」
放課後が憂鬱。雪子は悲鳴を上げている筋肉の苦痛に耐えながら意識を別の方へ移した。
予想通り。というかやっぱり昨日はキツかった。魔術の訓練、とは名ばかりの筋力トレーニング。しかも桁外れの量。意味が分からない。この可憐でか弱い乙女を捕まえて、なんたる仕打ち。万死に値する。そんな雪子の怨念が成就するはずもなく日が暮れるまで左霧の叫び声は続いた。
「あ、有り得ない。あり得ないわよ。こんなの」
「すごいね雪子さん。まさかやりきるとは思わなかったよ」
何がすごいって、自分はあの量をやりきったのだ。元々運動なんて体育以外でやったことなどない。もちろん体力測定は一位だったが、まさかここまで規格外だとは思わなかった。ひょっとして自分は才能があるのかもしれない――とこの時もまた雪子は思った。思ってしまったのだ。
「じゃあ明日はもっと強度を上げてみよう! ベンチプレスとか追加しようかな」
「ボ、ボディビルダーにでもなれってわけ!? ふざけんじゃなわよ! あぅ!」
立ち上がり抗議しようとしたが、完全に体がガタガタで言うことを聞かない。冗談ではない。自分はオリンピック選手を目指しているわけじゃないのだ。魔術、さっさと魔術を教えてほしい。こんな訓練がいつまでも続くようじゃ自分は本当にガチムチのムッキムキになってしまう。そんな自分を想像して吐きそうになった。
「冗談だよ。だけどこれは毎日続けてもらうよ。雪子さんは頭で考えるより、行動ってタイプだからね」
「いえ、思いっきり頭脳タイプです。ガリ勉です」
ダサい学園指定のジャージは汗でびっしょり。髪は汗が張り付いて気持ち悪い。こんな姿、他の学生に見られたら生きていけない。だけど残念ながら外から結界というものを張っているらしく周りからは何も見えない聞こえない。逆に悲鳴をあげても届かない。監獄の出来上がりだ。そう思うとより一層恐怖の中に叩き込まれ気分になる。
「桜子様、刀とは刃で切るのではありません。心で切るのです」
「心?」
「そうです。守りたい者、そして本当に倒したい相手を思い浮かべれば、刀は必ずあなたに答えてくれるでしょう」
「おにー様を思い浮かべればいいのね! 簡単だわ!」
「慢心はいけません。刀は心。明鏡止水、常に冷静に」
何だか知らないが、隣でも修行が行われていた。無邪気に模擬刀を振りかざす少女は桜子、先生の妹だ。何でも、兄を守るために頑張る、と張り切っていたらしい。腕立て伏せをしながら、横で延々と自慢をされたから嫌でも思い出す。とんだシスコンだ。凄い先生であることに変わりはないが、色々残念過ぎて相殺。むしろ呆れるくらい。
これからどうなるのだろう。行き先の見えない修行の日々と、早くも襲いかかる後悔の念を振り払いながら、今日も今日とて、日常に埋没する雪子だった。
そんなことを考えていれば、あっと言う間にお昼休み。憂鬱はどんどん膨らむばかり。だが、お腹はなぜか絶好調。別に大食らいなわけではない。並だ並……のちょっと多いくらい。女の子だってお腹は空くのだ。大体女の用のお弁当箱というのは何故あんなに小さいのか。差別だ差別。だが雪子のお弁当箱は雪ノ宮家のシェフが用意してくれた専用の物。あくまでも女の子らしいサイズだと主張したい雪子だが、これはどう見ても男子に負けずとも劣らない。
「こんな大きなお弁当箱……絶対他の人の前で食べられない!」
ごめんあそばせ! とでも言い捨てるかのように教室を颯爽と出ていく雪子。お昼休みも楽ではない。だったら量を減らせばいいのだが、お腹が空くので却下。しかも放課後はガチムチトレーニングが待っているのだ! こんなことを続けていれば本当に筋肉がついて取り返しのつかないことになるかもしれない。おぞましい!
「左霧先生……ちょっとお話したいことが」
「あ、はい。いいですよ」
「では、そこの空き教室に……」
一人ポツンと空き教室で優雅な食事をしている折、何やら知人の声が聞こえた。しかもその声はだんだん迫ってくる。あろうことか、自分がいる教室まで近づいてきた。
「ぶっ……ま、まずい。もぐもぐ……」
ありえない。こんな一人で寂しくぼっちで食事をしている可哀想な女、なんてレッテルを貼られるわけにはいかない。残念な美少女(本人談)である雪子はすぐさま弁当箱を包み込み、掃除用のロッカーへとダイブした。
あえて言おう。雪子がお嬢様なのは見た目だけである。
「あれ、今、誰かの声が聞こえたような……」
「誰もいませんよ? 嫌だなぁ左霧先生」
「う~ん、そうみたいですね」
(! 師匠……左霧先生と生物の東野先生? こんなところで何を?)
左霧は言わずもがな、生物の東野といえば、マリアン学園イケメン教師のNo.1に輝いている。実家は某大手電機メーカー社長、愛車はラン○ルギーニ、腕にきらめくロ○ックス。明らかな勝ち組だ。
しかも本人はそんなことを鼻にかけることなく、生徒たちの育成に真摯に打ち込み、いつも静かに笑っている。いつも生物科にあるヘビやらトカゲやらと戯れている。そういう風に私も――なりたくない。ちょっと変わった先生なのだ。
(っていうか近い! 二人共近い!)
誰もいない空き教室。教壇の前で教師ふたりは密談に耽る。東野は薄茶色の髪をかきあげ、左霧の耳元に囁くように何を喋っている。誰がどう見てもいけない場面。禁断の果実。ダメ、ゼッタイ!
(やっ、やばい鼻血出そうっ、じゃなかった。どうしようどうしよう!)
左霧の顔はほんのり赤みを帯びていた。何照れてんの? 勘弁して欲しい。これじゃあ本当にホ……な感じではないか。
いや、そもそもあの人は男なのだろうか? 自然と疑惑の念に苛まれた。世の中、いろいろな人がいる。体が女だとしても自分は男だと確固として信念を貫く『性同一性障害』その逆も然り。だから今まで左霧という者の正体を問わずにいたが、ここに来て急に気になってしまった。
「天……結界……何者……」
「あなた……のですか?」
「我々…………です。近々……かもしれません」
「分かりました。……僕も協力します」
(聞き取れない……! というより近い近い!)
どんなに真剣は話をしていても、いけない場面であることに変わりはない。特に左霧が名簿を両手で握り締めながら、必死で囁きに耐えている姿が、はい、腐ってます。
とはいえ、何やら怪しげな会話であることに変わりはない。このまま出て聞きただしてしまおうか、とも考えた。自分の持つ絶対権力なら教師さえ従えてしまえる。東野の所詮雪ノ宮財閥に身を投じた者だ。左霧なんてもってのほか。
「あああああああああああああああななななたたたち 何やってんの!」
そこへ、我がクラスの主任である。砂上百合がやってきた。いや、最初から覗いていた。鼻血を出しながら。
「これは、砂上先生」
「東野君! まさかあなたがそんな人だとは! 新任教師にいけない遊びを教えて……何をしようっての!?」
「ええ!? 誤解ですよ! 僕は両生類にしか興味がありませんから」
どっちにしたって変態だ。砂上が出てきたことによって登場するタイミングを外した雪子。正直さっさロッカーから出たい。埃が湿ったあの独特の匂いがキツくなってきたのだ。
「霧島先生もなんとか言ってくださいよ!」
「ボー……はっ! 僕はそういう関係を求めてませんからぁ!」
「ダメよ! ダメったらダメよ! あなたたち教師の自覚が足らないわ!」
結論的に左霧が悪いと雪子は思う。そんなゆでダコのような真っ赤な顔で誤解されるようなことを言うから。ほら、東野先生なんて涙目だ。とりあえず砂上は鼻血を拭いたほうがいい。気持ちはわかるが、どう考えても教師にふさわしくないのは砂上がダントツ一位。
三人は誤解を解き合いながら教室から出て行った。ようやく密室から開放された雪子。どっと疲れが押し寄せてきた。それと同時にどうしてコソコソしなくてはいけないのか疑問に思った。
「とりあえず……砂上先生は問題ありね」
自分のかなりキていたにも関わらず、その感情も全て担任に押し付けてしまう雪子だった。
「ぜぇ、ぜぇ……お、終わったわよ」
どうして自分はここまで体が動くのだろうか? 憎くてしょうがない。いや、動けることはいいことなのだ。しかしどれだけ動いても限界を感じられない。どんどんその先へ、その先へ、とついつい無理をしてしまうのだ。その結果、地面に這いつくばりながら、今日も元気に倒れ伏す。雪子は頑張り屋だ。
「…………」
「ちょっと先生? 聞いてるの? 左霧!」
「ひゃぁ!」
縁側でボーッとしている師匠に大声で呼びかける。頬はどこか熱っぽく赤みを帯びていて、はっきり言って気持ち悪かった。
「ま、まさか東野先生のこと……」
「ととととととうの先生がどうかしたの!?」
……いや、もうなんかどうでもいい。好きにやってくれと、雪子は放置を決め込んだ。結局こういうことは本人たちの次第なのだ。例え師匠がホモ、サピエンスであれBL、系であれ私はついていく。そして魔術を習ってさっさと縁を切りたい。だって気持ち悪いから。
「それより、終わったんだけど」
「あ、うん。やっぱり身体能力はかなり高いね」
「ふふん。どんなもんよ。いい加減セイレイの一匹くらい召喚できてもいいんじゃないかしら?」
高飛車な態度で雪子は左霧へと詰め寄った。一刻も早く魔術を習いたい。雪子の頭にはそれしかない。こんなのは陸上部の領分ではないか。自分は泥臭い青春を送りたいわけではない。
「――これまでの約一ヶ月間、雪子さんを見てきたけど」
「ええ」
「はっきり言って才能はない。魔術師って言うのは才能が八割方で努力が後の二割だと一般的によく言われるんだ」
「……っ」
左霧は雪子の目を見つめながら言葉を放った。こんな風にはっきりと絶望的な言葉を口に出されたのは初めてだ。生まれて初めて。だけどこれが現実。どんなに逃避してもそれが結論。自分の身体能力が人より高くても、頭が良くても、関係ない。
――魔術師にとって、自分は当たり前の基準すら備わっていないのだ。
「そこで、もう一度はっきりと言っておくよ――」
「――私、諦めません。絶対に」
「雪子さん……」
「正直、私が何故魔術師になりたいかなんて理由、くだらなすぎて笑ってしまうかもしれにない。ただ、私はこのまま日常に埋没してしまうのが嫌。知らないことを知らないままにしてしまうのが嫌。――責任を押し付けたままでいるのが嫌なんです」
「雪子さん、何度も言うけど」
「黙ってください先生」
うっと雪子の細く尖った目が突き刺さる。師匠として今日は少しキツく言おうかと偉そうなことを考えていたのだが、意志は固いようだ。左霧は弟子の真剣な思いに胸を打たれた。言葉ではない。その体全体で感じる強い心に、だ。
「私は、魔術師になる。これは決定事項です。ついでに魔王にもなります。だって世界征服、したいですから」
「ちょっとちょっと!」
「冗談です。とりあえず先生の契約だけは解いてみせます。その為には、魔術を習うのが、手っ取り早い気がするんです。っていうかそれでしか解決しない気がする」
蠱惑的に雪子は笑った。なぜだろう、彼女なら全てを手に入れてしまうような気がした。才能もゼロ、見習いもいいところ。だが、左霧には、彼女が王座に座り、傲慢不遜に民を見下している姿が容易に想像できた。
「何ですかジット見つめて?」
「ううん……なかなか、似合っていると思って」
「? まあいいです。それよりも、どうして私を弟子にしたんですか?」
それは確かに雪子にとって気になることである。どうやら霧島家というのは由緒正しい家柄らしく、左霧という男はその御曹司らしい。そんな男が雪ノ宮の土地に足を踏み入れ、こうしてその娘に教鞭を振るっている。傍から見ればおかしな話だ。本来、敵対関係にあるはず、だと母から聞いた。
「それは……」
「それは?」
左霧の視線は、向こうで今日も模擬刀を振るっている幼い少女の方を見ていた。隣でハラハラしながら様子を見ている女中がかなり邪魔だが。身長と模擬刀のサイズが合わなくて不格好だ。だが、その姿は真剣そのもので、自分の訓練がなかったら応援したくもなる。
「あのね、雪子さん」
「はい? 何ですか?」
「あの、もし、もしね」
まただ。またこれだ。ゴニョゴニョとはっきりとしない態度。これが何より尺に触るのだ。雪子はイライラしながらその言葉の後を耐えながら聞こうとした。こういう仕草をするから東野先生とアッー! な展開を想像してしまうのだ。私は何も悪くない。雪子は必死で誰かに言い訳した。
「おにー様―!! 桜子の方も見てくださいっ!」
「ちゃんと見ているよ桜子。辛くないかい?」
「ちーっとも辛くないわ! だって桜子はおにー様を守るんだもの! こんなことくらいでヘコたれたりしないわ!」
額にうっすら汗をかきながら、桜子は兄の元へ寄ってきた。雪子との間に素早く潜り込み、まるで遮断するように。若干思うところはあったが、たかが小学生のやること。それも悪意がないのならば、仕方がない。雪子は微笑みながら我慢した。
「おにー様ったら下女の方ばかり見て……そんな女よりもわたくしの方が魅力的よね?」
「うふふふふふふふふふふふふふ、はぁ?」
悪意がないなら。許してあげようと思った時が雪子にもあった。だが、自分は思いの他堪忍袋の緒が短いらしい。今日初めて知った大発見だ。ついでに下女などと吐き捨てされたのも初めてだ。クソガキ、許さない。
「いいですよぅ! その調子です桜子様ぁ!」
こいつのせいか。さっきまでオロオロしながら桜子に剣術を教えていた華恋が大声ではしゃいでいた。どうやら雪子は霧島家から歓迎されていないらしい。
「こ、こら桜子! 雪子さんに失礼でしょ!」
「ううう……おにー様はわたくしとこの下女、どっちが大事なの!?」
「誰が下女よ! クソガキ!」
桜子は間違いなく悪女になる。そう思えるほど、妹の本物としか思えない涙と潤んだ瞳。一体どこでこんな技を覚えたのか――
「いいですよ桜子様ぉ! 作戦通りです」
どう考えても女中が教えたのだ。そろそろ家族会議をしようかな、と考え込む左霧。
一方、先程から酷い扱いを受ける雪子。何が気に入らないかって、自分の幼い頃とどうしても被るのだ。おそらく相当甘やかされて育ったのだろう。自分もそうだったから。自覚はある、だがそれを変える気はなかった。だって気持ちがいいから。
だからといって自分が雑な扱いを受けることを許容しない。雑に扱っていいのは母と――今のところ師匠だけなのだ。
「桜子? 一応君にとってはお客様なんだから、君が失礼な扱いをしたら、霧島家の恥になるんだよ?」
「…………む~」
さすがは先生だ、と雪子は感心した。いくらシスコンの疑いがあるとしても締めるところはしっかりしている。ここで妹の味方をしたらおそらく雪子は永遠に左霧をシスコン呼ばわりしているはずだった。今は『シスコンの疑い』があるだけだ。――残念ながら左霧は完全な『シスコン』なのだが!
左霧に怒られ、どうやら今度は演技もなく瞳を潤ませている桜子。かなりの泣き虫だ。自分が正しいと疑わない自身。わがまま甘え放題。本当にそっくりだ。自嘲気味に笑みを浮かべ雪子はため息をつく。
「……いいわよ別に。私が毎日先生たちの時間を邪魔しているのは変わりないんだから」
「雪子さん……」
「む~!! おにー様ったらまたあの人の方を見てぇ!」
「それよりも先生、明日は休日ですけど」
「そっか……もう一週間経ったんだ。何だか早いねぇ」
「明日も来ていいですか?」
「もちろんだよ! 僕もそのつもりだからね」
ニコニコと嬉しそうに意気込む左霧。どうやら弟子がやる気になってくれて嬉しいらしい。やると決めたら徹底的にやる。なにせ自分は何倍も努力が必要らしいのだ。大事な休日を生贄に捧げることに抵抗などない。どうせダラダラと過ごすくらいなら打ち込むことに集中したい。
「……おにー様……」
「? 桜子、どうしたの? そろそろ華恋が待ちくたびれているよ?」
桜子はダラリと片手に持った模擬刀を下げ、俯いた。綺麗な黒髪が前かかり表情が読み取れない。白い肌は上気しているのかいつもより幾分か赤くなっているのがわかる。長年の経験から、左霧には危険信号を発しているのがわかった。
「桜子……?」
「――――――――――バカッ!!!! アホッ!!!! ウンコマンーーーー!!!!」
大声で兄の罵倒を発し、ボロボロと涙を零す桜子。しかしその顔に悲愴というよりも怒りと悔しさが滲みでている。ギリギリと歯を食いしばり、鼻水もちょっとだけ……ちょっとだけ汚い。だけど可愛いから許せるのが世界の不思議。
「あっ! 桜子! 待って! どうしたの!?」
「……ウンコマンって流行ってるのかしら?」
左霧と雪子はそれぞれ異なった反応を見せる。左霧は大慌て。妹に嫌われてしまったという史上最大の悲劇に見舞われ、必死で問いただす
雪子は正直どうでもいい。騒がしい子だな、とか、汚いわね、とかその程度の反応だ。だって、まるで自分の幻影を見ているようで現実逃避したいんだもの。
「さ、桜子様!? 桜子様がご乱心なされた!?」
さっきから微妙な距離を保ちつつ桜子を応援していた華恋もオロオロするばかり。耐久性のなさすぎる家庭。
雪子は呆れ返ってしまった。全く、娘一人に情けない。私がガツンと言ってやろうかと意気込んだが、しかし家庭のことに首を突っ込むのもいかがなものか、と足踏みしてしまった。
それがいけなかった。
容赦などしなければよかったのだ。
桜子はボロボロと流す涙も拭わずに睨みつけたのは――雪子。
その目には敵意が爛々と映し出された。
人の獲物を横取りするな。
そんな思いを彷彿とさせる。
見た目だけで判断するならば、端正な顔立ちの日本人形のような可愛らしい少女。
だが、雪子は騙されない。
――こいつは、
「――――あばずれ女っ!! スカタン!! オタンチン!! あんたなんで来たんじゃ! 明日はおにー様と遊び約束だったのに! アホー!!!!」
「――あ!」
そういえばそんな約束をしたような気がする。左霧は慌てて妹との会話を思い出した。
途端に罪悪感に苛まれる。
しかし、左霧とて子供ではない。優先事項くらいは決めてあるつもりだ。
それで、兄と妹の違い。
子供と大人の、大人の勝手な都合なのだ。
「――桜子。悪いけど、明日は用事があるんだ。遊園地は別の日に――」
「いやっ! どうしてこの女の言うことばかり聞くの!?」
「桜子っ! いい加減にしなさい! さっきから失礼だよ!? 雪子さん謝って!」
「いやっ! もういやっ! おにー様の嘘つき! 大ッ嫌い! あんたも嫌い! 華恋も嫌い!」
「……っ」
「……あっそ」
「私も!? 私もですか!?」
遂に桜子は崩壊した。
だがその姿を見せまいと、勢いよく家に飛び込み、自室へと篭ってしまった。
左霧は胸の痛みに耐え、雪子は鋭い睨みを効かせ、華恋はとばっちりを喰らう。
あとに残ったのは嵐が去ったような静けさだけ。
それでも、一つだけ分かることがある。
「ごめんね、雪子さん。本当はとても優しくて子なんだ」
左霧は雪子の顔を見ずに謝った。桜子が閉じこもってしまった部屋の先をジッと見つめたまま動かない。
その表情には哀愁のようなそして耐え忍ぶような複雑な感情が渦巻いているように雪子には思えた。
「――別にいいですよ。私、お上品な子よりもそういう子の方が好みですから」
「――ありがとう」
形だけの笑みを称え、左霧はお礼を口にした。
雪子にとっては他の家族の争いを見る、という貴重な体験だった。
それと同時に自分が介入したことで、この家庭に僅かな動きを与えてしまったのではないかと危惧した。
「雪子さんにはね。桜子のお姉さんになって欲しいんだ」
「――はい?」
唐突にそんなことを口にした左霧。
相変わらずこの先生は意味が分からない。
勘弁してほしい。
心の底から雪子はそう願った。
「僕は、あの子の味方になることは出来ないから」
永遠にね。
爽やかな風。左霧の髪は舞い上がりヒラヒラと太陽の光を浴びて煌く。
美しい。
雪子はそんな言葉を思い浮かべた。
儚げな、虚ろな、今にも消えてしまいそうな存在。
左霧。霧島左霧。
私の先生、師匠、魔術師。
なぜ、あなたはそんな風に笑うの?
まるで、
まるで、
女が泣いているみたいに、
笑わないでちょうだい。