喫茶ーmid nightー 作:江月
喫茶─mid night─
ここ最近店主が離れた高校に行ってしまい、休業していた隠れた名店。
本日、久方ぶりに店内に明かりが灯っていた。
入店して出迎えるのは、店内に染み付いたコーヒーの香りと、ほんのり聞こえる蓄音器からの飛び飛びのクラシック。
カウンターの内では休業前と同じく揺れる安楽椅子に腰掛け、膝掛けを掛け、本を読みながらコーヒーを啜る物臭店主の姿があった。
いつもの姿、いつもの光景。しかし、いつもと違うものがあった。
コーヒーカップの傍らに置かれたノートとペンだ。そして読んでいる本も漢方やスパイスに関するものばかり。
更に、厨房からは何やら独特な薫りも漂ってきていた。嗅ぐものが料理人なら直ぐにわかる香り。
カレーの香り、それも薬膳カレーの香りだ。
本日の喫茶─mid night─にはいつもの『本日の一杯』の他に『気紛れの一品』が加えられていた。
というのも、遠月に通うようになってから足りない何かを探すために、ちょくちょく、コーヒー以外にも手を出し始めており、今回の試みもその一部。
悪く言えば、常連に毒味…………いや、味見させようということだ。そう、薊とかなら食べさせていいだろう、とか考えていない。
そろそろ、かき混ぜるか、と昼也がぼんやりと考えていると、入り口に申し訳程度につけられた鐘が鳴った。
入ってきたのは黒ずくめの男。病的に白いはだと、死んだ目が印象的な酷薄な雰囲気の彼はツカツカと店内を進み、昼也の斜め前のカウンター席へと腰を下ろした。
そして、空気が抜けた風船のようにカウンターへと突っ伏する。
「……………………生憎と葬儀サービスはやってねぇぞ」
「…………毎度思うけど、君は僕に辛辣すぎないかな?客だよ?」
「客なら何か注文しろよ。さもなくば去ね」
「そこまで嫌いなのかい!?」
「好きか、嫌いかなら……………………」
「…………娘には嫌われるし、息子のような子にはなじられるし、厄日だ」
突っ伏した薊は深々とため息をついてカウンターにのの字を書いている。キャラどうした、おっさん。
昼也は薊の前にソーサーとその上にコーヒーを満たしたカップを置いてキッチンへと向かう。
遠月で得た設備に比べればネコの額程の厨房だが、設備は十分。そしてコンロの一つにラーメン屋にありそうな寸胴鍋が設置されており、蓋の隙間から漏れ出す湯気と一緒に芳しい香りが漂っていた。
鍋に近付き、ふたを開ければ、モワッと湯気が立ち上ぼり、先程とは比べ物にならない香りが厨房に満ち、溢れた分が店内へと流れ出す。
当然、コーヒーを啜っていた薊の元にもその香りは届いていた。
程なくして、昼也は麦飯と薬膳カレーが半々に乗った皿を“一枚”持って戻ってきた。そのまま、安楽椅子に腰掛けると持ってきたスプーンでそれを食べ始める。
「ちゅ、昼也くん?」
「……………………」
「あの、僕のぶんは……………………ろ、露骨に嫌そうな顔をしないでくれよ!?」
「おっさん、金」
「ま、前払いなのか。因みに幾ら……………………」
「…………1500」
「ぼったくりじゃないか!?」
がたりと立ち上がった薊だったがその目はカレーへと注がれている。美食至上主義の彼だが、その彼の目から見てもこの皿はかなりの完成度に見えたのだ。味わいたいと思うのは人の性。
暫くのにらみ合いの末、薊は懐から財布を取り出して1500円をカウンターの上へと置いた。
「こ、これでいいんだね?」
「……………………ん」
返事としてスプーンで厨房を指す。
「ま、まさか自分で注げ、と?」
「…………ん」
「僕客だよ?え、マジ?」
「キャラ壊れてるぞおっさん。それが嫌なら金回収して帰れ」
「ぐ、普通料理人なら他人に厨房に入られる事を嫌うんじゃないのかい?」
「生憎と俺はバリスタだ。料理人の教示なんぞ知らん」
「ぐぬぬぬ……………………」
この店ではいつもは見られない薙切薊を見ることができる。しかもどこぞのコメディアンのような反応を見せてくれるのだ。
薊はやがてため息をつくと、足拭きマットで靴の汚れを拭い、上着その他を脱いでシャツ姿になると、厨房をへと向かった。
小綺麗な厨房だ。むしろ、汚い厨房など足を踏み入れたくもないが、とにかく綺麗に掃除され、食器やその他調理器具も決まった位置へと直されている。
いい香りのする寸胴鍋とそのとなりでうっすら湯気をあげるお釜へと薊は近付きふたを開けた。
彼も遠月の卒業生だ。その香りのなかに数十のスパイスや漢方が混ぜ込まれている事を嗅ぎとった。
隣のお釜にはつやつやに炊きあげられた麦飯。
本来面倒臭がりの昼也ならば炊飯器に頼るところなのだが、今回は手間のかかるカレーを作っていた為に、ついでにお釜を引っ張り出してきた次第だ。
実はこの店舗兼自宅であるこの建物には多数の掘り出し物があったりする。
前に一度、夜帳の家は金持ちから没落したと書いたが、その際にご先祖は借金があるくせに幾つかの家宝を手放さずに残していた。このお釜もその一つで、かなりの年代物だ。
普通はコンロ対応では無いのだが、そこは特に気にしない。穴が開けば捨てるだけ。
だいたい、このお釜、家宝などと書いたが、丈夫なだけの二束三文の品なのだ。
他にも全く切れない刀や雨に濡れたのか、墨が流れてしまっている墨画、端の欠けた皿やら。
本当に家宝かよ、と言われそうなものが多数あった。
捨てられないのは先祖の血のせいか、それとも単に面倒だからか。まあ、昼也がその事を知り合いに問えば九分九厘後者だと断定されるのは明らかなのだが。
とにかく力作?を皿によそって薊は厨房から席へと戻り、スプーンで切り込んだ。
麦飯と薬膳カレーの丁度境目を掬い取り、少し冷まして頬張る。
「これは…………!」
バランスという不確かな足場の上に立つ旨味という柱。具材の大半が見えないと思っていたが、このカレー、水を加えずに野菜の水分で作られているらしい。
結果的に具材の大半が溶けてしまって殆んど原型を留めていないが、カレーの旨味や深みを増しており、なんというか飲み込むのが惜しくなってしまう、そんな一口。
いや、まだあるから良いだろうと言われそうだが、飲み込み次の一口を含むまでの間が辛いのだ。
そんな薊の内心など毛ほども興味はない昼也は既に完食しており、ノートにスパイスの配合や漢方の組み合わせを書き連ねていた。
弊害と言ってもいいのか、昼也の普通はレベルが高すぎる。
この薬膳カレーも薊が“餌”と評さない時点で相当のものであり、そこらのカレー屋に持っていけば、店主のメンタルをへし折りかねない一品。
それを無表情で何の感慨もなく食せるのだ。そして彼は自称バリスタ。相手が料理人ならば自分と同格、若しくは上の味を求めてしまう。
つまり、お前ら料理人だろ?何で俺より不味いんだ?ということ。へし折る所か粉砕しに来ている。しかも当の本人は無自覚。質が悪い。
「……………………」
食べ終えた皿を見下ろし、そして薊は昼也を見る。
惜しい。本気で料理に打ち込むならば、今後の計画に加わってほしいほどの逸材。
しかし、だ。真面目に、それこそ土下座して頼もうが、有り金全部を積み上げようが、にべもなく断られ、コーヒー顔面に叩きつけられ、店を出禁にされ、キャラをかなぐり捨てて泣き叫ぶ自分が見えるのは何故だろうか。
長年の付き合いからの経験則による未来予想なのだが、さすがに泣きたくなる。自分って結構高い地位持ってる筈なのに、一喫茶店の物臭店主に頭が上がらないというのは情けない、というか空しいというか、うん。
「……………………何だよ」
「…………いや、僕って人望無いなぁ、と」
「ああ、おっさん、性格悪いもんな」
「…………君に言われたくないよ」
「言われたくないってことは自覚ありだろ」
昼也のカウンターに薊は沈められた。舌戦で勝てた試しが無いくせに挑むからこうなる。
因みに昼也も自分の性格は悪いことを自覚している。その上で直す気は無い。
通算76回目の敗北を薊は刻むこととなるのだった。