う~ん。
どっかにぶつけたんだろうか?
少し思い出してみるが、死ぬほど殴られた記憶はあるのでその時に着いたのかもしれない。
まぁ、なんでもいいか。
一つ頷き、ばあさんを見送ってから居間を横切って椅子に腰かけた。
キィと軽い音を立てるこの椅子。
夫婦が私のために用意した椅子だ。
私の背丈ではテーブルに届かないので、クッションでちょうどいい高さに調整してある。
以前、テーブルから顔を覗かせていた私を見かねてから用意してくれたもので、いつ来てもいいようにとずっとこの椅子に置いてある。
私なんかに気を遣いすぎなんだ。…老夫婦の優しさだった。
受け取った杖をテーブルに立て掛けて、ほっと一息を吐いた。
ようやく少し恩返しが出来た。
1年ほど前に助けてもらってから、何のお礼も出来ていなかった。
それが少し解消できて、僅かに軽くなった心持でぐるりと居間を見渡す。
アンティーク調の古い振り子時計は相変わらず音を立てながら秒針を動かしている。
ばあさんの、そのまたばあさんの時代から使っている時計だそうで随分な年代物だと聞いた。
私の倍お婆ちゃんよ。と老婆が笑いながら教えてくれた。
他にも木造りの食器棚や大人二人で囲んでちょうどいい大きさの、私がいま手を置いているテーブル。
3つしかない似た作りの椅子。
意匠の入ったふかふかの絨毯など温かな家具たちがそこにいる。
しばらく部屋を眺めていると、気配を感じて、ドアが開いた。
そこには居間の雰囲気そっくりの温和な笑みを浮かべた爺さんがいた。
「いらっしゃい、アンリ。待たせたかな?」
「爺さん、久しぶり。まだそんなに待ってないよ」
「そうか?はっはっは」
いつも笑ってる陽気な爺さんだ。
婆さんよりも足腰は強いようでしっかりした足取りで正面の椅子に腰かけた。
ニコニコしながら目を細めている。
相変わらずいつも笑ってる爺さんだ。
釣られて苦笑するとぽんぽんと頭を撫でられた。
「よく来たね。婆さんも喜んでたよ、アンリが杖をくれたってわしに自慢しとった」
爺さんは快活に笑った。この人はいつも明るい。
初めて会った時も、何の気負いもなくカラカラと機嫌良く笑って店で焼いたパンの自慢話を延々と聞かされたもんだ。
やれ、生地のコネ方に工夫が、やれ焼き時間に工夫が、やれ素材を厳選してだの。
たぶん私は困ったような顔をしてたと思うんだが、怪我が治るまで延々と聞かされた。
特に私が気に入ったチョココロネに関しては熱弁が止まらず、直々に目の前で生地を作ろうか、と言い始めた時には慌てて婆さんが止めていたっけ。
あれから1年ほど経つが相変わらずだ。ずーっと楽しそうに笑ってる。
「こないだはわしにも麺棒をくれたし、ほんとに良い子だ。そうそう、あれからパン作りする度にアンリのことを思い出してね、来るのをいまかいまかと待ってたんだ。今日もチョココロネがあるから、良かったら食べて行きなさい」
テーブルの上に置いてあったお皿に、爺さんがお店の袋からチョココロネを1つ取りだした。
黄金色の生地に、中にはたっぷりとチョコレートクリームが入っている。
ツイスト状に捻られた生地は綺麗に螺旋を描いて中からクリームを覗かせていた。
旨そうなパンだ。色々食わせてもらったが、これが一番旨い。
味を想像してジュっと甘みが口の中で広がった。思わず口元が緩む。
「ん、ありがと。食べてくよ」
「それがいい。帰りにも持たせてあげよう」
カラカラと笑いながらテーブルにチョココロネの入った袋を乗せた。
5つは入っているだろう膨らみ方をしている。
採算は度外視しているらしい。
ありがたい。ありがたいが、なんとも言えないくすぐったさに苦笑いしてしまう。
「そんなに大丈夫なのか?爺さん、いつも金受け取らないじゃん」
「ははは、子どもが気にすることじゃないよ。わしが好きでやっとるんだ、受け取っとくれ」
ずい、と寄せられたチョココロネ入りの袋。
嬉しいような困ったような。
そんな不思議な気持ちになる。
この家に来るたびなんか変な感じだ。
コクリと首を縦に振った。
爺さんも頷く。
示し合わせたように一緒に笑った。
それを合図に他愛のない話が始まり、時間は少しずつ過ぎて行った。
「ところでなんだけど、婆さん大丈夫?」
そう切り出したところで爺さんの表情が少し変わった。
あまり良くない表情だった。
目元に少し皺が寄って、あれほど快活と回っていた口数がピタリと止まった。
やはり良くないらしい。
婆さんの様子は見ていたが、立ちあがるだけで態勢を崩すなんて相当足腰が弱っている証拠だ。
言葉を選ぶようにしばらく黙りこみ、ようやく視線を上げた爺さんと視線が合う。爺さんは黙って頷いた。
どこか覚悟を決めたような瞳。
真っ直ぐに視線が合う。
「そうだね、アンリには隠せないか。ビックリしないで聞いてほしい」
一呼吸おいて、重い息を吐き出すようだった。
「…お医者様に見せたんだが、原因不明の衰弱と診断されたよ」
「…衰弱?病気じゃないのか?」
「どうかな、病名がわからないだけかもしれないが、先生はお手上げとおっしゃっていたよ」
そう言って、爺さんは悲しそうに首を振る。
爺さんの顔を見たらわかる。
本当に手の打ちようがないのだ。治せるなら何も言わずに治してるだろう。
「…そう、なんだ」
「前まであんなに元気だったのになあ」
思い出すように宙を見つめて、爺さんは微笑む。
歳は取りたくないもんだ。そう呟いて椅子から立ち上がった。
「さぁ、湿っぽい話は終わりにしよう。少しの間なら大丈夫だから、婆さんと話してやっておくれ」
「いいのか?」
「なーに、婆さんもアンリと話せば元気になるさ。ゆっくりしといで」
カラカラと笑いながら爺さんが店に戻っていく。
その後姿には、どことなく疲れの色が映っている気がした。
一人になって、婆さんがいつも座っている椅子を見つめる。
作りはお爺さんと変わらないが、敷いてあるクッションが色違いで花の刺繍がしてある。
知り合いの裁縫士に刺繍してもらったと以前嬉しげに話していた。
出会って1年と少し。
短いようで長かったが良い人たちだった。
爺さんはああ言っていたが、これ以上関われば身体に毒だろう。
汚い身なりで近づいて病気が悪化したら元も子もない。
きっとそうだ。
きっと。
今日は、帰ろうか。
「お礼もできたしな…、これ以上はやめとくか」
そんなことを言って、自分に驚いた。
気遣いや遠慮なんて言葉が自分にあるとは思わなかった。
杖にしたってそうだ。別に盗んだって構わないのにわざわざ金を貯めてまで買った。
盗みや犯罪になんの良心の呵責も感じない自分があの老夫婦には少し感じている。
病気だって、悪化するかもしれない。というだけなのに。
そう考えると少しおかしかった。
今まで平気で悪行をしてきた自分がそんなことを考える。
そんなものはまさしく偽善だ。
とっくに手遅れだ。両手は薄汚れている。
例え人を殺しても何の痛痒すら感じないであろうほど心も汚れている。
なのに。そんな私に良くしてくれた。
本当に、子供のように扱ってくれた。
話を聞き、食事をし、他愛ない話で笑いあう。
自分なんかには勿体無いほど良い人たちだった。
そこではっと気がついた。
居心地のいい雰囲気。
優しい祖父母に囲まれて暮らす生活。
そんな幻想を見ることができる場所がここだったのだ。
唯一安心できる、素に帰れる場所。
だから、これは夢なのだ。
そう。夢のような、現実。
気がついて。
見るものが驚くような、優しくて、楽しくて仕方がないような笑顔だった。
いい時間だった。
本当に夢のような、奇跡のような時間。
優しさを始めて知った気がする。
大切な、大切な思い出。
だから、今日だけは。
―――わがままを言わせて。
「アンリ、お待たせ」
「お婆ちゃん!ぜんっぜん待ってないよ」
偽善でも構わない。
まやかしの様な一時だけの感情でも構わない。
だって、生まれたこの感情に偽りはないから。
今日だけは殉じよう。この優しさという気持ちに全てを委ねよう。
後悔が残らないように。
明日から醒める夢のために。
「いっぱい、お話しようね」
花の咲くような、満面の笑みを浮かべて、アンリは老婆の手を優しく引いた。
だから、これは最後のお礼。
もらった優しさを出来るだけこの人に見せること。返すこと。
それがアンリの出来る、精一杯の誠意だ。
それがアンリにとって、今できる唯一のことだった。
驚いた顔の老婆は、それでも何も聞かず、ただただ、優しく微笑んだ。
「ええ、いっぱいお話しましょうね」
はい。
前作から読んでくださっている方も、今作から読んでくださっている方も。
修正作にここまでお付き合いくださりありがとうございました。
明日の朝9時に『禍根』を投稿します。
これからぐいぐい話進めていくよ!
今書いているものを明後日には書き終える予定ですので
次の次の投稿は27日の20時になります。
28日と29日も投稿できたらいいなぁ…
これからも『Black Barrel』をよろしくお願いします。