日が暮れている。
斜陽すら既になく、カラスも鳴いていない。
真っ暗な帳が周囲を包んでいる中だった。時刻で言えば10時を少し回った所だ。
目を凝らしながら、シーハウスは目の前のアパートを見上げる。
貧民街にある建物だ。
地下から出ると連れて来られるままに雑多なスラム街を通り抜け、汚物と座り込んだヒトの姿の目立つ入り組んだ路地裏を歩き、臭いの酷さに辟易としながら辿り着いたのがこのアパートだ。
築50年は経っているだろう。
綺麗だったはずの壁面は黒ずみ、経年劣化のせいか至る所に亀裂が走っている。
特にひどいのが金属部分だ。雨水に晒されて腐食が進んでおり、茶色く変色して今にも崩れ落ちそうなほど老朽化していた。
崩れた箇所も所処あり、オンボロという言葉が良く似合った。
落書きとゴミだらけの階段。そこら中に散らばる酒瓶のカケラ。
そして廃墟特有の、土とも壁とも金属とも言えない何かが腐食したような臭いが頭の奥と耳と鼻から入り込んで、ありもしない頭痛を感じる。想像なのか、それともただ単に身体が拒絶してるのか。シーハウスは思った。ここはヒトの住む場所じゃない。
「…ここに入るのカ?」
「場所は、ここみたいだな」
ジュピールは簡単に答えた。手元のメモ用紙を見つめている。
顔を歪めるシーハウスを気にも留めない。
一瞬メモを奪ってやりたい欲求に狩られたが、ツーンと香った腐臭に顔を萎めた。
「小生、やっぱり帰っていいカ。職業柄汚いとこダメなんダ」
「俺も好きじゃねーよ」
そう言いながらも嫌そうな顔一つせず、ジュピールはらせん状になった金属製の階段に足を向ける。
向かう場所はこの3階建アパートの301号室だ。
階段は老朽化してギシギシと嫌な音を立てるいるが、階段としてはまだ辛うじて使えそうだ。
ジュピールの後ろから声が聞こえる。
「切実に帰りたいヨ」「こんなにクサいなら絶対に来なかったネ」
ウジウジとボヤく、溜め息すら溢しそうなシーハウスに文句の一つでもやろうか、とジュピールが思ったのも無理はない。
「…はぁ、あのなあ、シーハウス。いつも死体触ってんだからこのくらい大したことないだろ?汚いだけじゃんか」
「ほぅ!小生と語り合う気かネ?よかろう。まず、死体は汚くないヨ。時間が経てば細胞が自壊を始めるせいでそんな印象があるけどネ。鮮度を維持しておけば清潔なものサ、匂いもないし汚くもないヨ。そもそも解剖学は医学界に必要不可欠なプロセスなのだから、死体を毛嫌いすること、それがまずオコガマシイ。死とは常に隣にあるというのに、人間という社会はそれを遠ざけている。死とは自然のものだから御すことができない、それこそがこの根本の理由という説もあるガ―――」
「もういい、もういい。悪かった、俺が悪かったよ」
シーハウスの本職は医者である、らしい。
本人曰く『死体とは無縁の、医者というよリ学者だけどネ』とのことだが、ジュピールにも詳しいことはよくわからない。
呼べばくるし、金払いも良い死体回収屋。
それだけわかっていれば十分だった。
深く詮索はしない。それが少しでも長く生きるコツだから。
―――夜中11時頃。
その日、私は珍しく早く帰った。
いつもなら完全に辺りが寝静まってから帰るのだが、不思議と今日はそんな気にならなかった。
真っ暗ではあるが、まだ表ではネオンの街頭が客を引っ切り無しに呼び寄せている時間帯。
私は足早に家に向かっていた。
『絶』を覚えてから戦果は上々だった。
果物、財布、少し値の張る蚤の市の品物。
何でも盗れるようになった。以前はかなり危険だったので迂闊には手を出せなかったが、『念』のおかげで随分やりやすくなった。
今日は『練』の水見式でも試そうか、とワイングラスと葉っぱを持って階段を駆け上がり、ドアを開いて。
茶色いコートを着た、包帯と鎖尽くめの男が立っていた。
すぐさま、その場から逃げ出そうとした私の肩を、背後から誰かが掴んだ。
ゾワリと背筋を駆け抜ける感覚に従って瞬間的に『練』を選ぶ。そして全てを拳へ。移動させては間に合わない。『絶』を使って出口を右手だけに。強制的に噴出させるように右手に集めた。
全力で。拳を振り切る。
「やァ、ご機嫌いかが―――かな」
落とした、ワイングラスが割れる音が響いた。
手応えはあった。
だが、生きてきた中で最高の一撃のはずのソレは、片手で受け止められている。
コイツ、念能力者だ。
「ウ~ン、良い拳だネ。でモ、まだまだ未熟ダ」
ヒヒヒと笑いながら私を見下ろす、包帯の男。
目が合い、睨み付けるが、どこ吹く風とでもいうように飄々とした態度を崩さない。
拳を引いても離せない。クソ、掴まれた。
ならば。
掴まれた肩と腕を起点にして、軽い身体を捻り上げる。
『硬』にした左のハイキックが包帯男の顔面に入る。
ドフッと良い音がする。だが、男はビクともしない。肩も拳も離さず、顔面でモロに蹴りを受け止めているのに、まったくブレない。
「…掴まれた拳と肩の防御を捨てるとハ。中々、思い切りがイイネぇ」
その言葉を聞くより前に、『硬』にした右足での膝蹴りを腹に入れる。
「ンッ」
包帯男の声が漏れた。さすがに腹は多少衝撃が通るらしい。
しかし、それでも健在。
ニィと包帯の下で笑みを浮かべ、私を見下ろす。
「まだ完璧な『硬』じゃないネ、オーラを閉じきれてないヨ。それに『練』もマダマダ。動きも拙イし鍛えてもいなイ。でモ…いやはヤ、この歳なのに良く動くネぇ。イイオーラとイイ目をしてる…顔も好きだネぇ、怪我させないよーに気を遣ったヨ…」
言葉を区切り、狂相を浮かべた。
「ヒヒヒ、あぁ、本当に、イイ
ぞわっと背筋が痺れる、コイツヤバイ奴だ。
もう一度、腹に膝蹴りを叩き込むが、ニヤニヤと嬉しそうに笑うだけだ。
…変態かよ。
腕を肩を掴まれ、宙に浮いたまま短い廊下を通り、リビングまで連れて行かれる。
「ふ~ん、本当に『念』を使えるのか。これは当たりかな?」
もう一人いた。
声を掛けられるまでそのことに気付けなかった。
玄関からも見える、リビング。
その椅子に腰掛ける彼の前に二人の男女が転がっている。…両親だった。
なぜだ。カッと熱くなるものがあった。
「てめェ―――」
「おっと、そこから先は聞き飽きてる。言わなくていい」
笑う包帯男とは違い、スカした顔をした男だった。
黒いスーツとカジュアルな装飾。そしてホスト風の髪型が目に付く、いけ好かない野郎だ。
「端的に話そうか。俺が今日来た理由だけど。キミが掏ったクスリ、あれ
そこで言葉を切って、私を―――というより、私を掴んでる包帯男を見た。
「本当なら殺して、そこの包帯、シーハウスに死体を売り払う予定だったんだけど、そこまで『念』を使えるなら話は別なんだよね。だってそうだろ?殺すより、生かして組に所属させた方が、ウチとしては助かる訳だし、殺すメリットなくね?ってなるじゃん。身代わり立てれば今回の件はなんとかなるし。若気の至りって誰にでもあるよね」
困ったように微笑む男だが、どこか薄ら寒さを感じる。
「そこで。キミには二つ道があります。拒否権はありません。10秒で選んでください、さーはじめるよ」
男は人差し指を立て、数字の1に見立てる。
「一つ、今回の件は忘れて、ウチのモンになる」
続いて中指も立てる。
「二つ、死ぬ」
男は綺麗な笑顔を見せた。
漠然と思ったのは、男が本気であるということ。
…包帯も大概だが、コイツもコイツで頭イッてるな。不自由な二択ですらないじゃん。
「さぁ、どっちがいい?」
当然、私に選べる選択肢は―――
「オイオイ、小生の意見は無視かイ?」
唐突に包帯男が喋った。
『変わり者』さん、誤字報告ありがとうございました!
御礼が遅れてしまってすみません。。
迷いましたが更新しました。
切りが良くないので続きはできるだけ早く上げます。