よろしくお願いします。
鉄の軋む音がする。
何の音か分かってる。
自分が座っている椅子が立てているのだから当然だ。
逃げたい。今すぐにでもここから逃げ出したい。
だというのに、鎖につながれ、椅子に縛り付けられ、動くこともままならない。
湧きあがるのは焦燥、怒り、憎悪、絶望。
ありとあらゆる負の感情が無限に思えるほど浮かび上がってくる。
思わず握りしめた指は空を切る。
当然だ。
指がないのだから。
爪を一枚一枚剥がされた後、指を一本ずつ丁寧に切断された。
根元から無理やり抉り取るように、ペンチを何度も動かされたこともあった。
心臓に鳥肌が立つほど痛みで必死にかみしめた奥歯からは何度も悲鳴が漏れた。
ペンチだけで千切れないときはノミを用意する周到さだ。
そして指の痛みは長く残った。
あったはずの両手の指はもう無くなったが、指の感覚だけ残っている。
幻痛という奴だろう。
そのナイはずの指がひどく傷む。
それは痒いのに掻けない感覚に似ている。
どうしても届かない。なのに痛みはどんどん強く、どんどん明確になる。
気がおかしくなりそうだった。
…扉が開く音が聞こえる。
そんな1日がまた始まった。
ここに来てから何日経ったのか。
時間の感覚が曖昧だ。
一週間かもしれないし、まだ数日しかたっていないのかもしれない。
意識は朦朧として視界は霞み、意識を失うたびに与えられる痛みで目を覚ます。
そんな日々を過ごしたからか、もうずっと身体の痙攣が止まらなかった。
恐怖か、怒りか。
ただの身体の反射なのか。
自分でもわからない。
ただ、震えが止まらない。
わけもなく涙が溢れてくる。
何が何なのかすらもう曖昧だ。
自分がなぜここにいるのかさえ忘れてしまった気がした。
震える身体を抑えつけて、欠けた歯を食いしばって必死に痛み耐える。
せめて叫び声だけはあげたくなかった。
このクソッタレどもの望む結果など見せてたまるかと、気合だけで悲鳴を堪えた。
助けはこない。
当たり前だ。俺が調子に乗ったからこうなった。
全員俺を見捨てたか、あるいは隣の拷問部屋で気がふれているか、どちらかだろう。
だから耐えることに意味はない。
みっともなく叫び声を上げて、気が触れたように振る舞えば楽だろう。
きっと何もかもわからなくなって、苦痛から永遠に逃げられる。
なぜそうしないのか。
自分でもわからない。
しいて言うなら、笑ってしまうような意地だ。
こんな地獄ではクソの役にも立たないそれだけを支えに、ずっと耐えてきた。
だが、それも終わりに近い。
笑う男たちがいる。
3人の男たち。
ついさっきまで爪を剥ぎ、骨を砕き、皮膚を剥かれた、憎い男たちだ。
そのうちの一人が、手を挙げた。
そこに握られているのは、黒い銃身。
何なのか、わかっている。
だから認めたくない。
こんな目にあっても、まだ死にたくなかった。
だが、
―――やっと終われる。
少し安堵感もあった。
鉄の音が大きくなる。身体に巻きついた鎖が立てる嫌な音だった。
それでも、いや。その音で男たちの笑みは止まらない。
鎖は解けない。
銃身に力が入るのがわかった。
ひどく緩慢に見えた。
ゆっくりと指先が引かれ、引き金が弾けた。
終わったと思った。
だが、間延びされる時間があった。
どこか遠くで聞こえる弾ける音。
煙る硝煙。
弾は見えなかったが、頭蓋を砕いて中に飛び込んだのが感覚でわかった。
脳に向けて骨が飛び散る。
痛みはない。
ただ、通り過ぎる感覚と妙な残り時間がある。
脳が弾丸の回転で引き裂かれ、飛び散った骨で傷つく。
弾丸は止まらない。
ぬるぬると脳を引き裂く。
それは、ゾッとする感覚だった。
摩耗しきったはずの心が震え上がる。
それもすぐに終わった。
弾は進み、頭蓋に当たる。
パカン。そう聞こえた。
まるでクッキーを割ったような軽快な音だった。
気が遠くなる。
これが死。
感覚が塗りつぶされる。
初めて経験するソレに、なすすべなく流された。
のっぺりとした鉛を身体に流し込めばこんな感覚だろう。
鉛が流れたところから感覚が減っていく。
削られる感覚に嫌悪感はない。
ただ、塗りつぶされる恐怖があった。
そして燃えるような熱さ。
減っていく。減っていく。
手が、足が、頭が、目が、心臓が、死に飲み込まれる。
なのに、燃える熱さが心地よかった。
心が震える。恐怖なのか。それとも―――安堵か。
最後に中心を飲み込まれて、フッと意識は途絶えた。
―――それが
見えるのは真っ暗な天井だ。
起き上がって見渡せば、腐った木の床や黄ばんだ毛布、何日も前の酒瓶などが散乱している。
頭を押さえて目を閉じた。
あの、
緩慢な動作で布団を抱き寄せる。
何度観ても慣れない。
いつものように震える身体を抱きしめながら奥歯を噛み締めた。
クソッタレな記憶だった。
生まれてから延々と知りもしない男の死に様を見せられる。
反吐がでそうだ。
アイツは満足して死んだのだろうが、そんなことは私に何の関係もない。
ただの賞味期限の切れた悪夢だ。
あんなちっぽけな覚悟でどうにかなるような記憶じゃないし、第一、あれは私ではない。
私はこうして生きているんだから、無関係もはなはだしい。
悪態を吐きながら、最悪の気分を振り払うために深く息を吐いた。
あれが誰の記憶だかわからないが、なんとなくわかる。
前世という奴なんだろう。
とんだものを背負って生まれてきたものだった。
だが、ムカつくことにあの夢も悪いことばかりじゃない。
あの夢を見るたび、身に覚えのない記憶が増えていく。
取りとめがないものだ。
漫画、テレビ、友人の声、人を殺した手の感触、羅列された新聞の文字。
そんな色々を私は夢を見るたびに少しずつ思い出していく。
夢の中で得たものなのに、それはとても明瞭だった。
瞼を閉じながら、少し考える。
最近思い出した中にある、光明に思える記憶だ。
『念』
ハンターハンターという漫画に出てくる力。
寿命を延ばしたり、力持ちになったり、頑丈になったりする力。
この力。
この世界にもあるかもしれない。
そう思った理由は簡単だ。
プロハンター。
暮していれば身近に聞く職業だ。
とんでもない大金を稼ぐ、スペシャリスト共。
妬み話や小馬鹿にした話ばかりが耳に入るが、どいつもどこかで負けを認めている節がある怪物達。
それがこの世界には居る。
そして記憶の中にある世界観と、この世界は余すことなく合致している。
しばらく悩んでいた。
本当にそうなのか何度も考えた。
だが、今日の記憶を思い出して確信した。
ここはハンターハンターの世界だ。
自分の小さな掌を広げる。
まだ何もできない手だ。
盗みなら辛うじてできる。だが、殺されそうになっても逃げることしかできない。
悔しかった。
だが、『念』があれば対抗できる。
『念』があれば。
思い出す。
習得方法。
一人で起こす方法は記憶にない。
だが、私ならやれるはずだ。
根拠のない自信だ。
だが、私はこうやって生きてきた。
できなければ、死ぬか、ろくでもないこの人生を続けられるだけ。
失うものは何もないんだ。
まずは色々試してみなければ。
小さな足を畳んで座禅を組み、指を合わせる。
これでいいかわからないが、爺さんがやっていた。間違いではないだろう。
深く息を吸い、吐いた。
まずは知覚すること。
それが『念』の入口のはず。
集中して、信じなければ。
自分の中の、疑心暗鬼をぎゅっと潰すつもりでコブシを握る。
わからない不安。本当にあるのか。夢は所詮夢ではないのか。現実を見ろ。囁く自分の声も拳の中に閉じ込める。疑惑ある。確証はない。それでも時間は過ぎていく。
静かに、ただ静かに夜は更けていった。
話が追いつくまで20時と9時の二回更新の予定です。