「……これでよかったのでしょう。
彼の人生は彼のもの、だもの」
振り返るな、私。
後悔するな。そう彼に教えたのは私だ。
だから私が後悔してちゃ嘘になる。
「過ぎたことを考えるなんて、つくづく無意味よね。
さっさとアーチャーと合流して、さっさと帰って休みましょ」
足取りは重く、ふわ、とあくびが漏れる。
それもそのはず、今日という日が始まってから、既に一時間ほどが経過していた。
教会には、かれこれ六時間ほど滞在していたのか。
……う。そう認識すると、余計に疲労が……。
サーヴァントの召喚には、その奇跡と等価になるだけの魔力を消耗する。
それはたとえ、これまでの生涯を賭して磨き上げた自前の宝石を用いた私であっても、逃れ得ることのない真理。
真理の矛先を避けられないのは仕方がない。
問題は、アフターケアをどうするかだ。
「あったかいご飯……あったかいお風呂……あったかい紅茶……」
困ったことに、そんな手段しか閃いてこなかった。
自分の呑気さに思わずため息が漏れる。
出会ってからやっと丸一日、既に私はアイツの使い魔ぶりを認めて、それどころかずぶずぶ溺れてしまっているらしい。
仰々しい門のすぐ外側に、アーチャーの姿が認められた。
そのさらに向こう側には、人影……と思しい何か。
アーチャーが迎撃しないのであれば、それは敵対するモノじゃない。
だからさして気に留めず、てくてく歩いて門をくぐった。
「アーチャー、さっきそこに何かいなかった?」
「いや、特には。
そも、異変があれば真っ先に伝えると言ったろう」
「……そうだっけ」
「覚えていない、か。
さっさと引き揚げて休むとしよう。
今は君自身の自惚れと慢心を省み、そして英気を養う時だろうよ」
「そうね。
ところでアーチャー」
「何かね」
「お腹が空いたわ、何か作って?」
「…………」
流石のアーチャーもこれには絶句。
何よ。英気を養うっていうなら食事だって大切じゃない。
アーチャーを黙らせた、といえば誇らしい。
今はそれでいいや。
どこか不機嫌そうな背中のあとをついて、私達は家路に着いた。
◆
「何度でも聞かせてあげるわ。
——貴方が
教会へと続く坂道にて。
「ハ、笑えねえ冗談だ。
このオレが、あのどこぞの馬の骨とも知れねぇアーチャーを斃せない、とは。
余程
坂の下、黒銀色の軽鎧を纏った男は、見下ろす人影に、獅子すら竦ませる視線を突き刺した。
肩掛けにしたスカーフは、さながら激情の炎と揺れる。
「何とでもお思いなさい、けれどこれが真実よ」
相対する黒いローブの人影は炎をものともしない。
まさしく絶対零度。
炎程度では揺らがぬ確かなモノが、人影の内にはあった。
人影の奥の暗闇からナニカを汲み取り、男は、フ、と息を漏らした。
その相貌には侮蔑も怒りもなく。
「———つくづく、女を見る目がないねえ。
いやあ、俺はアンタを見誤ったらしい。
『誰も殺したくない、苦しんで死ぬのもごめんだ』。
そう言ってるように見えたんだがなあ」
男は月明かりに向けて掲げた十字槍を収め、己の未熟を嗤うように肩をすくめる。
「そんな腑抜けが、此処にいる資格はないだろう?
だからただ殺されたくて大法螺吹いてるってのなら、さっさと退場させてやろうと思ったんだよ。
しかしこの俺を前にして、ああも堂々と大見得切る女が———
最優のサーヴァントとして召喚される女が、よもや腑抜けであるはずがねえ。
神の祝福を賜ったのか、生まれつきか、或いは鍛錬の賜物か。
詳しいことは知らんが、いずれにしろ戦士としちゃあ上等だろうよ」
最優のサーヴァント———冬木の聖杯戦争における、
軽鎧の男は、人影をそう呼んだ。
事実、人影の手には得物があった。
背後の月明かりに照らされて、その姿が浮き彫りとなっていた。
黒い靄、若しくは霧に包まれた判別し難いソレを、男は剣とした。
槍とするには短小で、斧とするには瘦せぎすなシルエットを、剣と推測するのはある種道理か。
「そう。ご好評感謝します」
男から剣呑な気配が失せたのを感じ、人影もまた得物を収めた。
黒い靄のシルエットは霧散し、光の粒子となって月へ昇る。
「いいや。なにしろ互いに真名を知らぬ身だ。
俺を甘くみたことを許しこそすれ、信じちゃいねえ」
「……では、ここで私を殺す?」
「いいや。アンタの在り様を見誤ったからには、今宵は退く。
何より美女の命を救って貸しを作るってのは、悪い気分じゃねえ。
言葉で伝わらないなら、握手でもしておくか?」
ぱり、と空気を張り詰めさせていた人影の気配は、初めから何もなかったかのように引いていく。
「そうかい。賢い女は好きだぜ、俺は」
「私は貴方みたいに軽薄な人、好きじゃないわ」
「ハハ、それでこその英雄だろうに」
「じゃあな、セイバー。
次に見える時は互いに全力、加減は無しだ。
手土産にはアーチャーの首でもくれてやるよ」
男は霊体化し、淡い色の霊子を星に紛れさせてこの場を去った。
今ひとときの静寂が立ち返る。
「…………馬鹿な男」
◆
「
魔術による錠を破却し、禅城凛は根城———もとい自宅へと帰還した。
魔術師にとっての自宅とは、すなわち魔術工房。
彼ら一族の研鑽が堆積してできた宝物庫だ。
一族の生を賭し、代々貯め込んだ財宝を、そう容易く明け渡すわけにはいかないのだ。
それゆえ、外界からのいかなる干渉にも耐えうる魔術結界を施し鍵とするのだ。
「ふぅ……ただいま。
色々あって疲れちゃったなぁ」
「おかえり、凛。
風呂の掃除は済ませてあるぞ」
「ん、ありがと。ご飯の前に済ませちゃおうかしら」
主従揃って玄関を潜り、所帯染みた挨拶を交わす。
凛の着ていたコートはアーチャーの手に渡り、綺麗にシワを伸ばしてポールハンガーに掛けられた。
「じゃ、休む間もなくて悪いけど、よろしくね。
貴方の料理、楽しみにしてるから」
「フッ、期待には応えるとしよう」
うって変わって足取り軽く、凛は脱衣所へ消えていく。
「さて、始めるか」
一方で、アーチャーは台所へ。
玉すだれの暖簾を潜り、屋敷の大きさに反してこぢんまりと整ったキッチンに辿り着く。
冷蔵庫から食材を取り出し、調味料を選び取る手つきには、不思議と迷いはない。
まさに勝手知ったる他人の家、というべきか。
しかしてその手は冷蔵庫の下段、肉庫を開いて停止することとなった。
「確かに肉も買ってこいとは言ったが、こうも名のある品種の肉ばかりとは。
……こんな機会だ、少しばかり贅沢をさせても構うまい」
赤い外套で身を覆った
それでいて、まるで昔からそうだったようにも見える。
「よし、決まりだな」
〜〜〜〜
アーチャー、そろそろ準備は整った?
『ああ、君が値の張る牛肉ばかり買い揃えてきたおかげでね』
はぁ?何よそれ。ここらで牛肉って言ったら、淡路牛か神戸ビーフくらいのもんでしょ?
『…………ハァ』
な、なによ。
『いや、なんでも。
とにかく、じき準備が整う。
なるべくで構わんが、早く上がってくるように』
…………むぅ。わかったわよ、ありがと。
『それと』
なによ。まだ何か?
『洗面台の前に化粧品を並べ直しておいた。
早く、とは言ったが手入れは怠らぬよう』
…………。
〜〜〜〜
リビングから漂う甘辛い砂糖醤油の香りが、凛の鼻腔を擽った。
日本人にとっては遺伝子レベルで好ましい香りだ。
脱衣所を出て早々、すっかり胃袋が空っぽで飢えに飢えていた食欲が刺激される。
風呂で暖められた身体はすっかり解れ、歩調は軽く、導かれるように香りの元へと向かっていく。
「戻ったか、り……ん」
暖簾をくぐってキッチンから顔を出すアーチャー。
冷静沈着、冷徹とも呼称できる彼からは、常の様子は失われていた。
目を見開き、次いで頭に手をやり溜め息を漏らす。
それもそのはず。
風呂上がりの凛の装いは寝巻き———ではなく、正常な青少年であれば眼福と見るであろう、バスタオルを体に巻きつけただけの、簡素なものであった。
「凛、君な」
「なによ」
当の凛からは不思議そうな声が上がる。
そのまま手に持ったタオルで髪を撫でながら、ぽすっとソファに腰掛ける。
弾む体は熱を帯びて朱が差し、なおかつ濡れて瑞々しく、揺れる艶やかな黒髪からは微かに桜の香りが振り撒かれ、何気ない仕草だけで青少年諸氏を悩殺しかねない色香を纏っていた。
———しかし。今現在、彼女に相対する男は揺らがなかった。
「いくらなんでも杜撰に過ぎると思うのだが。
優雅たれ、と掲げるには、淑女らしさというのが欠如しているのではないかね?」
目を逸らす様子はなく、無防備な乙女の姿を見ながらも顔色ひとつ変わらない。
「果たしてそうかしら。
優雅たれっていうのは、別に外見の話じゃないもの。
ノブレス・オブリージュ。富める者の義務。
御三家なんて呼ばれる家系に生まれたからには、聖杯を獲る義務がある。そういう話よ。
……父さんが死んだから、なおさらね。
父さんの考え方とは食い違うところもあるだろうけど。
だから、何もドレスで着飾って、ひらひら優雅に舞いなさいってことじゃないの。
わかってもらえたかしら?」
「…………ああ。
出過ぎた真似をしたようだ」
凛の言葉に一応の理解を示し、ふむ、と息をつく。
「ところで、先程から垣間見えているのだが。
いや、何とは言うまいが」
真剣な語調と顔色から放たれた言葉に凛は慌てて立ち上がって駆け出し、柱の陰に隠れてしまう。脱兎の如く、とはこのことだろう。
「フッ、冗談だよ。
そう意識し逃げ隠れするだけの恥じらいがあるのなら、ハナから装いを———な、待て、よせマスター、待て……!」
「誰が待つか!!
あったまきたわこのムッツリスケベ!ド変態!
一発ぶん殴られなさい!!」
羞恥と怒りがないまぜになった感情を剥き出しにしながら、ズンズンと、まるで闘牛みたいに一直線にアーチャーへとと突進する凛。
突進から攻撃まで一部たりとも隙なく連続し、遂に魔力を纏った拳が放たれる。
八極拳の構えも何もない、ただ怒りに任せた乙女の鉄槌。
狙いは言わずもがな、アーチャーの顔面中央、鼻っ面だ。
「ぬぅ……ッ」
それはきっと、キャスターやアサシンのように、直接戦闘を生業としないクラスの英霊相手にならば届きうる速さと強さを併せ持つ一撃だった。
直撃すれば、暗殺集団の仮面は無慈悲に砕け散り、英霊の面目すら粉砕されていただろう。
しかし、相手が悪かった。
凛の怒りの矛先を向けられたこの男は、三騎士クラス———その中でも、アーチャーのクラスを充てがわれている。
他のサーヴァントを射抜く矢を射る、強靭の腕力。
数キロ先を駆ける獲物を正確に捉えるだけの、動体視力。
弓兵にとって必要不可欠な両者をもって、赤い外套の
「うぐ、ぐ、ぐぬぬ……!アンタが火をつけたんだから、抵抗、すんな…………!!」
アーチャーの掌に収められてなお、顔面を目掛けて振るわれた、迷いなき拳に込められた力は衰えるところを知らない。
そして、空いた手が、ただ怒りに震えているだけのはずがなかった。
———びゅう、と風を切る音がした。
如何に腕力が強くとも、身体が動くよりも速い一撃を叩き込むことができれば、或いは。
彼女は刹那の中でそう思考し、刹那より早く実行した。
「甘いぞ、マスター。
確かに、予測が及ばなければ今頃私の鎧には穴が空いていただろう。
だが無銘とはいえ英霊だ。
才覚こそ誰しもに劣ったが、それなりに死線も潜ってきた。
……君のような魔術師と戦うことも、かつてあったのさ」
凛が次の拳を振るう、そのコンマ数秒前。
アーチャーの掌は、凛が狙うその先———脇腹へのボディブローに備え、据えられていた。
強さよりも速さを求めた一撃は、当然容易く彼の手の内に制される。
そこから先は、もう取っ組み合いの泥仕合だった。
防戦に回り、拳を離さないだけのアーチャーと、是が非でも振りほどいて一撃叩き込もうという凛。
「いい加減にしないかね、凛。これ以上は無駄だとわからな————」
ある一瞬、軽くあしらい防戦していたアーチャーに隙が生まれる。
呆然、と表すほかなかった。
歴戦の英霊である彼をも呆然とさせる出来事。
何も、相手が奇をてらった策を起動させたとか、そういうことではない。
————ほどけ落ちたのだ。
凛の身を包んでいた、バスタオルが。
当然だ。両手を攻め手に据えたために、押さえるべきところを押さえていなかったのだから。
濡潤として艶やかな黒髪は肌の上を流れ、白い肌と黒い髪の対比が否応なしに視線を引きつける。
足から腰にかけてのボディラインは、引き締まりつつも柔らかな曲線を描き、如何な宝石も比肩し難い魅力を放ち。
あらゆる抑圧から解き放たれた瑞々しい果実は、その実りの豊かさの何たるかを大いに主張している。
両者とも、驚愕に伴われた硬直から復帰した。
アーチャーは咄嗟に両手を解放し、後ろに飛び退いて諸手を挙げる。
さらなる追撃を危惧した対応であったが、それは杞憂と終わる。
泥仕合の相手はその場に屈み込み、頬で湯が沸きそうなほどに顔を紅潮させて思考停止、戦闘放棄していたのだから、必然といえば必然だ。
「ああ、その、なんだ」
いやにぎこちなく、取り繕うような呼びかけに対し、凛は姿勢をそのままに、視線だけを上げて一応の応答をする。
「先のことだが、淑女らしくない、と言った非礼を詫びようと思う。
デリカシーを欠く発言だった、すまない」
これまでとはまるで人が変わったみたいに、深々と頭を下げる。
それから幾秒、赦すとも、仮借なしとも判決はなく、ましてや令呪による束縛などもない。
「ど…………」
「ど?」
「どこ見て言ってんのよ—————ッ!!」
顔を上げたアーチャーの視界には、ボクサーもかくやの豪速の拳。
「な……違、凛、待っ、なんでさ————ッ!?」
ほんの一瞬、たじろいだが最後。
予測の範疇外からえぐり込まれた一撃は、真っ直ぐにアーチャーの顔面を捉えた。
そして悲痛な叫びは、真夜中の星空に吸い込まれて消えた。