#0 プロローグ
「いや、長かった。くは、は。ハハハ。ふふはははははははは!!
どれほどこの時を待ち望んだことか!漸く、漸くだ。
小聖杯?亜種聖杯戦争?馬鹿馬鹿しい。
アレは耄碌した金持ちの道楽に過ぎん。——俺が求めるモノはただ一つ。冬木の地に根ざした大いなる奇跡、
状況から察するに魔術師と思しい男は、狂ったように吠えていた。
——小聖杯、亜種聖杯戦争。
もちろん、サーヴァントとして召喚されたこの黒いローブの女にも、それらに関するおよそあらゆる知識は与えられている。
しかしながら、この度の聖杯戦争は事情が違っていて——
否、これが本来の聖杯戦争の在り方、規範なのだ。
人類史の守護者たる七人の英霊を人間の使い魔の枠組みに嵌め込み、七騎のサーヴァントとして七人のマスターが召喚・使役し、最後の一人になるまで殺し合う魔術儀式——それこそが、聖杯戦争。しかしサーヴァントには生前と同じ人格が与えられているので、マスターに対し——。
「そうだ女。まだ貴様のクラスを尋ねていなかったな?
いや知ってはいる、知ってはいるがサーヴァントである貴様——ガッ!?ア、あ?ヒッ……みぎ、み、右手、みぎてガぁぁぁああアアア!!」
牙を剥くことも大いにありうる、という話だ。
女の手の中には、魔力が象る渦巻く風が在った。
それが男の右手首をすぱん、と、切り離したらしい。
が、男の五感はただ自分の置かれた状況を認識しようするばかりで、自分が右手を失ったことも、女の手の内も、血の匂いも、風が空を切る音も。
——何より、自分が、サーヴァントとの繋がりすら失ったことにも、気づいてはいなかった。
「き、さま、貴様貴様キサマキサマキサマ貴様きさまァァァアアア!!れ、令呪!我が令呪を以って……命、ず?」
男は呆然とした。呆然とするしかなかった。
肉と骨の両方を断たれた激痛が、理解することを阻んだ、「令呪を失った」という事実。
それが、令呪よりもなお赤黒く艶めき、氾濫する血液として。
これまで恐怖など感じたことのなかった、血の匂いとして。
脳髄の奥底まで突き刺さった。
「お気付きですか?」
蹲り、本能的に傷口を押さえる男の頭上に、冷徹な声が注がれる。
りん、と、静かな輝きを放つ銀の鈴の音。
或いは、悪魔を戒める無慈悲な十字架。
「右手右手とあれだけ喚いておいて、令呪がないことに今更気付くなんて。
よほど
今の彼女は、無慈悲な十字架だ。
男を傷つけ淘汰することに躊躇いなどなく、自身の行いを悔いることもない。
しかして、彼女こそが悪魔なのかもしれない。
そもそも悪魔とは、契約を履行するもの。
時に契約者の欲望を満たし、時に叡智を与え、時には——取り返しようのない破滅をもたらす。
「ね、魔術師さん。私、何に見えますか?英雄でしょうか。それとも神様?それとも……」
女が男の傍に屈み込む。ローブの裾が翻り、花の香が振りまかれる。
「あく、ま。悪魔、め、が……ッ」
悪魔。その言葉を聞いた女の口元は、目深に被ったフードのその奥で、柔らかな微笑を浮かべていた。
「そう、悪魔。正解です。意外と利口なのですね。
利口なついでに理解していて欲しいのですけれど。
悪魔憑きの最期って……ご存知ですか?」
言葉を紡ぐと同時、黒い球体が女の背後に形を成す。
言い終わる頃には既に形を変えて、まるで磔刑の杭の如く成っていた。
「ああ、答えてはくれませんか。では私が、貴方に。
——見せてあげましょう」
言葉はなく、ただ憎悪に染まった瞳を向けるばかりの男に向けて、答えを贈る。
女の魔力で象られた呪いの杭は弾丸となり、男の右手を除いた三肢を貫き、地面に縫い付けた。
微々たる出血すらなく、同様に痛みもない。
「ソレ、呪いです。ほら、聞いたことありませんか?
『悪魔は契約者の魂を喰らう』って。では、まあ、そういうことですので」
自ら縛り付けた男を尻目にさえ捉えず、何の感慨もなく振り返り、女は仄暗い工房の出口へと足を向けた。
冷徹冷酷を体現した行いにも関わらず、女が振りまく花の香は、変わらず現実のものであった。
「……依り代が無ければ存在すらままならない使い魔風情がッ!自らマスターとの契約を切るなど自殺行為にも等しいぞ!愚鈍なのは貴様の方だろうがァァ!」
暗闇から響いたのは負け惜しみであった。
100人に問えば100人がそうだと答えるであろうほど、見事に。
「——黙りなさい、三流魔術師。令呪を死守する前準備を怠り、その上驕りに驕って即座に対応できなかったのだから、貴方の負けでしょう。
そんな魔術師に誰が仕える価値を見出すのかしら?
誰にも囚われず、ほんの少し残された時間を過ごす方が幾分マシよ」
純銀の十字架のように冷徹だった女の声は一変、善人悪人問わずただ刺し殺すためにある剣の如く、苛烈なものとなった。
「ではさようなら、魔術師さん。次があるなら善き英雄、善き人を召喚することね。
もっとも、貴方は魂を喰われて果てるのだけれど、ね」
こつ、こつ。と、仄暗い工房から地上へ向けて歩む足取りは確かであった。
しかし十分な魔力を与えられることなく依り代を失った肉体からは、淡い青色の霊子が溢れ始めていた。