訳:武蔵ちゃんが欲しくて辛い。
──剣戟が迸った。
空間を自在に走る幾条もの銀閃、散華するは無数の火花。極地に至った剣者が繰り出す斬撃は一つ一つが致死の業。刹那の油断が死へと直結する。
──斬撃が重なった。
片や華やかな衣装に身を包んだうら若き少女。是なるは二天一流の遣い手たる宮本武蔵の名を受け継ぐ剣士。その剣は無空の境地へと至らん。
片や雅な陣羽織を羽織った耽美なりし流浪人。是なるは佐々木小次郎の名を与えられし無銘我流の剣士。その剣は無限の境地へと至らん。
──白刃が激突した。
斬り結ぶ度に両雄の業は天井知らずに研鑽されゆく。金剛石が金剛石でしか磨けぬのと同様、極まった剣士は同じ領域の剣士との斬り合いの中でしか磨かれない。
剣士の極地へと辿り着いた者たち──されど両者はこの世界の人にあらず、原典の武蔵と小次郎ですらない紛い物。名も知れぬ神なるモノの手によって生み出された偽物でしかない。
──斬閃が交錯した。
此処に至るまでに幾度となく刃を交えてきた。不完全なまま、未熟なまま仕合っては決着せず終わる。その度に一歩、また一歩と高みへと歩む。
時には敵味方の垣根を越えて杯を交わして語らうこともあった。旧来の友人の如く言葉を交わし、飲み食いして、背中を預け合うことすらもあった。
されど定められた運命は認めない。融和の未来など許されず、宮本武蔵と佐々木小次郎は死合わねばならないのだ。
そして両者は漸く其々の極地に辿り着き、仕上げの大勝負と洒落込む。
幻想の世界が終わってしまうかもしれない危機を目前にしながらも、両雄は繰り出す斬撃の嵐を止めない。場所が巌流島でなくとも関係ない、今なお周囲一帯が崩れ落ちてゆこうと構うものか。
二人が宮本武蔵と佐々木小次郎であらばそこが決闘の地となる。
──剣線が踊り狂った。
もはや二人の死合を止めることは何人たりとも能わず。見届け人はただの傍観者でしかいられない。既に二人の剣豪は限界というものの悉くを凌駕し尽くしていた。
止まらない、止まらない。舞い踊る蝶のようでありながら鋭き針を持つ蜂の如き立ち回り。
止まらない、止まらない。風に揺れる柳のようでありながら清らかな流水の如き立ち回り。
何人たりともこの剣神たちの神楽を止められはしない。それは死合っている当人たちも例外ではなく、むしろ終わりなき剣戟乱舞を更に加速させていく。
それが二人に課せられた運命であり末路だ。
神なるモノの戯れか無聊の慰めか、宮本武蔵と佐々木小次郎の霊基を埋め込まれて二度目の生を与えられた少女と少年、哀れな玩具たちと嘲笑うか──
──否、断じて否!
此処にて刃を重ねる少女と少年は玩具でも、課せられた運命に唯々諾々と従う傀儡でもない。霊基に引き摺られようとも確固たる自我を保つ一個の人間だ。
ゆえに二人の目的はただ一つ────この
激烈な剣刃乱舞が止む。両者共に肉体は生傷だらけ、華やかな衣装も雅な陣羽織も襤褸同然。血潮に塗れながらなお、その瞳は宿命を断ち切らんと爛々と輝く。
次の一合で決着する。もはや語る言葉はなく、両雄は研鑽し尽くした至高の剣技をもって証明するだろう。
際限なく昂ぶる剣気、散るは天元の花か無銘の亡霊か──
──対極の極みがここに激突した。
▽
──青い空で、鳥が鳴いている。
突き抜けるような青空を舞う鳥の影を見上げる少女がいた。
艶やかな髪を後頭部で結い上げ華やかな雰囲気を漂わせている、どことなく夕暮れに咲く花を思わせるような立ち姿の若い娘。
色鮮やかな着物でも纏えばさぞ絵になるだろうこと間違いなしの美貌。齢十四でありながら大人の女性にも負けず劣らずの体つきであるが、見るものが見ればその肉体が剣士として鍛え上げられた代物であると察するだろう。
背中に二振りの木刀を納めた長袋を背負い、微かに憂いを帯びた顔で天を仰ぐ少女の名は
彼の有名な宮本武蔵が創始したとされる流派“二天一流”の道場主、十一代目新免武蔵守藤原玄信の一人娘──という
一度目の人生を終えたところで何処ぞの神なるモノの手により“宮本武蔵”の霊基を一部埋め込まれ、二度目の人生を始めるよう仕向けられた紬。その在り方や性格、趣味嗜好は少なからず霊基に引き摺られており、現在進行系でその影響に頭を悩まされていた。
「ちょっと……ここ何処なのよ?」
十二代目を継ぐためにも自分の世界を広げてこいなどという理由で片田舎の中学校から一転、関東にある麻帆良学園都市の中等部へ転校することになった紬は、家族や知り合いとの別れを済ませて麻帆良へ向かう途中であった。
家族と仲の良い友人に見送られ、いざ駅の改札口を抜けて電車に乗り込もうとしたところで問題は起きた。端的に一言で表すのならば、“神隠し”に遭ったのだ。
紬がその身に埋め込まれた“宮本武蔵”は史実に記された男の剣士ではなく、剪定事象によって断ち消えた次元出身の女性であった武蔵である。彼女は特異な体質を持っており、そんな武蔵の霊基を一部とはいえ宿すことになった紬もまた、不完全ながらその体質を受け継いでしまっていた。
──“神隠し”改め次元漂流。
幸い紬は宮本武蔵の霊基を全て埋め込まれたわけではないので、神隠しの規模も小さく並行世界を股にかけるようなことにはならずに済んだ。ただし自ら次元の穴に飛び込んでいた武蔵と違い、紬の場合は本人の意思を無視した形で引き摺り込まれるのだが。
その神隠しが電車に乗り込むところで発生。今日に至るまで幾度となく経験してきた紬は回避を早々に諦め、そのまま穴に吸い込まれて今に至る。
「うぅーん、感覚からして日本は出てないわね。場所は……ちょっと分かんないや」
子供の頃から何度も何度も神隠しに遭い続けたせいか、紬はある程度まで飛ばされた距離や場所などが把握できるようになっていた。本人としてはそんな感覚が備わるほど神隠しになんて遭いたくないのが本音であるが。
「ま、いつものことだし、悩んでも仕方ないか。適当な人に現在地を尋ねて麻帆良に向かいましょう」
見知らぬ土地に投げ出されることももう慣れたもので、紬は気持ちを切り替えると歩み始める。
荷物の大半は宅配便で手持ちも大してない状況。何の当てもないくせに楽観的で随分と余裕な態度なのは霊基の影響も少なからずあるのだろうが、今まで何だかんだ切り抜けられてきたという自負があるからだろう。
時に出口の知れない樹海の奥深く、時に硝煙燻る戦場の真っ只中、時に魔法生物なる怪物が跳梁跋扈する魔法世界。およそ考え得る秘境という秘境に飛ばされてきた紬に怖れも迷いもない。ちょっとした寄り道程度に考えて麻帆良を目指す。
「それより麻帆良まで何日かかるのかしら……転校生が初っ端から遅刻なんて格好つかないわよね」
果たして遅刻程度で収まるのか。まず間違いなく、紬より荷物の方が早く届くだろう。
「あ! そこのお爺ちゃ〜ん! ちょっといいかなー!」
気負わず気楽に常に余裕を忘れず、剣客少女は新天地を目指して一歩を踏み出し始めた。