物語は瀧が糸守町のヒミツを知った夜から再開します。
これは原作からすこしだけズレたもうひとつの君の名は。
過ぎ去りし時を求めて
1200年周期で地球のそばを通っている彗星。ティアマト彗星。
彗星が二つに割れて、流星として糸守町に片割れが落ちてくる。うすい雲を突き破って。美しく。そして、恐ろしく。
あの日、あの夜、キミは叫んだんだ。
あの瞬間から運命の歯車はまわりはじめたのかもしれない。
運命の糸は想像していたより、ずっと複雑で、ほどけないくらいに絡み合っている。だから、運命を断ち切ることにしたんだろう。それでもつながっているモノがあると信じて。
彼らは運命にあらがう。運命の後押しによって。
◆ ◆
高山ラーメンの店主に連絡して、車で社へと送ってもらえるようにお願いした。店主は熟考の末に静かに承諾してくれた。俺は奥寺先輩と司に書き置きして旅館を出た。早朝の話だ。
キミに会いに行くよ。キミに出会いに。
俺は車を降りて、婆ちゃんを背負って登った山道を地図とGPSをみながら進んでいく。あのときの記憶は靄がかかったようにぼんやりして、あいまいだった。
それにしても、高山ラーメンの店主はよくただの一見客の無理な頼みをきいてくれたものだと思う。それも早朝なのに。
やさしい人だからなのか? いや、きっとそうじゃない。それほど今の俺は放っておけなかったということなのだろう。
折れそうな心と立ち上がろうとする心が両立している。
俺は店主がわたしてくれたお弁当をみながら思った。
雨が降り出しそうだ。
新糸守湖がみえてくる。邪神の爪痕。パラパラと雨が木々の葉を打つ。とうとう、どしゃ降りの雨になった。俺は小さな洞窟をみつけて、そこで雨をやり過ごすことにする。店主からもらったお弁当を食べながら。
もし、もう一度、入れ替わることができたとしたら、俺はどうすればいい? どうするのがいい?
彗星は止められない。なら、村のみんなを避難させるしかない。
……………………。
不可能だ。
何十通りもの方法を考えたがすべて現実的じゃない。到底無理だ。こどものアニメじゃあるまいし、一介の高校生に町中の人を避難させることなんてできない。
俺に誘導されて、みんなが避難しているイメージが湧かない。
そりゃそうだ。ただ入れ替わりができるだけの一介の高校生にはなんの力もないんだから。超能力が使えるわけでもないし。
だけど、三葉に会えばなんとかなるような気がするんだ。三葉の身体の中に入ればなんとかなるような気がするんだ。なんの根拠もないんだけど、それが俺たちが出会う理由なんだって思う。
そうだろう?
なぁ? 半分は天使で、半分は悪魔の仮面をかぶった神さま?
そうでなければこのシステムの意味がない。
俺たちはもう一度入れ替わる。それは運命じゃない。予感でもない。システムの規定事項だ。
どんなに困難でも、俺たちはかならず見つけ出す。糸守町を救う方程式の奇跡のような解を。
小雨になってきた。お弁当を食べて、すこしだけ身体に力を取り戻した俺は再び山頂をめざす。
整備されていないケモノ道。枝が服に突き刺さる。ぬかるみに足をとられる。一歩一歩がキツい。傾斜だけでもキツいのに。昨日からずっと寝ていないが、それほど疲れは感じない。感じていないだけで疲れているとは思うけれど。
ようやく山頂だ。俺は山頂から景色を見下ろす。
婆ちゃんが言ってたっけ。
あれがあの世だ。
こんなに水が深かったっけ? 雨の影響なのか、隕石の影響なのか、三葉の身体でみた風景とは変わっていた。もっとずっと神秘的な感じだったように思う。
天国から地獄へと大きな変貌をとげている。
俺は胸まで水に浸かってなんとか池を渡り切る。さすがに冷たかった。かなり体温が奪われた。
険しい山道。冷たい池。徹夜明け。さすがにボロボロだな。
そんなに会いたいのかよ? こうまでして会いたいのかよ? まだ出会ったこともない女の子に。
そんなことを考えると今まで感じたことのないふしぎな力が湧いてくる。
この湧きあがる力はなんだろう? このふしぎな力は……? なんだっていいや。
俺は笑った。
目の前に大きな岩に根を絡ませた巨大な大木があらわれた。この根元に入口があるはず。
俺は大木と対峙する。
「三葉に会いに来た」
俺は大木に語りかける。
――待っていた。
そんな言葉が返ってきたような気がした。
下へと降りる階段をみつけた。俺はその階段をおりていく。四畳半くらいの空間があった。口噛み酒が二つ置いてあった。ずいぶん古ぼけている。それだけ長い時間が経っているのだろう。
「こっちが四葉で、こっちが俺が持ってきたもの……」
コケまではりついている。あの日を思い出しながら、俺はすこしだけコケを拭う。蓋に巻いてある組紐をほどく。コルクを引き抜く。
「俺は三年前のアイツと入れ替わっていたのか……入れ替わりがなくなったのは三年前に隕石が落ちて、アイツが死んだから……?」
「う~ん……それはちょっとちがうかな」
俺の心臓が跳ねた。
緊張が走る。
「だれだ?」
声が出たことに驚く。
ドクンドクンドクン……俺の心臓の音が洞窟内に響いているような気がする。
こんな時間に、こんな場所に……ひと? いったい、だれが?
つけられてはいなかったはずだ。早朝で他に車なんてなかった。道路も一本道じゃなかった。つけることは不可能。店主が誰かに話さないかぎり。その可能性も限りなくゼロに近い。そもそも早朝に連絡を取るなんてことをするタイプじゃないし、連絡をとるくらいなら、俺をここまで送り届けるはずがない。
だったら、どうやって?
「だれだって? わからないかな?」
軽い足音。
俺はこの声を知っている。そして、この足音も知っている。このリズムは……こんなことはありえない。
まるで俺の理解が追いつかない。
影が形をまとっていく。
ウェーブのかかった長い髪。本格的なトレッキングファッション。
だからこそ、ありえない。
この人がここにいるはずがない。いれるはずがない。
どんな魔法を使ったんだ? 魔法使いか?
「濡れちゃったじゃない」
髪をかき上げる。
「奥寺……先輩……!?」
俺の頭の中でいろんなシーンが目まぐるしく展開される。そして、それはたったひとつの仮説を浮かび上がらせる。でも、それは到底ありえそうにないものだった。
まるで本物の魔女に出会ったかのような気分だ。
「口噛み酒か。そうだったそうだった。懐かしいなぁ。ようやく思い出してきた。なんで忘れてたんだろうね」
奥寺先輩は自分の身体を抱いた。
「寒いよ」
奥寺先輩にしかみえない。みえないのに、彼女はおそらく奥寺先輩じゃない。まったくの別物。感性では到底導き出されないその答えに、俺の理性が警鐘を鳴らしてくる。
「あなたはだれだ?」
「ふ~ん」
奥寺先輩はおもしろそうにそういった。
「可愛くないね。もう気づいちゃったんだ。私の正体に」
奥寺先輩は俺に近づいて、俺の頭をつかんだ。鼻がつきそうなほど顔が近い。女性では人生最接近だ。
ドキドキするがこのドキドキはそういうドキドキじゃない。
「キミがここに来ることはわかっていたよ。キミがここに来ることを決めるずっと前からね」
奥寺先輩の口調ががらりと変わった。
信じられないが、どうやら俺の仮説はまちがっていないようだ。
奥寺先輩は俺の手から口噛み酒を奪う。中をのぞく。
「入れ替わりが途切れたのは三葉(彼女)が死んだからじゃない」
奥寺先輩は口噛み酒の匂いをかぎながら語りはじめた。
「そもそも、この入れ替わりシステムはこの糸守の町民を助けるためにつくられたものだ。なんでもかんでも入れ替えればいいってもんじゃない。当然、入れ替わりには条件をつけることになる。条件とはティアマト彗星の標的となるこの糸守町にいること。糸守町から離れると入れ替わりの条件が満たされず、入れ替わりがなくなる。糸守町にいる人間と入れ替わらなければ意味がないからね」
この思考は……この発想は……この論理パターンは……。
決定的だ。
この人は……この人の正体は……。
「つまりだ。糸守に来れば入れ替わりは再開される。自動的にね。そこに意味はない。条件を満たせば悪魔でも入れ替わる。システムに、システムのプログラムに感情はないのだから。この世の物理法則は冷酷なまでに万物に平等だ」
――人はそれを科学と呼ぶ。
この人は奥寺先輩の唇でそんなセリフを口ずさむ。
「おまえは誰だ?」
「彼女の名前は知っているんだろう?」
「奥寺先輩……?」
「じゃなくて、下の名前だよ。思い出せよ」
錆びついた時計の歯車が動き出すように、俺の中の記憶が呼び起こされる。
そんな……まさか……そんなことって……。
いま、ようやくつながった。
「奥寺……三葉……!?」
なんで忘れていたんだろう?
「ようやく気づいたか? 少年」
「アンタは……俺……なのか?」
奥寺先輩はニヤリと笑う。悪いことを考えているときの高木の顔に似ている。そういうときの高木の表情は俺のそういう表情に似ているらしい。
つまり、たしかにこの人は俺なんだ。
自分自身との接触。言葉にできないふしぎな感覚が俺を襲う。お互いにお互いのすべてを知り尽くしている関係。
「あの日、隕石が落ちたあの日、奥寺は俺に会いに東京に来たんだ。そして、奥寺は帰る場所を失った。記憶もろともにね」
……………………。
俺は言葉を失った。奥寺先輩のあの笑顔の裏にそんなものを抱えていたなんて。
「大学一年なのは浪人しているからじゃない。高校卒業が一年遅れているからだ。俺に、いや俺たちに出会うまで、ほとんど笑うこともなかったそうだ」
どう処理していいかわからない胸の苦しさを俺は覚えた。
「なんで、アンタは俺に会いに来たんだ?」
「それが糸守町の町民を救うための最後のピースだから。あの日、俺はたどり着けなかった。俺は救えなかったんだ。だけど、今のおまえなら、ティアマト方程式の解を見つけ出し、彗星の民の魔封印を解き、ラプラスの悪魔を目覚めさせることも可能なはずだ。入れ替わりの最終定理を知った今のおまえなら」
ティアマト方程式の解を見つけ出す??
彗星の民の魔封印を解く??
ラプラスの悪魔を目覚めさせる??
入れ替わりの最終定理??
何を言っているんだ? 意味がわからない。テキトーな単語をつなげて言ってるようにしかきこえない。
それより、これから長編小説並みにやること凄いありそうな言い方だな。
奥寺先輩の手が俺の肩に置かれる。
「おまえの知っている糸守町へ行けばわかる。現状は極めてきびしい。だけど、だいじょうぶ。きっと間に合う。おまえはこの俺に出会ったんだから。すべてのピースは今、おまえの手の中だ」
自分に励まされるなんて妙な気分だ。顔は奥寺先輩で。
初めて、真正面からじっくりと奥寺先輩の顔をみたような気がした。それも中身が俺の奥寺先輩を。
それはいつも鏡でみていた三葉そのものだった。中身がちがうだけで、こうも顔の印象が変わるものなのか。
奥寺先輩は俺に口噛み酒を返した。口噛み酒。これが鍵だ。本能的にわかった。
「アンタはどこから来たんだ?」
俺は口噛み酒をみながら問う。ずいぶんと年齢を感じる。二十代? 三十代?
「未来の話を訊きたいか? 俺の就職先とか? 誰と結婚しているとか?」
「え?」
もうひとりの俺は奥寺先輩を奥寺と呼んだ。結婚していたら……。
もうひとりの俺は「ぷっ」と笑った。
「ふ~ん……特別に、さわらせてやってもいいぞ。サービスだ」
もうひとりの俺はそういって自分の服をつまんだ。
こいつは俺をからかっていやがる。いや、これは未来のことは話さないという意思表示。
「結構です」
結構ですだって……といってもうひとりの俺は笑っている。
ふいに、もうひとりの俺が上を向いた。
「奥寺を……おまえにとっては三葉だったな」
俺は奥寺先輩とのデートを思い出していた。目の前に世界で一番会いたい人がいるのに、どこかちがう。三葉だけど三葉じゃない。
俺が会いたい三葉は三年前の糸守町にしかいない。
だから、行くんだ。三年前の糸守町へ。
まだ出会っていないひと。出会いたいひと。出会わなくちゃいけないひと。
「おまえならできる。いや、おまえにしかできない。なんといっても、おまえは俺なんだから」
もうひとりの俺は俺の胸にコブシを当てる。細い腕。軽いコブシだ。
「さぁ、三葉を救ってこい!」
「あぁ!」
俺は口噛み酒を口にする。
世界が反転した。
この物語の瀧は三葉死亡の記事を読むのを途中でやめています。