ナザリック最後の侵入者   作:三次たま

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2話連続投稿につき注意です


モノローグ:影道化の告白

 

 パンドラズ・アクターはマタタビのことが嫌いだった。

 彼女の性格は最悪だから、その気になれば嫌いな部分を百個は軽く口にできる。

 

 ただ今強く思うのは、彼女自身の救いがたい頑固な独善性である。

 

 彼女は自分の中の正しさを決して曲げない。

 劣等感にまみれて卑屈な彼女でありながら、しかしその本質はどうしようもなくエゴイストだ。

 

 たとえ愛する両親や、敬愛し大恩もあるアインズ様の言葉であろうとも、彼女はそれらを羽毛の如く軽んじて独善を成そうとするだろう。

 

 家族のためだと判断したから実家から家出をしたのだ。

 

 アインズ様とぺロロンチーノ様のために、たかがNPCでしかないシャルティアの身代わりになったのだ。

 

 両親や不在のギルドメンバーたちの意思を慮って、起こるはずだったスレイン法国との衝突を回避させるように働き掛けたのだ。

 

 シモベやアインズ様の心を守るために、両親の不遇の死をナザリックに対し隠滅したのだ。

 

 ユグドラシルにおけるモモンガ様の在り方を誰より愛したからこそ、許されざる野望を抱いたアルベドの憎悪を黙認したのだ。

 

 

 彼女の言動を擁護するつもりはない。

 どれだけ美しい行為であれ、結局は身勝手で碌でも無いやつだと心底思う。

 しかしきっと、パンドラズ・アクターの抱く嫌悪以上にマタタビはマタタビを憎んでいる。

 

 そしてだからこそマタタビは、己と対極の精神を持つアインズ様の在り方を心底から崇拝しているのだ。

 

 和を重んじる穏やかな気質を。

 妄執の怪物となり果てるほどの執着的な愛情を。

 周囲の期待に応えようとする真摯な虚飾性を。

 身内を重んじる当たり前の優しさを。

 世界を躊躇なく蹂躙する残酷なまでの厳格さを。

 

 マタタビがアインズ様に抱くのは溺愛の如き信仰であり、所詮は支配者という器に対し忠誠を強制されているだけのシモベ達とは本質的に似ても似つかない。

 

 そんなマタタビが今、パンドラズ・アクターの創造主への裏切りに憤っている。

 彼女の正当なる怒りは、この上無く皮肉めいた出来事であると言える。

 

『私と違って、あの人は凄い。あなた(・・・)もそう思うでしょう?

 なのにどうしてあなた(・・・)は私の為にアインズ様を裏切るの?』

 

 黒い少女は精神支配アイテムである『黄銅の振り子』をかざしてパンドラズ・アクターにといかける。

 困惑と強烈な義憤に彩られた威圧が、しかし酷く心地よい。

 

『どうして? どうして? 教えてよ。ねぇ、アクターさん』

 

 無論マゾヒズムの感情なのではなくて。

 ただ彼女の怒りが、偉大なる創造主へ向けられた最上の敬愛によるものだからである。

 彼女がパンドラズ・アクターにとって最も好ましい感情を抱いているからである。

 

『ねぇ?』

 

 

 振り子が揺れて意識が揺らぐ。

 ドッペルゲンガーとして素の状態耐性が貧弱であるパンドラズ・アクターは、閉ざしたい本心に反して口元が緩みそうになる感覚を覚える。

 

 精神支配による強制尋問。

 ついぞ【傾城傾国】の支配下に置きながらパンドラズ・アクターがマタタビに為さなかった一線を、彼女はいともたやすく超えるのだ。

 

 こんな理不尽があるものかと逆恨みしながら、パンドラズ・アクターはいつものようにマタタビへの嫌悪を募らせる。

 

 鎖に縛られたパンドラズ・アクターは、精神支配効果によって割りたくもない口を割らされた。

 どうしてパンドラズ・アクターが3つもの裏切りを為したのか。

 その原因を端的に言えば、己がマタタビに魅了されたからという忌々しい事実に集約される。それが魔法的なチャーム状態でないことは語るまでもない。

 

 パンドラズ・アクターは己と彼女の道行きを振り返った。

 

◆eins

 

『皆が戻ってきてくれたらなあ……』

 

 ヴェールのかかった記憶の中で、創造主は誰に言うでもなく小さく零したねだりごと。

 宝物殿に立ち尽くすパンドラズ・アクターだけがその呟きを耳にした。

 

 それはこの世界に来る前で、マタタビがナザリックに訪れる前の記憶だ。

 

 だから実のところ、マタタビに告口されるまでもなくパンドラズ・アクターは知っていた。ナザリックに属する下僕の中で、誰より深くかの絶望的な真相を理解していた。

 

 ある意味において、既にギルドアインズ・ウール・ゴウンは崩壊しているということを。

 

 ユグドラシルからお離れになられた至高の御方々が舞い戻ってくださる可能性は、実際のところ極めて低い。

 だから己の真なる役割とは宝物殿の管理責任ではなくて、この地を去られた至高の御方々の姿を記録することだった。

 

 物証としては、最奥にある霊廟の存在が何より全てを示している。並び立つ御方々の模造を覗き見たデミウルゴスは狂気に片足を突っ込んで著しく心を病んだが、パンドラズ・アクターにとってみれば……ただのつまらない常識だ。

 

 だからこそ、嬉しくないわけが無かったのだ。ナザリックで孤独に墓守を為す寂しがりやな創造主の元に、マタタビが訪れてきたことが。

 

 ましてや聞くに、身を挺して守護者シャルティアを庇うほどのお人好しときたではないか。

 

 アインズ様が彼女を救出する作戦を打ち立てた時、後詰を任されたパンドラズ・アクターはどれほど心を滾らせたことだろうか。

 

 

 

 

 ところがいざアインズ様と彼女の死闘を前にすると、場違いにも思わず見惚れてしまったのだった。

 美麗な剣技から始まり、狙撃術、拳術、魔術スクロール、投擲術、忍術。至高の41人から盗み得たあらゆる技術を、多彩で潤沢な魔道具によって惜しみなく駆使する彼女の戦闘スタイルは、ある意味においてパンドラズ・アクターの目指す完成形だった。

 

 だから彼女の在り方に、パンドラズ・アクターは身が狂うほど嫉妬した。してしまった。

 閉ざされて、活躍の機が無い宝物殿霊廟の武器達や無数のアーティファクトたちが、もしも己の手で真価を発揮できるのならどれほど喜ばしいことか。できるなら、彼女みたいに自由に、縦横無尽に暴れまわりたい。心底羨ましいと、思ってしまうのだ。

 

 

 だけどもパンドラズ・アクターが真の意味で魅入られたのは、彼女の心の在り方だった。

 

『洗脳状態のまま生き続けたいとは流石に私も思わないよ。

 別にあなたさえ殺せれば、私の安否は関係ないんだ』

 

 精神支配にかけられて尚、心中と言う形で抗おうとした鉄の意志。

 

『ふざけんな! 万一あんたが死んだなら、ナザリックの連中はどうなるんですよ! もっと自分を重んじろ。このクソ骸骨が!!』

 

 精神支配にかけられて尚、心底からアインズ様を慮り続けた、彼女だけが持つ思い遣り。

 

 そんな彼女の放つ魂の輝きを前に、パンドラズ・アクターの目と脳は焼けただれて零れ落ちてしまったのだ。

 

『あんた、バッカじゃねぇの』

 

 だからパンドラズ・アクターはアルベドの提案に乗り精神支配で彼女を縛る決断を選んだ。

 とはいえまさかアルベドの姦計通りにギルドメンバーと戦わせるなどもってのほかだ。

 ただマタタビが、ナザリック地下大墳墓から離れないよう縛り付けるためだけに【傾城傾国】を悪用したのだ。

 

 これこそが創造主アインズ・ウール・ゴウンに対して為した、パンドラズ・アクターによる第一の反逆であった。

 

 

◆zwei

 

 

 一つ目の反逆はアインズ様の無許可に【傾城傾国】でマタタビを束縛したことであるが、二つ目の内容はその逆であった。

 

『わ、私は何も知りません。鎧のことも、シャルティアさんを襲った連中のことも、何も覚えていないんです。ほ、本当ですよ?』

 

 マタタビが重大な秘密を隠していることを知ったうえで、敢えてパンドラズ・アクターは彼女の口を割らせなかった。

 

 【傾城傾国】の洗脳効果で素直に口を開かせればパンドラズ・アクターは彼女の全ての知識を得ることができただろう。先に起こる事件も事前に防ぐことも出来たであろう。にもかかわらずそうしなかった。

 

『それに、これでも私は信頼しているんだよ。アクターさんもアルベドさんも、たとえ本当のことを知ったところでアインズ様に不利益になるような真似はしないだろうって』

 

 アインズ様のためという建前を述べるのであれば、パンドラズ・アクターはマタタビの全ての行いを信用していたのだ。

 仮にこの世の全てがアインズ様を裏切るとしても、マタタビだけは味方であり続けるだろうと。だからパンドラズ・アクターは彼女に何の情報も求めなかった。

 

 それどころか彼女の支配権がアインズ様に渡ることとなった際、アルベドに口添えして妨害まで働いた。

 

 そしてそれが間違いではなかったのだと、今でもなおパンドラズ・アクターは信じている。

 結果的に裏目に出てしまったにせよ、マタタビの黙秘する判断はこの上なくナザリックを慮った決断であったから。

 

 だからマタタビという人物の在り方が損なわれること、アインズ様にとってこれ以上の損失はあり得ない。

 そのように確信している。

 

 これが二つ目の反逆である。

 

 

 

◆drei

 

 そして三つ目の反逆は、パンドラズ・アクターただ一人でタブラ・スマラグディナへの暗殺を企てようとしたことである。

 

 白金の竜王との手続きを済ませたのち、マタタビとともに佐々木夫妻の墓を開いたその時。

 

『どうかなさいましたか』

 

『頭が軽い』

 

 パンドラズ・アクターはタブラ・スマラグディナが犯した悍ましき大罪を理解してしまった。

 

 タブラが佐々木夫妻の死に関わり、あまつさえ御遺体を食んだという最悪の事実を知ってしまった。

 

 許せるわけがない。

 百歩譲ってアインズ・ウール・ゴウンからお離れになられたことも、異世界にて見知った佐々木夫妻の力にならなかったことも目を瞑ろう。終焉した関わりに拘泥するほうが少数派なわけであるから。

 

 しかし、かつての仲間を己が都合で手にかけ、ましてやその者の死体を啜り食む外道なんぞをどうして許すことができようか。

 

 こんな惨状、今までナザリック地下大墳墓を維持し続けていた己が創造主があまりにも報われない。

 そして歪ながらも健やかに親の安寧を願っていたマタタビにとって、この上ない最悪の現実だ。

 

 だからパンドラズ・アクターは即座に暗殺を決意した。

 アインズ様に全てが知られる前に迅速に、かつマタタビの手を復讐の血に穢れさせないよう一人っきりで。

 

 佐々木夫妻の墓前にてタブラ・スマラグディナへの復讐を固く誓ったのである。

 

 そのために最初に為さねばならないのは、真横にいるマタタビを無傷で無力化すること。

 

『お覚悟を』

 

 だからパンドラズ・アクターは即座に弐式炎雷に変化して、マタタビの首筋に鋭い手刀をきりこんだ。

 

 けれど当たり前のようにマタタビは、弐式炎雷の不意打ちに反応する。

 端から勝てる勝負だとは思っていない。肉体的にも心情的にも。

 ましてや不意打ちなどという、彼女の土俵で戦ってはなおのことだ。

 

 マタタビは鮮やかに背後から忍び寄る手刀を掴み返し、捻りながらの背負い投げ。

 

 地面にたたきつけてから、パンドラズ・アクターの頭部に『スタンガン』を押し付けて電撃を流す。

 脳への直接ダメージにより弐式炎雷への変身は解除された。

 

 変身解除されたドッペル・ゲンガーは雑魚そのものだ。

 

 おそらく神器級アイテムであろう『拘束錠』で縛り付け、彼女ののスキル『魔力泥棒』でMPをゼロまで抜き取られた。

 

 結局のところ見事見事に返り討ち。

 無力化されたのはパンドラズ・アクターのほうである。

 

『……できるわけないでしょうが。頭良いのにそんなこともわからないの?』

 

 できる出来ないの問題ではない。

 これは誰にも覆せない感情論なのだ。

 

 アインズ様の意向に背こうと、タブラへの単独強襲が無謀であろうと、マタタビの生け捕り無力化など不可能であろうとも。

 

 

 マタタビと言う存在がナザリックの舞台に降り立って以降、まるで止まっていた時が動き出したかのように多くの者たちが変化していった。

 アインズ様はもちろんのこと、アルベドやデミウルゴスやシャルティア・ブラッドフォールンなどの階層守護者達。プレアデスや一般メイドの使用人たちもそうだ。

 目には見えないが、無視も出来ない大きな内的変質がマタタビとの関りによって引き起こされていることは間違いのないことである。

 

 その最たる代表例こそが、パンドラズ・アクター自身に他ならない。

 

 

◆vier

 

 彼女の第一声は呆れ果てたような枯れた呟きだった。

 

『それがアクターさんの答えですか』

 

 マタタビはティーテーブルの椅子にゆったりと腰かけながら、縛られたパンドラズ・アクターの赤裸々な自白を聞き届けた。彼女が自分用に淹れたナザリックの高級茶は、口をつけることなく冷めてしまっていた。

 

『……正直信じられないのですけど』

 

 辟易しながら改めてマタタビは、5円玉に糸をくくり付けた見た目の精神支配マジックアイテム『黄銅の振り子』をパンドラズ・アクターの前で揺らしてみせる。

 ドッペルゲンガーの素の状態異常耐性は、レベル100の風上にも置けないほど脆弱だ。

 

 【傾城傾国】のような強力なアイテムでなかろうとも、このようにして割りたくも無い口を開かせるのも容易い。

 

 これでは本当にいつぞやの精神支配騒動の顛末の、真逆の立場ではないかと思う。

 どんな理不尽な因果であるか。

 

『今言ったこと、嘘じゃないのね』

 

『…………アインズ様の御名に誓って』

 

『裏切者がよくおっしゃるわ』

 

『お嬢様にだけは言われたくありません』

 

 空元気に皮肉を返しながら、パンドラズ・アクターは彼女の言葉を心の底で首肯した。

 

 我ながら本当に何をやっているのだろうか。

 

 己はナザリック地下大墳墓に存在するシモベの中で、唯一アインズ様の被造物として生み出された存在だ。

 他の御方々を創造主とするシモベ達と違って、純粋にアインズ様ただ一人に尽くすために存在するのだ。

 

 完全無欠でなかろうと、人並みに愚かであろうと、何より美しく慈悲深い最高の主人にして愛すべき父。そんな御方をパンドラズ・アクターは3度も裏切った。

 

 よりによってマタタビという最悪の存在のためにである。

 こんな、小生意気で口が悪く態度が横暴で人の忠言を聞き流し集団の和をズタズタに引き裂く協調性のかけらもない社会不適合者で一時の感情的判断で周囲の足を徹底的に引っ張りまくり、ギルド破壊という最悪の悪趣味を嗜み潤沢な魔道具を蓄えた最悪の簒奪者で、至高の41人の輪から追放されながら盗み得た技術を悪辣に駆使し、誰よりアインズ様を深く理解し尊敬していながら与えられた恩義を容赦なく仇で返し、パンドラズ・アクターやほかのシモベ達の心を容赦なく揺さぶる最悪の存在のためにである。

 

 

『冷静沈着なアクターさんらしくありませんね。頭の中がぐちゃぐちゃだ』

 

 

 パンドラズ・アクターの心根を見透かすように、マタタビの透んだ瞳が細められる。

 誰のせいだという、沸き上がる憤りを喉元で精一杯に飲み込んだ。

 

『…………』

 

 誰のせいかと言われれば、マタタビの仕業ではなくパンドラズ・アクター自身の問題なのだから。アインズ様の御手で知恵者として創造されておきながら、信じられない体たらくだ。

 

 この世に存在することすら無意味に思えて、パンドラズ・アクターはマタタビに願った。

 

『殺してください、どうかあなたの手で』

 

 正しくいられないのなら、いっそ終わってしまいたかった。

 そしてマタタビの手で引導が渡されるならば、間違いだらけの彼女が一歩『正しさ』に近づけるのだから、我ながら上等な死に様だと考えられた。

 

 しかしパンドラズ・アクターの細やかな願望は、頬に叩きつけられた柔らかい平手打ちによって否定される。

 

『私がそんな戯言に付き合うと本気で思ってるの?』

 

『……返す言葉もございません。お嬢様には叶えようもない過ぎた願いでした。』

 

 甘ちゃんなマタタビがパンドラズ・アクターを手にかけるなどありえなかった。

 我ながら本当に思考回路が終わっている。

 

『では……それならば……』  

 

 排泄物が詰まった脳味噌を絞り込むようにやけくそで頭を回転させた。

 そして十数秒考え込んで、ようやく抽出できたのは便器の小便にも劣る疑問文だった。

 

『私はどうしたら良いのでしょう』

 

『したいようにしなさいよ。アクターさんは自由なんですから』

 

『はは』

 

 パンドラズ・アクターの深い懊悩を一瞬で跳ね返すマタタビ。

 その容赦のなさに、思わず乾いた笑いが口を衝いた。

 

 反してマタタビは真剣なまなざしでパンドラズ・アクターをじっと見据えた。

 

『シャルティアさんもセバスさんもデミウルゴスさんもだれもかも、あなたたちNPCの皆様方が間違いを犯す原因は、自分が何者かわかっていないからです』

 

『何者か? そんなものは……』

 

 至高の御方に使える忠実なるシモベ、それ以外のアイデンティティをパンドラズ・アクターは知らなかった。きっとナザリックの誰しもが同様だろう。

 

『違います。あなた方はそんな高尚な存在ではない。その認識差こそが我々をこの地に招いた何者かの大いなる悪意であって、救いがたく馬鹿々々しい『勘違い』ってやつなのですよ』

 

『……勘違いですか』

 

 忠実なるシモベ、ではない。高尚な存在、ではない。

 

 本来は怒るべきなのだろ。檄を飛ばすべきなのだろう。否定するべきなのだろう。

 しかし今のパンドラズ・アクターにはできなかった。だって心当たりが多すぎる。

 

 マタタビの言い放った致命的なフレーズによって、パンドラズ・アクターは己の内の枷が外れるように感じた。

 

『私から見てあなたたちNPCの皆様方は、まるで――』

 

『――まるで褒められたがりの、考え無しな幼子のよう……違いますか?』

 

『そこまで言うつもりはなかったんですけど』

 

 マタタビは大きくは否定しなかった。それから彼女ははふんぞり返って冷めた紅茶を不味そうに啜る。

 その冷めた表情は直情的ですぐ表情に出る彼女にしては珍しく、なぜかアインズ様の御姿が重なって映った。

 

 

『じゃあ、どうぞ続けて?』

 

 

 パンドラズ・アクターは数秒の間をもって言葉を整理し、やがてゆっくりと口を開いた。

 思考の淀みはすっかりと水底に落ち着いていた。

 

『我々は御方に尽くす為に生まれてきたのではありません。御方に尽くすことによって、己の心を満たす為に存在しているのです』

 

『うん? 自分が満足するために行動するのは、誰だって当たり前のことですよね』

 

『おっしゃる通り当たり前です。例えば人々が美食を求めるのは美食そのものが目的ではなく、味覚と満腹感などから得られる幸福感を求めてのことですから』

 

 純粋に『美食』という概念を欲する者など存在しないように、『尽くすためだけ』に行動するシモベなど存在しない。

 

 本当の意味で尽くす為に生み出された存在があるとすれば、それはデスナイトのような機械的に目的のため行動する召喚獣を言うべきである。

 彼らの行動原理には、ナザリックのシモベ達のような欲求的判断は介在しない。ある意味忠誠の理想形とすら言えるだろう。

 

『ですが我々はその第一歩の思考を間違えていた。我々の中にある不可解な未熟さ(・・・・・・・)がそのような過ちを引き起こしたのでしょう』

 

 

 

『……まぁいいでしょう。続けなさいよ』

 

 マタタビは何かを言いかけて、結局何も言わずに話の先を促した。

 

 

『意志あるものは目的のためでなく、目的の先に得られる感情を求めて行動します。子供でも理解できるような簡単な理屈です。しかしそれができなかったからこそ、ナザリック大地下墳墓のシモベ達は間違いを犯し続けました』

 

 パンドラズ・アクターは自らの愚かさを噛み締めながら、再び話し始める。

 

『どんな知恵者でも自己理解をおろそかにすれば失敗します。デミウルゴス殿は『活躍したい』という欲求を暴走させ、御方の些細な言動から世界征服計画なぞを拡大解釈してしまいました。

 シャルティア様は御方の失望を恐れたがゆえに、功を焦って漆黒聖典に無謀な突貫を

してしまいました』

 

 自分たちは機械ではないのだ。自由意思によって感情で動く限り、非合理的な間違いは犯しうる。

 誰が言ったか『白を黒と言えば黒になる』なんて、とんでもない欺瞞である。

 

『忠誠心など、結局それは無数にある感情の大きな一つでしかありません。尽くせる行動にも限界があります。

 いくらアインズ様がナーベラル・ガンマに人間への社交性を求めようとも、生まれついての人間嫌いという悪感情を排することは困難です。

 

  また一秒一刻常に忠誠を意識しながら行動できるわけでもありませんので、セバス様がツアレ・ニーニニャを拾ってきてしまったような失敗は今後も起こり得るでしょう。そして何より――』

 

 忌まわしい、救いようのない最悪の醜態。口にするのも憚られる、中途半端で滑稽極まりない己のあり様。

 どんな凄惨な語彙で語ろうか思案するより先に、マタタビはパンドラズ・アクターの口を右手で塞いでしまった。

 

『アクターさんやアルベドさんがアインズ様の意に反したのは、あの人の意志よりも己の判断を優先したからです。他のいろんな失敗と一緒にしてはいけません。

 アクターさんは知っているのでしょう? アインズ様は完璧じゃない。とっても優しいし、尋常じゃないくらい先を見据える賢い人ではあるけれど、視野は狭いし、私やあなたたちと同じように間違いを犯すの。お二人の行動が正しいか間違ってるかなんて、誰にも決めることはできないの』

 

 マタタビは優しく微笑んだ。その笑みはまるで母親のように温かく慈愛に満ちたものだ。ただすぐにパンドラズ・アクターは己が母親を知らないことを思い出した。

 

『似たようなこと前にも言ったよね? もう忘れたの?』

 

 そうだ、自分は自分の判断でアインズ様に敵対した。

 アインズ様のためにマタタビを【傾城傾国】で縛り付けたし、アインズ様のためにマタタビの自由を守り通したし、アインズ様のためにタブラを殺す覚悟を決めた。

 

 それは間違いなく己の恣意的な意志によるものなのだ。ならば、今己の胸を締め付けるこの痛みの正体は一体なんだ?

 どうして今更、アインズ様への反逆に後悔なんてするものか。葛藤なんてすでに通り越した境地にあるというのに。

 一つの結論に至り、マタタビがかつて仮定した法則の名を口にする。

 

『……【創造主への優先】』

 

 パンドラズ・アクターは生まれて初めて、自分の心が正体不明な何某かに絡めとられている感覚を知覚した。

 心の底から怖気が走り、身震いのせいで鎖がガチャガチャと揺れ動く。

 

 

 マタタビはパンドラズ・アクターの顔に当てていた手をどける。

 その表情にはどこか晴れやかな、憑き物の堕ちたような明るい色合いがあった。

あるいは己の心情変化から感じているだけなのか定かではない。

 

 

 

『どうしたら良いでしょうかと、アクターさんは聞きましたよね』

 

マタタビは紅茶を飲み干すと、ソーサーの上にカップを置いた。

 

『自分の行動の意味を理解したあなたには、3つの選択肢が見えるはずです』

 

『3つですか』

 

 マタタビは鷹揚にうなずく。

 そして彼女は自らの指を三本立てて見せた。

 

『シモベとしてアインズ様の意向に従順に尽くすのか。それとも御自分のお考えを突き通しアインズ様をタブラから守るのか。あるいは……』

 

 そこで言葉を切り、マタタビはパンドラズ・アクターの目を覗き込むように見つめてきた。

 あるのは、全てを受け入れて許してくれるような慈悲深い眼差しだ。

 

『あるいは私を選んで、私と一緒にナザリックを滅ぼしてしまうか、です』

 

 

 マタタビはそう言って悪戯気に微笑んだ。パンドラズ・アクターは自らの鼓動が高鳴ったのを自覚する。

 それは期待にだろうか? それとも不安にだろうか?

 

『……ハハハ』

 

 ナザリックを滅ぼすなどという不敬極まる最悪の野望を耳にして、怒りや恐れ以外の感情を抱く自己の心の在り様が不思議でならない。

 きっと心のどこかでマタタビに対するポジティブな期待感を忘れられずにいるから、こんな反応をしているに違いない。

 

 どうせまた傍迷惑な優しさとか碌でも無い善意の暴走によってそのような結論に落ち着いたのであろうと、パンドラズ・アクターは確信しているのだ。

 アインズ様という神に対して己は救いようもないほどに背信的で、悪の道を指し示すマタタビはどうしようもなく悪魔的だった。

 

『アクターさんがこれから選ぶ決断は、ナザリックとアインズ様の今後のすべてを大きく左右するでしょう。容易に決められるものではありません。ですので私からの恩返しを兼ねて、アクターさんにはプレゼントをお送ります』

 

 マタタビは袖下から洗脳系マジックアイテム『黄銅の振り子』を取り出してパンドラズ・アクターの眼前で左右に振るった。

 振り子はゆっくりとした速度で、円を描くような動きで右回りに回転を始める。

 

 それから信じられない文言をマタタビの口が繰り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『「タブラ・スマラグディナに変身して私の脳髄を啜りなさい」』

 

 

 

 パンドラズ・アクターは驚愕に大きく目を見開く。

 ありえない。彼女は今、パンドラズ・アクターに己の記憶と経験の全てを差し出そうとしているのだ。そんな行為、自殺と変わりが無いではないか。

 

 パンドラズ・アクターは必死になって抵抗しようとするが、その意思とは裏腹に体は勝手にタブラの姿へと変わっていく。憎き仇の姿へと。

 反論に口を開くこともままならず、パンドラズ・アクターは憤怒の視線を込めて心の中で盛大に叫んだ。

 

──何故?!  いったい何を考えているんですか?!!

 

『何故ってそりゃあ……』

 

 声にならない言葉を、しかしマタタビは当然のごとく聞き入れてから鷹揚と答えた。

 

『アクターさんがしっかり考え決断できるように、そして選んだ選択肢を確実に遂行できるようにと、ささやかながら御膳立てさせていただく次第です』

 

 

 その返答を聞き、パンドラズ・アクターは悟る。

 彼女は本当に自分のために記憶の全てを捧げるつもりなのだ。

 

 ただただ狂気の沙汰である。

 

『あなたには今から憎きタブラ・スマラグディナに変身し、私の脳味噌を貪っていただきます。

 そうすれば私は脳味噌すっからかんの何もできない植物人間。回復魔法をかけない限りは無防備のまま一切身動きもとれません』

 

 マタタビは再度三本指を突き立てる。

 

『さっきも言ったとおりですが、アクターさんがそこから選べる選択肢は主に3つです。

 一つは全てをアインズ様に委ねること。私の記憶にはナザリックの存在を揺るがす重大な秘密が眠っています。

 これ以上アインズ様に逆らうことが嫌ならば、無力化されている私と一緒にアインズ様の〈記憶操作(コントロール・アムネジア)〉を受け入れることで、アインズ様の御判断に全てを委ねることができるでしょう。

 アインズ様のお役に立てる従順なシモベであろうとするならば、これが一番正しく賢い選択です』

 

『二つ目は、先ほどの決意通りにあなたが一人でタブラへ復讐を為すこと。

 このタイミングで私から記憶を奪い取ったアクターさんならば十分に可能です。

 私を脳カラ状態のまま放置しておけば、

 アインズ様が何も知らないこのタイミングであれば、

 私の記憶というアドバンテージを最大限利用して、

 タブラを一人で暗殺できるでしょう。

 全てを一人で背負いたいと強く願うのならば、この選択を進むといいでしょう』

 

『三つめ目は、私と共にアインズ様を裏切って、ナザリックを滅ぼす最悪の共犯者になることです。計画の詳細は私の脳味噌を吸ってご理解ください。

 アクターさんが私の内面を全部理解したうえで、それでも私の意志を選んでくれたならば……正直とても嬉しいです。身勝手ながら、どうか期待させていただきますよ』

 

 まるで初恋の少女の如く、マタタビは照れたような微笑みを浮かべた。今成そうとしている蛮行を前にあまりにも自然的すぎる所作に悍ましさすら覚える。

 徹底的にパンドラズ・アクターの意志を無視して、同時にパンドラズ・アクターの決断だけを重んじる。

 

『わかりますか。つまり私の選択とは、あなたの意思に全てを委ねることです。これが今の私にできる精一杯の恩返し。

 私の命をつなぎ留め、私の意志を誰より信じてくれたアクターさんへの精一杯の祝福です。

 アインズ様を選ぶか、自分自身を選ぶか、それとも私の意志を選ぶか。どうか一番望ましいものをご自由にお選びくださいな』

 

 それはある種の暴力だと言えた。

 マタタビはパンドラズ・アクターの思考を蹂躙するように、その選択肢を押し付けてくる。

 だが、それでいて彼女の瞳はどこまでも優しく、慈愛に満ちたものだった。

 

 

 パンドラズ・アクターの拘束錠をゆっくりと解いてから、その首裏に両手を回すマタタビ。

 唇が触れ合うほどに顔を近づけ、彼女は囁くように言う。

 

『私が誰かにキスするなんて……夢にも思わなかった』

 

 まもなく柔らかい繊細なものが触れ合って、異形ブレイン・イーターの触手が喉奥から彼女を貪ろうとせりあがる。

 しかしマタタビは自らの舌を絡めながら、容易にそれを受け入れた。

 

 

 

 そしてパンドラズ・アクターは知ることになる。

 ナザリック地下大墳墓とユグドラシルのすべてを。アインズ様と至高の41人の真相を。

 マタタビの生涯全ての経験と、傲慢で強欲な深い愛を。

 

 実際のところパンドラズ・アクターには一切の選択の余地なんてなかったのだ。

 何を選ぶかなど考えるまでもないことなのだから。

 

 

 


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