風を切って青い平原を掛ける抜ける馬車の中。
馬車と言ってもマジカルパワーで揺れも無ければ酔いもしない、そんな豪華寝台列車の室内みたいな快適ルームで、マタタビはぼんやりしながら椅子に腰かけていた。
櫛で優しく解かしてから、ツインテールやらポニテやら夜会巻きやらお団子やらと好き放題だ。
「ふーん♪ ふーん♪ ふーん♪」
「……プルル……フルル…」
思いのほか心地よい彼女の手の感触に意識を預けながら、マタタビは感傷に浸って思い起こす。
自分の頭髪を誰かに触れさせるのは一体いつ振りのことだろうかと。
これは一度リアルの電車で痴漢されて知ったことだが、どうにも桜は胸とか尻とか以上に頭を触れられるのが嫌な性分であるらしい。(痴漢野郎の睾丸を握り締めてやり返したのは言うまでもない)
それくらい、桜は床屋とか美容院とかに縁がなかった。
なので桜は伸びた髪の毛を全部自分で処理していたのだ。リアルでは女っ気の一切ないベリーベリーなショートヘアーである。シャンプーも少なくていいしガシガシ洗えて超楽である。
そんな桜以外に桜の髪を手入れしたのは、10年前に家出して以来顔も見ていない母さんしかいなかった。その時までは今のマタタビみたいに煩わしい長い髪をしていたものだ。自立して以降の桜を見たら、男みたいな髪型に母は卒倒するに違いない。
自分で言うのも変な話だが、つまるところ、マタタビはシャルティアさんに対してそれなりに気を許しているということなのだろうか。
「ゴロゴロゴロ……にゃふー」
まぁ単に気を許しただけで頭髪を許すほど私は安い女ではないのだが。
このような現状に甘んじているのはそれなりの訳がある。勘違いされたくないが、甘んじてるだけで甘えてる気は毛頭ない、毛髪だけに。
またその訳というのが厄介で、今の私が不満を抱いているのはまさしくソコだった。
「……こんなのが、スレイン法国と内通していた私への仕置きだとでもいうのですか。肩透かしどころではありませんよ」
「ん-」
言葉を詰まらせたシャルティアさんの代わりに、窓際に腰かけていたアウラさんが口を開いた。
「確かにあたしとシャルティアは、あんたとスレイン法国の処遇をアインズ様から一任された。
でもぶっちゃけ扱いに困るんだよね」
「アインズ様本人が私に何もしなかったから?」
「一番の理由はそう。スレイン法国関連で身勝手をやったあんたの処罰を直接の関係者であるあたしたちに委ねたのは、アインズ様なりに筋を通してくださったからだと思うんだ。
でも、だからと言ってアインズ様の慈悲を受けてるあんたを過剰に罰するわけにはいかないでしょ」
「……それで、この羞恥プレイが手打ちということですか」
「いいじゃん可愛いんだから」
「本気で言ってるの?」
マタタビは己の足元にかけられたふわっふわなフリルスカートを握りしめる。
壁面に取り付けられた姿見を見ると、赤黒いゴシックロリータドレスを身に纏った猫耳少女が椅子に腰かけて仏頂面を晒していた。
服はシャルティアさんがペロロンチーノから与えられたコレクションの一つらしい。もしこの姿を奴に見られたらと思うと恐ろしくて敵わない。
例のメイド服用にホワイトブリムが形成したマタタビのキャラクターデザインは、それはもうプロの御業というだけあって信じられないくらい可愛いものだ。プレアデスや一般メイドの皆様にだって比肩するレベルだろう。
けれどその本性がクソドブカスであると誰よりも知っているマタタビにとって見れば、ゾンビにボディペイントを塗りたくってるのと同じである。
猫耳と尻尾が生えているのは、常時発動していた人間化を限定的に解除させられているからだ。
きっと恐らくそのせいで、かなり高い確率でと可能性で、今の私はビーストテイマーであるアウラさんが纏うオーラの影響を受けやすくなっている。うっかり理性を手放そうものなら今にも彼女の頬擦りすることになるだろう。
しかし気付くと、腰から伸びる尻尾だけが何故かシャルティアさんの足元へと絡んでいる。身勝手に蠢く黒い尻尾。腹が立つので仕置きとして赤いパンプスで踏みつけたところ……すごく痛い。
「……うぅ。しかしこれ、手打ちされる方としては色んな意味で釈然としないんだけど?」
「ふふ、素直じゃないでありんすね!」
なんでシャルティアさんがこうも得意げなのか首をひねっていると、アウラさんが横やりに答えてくれた。
「あぁコイツね、自分が失態を犯したことについてでアインズ様に罰を求めたの。
そしたら罰とは名ばかりのご褒美を頂いてしまったから*1
今のあんたみたいにモヤモヤしてさ。
だから自分も同じことしたくなったんじゃないのかな?」
「ア! アウラ!?」
「…………ふーん」
顔を赤くするシャルティアさんのことをアウラさんはニヤニヤと見つめる。
微笑ましい話ではあるが、さらに状況が訳分からなくなってきた。
「アウラさん。さっきは一番の理由なんて言ったけどさ、アインズ様の御意向とあなたたちシモベの感情は全く別ベクトルでしょう? だのに何故、あなたたちは私に友好的であろうとするのですか?」
この世界において現実化されたNPCは、様々な精神的制約を掛けられているにせよ、当たり前のようにそれぞれの価値観を有する普遍的な一個人だ。
いくらアインズ様が白を黒と言い張っても、然り然りと表面的に同調することはあれど、奥底で白を白と感じる心は無くせない。いくら言われても人間嫌いを治せないナーベラルさんみたいに。
「諸々の事情があったにせよ、私はあなたたちを殺しかけた。
そしてその根本の原因であるスレイン法国のことをアインズ様とあなたたちに敢えて隠蔽してしまったのは事実だ。
これではある意味、私があなたたちの敵陣営に回ってしまっていると言ってもいいんです。
もう一度聞きますが、どうしてあなたたちは私に友好的であろうとするのですか? 非常に理解に苦しみます」
マタタビの頭上を蠢く小さな手がふと動きを止めた。
「それはおんしが、わたしのことを本気で助けようとしてくれたからでありんすよ。
身を挺してまで、全速力で。ウソ偽りも打算も無く」
「ごめんなさいね。打算が無かったからこそ、考えなしに被害を拡大させたんだし」
「もう、御託はよしなんし。あなたは絶対に敵じゃありんせん。それぐらいは、刃を交えればわかるでありんす
このスレイン法国のことだって、何か考えがあったんでしょう? 大事な訳が」
「無いですよそんなもん。訳なんて……私がクソ甘ちゃんの反吐が出るような非殺生主義者だから。
そしてそんな自分だとアインズ様に知られるのが嫌だったから。だからあなたたちを裏切った。これが、大事な訳だと思う?」
◆◇◆
呆れるほどに蕩け切ってシャルティアに撫でられていたマタタビだが、会話が核心に迫るにつれて生やした耳も尻尾もぞわぞわと毛を逆立てた。まるで飼い猫と借りてきた猫が入れ替わったかのような転身だ
アウラはそんな彼女の姿に、傷を舐めて傷口を広げたり化膿したりする馬鹿な獣の習性を想起させた。
「大事なんでしょ、あんたにとっては。だからこんなバカな……いやこんな行動をとったんだ」
「……かもね……私が考えなしの甘ちゃんバカで、それを反省してアインズ様に全部白状した。話はそれだけです。もういいでしょう? こんなこと」
「「よくない!!」でありんす!」
アウラとシャルティアは声を合わせて否定する。
マタタビが大事な何かを隠しているのは火を見るよりも明らかで、しかしどうしても口を割る気はないようだ。不敬だけれど下手をしたらば、アインズ様ですら事の真相を知らないのかもしれない。
マタタビがただの敵であれば気が楽だった。味方だったら、気苦労はするが頼もしく思えただろう。
しかし今の彼女はどちらでもないのだ。とても残念なことに。
「……もういいわ、あんたから話を聞くのは諦める。代わりにあたしの話を黙って聞いてて」
「どうぞお好きに」
マタタビは神妙に目を細めてから投げやりなため息をついた。
だがその気だるげな態度の中に明らかな怯えの色があるのをアウラは見逃さない。
彼女はいつもこうだ。誰に何を言われても、どんな時でも自分の意思を曲げない。そしてその考えは往々にして、利他中心的なものなのだ。
だったらそんな相手には、歩み寄ってやるしかないだろう。何を考えどうしたいのか、言動から読み取らなければいけない。
アウラは、この世界に来る前から今までの全ての記憶を動員してマタタビのことを考えた。
自分は決してデミウルゴスやアルベドのように巧く頭は回せない。
それでも、これまでの彼女を取り巻く様々な変化には、見逃せない程の数多くのヒントがあった。
正しいのかはわからない。それでもこれが、アウラなり考えた出した一つの結論だ。
「マタタビってさ、あんころもっちもち様の御息女か妹君であらせられたりする?
いやこの場合なされますか、かな」
「うぇー!? そうだったでありんすか!?」
「黙ってシャルティアさん。アウラさんも、藪から棒だね。どうしてそう思ったんですか」
「本当に あんころもっちもち様かはわからないけどさ。少なくとも、至高の御方々のどなたかの親族だろうなって確信はしてる。
アインズ様は他の至高の方々と同じように対等な雰囲気であなたに接していたから」
立場としては、ユリ・アルファの創造主である やまいこ様の妹君、あけみ様が一番近いだろう。
彼女は何度かナザリックに招かれて、その時はアウラも今のマタタビみたいに着せ替え人形を勤めていたのを憶えている。
「それに最近のアルベドとデミウルゴスのあなたへの扱いも、ちょっと恭しすぎるから。この間玉座の間でわかったけど変な勘違いだってしてたみたいだし」
「そういえば、ごく一部でアインズ様とマタタビが婚約なさるっていう根も葉もない噂が流れてたんでありんしたね。
……まさかアルベドが鵜呑みにしてるとは思いもしなかったでありんすけど」
「でもほら、マタタビの立場をアルベドが知っていたとしたらそこにも合点が行くでしょ。
いくら階層守護者統括でも、至高の御方々と直系の親族であると知ってしまえば自分よりも相応しいとか思っちゃったんじゃないのかな。わからないけど」
シャルティアは腕を組んでうーんと顔をうならせた。
「どうでありんしょう。あのアルベドがそれくらいのことで妃の座を譲るとは思えないでありんすが」
最近のアルベドは、例の精神支配の一件があってから、アウラたち他のシモベとどこか距離を置いてる節があった。
少し前にだって、休日にナザリック内を散策しないかとシャルティアと二人で誘ったが断られてしまったぐらいである。
何を考えていたのか少しつかみどころがない。
「………うーんー」
一方でマタタビはというと、露骨な動揺が顔に現れていた。アウラは知っている。マタタビは隠し事はよくするが、すぐ顔に出るので嘘をつくことは出来ないのだ。
本当に あんころもっちもち様が親族なのかはわからない。だがきっと当たらずとも遠からず、と言えるのだろう。
ともかく話を続けよう。
「先日、アインズ様があなたとの噂を払拭された後、世界征服計画の指令も否認なされたよね。
あの後、メイド長のペストーニャがこっそりあたしに言ったんだ」
『……とても言いにくいことなのですが、正直なところ世界征服計画が無くなってホッとしました、ワン
アインズ様はお強い御方。目的の為とあらばこの世界の人々を躊躇なく踏みつぶしたことでしょう、ワン。
もしそうなれば……極めて不躾な事でありますが、私は御方に反旗を翻さねばなりませんでした。
それが、あんころもっちもち様に生み出された私の在り方ですから……ワン』
「ここからは完璧にあたしの妄想なんだけどさ。
仮にペストーニャの創造主である あんころもっちもち様が、非殺生主義者だったとするね。
それを御息女か妹君であらせられるマタタビは知っていて、でもアインズ様しかおられない今のナザリックでそれを主張することはことは出来なかった。どう日和って考えてもこの世界で非殺生主義なんて現実的じゃあないしね。
だからできる限りの抵抗として、アインズ様がスレイン法国へ報復しないように色々隠してたんじゃないのかな。
どう? あたしの考えはどのくらい当たってるかな?」
アウラの問いの回答は、マタタビが口を開くまでもなくわかることだ。
どんな表情に変化するやら顔色を窺っていると、思いもよらぬ意外なものに変化した。
「や、やだ! 泣かないでよちょっと! 困るって!」
「……ひぅ、……。ぐずっ、別に何が悲しいということもありません。最近流行りの花粉症です」
「カフンショウって何よ! わたしだってもっとマシに嘘付けるわ!」
眼を急に真っ赤にして涙を流すマタタビに、思わずシャルティアまで素になって心配をする。
それから無駄に強がるマタタビをひとしきり宥めてから、アウラとシャルティアは彼女の言葉をゆっくりと待った。
無駄に厚い面の皮で、さっきの泣きじゃくりが嘘のようにキリッとした態度でマタタビは口を開いた。もっとも目じりだけは湿っているので台無しだが。
「わかりました。白状できるところまでは最大限お話しします。
ご明察の通り、私は至高の41人のどなたかの娘です。あぁでも少なくとも、ぶくぶく茶釜様でもペロロンチーノ様でもありませんからそこはご安心を」
「そこは安心するところなの?」
「えぇそうですよ。何せ最近分かったことですが、どうやら私の実の親はこの世界で悲運の死を迎えていたそうですから」
「「!?」」
アウラとシャルティアの間に驚愕の波紋が広がる。
至高の御方の悲運の死という衝撃の事実。
「嘘……」
「……そんな」
二人は言葉を失う。それはそうだ。マタタビが指しているのが誰かはわからないにせよ、至高の41人はだれしも偉大で強大な存在なはずなのだ。それが、悲運な最期を迎えるなど想像もできない。
41人すべてがナザリックに揃う日が永遠に失われてしまったのかと、そんな信じがたい悲劇が起きてしまったなんて信じたくない。信じられるわけがない。
「本当の、ことです」
しかしマタタビの言葉が、仕草が、表情の淀みが、全てがそれを真実であるのだとアウラたちに突き付けてくる。
マタタビは隠し事は多いが嘘だけはつけないのだ。その彼女が言う以上、信じるしかないのだろう。
深い深い絶望が、アウラとシャルティアの心に影を差した。
「……重ねて申し上げますが、どうかご安心くださいね。私の親はぶくぶく茶釜様でもペロロンチーノ様でもありませんから」
「でもそれじゃああんたが! ごめん! あたし、酷いことをあなたに聞いちゃった!」
「気にしないでください、と言っても無理がありますか。ただ今は一応、アインズ様が何とかする方向で動いてくださってるので」
「蘇生、できるんだよね?」
「簡単ではないけど、出来るらしいよ。ともかくこれ以上はノーコメントです」
話したくないし本題からそれるので。
安堵の息を共に吐いたシャルティアとアウラに、そう言ってマタタビはバッサリと言葉を切った。
それから立ち上がったマタタビは壁まで歩き、遠い目で流れる車窓の景色を追う。
ゴスロリ服をまとった彼女の立ち姿はしかし、何時にも増して誰よりも大人びているようだった。
「……うん、ごめんわかった。続けて」
アウラが促すとマタタビはにっこりと、けれど物憂げに微笑んで二人を見た。
「まぁこの後は大体アウラさんのご明察そのまま。私の親はねぇ『誰かが困っていたらたすけるのは当たり前』なんて、不細工な信念を抱いていたんですよ。力ある者は弱きものをできる限りたすけなければいけないとか、力ある者には責任が伴うとか、頭の痛くなるような甘い理想論ばかりです」
マタタビは皮肉めいたことを言いながら、それでもどこか懐かしそうな表情を浮かべていた。
「もし私がそのことをアインズ様に話してたら、アインズ様は心を痛めてナザリック全体の運営をそっち方向に向けていたでしょう。
でも、私は思った。いくら私のお父さんでも、もう帰って来れない御方の極めて偏った思想なんて、アインズ様の耳に入れる価値はないだろうと。だって虚しいじゃないですか。たとえどんなにアインズ様やあなた達が父の理想に準じて振る舞っても、戻ってこない父がそれを喜ぶことはないのですから
だから私は、私だけが父の心を忘れないでいればいいと思ってました。ええですから、全部アウラさんのおっしゃる通り、スレイン法国のことはその抵抗です」
そこまで一気に喋ると、マタタビは恥ずかしそうに笑う。
それは、今まで見たことがないぐらい可愛らしくて優しい笑顔だった。
「バッカみたい」
「大馬鹿でありんす、おんし」
シャルティアとアウラが口々に言う。
だがそれは、決して否定的な感情ではなかった。むしろそんなことを言ってしまう自分自身を恥じるような口調で。
これはいっそ清々しいまでの強がりだった。
◆
マタタビはどのようにすることが正しかったのだろうか。アウラは考える。
今みたいに最初から全てを包み隠さず話すことこそ、一番正しい選択だろう。
ようはマタタビは、自分の父君が死んで生き返らないことを知ってしまって、だから父君の価値観をナザリックに反映させることを躊躇したのだろう。
しかし意を決して訃報を打ち明けてみれば、アインズ様が蘇生御手掛かりを手に入れたから、生き返ってくれるならとその父君の信条をアインズ様に打ち明けたのだろうか。アタリをつけるとしたら凡そこんなところか。
一人でうじうじ考えてトンデモナイ方向へ突っ走ってしまう、いかにもマタタビらしい失敗だ。
しかしアウラは思ってしまう。
もし、ぶくぶく茶釜様がアインズ様と相反する考えだったらどうしようかと。
そしてもう、ぶくぶく茶釜様がお戻りになられないとしたら、どのようにするのが正しいのだろうかと。
考えようとして、しかしどうしても頭が痛くなったのでアウラは考えるのを放棄した。
そして溜息を吐く。
マタタビも、アルベドも馬鹿だ。
秘密を、悲劇を、憎悪をすべて抱え込み、自分だけで問題を解決しようとするのだから。
そしてそんな彼女たちの懊悩に気づきもしない自分は、どうしようもない間抜けに思えた。